銀の夜、紅の心
その夜、夜明け前。
「スンウ、スンウ。寝た?」
シアはスンウの枕元で手を振りながら、低い声でささやいた。
彼のまぶたがぴくりとも動かないのを確認すると、シアは少し首をかしげた。
「本当に寝てるのかな……?」
独り言のようにつぶやき、もう一度彼の顔をのぞき込む。
規則正しい呼吸音が聞こえると、彼女の口元にかすかな微笑が浮かんだ。
シアはそっと彼の肩を押して、自分の方に向かせた。
そしてスンウの胸のあたり、正確にその上に、少し間を空けて両手をかざした。
フウゥン——
やわらかな振動とともに、銀色の光がシアの指先から広がった。
その光は彼女の髪色と同じ色に染まり、スンウの胸の辺りをゆっくりと包み込んだ。
光は温かく、静かに鼓動のように揺れていた。
しばらくして、シアは息を整えながら手を下ろした。
額ににじんだ汗をぬぐい、小さく微笑んだ。
「ふぅ……今日の分も終わった。」
彼女は満足そうに息を吐き、スンウの隣に静かに横たわった。
部屋の中には二人の穏やかな寝息だけが満ちていた。
目にはほとんど見えないが、確かに存在する——
シアが残した痕跡、そして彼女なりの守りだった。
そうしてスンウの身体は少しずつ、静かにシアの気配に染まっていった。
一週間後。
「おい、スンウ。」
「はい、カイレン様。」
「最近、お前の神獣とリスがけっこう仲良いじゃないか?」
「そうですね。」
「それでだ、リスティアのことで何か聞いたりしてないか?」
「……。」
カイレンの執務室。
スンウがカイレンの仕事を良い意味で破滅的なまでに手伝ったおかげで、こうして雑談を交わせるほどの余裕が生まれていた。
つまり——
スンウは一週間、ずっとカイレンの「リスティアの話」を聞かされていたのだ。
スンウが少しうんざりしたように尋ねた。
「まだリスティアは許してくれないんですか?」
「はぁ、許さないどころか、完全に透明人間扱いだよ。」
カイレンは深くため息をつき、書類をトンと置いた。
机の上には整然とした帳簿や封印された報告書が積まれていたが、彼の表情はどんな戦場よりも疲弊していた。
「最近あの子、俺を見ると目をそらすか、完全に背を向けるんだ。」
「でも、家を出ていったわけじゃないですよね。」
「それが余計に怖いんだよ。何も言わずに静かなリスティアなんて、嵐の前触れだ。」
スンウは肩をすくめて笑った。
「普段より静かな方が危険なんですね。」
「正解だ。お前、感がいいな。」
カイレンは椅子を後ろに倒しながら長く息を吐いた。
金色の髪が光を受けて柔らかく揺れた。
スンウは少し躊躇いながらも、慎重に口を開いた。
「僕がシアに頼んでみましょうか? カイレン様のことを助けるようにって。」
「ふむ……小さな神獣に助けを求めろと?」
「今シアはリスティアと友達みたいに仲がいいですし、僕のお願いならたぶん——」
「いや、ダメだ。」
カイレンは手を振った。
口調は強かったが、表情にはすでに迷いが見えた。
「それじゃあみっともないじゃないか。俺が小さな神獣を通して謝罪の仲介を頼むなんて、プライドが——」
「カイレン様、もうその“小さな神獣”に三回も直接お願いしたじゃないですか。」
「……俺の書記官は本当に記憶力がいいな。いい人材を選んだよ。」
カイレンは咳払いをしながら視線をそらした。
スンウは苦笑しながら頭をかいた。
「じゃあ今回は何て伝えましょう? “カイレン様、今日も反省中です”とか、“花束準備中”とか?」
「はは、だんだんリスティアに似てきたな。その口の悪さ、控えろ。」
スンウが気まずそうに笑うと、カイレンは短く笑った。
だがその笑みの奥には、どこか真剣な心配が混じっていた。
「それでも……あの子が君たちに怒鳴ったのは良くなかった。あの時、もっとちゃんと迎えてやればよかった。」
「リスティアもきっと分かってますよ。」
「そうだといいが……」
カイレンはこめかみを押さえながらつぶやいた。
「はぁ……結局、お前の神獣に仲裁してもらうしかないな。」
スンウはくすっと笑い、立ち上がった。
「じゃあ、僕がシアに話してみます。でも責任はとりませんよ。」
「無責任な書記官だな。」
「はは、上が濁れば下も濁るって言うじゃないですか、カイレン様?」
「……名前に“様”を付けてるだけで、言ってることは半分タメ口じゃないか。」
カイレンが小さくつぶやいた。
スンウは笑いをこらえながら扉の方へ向かった。
「魔物討伐の夜に、すぐ謝りに行けばよかったな。」
カイレンは独り言のように呟いた。
その顔に、一瞬だけ苦い笑みが浮かんだ。
#
リスティアの部屋。
「ねぇ……リス?」
「……。」
「まだ怒ってるの?」
リスティアは筆を動かしていた手を止め、長く息を吐いた。
「はぁ……」
短い沈黙。
シアが慎重にその沈黙を破った。
「スンウが言ってたけど……カイレン、最近すごく後悔してるって。」
リスティアの視線が一瞬だけ揺れた。
だがすぐに再びペンを動かした。
「それでもダメ。」
「え?」
「カイレンが何を悪かったのか理解するまで、絶対に許さない。」
リスティアの声は毅然としていたが、その奥にかすかな揺らぎがあった。
「それはそうだよね……理由も分からずに“ごめん”って言われても意味ないもん。」
リスティアは目を上げずに答えた。
「カイレンはいつもそう。“守りたかった”とか“心配だった”とか。結局、自分の言い分だけ。私がどう感じたかなんて聞こうともしない。」
その言葉のあと、部屋の空気が少し重くなった。
シアはしばらく黙ったまま、静かに椅子に腰を下ろした。
「ねぇ、リス。カイレンが君の気持ちを分かってなかったのは確かだと思う。でも……君がいなきゃ、あの人本当に何もできないよ?」
リスティアは顔を上げた。
「そうなの?」
「そうだよ。仕事も手につかなくて、ずっとため息ついてるし、スンウまで巻き込んでるんだから。」
シアはそう言ってから、心の中で思った。
『だからお願い、早く仲直りしてよ!!』
スンウを巻き込まないで。
まだ傷も完全に治ってないのに。
シアの本当の目的はそこにあった。
リスティアとカイレンの冷戦で一番苦しんでいるのは、当の二人ではなくシア自身だった。
『カイレンの愚痴を聞いてるせいで、毎晩帰りが遅いんだから……』
地球では毎日一緒だったのに。
スンウともっと一緒にいたいのに。
シアはそんなことを考えながら、口を小さく尖らせた。
その間に、リスティアは静かにペンを置いた。
短く息が漏れた。
『カイレンに魔法を使ったのは、今まで一度もなかったのに……』
彼女の指先が無意識に震えた。
頭の中に、あの夜の光景がゆっくりと浮かび上がっていった。
#
あの夜——四人が初めて穏やかな食事を共にした夜のことだった。
月光がかすかに屋敷の廊下を照らしていた。
窓の隙間から入り込む風がカーテンを柔らかく揺らす。
カイレンは書類を閉じ、静かに立ち上がった。
机の上には整然と並べられた文書の山と、まだ消えていない蝋燭の灯が残っていた。
『スンウが来てくれたおかげで、久しぶりに時間が取れたな。……リスのところへ行くか。』
彼はゆっくりと扉の前に立ち、ノックした。
「リス。」
「……入って。」
扉を開けると、静寂が彼を包み込んだ。
部屋は月の光一筋に照らされ、静かに息を潜めていた。
椅子に座るリスティアの姿がかすかに光に浮かび上がる。
赤い髪が風に揺れた。
カイレンは小さな魔法で蝋燭に火を灯し、口を開いた。
「灯りも点けずにどうした。目が悪くなるぞ。」
「……何しに来たの。」
リスティアの声は低く静かだったが、その奥には寂しさと淡い期待が混じっていた。
カイレンは慎重に彼女の向かいの椅子に腰を下ろした。
「この前のことだ。少し言い過ぎたと思ってな。」
リスティアは答えず、机の上の魔力石を指で転がした。
「言い過ぎたんじゃなくて、本音だったんでしょ。」
彼女の視線はカイレンではなく、窓の外の月に向けられていた。
「それを言いに来たの? また説教でも?」
「リス、そうじゃない。」
カイレンは低く息を吐いた。
その声にはためらいと謝意がにじんでいた。
「お前がああして正体を晒すと、危ないんじゃないかと思って……。」
「心配?」
リスティアの赤い瞳がようやくカイレンを見た。
月光に照らされた瞳が微かに揺れる。
「そうだ、心配だ。スンウはお前を受け入れてくれたが、他の人間ならどうだったか分からない。」
カイレンの声が低く落ちる。
「帝国でドラゴンが見つかったらどうなるか、お前が一番知っているだろう。」
リスティアの目がかすかに揺れた。
それは六年前、カイレンに拾われてから何度も聞かされた警告だった。
──ドラゴンの力を軽々しく見せるな。人間はそれを神秘ではなく、商品として見る。
それが彼の口癖だった。
カイレンは静かに続けた。
「表向きは“ドラゴン捕獲は禁止”なんて言ってるが、実際は冒険者や闇商人が幼いドラゴンを狩っている。」
声がさらに低くなる。
「お前くらいの年のドラゴンなら……なおさらだ。」
リスティアは俯き、指先を震わせた。
「カイレン。」
「ん、リスティア。」
リスティアが名を呼ぶと、カイレンも反射的に答えた。
短い名が空気を切り裂いた。
リスティアはゆっくり顔を上げた。
赤い瞳が蝋燭の火に揺れていた。
「いつまで私にそんな言い方をするの?」
「どういう意味だ?」
「いつもそう。“心配だから”とか“守りたいから”。私はずっとあなたの庇護下にいる子どものように扱われてる。」
「それは——」
「それは何? 当然だとでも?」
リスティアは立ち上がり、椅子が軋んで後ろに下がった。
「私はあなたの娘でも妹でもない、カイレン。今もそう思ってるの?」
カイレンは沈黙した。
彼女の言葉があまりにも正確で、反論が出てこなかった。
その沈黙が、リスティアの怒りをさらに煽った。
「それに、私が怒ってる理由分かってる? あの場にはスンウとシアがいたのよ。あの子たちの前で私を侮辱したでしょ。」
「リスティア、侮辱するつもりは——」
リスティアの指先が震え、机の上の魔力石が振動して淡く光った。
「それが侮辱じゃないなら何なの!?」
リスティアの声が部屋に響く。
「皆の前で私を見下すように言っておいて、“守るためだった”って? それがあなたのやり方?」
「リス——」
「答えて!」
リスティアの叫びに蝋燭の炎が揺れた。
カイレンは言葉を失った。
リスティアの瞳に浮かぶ涙には、怒りと長年の傷が混ざっていた。
カイレンは思わず手を伸ばし、彼女の涙を拭おうとした。
パシン——!
だがリスティアはその手を強くはねのけた。
短い音が闇を裂く。
カイレンの目が見開かれた。
「リスティア! 今のは何のつもりだ!」
その怒声に一瞬リスティアの肩が揺れたが、すぐに歯を食いしばった。
次の瞬間、彼女の指先から赤い光が弾けた。
「ノックバック(Knockback)!」
下級制圧魔法の衝撃波が広がり、カイレンの体が廊下へと吹き飛ばされた。
ドン——!
「ぐっ……!」
扉が大きく開き、壁にぶつかって鈍い音を立てた。
幸い力は抑えられており、カイレンの身体に傷はなかった。
「お前、屋敷の中で魔法を使うなと——!」
バタン!
リスティアの扉が彼の言葉を断ち切るように激しく閉まった。
月光と蝋燭の明かりが廊下を横切り、空気には微かな魔力の残滓が漂っていた。
「……はぁ。」
短い息が漏れる。
呆れたようでいて、どこか深く傷ついたため息だった。
カイレンはゆっくりと立ち上がり、自分の手の甲を見つめた。
さきほどリスティアに叩かれた場所には、薄い赤い跡が残っていた。
だが、それよりも彼の胸に残ったのは、彼女のあの目だった。
扉の前にしばらく立ち尽くす。
扉の隙間からは、もう何の気配も感じられなかった。
ただ、彼女の魔力の余韻だけが静かに空気に溶けていた。
「……子育てって、こんなに大変なのか。」
カイレンは俯いたまま、ゆっくりと背を向けた。
月光に照らされた彼の影が、廊下に長く伸びていた。
そして扉の向こう——リスティアの部屋では、まだ冷めきらぬ魔力が微かに揺れていた。




