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ルヴァイン王国・10日と10年の短編集

恋を叶えるまでの10年間〜姉姫を手にいれるために、宰相補佐になりました〜

この物語は「ルヴァイン王国・10日と10年の物語」第三弾です。

「失恋するまでの10日間〜妹姫が恋したのは、姉姫に剣を捧げた騎士でした」

「失恋してからの10日間〜姉姫が思いを寄せた騎士は、妹姫の手を取りました」


上記二作品の続編になります。前作を読まれていない場合、意味がわからないと思われます。ご了承ください。

ルヴァイン王国連作短編第三弾

◆◆◆◆



 ルヴァイン王国の宰相補佐、ユリウス・ランバートの恋は、たった今叶った。


「……いいえ、お父様、お母様、私、決めました。ランバート卿と結婚します」


 ルヴァインの至高姫、王太女であるソフィアは、両親の前でそう宣言した。


「そういうことですから、ランバート卿もよろしいかしら」


 ルビーのような美しい赤い瞳をこちらに向けたソフィアに、ユリウスは頭を下げる。


「仰せのままに、我が君」


 異存などあるわけがない。ここまで来るのに十年の歳月を費やした。


 彼自身も届くことなどないだろうと、心のどこかで感じることもあったその思いは、今この場で結実した。


 たとえ彼が恋焦がれた相手が同じ熱量を返してくれていないとしても、今は十分だと、彼女の手を取る。


「騎士ではありませんので剣を捧げることはできませんが、生涯に渡りソフィア様の手となり足となり、貴女様に私の心を捧げると誓いましょう」


 彼の心は十年も前から、この麗しき女性に囚われていた。彼女の傍にいられる権利を得るためだけに、ここまで駆け上ってきたのだ。


 その途方もない時間を思いながら、彼女の手にキスを落とし——刻みつけた。




◆◆◆◆


 ユリウスはランバート伯爵家の次男として生まれた。


 ランバート家は辺境に近い田舎に領地を構える貴族だ。伯爵家とはいえそれほど目立つ功績や特産があるわけでもなく、王国の貴族家の中では地味な存在だ。


 ユリウスには三つ上の兄スチュアートがいたため、いつかは家を出て身を立てなければならない立場だった。初め彼は騎士を目指そうとしていた。家督を継ぐ長男が王立大学を目指しており、裕福とは言い難かった伯爵家で、次男のユリウスの学費まで工面することは難しかった。騎士学校であれば学費は無料であり、三年後には騎士見習いとして就職できる。貴族家の次男以下にはよくある選択肢のひとつだ。


 彼自身もそんなありきたりなレールに乗ることを良いとも悪いとも思わず、淡々と流れに身を任せようとしていた矢先のこと。


 勉学に励んでいた長男が病に倒れた。ユリウスが十三歳のときだ。


 ランバート家では母親を同じ病で数年前に亡くしていた。遺伝する病気ではないため、こればかりは運が悪かったというよりほかない。兄の容体が思わしくない中、もしやのことも考えてユリウスの騎士学校入りは一旦見送られた。


 幸い母が亡くなったときと違って、病に効果的な薬が開発されており、父伯爵は王都でその薬を買い付け、長兄に与え続けた。薬代を得るために金策に走る父に代わって、兄の看病はユリウスと二つ下の妹が担った。


 そうして二年の月日が経ち、薬が効いて兄は病を克服したが、後遺症として後継が望めない身体になってしまった。


 兄の代わりに王立大学を目指せと父に言われたのはそんなときだ。ユリウスは十五歳になっていた。将来の家督は兄ではなく自分に譲るつもりだと父は付け加えた。ランバート家が学費を工面できるのは一人分がせいぜい。父は兄でなくユリウスのためにその機会を使うことに決めた。


 それを知った兄は気鬱の病を発症し、部屋に閉じこもったまま出てこなくなった。


 ユリウスとしても、兄を押し除けてまで進学や家督の権利が欲しかったわけではない。多くの貴族家の子どもたちがそうであるように、次男以下の立場として、割と幼い頃から自立して生きていくことを普通のこととして受け止めていた。むしろこの人生の転換に戸惑ってもいた。


 加えて後継から外された兄の心情を思うと、自分に与えられるものを素直に受け入れることなどできない。ユリウスは進学と家督の権利は兄のままにするべきだと父に訴えた。当初の予定通り兄が進学して伯爵位を継げばいい。後継はユリウスか妹の元に出来た子を兄の養子とすれば問題はないはずだ。自分に結婚の予定はまだないが、妹は隣領の子爵家の嫡男と幼い頃より仲が良く、婚約の話も上がっている。ランバート家の血を継いだ次代が生まれるのも、そう遠い未来のことではないだろう。自分もまた当初の予定通り騎士学校に入って騎士となれば、すべてが丸く収まる。


 だが父は渋い顔のまま首を振った。


「大学の受験要件のひとつに年齢制限があるのだ。二十歳までしか受験できないことになっている。スチュアートはもう十八だ。加えてこの二年の闘病生活中、勉強などする時間も気力もなかった。あと二回の受験のチャンスをおそらくモノにできないだろう。大学の入学試験はそう甘いものではない」

「それなら、何も大学にこだわらなくてもいいのではないですか。当主となる者が必ずしも大学を卒業していなければならない規則もないでしょう。家は兄上が継いで、大学は駄目だったら諦めればいい。もちろん僕も」


 兄も自分が挑戦して不合格なら諦めもつくだろう。少なくとも、自分が持っていた権利を弟に譲らなければならないことで気落ちする事象は解消される。兄の心情を慮るなら自分も進学などしない方がいい。ユリウス自身は大学になんのこだわりもないのだから。


 だが父は渋面を作った。


「今のスチュアートに必要なのは進学ではなく静養だ。せっかく助かった命を、これ以上疎かにさせたくないのだ」


 父が誰のことを思って発言しているのか、ユリウスはすぐに思い当たった。彼の母もまた兄と同じ病を得て、闘病の末亡くなった。ユリウスは幼かったため記憶が希薄だが、父は妻の死という痛みを未だ乗り越えられていないのだろう。


「それに……おまえにかなりの負担をかけてしまう話で申し訳ないのだが、我が家は現在かなりの額の借金を背負ってしまっている。おまえの母の治療代にかかった費用もまだ返済しきれていなかったところに、スチュアートの新薬のためにかなりの額を使ってしまった。本当は大学の学費も苦しいところなのだがね」


 それでも費用を投じて進学した方がいい理由は、大学卒として採用される職種の給金の良さだった。卒業した者とそうでない者では天と地ほどの差がある。


「おまえの代に借金を受け継がせることになってしまって本当に申し訳なく思う。進学が贖罪になるとは思わないが、それでも大卒の資格と未来の爵位は、邪魔なものにはならないはずだ。奇跡的にスチュアートが進学できたとしても、借金を返済するのはひとりでは不可能だ。どのみちおまえの手を煩わせることになるのだったら、最初からおまえに渡してやりたい」


 そう言って父はユリウスに頭を下げた。


「大学の入学資格の年齢制限に上限はあるが下限はない。優秀なおまえのことだ。今から勉強したとして、遅くとも再来年には合格できそうだし、最短の卒業も夢ではないだろう。晴れがましい未来を用意してやれなくてすまない。どうか家のために頷いてはくれないか」


 大学の在学期間は成績によって異なる。最短五年で卒業できるのは学年にひとりいるかどうか。多くの者が七、八年で卒業となり、十年を越えると退学となる。入学の年齢の下限はなく、過去の最年少入学者は十四歳だった。


 自分は今十五だ。再来年入学となれば十七歳。卒業に七年かかったとして、その頃二十四歳。


 兄と妹の年齢を考えて、ユリウスは思案した。


「ローラの持参金は工面できそうなのですか」


 妹の名をあげたのは、彼女の適齢期を思ってのことだ。まだ十三歳だが、あと三年もすれば口約束となっている婚約や結婚の話も動き出すことだろう。


 父は痛いところを突かれたように眉をぴくりと動かした。


「今の状況では難しいだろうな。子爵家とうちの仲だ。しばらくは婚約のみとして、結婚は待ってもらうようにすればあるいは」


 向こうの嫡男はユリウスと同い年だった。女性と違って男性の適齢期は長い。多少待たせても問題はないだろう。


 とはいえユリウスの方ものんびり構えているわけにはいかないと悟った。再来年と言わず来年に試験を突破し、最短の五年卒業を目指す。自分はその頃二十一で妹は十九。嫁入りするのに遅すぎる年でもない。兄の卒業を待って家を出るという言い訳も十分立つ。


 その間に兄スチュアートには気候の良いところで静養してもらう。六年あれば立ち直るに十分だろうか。ユリウスは王都で職を見つけ、後継の座を兄に返却し、実家の借金返済の手助けを申し出る。父はああ言っていたが、兄が元気になれば考えを変える可能性はある。


「わかりました。僕が大学に進みます」


 このときはただの一時凌ぎの方策だとユリウス自身も思っていた。兄のことも家の借財のことも、時間が経てば解決するのだろうと。


 だが自分の考えが甘かったことを、一年後に知ることになる。



◆◆◆◆



 有言実行とばかりにユリウスは翌年には大学に合格してみせた。十六歳という若さで主席合格となった彼は特待生として奨学金を得ることができ、苦しい家計を助けることになる。


 父の手配で兄スチュアートは温暖な地域で療養することになった。家を離れたことで何かのくびきから解き放たれたのか、病は快方へと向かっていると、父からの手紙で報告があった。


 兄の治療代のために父が変わらず金策に走っている中、ユリウスはもどかしさを感じながらも勉学に打ち込んだ。目指すは狭き門と言われる最短五年での卒業だ。奨学金のおかげで学費は免除されているとはいえ、一日でも早く働きに出た方がいいのは当然のこと。急がば回れの精神で、自分にできることに真摯に取り組んだ。


 だが、そんなユリウスの努力を嘲笑うかのような不幸が、ランバート家を襲った。


 父が落石事故に巻き込まれて亡くなってしまったのだ。


 兄の見舞いに出向いた帰りの不幸な出来事だった。地盤の緩んだ山間の道を乗合馬車で抜けている最中に事故にあい、乗客全員が帰らぬ人となった。伯爵家当主が乗合馬車に乗っているなど誰も思わず、身元が判明するのがかなり遅れ、自宅で父の帰りを待っていた妹の元に連絡が届いたのは数週間後のこと。そこから王都にいるユリウスに連絡が入り、彼が大学を休んで現地に駆けつけた頃には、父の遺体は現地で埋葬された後だった。


 借金返済のために、ランバート家は数年前に御者に暇を出していた。経費を節約するために父は貸し馬車でなく、平民に扮して乗合馬車を利用していたのだと、このとき知った。


 それほどまでに伯爵家の財政は逼迫していたのかと、ユリウスは驚愕した。借金があるとは聞いていたが、具体的な金額までは知らされていない。


 その詳細をユリウスに知らせたのは、王都で金貸し業を営む男だった。


「初めまして、ランバート新伯爵閣下。早速ですが、借金の返済が先々月から滞っているのです。急ぎ返済をお願いしたく、お伺いさせていただきました」


 父は生前言っていた通り後継にユリウスを指名し、届出を変更していた。そのためユリウスが十六の若さで爵位を継承することになったわけだが、爵位や財産と同時に借財も受け継がねばならなかった。


 金貸しの男から見せられた証文にユリウスは目を剥いた。


「六千万ルイだと!? 馬鹿な! 兄の薬代にしても、ここまで値が張るものではなかっただろう!」


 王都に出てきてから、ユリウスは兄の病を治した新薬について調査してみたことがあった。決して安くはない金額だが、手が届かないというほどでもない。大学を卒業した後は官僚を目指そうとしていたユリウスだったが、贅沢をしなければ三、四年で十分返済可能だろうと試算できるほどで、肩の荷を少しだけ下ろしたものだ。


 だが証文に書かれた金額は、彼が想定していたものの十倍はあった。途方も無い額に声を上げれば、男は底意地の悪い笑みを浮かべた。


「お金を借りるときは利子がつきものなのですよ。まさか大学を主席合格されたような方がご存じないとはおっしゃいませんよね」


 言われて細かい条文を目で追えば、そこには違法性ぎりぎりともとれる悪条件が連なっていた。


「ふざけるなっ。こんな条件無効だ! 認められない!」

「お言葉ですが違法ではありませんよ。ちゃんと王国法の範囲内で運用していますのでね。それをわかった上であなたのお父上はサインされたのです。息子のあなたが踏み倒すなど許されませんよ」


 男はユリウスの手から証文を奪い返し、立ち上がった。


「まぁ、今日のところは引き上げます。先々月分の返済については、不幸ごとに対する見舞金として返済免除といたしましょう。先月分と今月分の返済期限は今週末です。目処が立たなければいつもの通り、こちらへ」

「こちらとはなんだ」

「別の金貸し商会の連絡先です。お父上は借財の額が限度を超えてしまったため、うちの本店ではこれ以上お貸しできなかったのですよ。ですので別の借り入れ機関を紹介しました。それがこちらです。隣国の商人が運営する商会ですので、詳細はそちらにお問い合わせください。何せ我が国とは違う法律の元に運営されていますからね。ちなみにお父上はよくそちらでお金を借りて、うちへの返済に充てておられましたよ」

「な……っ」

「それではランバート新伯爵。期限はお守りいただけますよう」


 そうして男はユリウスに他店の名刺を押し付け、去っていった。



◆◆◆◆



 男が言った通り、父は別の商会でもお金を借りていた。総額すると一億ルイを越える金額だ。


 ユリウスが遡って調査した結果、元々ランバート家の借金は、ユリウスがかつて試算した金額より多少多い程度だった。わずかに想定を超えていたのは、母親の時代の借金を計算に入れてなかったからであろう。


 そしてそのお金は今回の金貸しではなく、別の真っ当な商会から借りていたものだった。だがあるとき返済が滞ってしまい、別のところから借りざるを得なくなってしまった。それを数回繰り返したのち、くだんの金貸し業の男が経営する商会に頼らざるを得なくなったようだ。さらに男は父が他店で借りていた証文を買い取り、自身の店に一本化した。残念なことにこの方法は違法でないため、ユリウスも突くことができない。そしてその間に、利子は途方もない金額に膨れ上がった。


 返済に困った父に隣国の商会が運営する金貸しの店を紹介したのも策略のうちだったのだろう。そうやって借金漬けにされた貴族は何もランバート家だけではなかった。そこまで突き止めたユリウスは、法律の専門家や王城の刑罰を担当する部所に掛け合ったが、男の店はぎりぎり違法性がなく、また他国の店については治外法権が適応され、問題の解決には至らなかった。


 十六の学生、親はなく、病気の兄とまだ子どもといえる妹がいる身。今すぐ大学を辞めて働きに出たところで、一億ルイの借金の返済にどれだけ時間がかかることか。それ以前に毎月やってくる分割返済する金もなく、他国の店でいたずらに借金が増えていく無限地獄。


 だが焼石に水であろうと、自分が働きに出るよりほかにない。場合によっては妹にも奉公に出てもらわねばならず、兄の静養も打ち切らざるを得ない。そう判断して退学届を提出しようとした矢先。


 金貸しの男が、借金の一括返済を求めてきた。


 到底答えられる要求ではない。突っぱねようとしたユリウスに、男は嫌な笑みを浮かべた。


「返せないのであれば別のものでお支払いいただくしかありません。あなたの妹様は十四歳だそうですね。実にちょうどいい年齢です。あなたも随分と綺麗な顔をしていらっしゃいますから期待できるというものです。兄君は……病気だったのでしたか。役に立ちそうにないのでいりません」

「貴様……っ! その汚い口を今すぐ閉じろ!」


 男の言外の意味を理解したユリウスは思わず掴み掛かった。だが男は畳み掛けるように言い返した。


「借金の返済のために奉公に出ることはよくあることです。奉公先をこちらが斡旋するのもごく当たり前のこと。なんら違法性はありませんよ。行き先がどんな場所であれ、ね」


 残念ながら男の言は正しかった。借金のカタに子女を娼館に売る話は、表沙汰にはしにくいが珍しい話とも言えない。そしてそれを縛る法律はない。


 最初からそれが狙いで、世辞に疎い父を嵌めたのだ。父だけではない、高利貸しの被害にあった人間はすべて彼らの掌で踊らされていただけ。隣国の商会も当然グル。


 ユリウスがどれだけ知略を巡らせても、金を工面する方法は見当たらなかった。実家の屋敷を売ろうにも、辺境に近い土地の田舎家など買い手はつかない。この国では爵位を売ることはできないから、維持できなくなれば王家に返還するだけだ。かといって平民となっても借金がなくなるわけではない。


 それに平民になってしまえば、妹が子爵家に嫁ぐことはできなくなるだろう。生活が苦しい中で貴族の娘らしいことは何もさせてやれず、それでも健気に長兄の看病をし、家事を手伝い、ただ幼馴染との結婚を夢見ている彼女があまりに不憫だ。


「どうすればいい……いったい、どうすれば」


 かくなる上は自分が身売りして兄と妹を助けるか——だがユリウスを売り飛ばしたその足で妹を毒牙にかけないとも限らない。自分の身かわいさの話でなく、手段として不十分だと頭の中の冷静な部分が告げる。


 己の無力さが憎かった。十六という若さが憎かった。絶望の淵の際に立って底の見えない穴を胡乱(うろん)に見下ろしていたとき——。


 くだんの高利貸しの男が騎士団に捕縛された。



◆◆◆◆


 きっかけは北方にあるとある伯爵家の税金横領が摘発されたことだった。


 王家から遣わされた騎士と税務管理官が遡って税務記録を見直した結果、十年以上に渡る不正が見つかった。伯爵と長男夫妻が捕縛され、家は取り潰しとなった。


 さらに伯爵家は隣国の商会と通じ、この国の人間を奴隷として売り飛ばしていたことが発覚した。その悪行の窓口となっていたのが例の高利貸しだ。顧客を借金漬けにし、暴利を課して返済不能に陥れては、そのカタに娘や息子を貰い受けて労働施設や娼館に送り込む。そこで数ヶ月過ごさせた後に失踪か死亡したかに見せかけて隣国に売り飛ばす。前代未聞の大捕物に王都中が成り行きを見守った。


 高利貸しの顧客名簿にランバート家が名前を連ねていたこともあり、ユリウスもまた税務当局の喚問を受けた。その中で、今回の事件の真相につながった伯爵家の横領について指摘をしたのがソフィア王女であることを知った。


「税務記録から不正を暴いたのが王女ですか? 嘘でしょう、ソフィア王女殿下って確か……」


 妹よりも年下で、まだ子どもだったはずと記憶を呼び起こす。


「御年九歳でいらっしゃいます。家庭教師から各地の税制について学んでいる授業の流れで、くだんの伯爵家の帳簿の写しを見られたそうです。そこで数字の推移がおかしいことに気づかれたのだとか」

「たまたま気づかれたということですか?」

「殿下はすべての領地の過去の税務記録に目を通されたのだそうです。ちなみにこの伯爵家だけでなく、他領でもいくつか不正な点を発見されています。尤もここまで大きい案件ではなく、うっかりも混ざっていたので、そちらは修正徴収ですでに対応済みです」

「九歳の少女が、すべての領地の税務記録を洗い出した?」

「授業で王領の税収について学んだことが面白かったそうで、どうせならと空き時間に他の領地についても調べておられたそうです。ご本人は趣味の延長だったとおっしゃっているらしいのですが」

「……」


 王家の姉姫はかなり優秀だという噂は聞いたことがあった。とはいえなんというか、桁が違いすぎやしないだろうか。


「この伯爵家はかなり功名で、帳簿の改竄も一見不備がないように取り繕っていました。現に王宮の税務管理官が揃いも揃って見落とし騙されていたくらいですからね。それに気づかれたのですから、さすがとしか言いようがありません」


 さすがという言葉で片付けていいものかどうか激しく悩ましいところだが、担当者がランバート家の借金の証文を取り出したので、姿勢を改めた。


「さて、ランバート伯爵閣下。あなたの家の借金についてですが、伯爵と高利貸しが捕縛されたことで無効となりました。正確に言えば貸与した側が権利を放棄したため、返済をする義務はありません」

「は……?」


 間抜けな表情を晒してしまったことを許してほしい。それくらい、ユリウスにとっては驚愕の説明だった。


「……借金は無くなった、ということですか」

「貸していた人間と商会が潰れましたからね。最終的な(ふところ)となっていた伯爵家も取り潰し。取り立てる人間がいなくなったのですから、そういうことですね」


 この数ヶ月間、彼を絶望の瀬戸際に立たせてきた問題がすべて無くなったと言われ、俄かに喜ぶことができなかった。あまりの急展開に頭がついていかない。


「それから、こちらの申請書にサインして提出してください」

「これはいったい……」


 契約ごとには慎重にならざるを得ず、呆けた頭が一瞬にして覚醒した。税務府の担当者が渡してきたのは税金の遅延納付に関する申請書だった。


「あなたはまだ十六歳ですよね。それに父親である伯爵も母君ももう亡くなっていらっしゃいます」

「はい」

「当主が亡くなり、代理となる大人もなく、さらに後継となる人間がまだ十代の場合、領地からあがる税金の納付を一定期間遅らせることができる法律があるんですよ。ご存知でしたか?」

「いえ……初めて聞きました」

「ですよね。実は私も知らなかったんです。そもそも両親揃って早逝して、頼りとなる縁戚がひとりもいない十代の当主だけが残される家系なんて、王国の歴史を遡ってもそうそうお目にかかれませんから、誰も知らずとも仕方がない話ではあるのですが……ですがあるのは間違いないのです。私も指摘されてちゃんと確認しました」


 言いいながら担当者は分厚い税務関連の法律書を開いた。


「ほら、ここの特別要項第十八条に書いてあります。あなたの場合これに該当しますから、納税の期限は二十歳まで延長されます。さらにあなたは大学生ですから、大学生を保護する制度も適応されます」

「大学生を保護する制度……」

「こちらは税務とは関係ないので、別の部所に回って説明を聞いてほしいのですが、簡単に言いますと王立大学在学中の学生にはいくつか特権が約束されていて、義務の行使を卒業まで延長できる制度があるらしいのです」


 何が言いたいのかといえば、領地からあがる税金の納付期限は、古い制度のおかげで二十歳になるまで延長されるが、自分の場合は大学生であることも考慮され、卒業まで再延長できるということだ。


「税務に関して言えば、代替わりをした最初の三年は納税額の一割が免除されます。これはさすがにどの家でも積極的に使われる制度ですから、私も知っていましたがね」


 つまり向こう三年は納税額自体も減額されるということ。そして支払いが始まるのはユリウスが卒業して職に就いた後となる。


「さらに……」

「まだあるのですか!?」

「良い話なのだからかまわないでしょう。元々ランバート家の後嗣の届出は長男のスチュアート様だったのが、病気を理由に昨年あなたに代わっていますよね」

「はい。兄が病にかかり、生死を彷徨う状況にありまして。今はだいぶよくなってはいますが、父は私を後嗣とするよう、届けを変更しました」

「貴族法の中に、後嗣のための傷病手当金の交付というのがあるんです」

「後嗣のための傷病手当金の交付……」


 驚きがすぎたユリウスはただ担当者の言を繰り返すだけの存在に成り果ててしまった。


「円滑な爵位継承を目指すための法律でしてね。後嗣として届出されていた者が病や怪我を得た場合、その治療にかかった費用の半額が国から支給されるそうです。条件は後嗣の届出が出されて一年以上が経過していること。後嗣以外の者が病気に見舞われて、手当金目当てに後嗣変更をされてはかなわないから、こうした期間の縛りがあるらしいのですが、あなたのお兄さんはこれが適用されそうなんです」


 確かに兄は出生と同時に後嗣としての届出が出されており、病を発症した際はまだ後嗣のままだった。


「少なくとも届けがあなたに変更されるまでの期間の治療費は、申請すれば戻ってくると思います。ただ証拠となる領収書や医師の診断書が必要ですが」

「それは実家で管理していたはずです」

「ならばそれらを携えて貴族府を尋ねたらいいと思います。大学生の保護制度の申請は文化府です」


 ひとまずランバート領の納税遅延の届けにサインをして、担当者に提出する。ユリウス自身が伯爵当人であるから、手続きも早い。


「というわけであなたに関しては……以上ですかね。うん、間違いない」


 手元の書類を指差し確認する担当者に、ユリウスは頭を下げた。


「本当にありがとうございます。正直あの途方も無い額の借金をどうすればいいのか、切羽詰まっていました。借金が無くなっただけでなく、納税遅延制度のことや傷病金のことまで教えてくださり、感謝の言葉が見つかりません」


 納税義務が先送りされれば、当面の生活もどうにかなる。さらに兄の薬代の半額が返ってくるなら妹の持参金に十分だ。


 熱くなりそうな目頭を手で押さえて耐えていれば、担当者が少々罰の悪い表情になった。


「我々はお礼を言われるべき存在ではありません。そもそも納税遅延制度のことも傷病金のことも知らなかったのです。後者はともかく、前者を知らずにいたことは税務を預かる担当者として恥ずべきことです」

「あなたではないとすれば、いったいどなたが気づいてくださったのでしょう」

「ソフィア王女殿下ですよ」

「え……」


 言いながら担当者は束になった書類をユリウスに見せた。


「捕縛された高利貸しの被害にあった者は数百名に上ります。王女殿下はそのひとりひとりの債務状況を確認した上で、ひとまず利用できる補償制度を列挙され我々官僚に指示を出されました」

「ソフィア王女が……その書類の束分、すべてを、ですか」

「あの方の頭の中にはルヴァイン王国の法律が全て入っておられるそうです。こんなカビが生えたような法律すらも。天才とはああいう方のことを言うのでしょうね」


 何度も言うが、賢い姫であるという評判は聞こえていた。だが、やはり桁が違うのではないか。


「初め、今回の被害の甚大さを考慮して、国から特例支援金等を給付すべきだという意見が議会ではあがったようなのですが、ソフィア様は国外に売られた者たちの帰国支援のために予算を割くのが先決だと、非公式に意見を述べられたそうです。そのために国内の被害者への救済が遅れてしまうことを懸念して、今ある制度内で急ぎ対応をするよう、要請されたのです。そのご意見を受けて、今この案件は宰相預かりの最重要事項になっています。王女ご自身もすべての者への救済支援について、このように動かれておいでです」

「ソフィア王女がそんなことまで……」

「最後に、王太女殿下からのご伝言があります。大変申し訳ないが、今はこれで凌いで欲しいと。国外へ売られた者たちへの補償が終われば、必ず再検討するから、と」


 担当者の言葉に、見たこともない九歳の少女の姿が浮かんだ。一国の王女であるその人が、すべての被害者の状況を確認した上で、忘れ去られていた法律や制度まで掘り起こしながら、出来うる最善を尽くそうとしている。支援の優先順位を的確に判断し、後回しとなった者たちに謝罪の言葉を述べてまで。


 抑えていた熱いものが、ユリウスの両頬を伝い落ちた。


 王女が頭を下げるべき事情など何ひとつないのだ。暴利を貪るハイエナたちはもちろんだが、返済の当てもないまま借入を続けた父の判断力の無さも、本来なら責められるべきだ。


 しかしそんなことは微塵も突かれず、こうして手を差し伸べてくれている。


「ソフィア王女殿下に、お礼を申し上げる(すべ)はないのでしょうか」

「いやいやいや、一介の税務担当者にそんなこと聞かないでくださいよ。無理に決まっています。あぁでもあなたは伯爵ですから、ソフィア様が社交界デビューなさった暁には拝謁する機会もあるのではないでしょうか」


 この国における社交界デビューの年齢は十三歳から十七、八歳というところだ。王家ともなれば早い可能性がある。今九歳ならあと四年後か。


「そんなに待てません」

「いや、待てないとか、私に言われても困りますってば。私なんてしがない男爵家出の三等官僚ですから、同じ王城内で働いているとはいえ、王女殿下とお会いすることすらできません。あぁでも、お見かけするだけならすぐに出来るのでは? 王妃陛下のお誕生日が来月ですから、城のバルコニーで王族の皆様が国民にお顔を見せてくださるのが恒例でしょう。ソフィア様も毎年出ていらっしゃいますからね」


 王族の誕生日における国民への顔見せは、確かにこの国の慣例となっている行事だ。さして興味のなかったユリウスは、この一年王都に滞在していたにも関わらず参加したことがない。


「来月の王妃陛下の誕生日……」


 その日を心に刻みつけたユリウスは、再度礼を述べて立ち上がった。頬を伝う温かいものを乱暴に拭いながら、税務府の窓口を後にしようとすれば。


「あぁぁ! ランバート伯爵、お待ちください! もうひとつお伝えし忘れていました!」


 先ほどの担当者が立ち上がり、別の書類を差し出した。


「納税義務の遅延申請と併せて、こちらも利用できるんでした。領地経営の補佐をしてくれる税務管理官の派遣制度です。もし希望するなら、あなたが大学に在学している間、管理官があなたの代わりに領地に赴いて、領地経営の手助けをしてくれますよ」


 最後に慌ただしく付け足されたこの提案こそが、ランバート家を真の意味で再興させる手段となることを、このときユリウスはまだ知らない。



◆◆◆◆


 翌月の王妃の誕生日。ユリウスは朝早くから王城の広場に赴き、バルコニー前に陣取っていた。


 定刻となり、国王一家が姿を現す。


 本日の主役である煌びやかな王妃には目もくれず、ユリウスは己の目的だったその人を探した。


 王妃のすぐ隣で、黄金色のさらりとした髪を緩やかに編み込んだ、上品な濃紺のワンピース姿の少女が、控えめに手を振っていた。幼い緑の髪の妹姫がちょろちょろするのを邪魔くさく思いながら、ユリウスは一心にソフィアを見つめた。


(あれが、ソフィア王女)


 九歳の割には背が高く、つんと尖った顎にさえ気品を感じる。集う国民を穏やかに眺める瞳の色は赤。その視線はこちらを見ていながら、さらに遠くへと向いているかのようだ。


 あの少女の傍に行きたいと、唐突にそう思った。こんな遠くから見上げるだけでは到底足りない。彼女の視界に自分が入り、ルビーのような瞳の中にこの身を刻みたい。


「あれがソフィア王太女か。今回の大捕物の立役者だそうじゃないか」

「あんなに幼くていらっしゃるのに、大したものだな」


 周囲にいた平民と思しき者たちが感心して話し合うのを、聞くともなしに聞いていた。


「ソフィア様がいらっしゃればこの国も安泰だな」

「あぁ。いずれは立派なお婿様を迎えて、女王様として立たれるんだろうよ」


 最後の一言が妙に耳につき、つい男たちを睨みつければ、ちょうど時間となったようで、国王一家は城の奥へと姿を消した。


 周囲に集まっていた者たちが三々五々に散っていく中、ユリウスはまだ広場に佇んでいた。


 一国の王太女だ。いずれ女王となり、どこかから婿を迎えて後継を産み育てる義務も課されているのはわかる。一方でいや、彼女はまだ九歳ではないかと、なぜか気持ちが急く自分を落ち着かせる。


 まだ九歳の幼き少女。さすがに恋情を感じるほどユリウスも狂ってはいない。だが先ほど己の内から突き上がるように湧いた「彼女の傍に行きたい」という渇望だけは、どうにもごまかしようがなかった。


 今回の舌を巻くような手腕と類稀な能力を、もっと近くで見てみたい。叶うなら自分がその一助となりたい。


 あの凛とした佇まいで見通す国の先行きを、自分も同じ目線で眺めながら、共にその道を作り上げていきたい。


 彼女が願うこともそうでないことも、すべてを叶えてやりたいと思った。国を背負う中では綺麗事だけで済まぬ場面も多々出てくるだろう。彼女がその手を汚したくないというなら、自分が代わりに手足になろうではないか。一度は身売りさえ覚悟し、死の淵をも覗き込んだ命だ。それを投じる機会があるなら、喜んで差し出すまでだ。


 ほかでもない、ソフィア王女になら、この身を差し出せる。


 だが彼女が住まう場所は王城の中枢。そこへ行くためにはどんな手段を講じねばならないのか。


 ユリウスはひとり思案する。


 いずれ王太女として議会に出席することは間違いない。議員の条件は貴族家当主であること。伯爵であるユリウスも当てはまるが、人数制限があり推薦で選ばれる。若輩の自分が選出されるまでには数十年の時間がかかることだろう。


 となれば議員ではなく役人、それも政治の中枢を担う一等官僚の方が近道だ。ただし官僚は職域があり、関連する議題があるときしか議会には関われない。


 あらゆる状況において議会への参加権があり、王家の方たちとも近く接することができる部所となれば、ただひとつ——宰相府だ。国中のエリートが配属を望み、その座を争う狭き門。運良く入れたとしても、宰相府の中に存在する序列を駆け上って宰相補佐にでもならねば、あの王女の視界に入ることすら叶わない。


 だがその苛烈な道も、今のユリウスは困難とすら感じなかった。


 ——やってみせようではないか。


 もう誰もいなくなったバルコニーの、ソフィア王女がいた場所を見つめる。彼女の深淵をも見通すようなルビーの瞳を思い出しながら、ただひとり空へと誓う。


 十六歳のユリウス少年の目標は、こうして定まった。




◆◆◆◆



 大学在学五年目に、ユリウスはソフィアと同窓となる機会に恵まれた。十三歳となったソフィアが最年少記録を更新して大学に入学してきたのだ。最短五年での卒業を目指していたユリウスだったが、この僥倖の前に自身の在学を延長しようかと考えたほどだ。


 だが未来の女王たるソフィアの警備体制は鉄壁で、学友となる者も厳しく制限された。一年生と高学年では被る授業もない。半年ほどあの手この手で接触を試みたが結果は芳しくなく、それならばさっさと就職して一日でも早く出世するのが手だと切り替えた。少なくとも後五年は在学することになるソフィアが卒業したとき、それなりの立場でありたい。


 当初の目標通り、卒業と一等官僚の試験に主席合格し、念願の宰相府に配属された。大学の専攻は政治学だったが、元々語学が得意だったのと、昔のソフィアを見習って学生時代に国の法律を頭に叩き込んでいたことなどが宰相の目に止まり、半年で秘書に抜擢された。だが秘書のレベルではまだ議会に連れて行ってさえもらえない。既に議会デビューを果たしていたソフィアの姿を見ることすら叶わず、日々が過ぎていく。


 伯爵家当主として社交もこなさねばならず、社交界にも顔を出すようになった。早い貴族の子女は十三歳ほどで社交界に出てくるものだが、ソフィア王女は学生であることを理由にデビュー自体を先送りしており、このような場には姿を現さなかった。なんだか肩透かしをくらった気分だ。


 だが社交界という場所は、政治以外の話題を拾うのに適していると知れたことは非常に有益だった。年頃になりつつあるソフィア王女の婚約者候補の情報を集めるのに、これほど確かな場はない。


 糸を張り巡らすかのような世界で見えてきたのは、ソフィアがいかに守られた存在であるかということだった。


(なるほど、余計な虫がつかぬよう、周囲の守りが徹底されていたのか)


 貴族の令嬢であれば概ね縁は早いうちに結ぶことが奨励される。相手が誰でもいいとは言えないが、ユリウスの妹のように釣り合いがとれるなら、自由恋愛も許されるだろう。だが王女となれば別だ。王族の婚姻は国事であり、政治的・外交的側面が切り離せない。ルヴァイン王国の二人の姫が相手を自らの好みで選ぶなど、そもそも許されるはずがなかった。とりわけ王太女ともなれば、さらに強い縛りが課されることになる。


 だからこそソフィアの周囲からは同世代の男子が徹底的に排除されていた。いつか政略結婚をすることになるとわかっていて、いらずらに夢を見させないようにという親心かと、年に一度開催される王宮舞踏会の席で、玉座に座る国王に拝謁しながら推察した。


(仕方のないことか)


 いつかソフィアに直に仕えられる存在になるのだと決めているユリウスは、せめて愛情を育めあえるような男が彼女のお相手となってほしいと願った。


 このときはその程度の心理的距離でいたのだ、まだ。




◆◆◆◆



 きっかけは王立騎士団の入団式だった。


 騎士団では年に一度、正騎士や准騎士の叙任式が開催される。騎士学校を卒業した者たちが見習いとして入団するのもこのときだ。


 かつて騎士を目指そうと思ったこともあったユリウスは、その日宰相の随行役として叙任式に参加することになった。叙任式は国家行事のため両陛下も出席する。さらにこの年はソフィア王女とエステル王女も臨席されると発表があり、騎士団はかなり慌ただしそうだった。


 宰相やユリウスに特別な仕事はなく、出席するだけでいい。補佐役でなく秘書のひとりに過ぎない自分が随行に選ばれたのにはそうした事情があった。とはいえ何が起きてもいいよう万全の準備は整えねばならない。昨年列席した補佐役のひとりに手順の確認をしていたとき、彼がふと口を滑らせた。


「今年は王女殿下方も臨席されるのか。きっと彼がいるからだろうね」

「彼?」

「カーク・ダンフィルだよ。ソフィア様の乳兄弟で、殿下方の幼馴染だ。年はソフィア様よりひとつ上だったか……ダンフィル子爵家の息子だな。継ぐべき爵位がないから騎士を目指したようだが、主席で騎士学校を卒業したそうだから、才能はあったんだろうね。ソフィア様にとっても信頼できる頼もしい騎士が増えて喜ばしいことだろう」


 引退が近いとされるこの補佐は、長く勤めているだけあって王家の事情にも詳しかった。カーク・ダンフィルと呼ばれる少年はソフィア王女の乳兄弟として彼女の傍で育ち、やがてお転婆姫と噂されるエステル王女の目付け役として共に過ごしてきたそうだ。ユリウスの情報網に引っかからずにきたのは、自分が入職した際にはすでに騎士学校に進学して城を離れていたからだろう。


(乳兄弟か……)


 あれほどまでに同年代の男子が近づかないよう守られていたソフィア王女の、唯一傍にいることを許された少年だ。気にならないわけがない。


(だが子爵家の人間であれば王女の相手にはなり得ない。あくまで兄弟のような仲だったから許容されたということか?)


 そう結論を出しかけたユリウスの考えは、叙任式で覆されることになる。


 いつものように周囲に注意を払いながらも、目はソフィアを追っていた彼だからこそ気づけた彼女の視線。この日ソフィアは主役ではなく、訪れた騎士団の建物の前で、両陛下からも離れた位置で妹姫と静かに控えていた。注目は当然ながら陛下や叙任される騎士たちに集まり、彼女たちを見る者はほとんどない。


 騎士たちの叙任に続いて騎士見習いたちが入団を讃えられる中、ソフィア王女の目はただひとりの少年に向けられていた。褐色の短い髪に空色の瞳。体格も同世代の見習いたちの中でひとつ抜けている印象だ。


 あれがカーク・ダンフィルかと認識した。その上で、ソフィア王女が注ぐ視線の意味を考え——違う、と心で否定した。


 彼女の隣に並び立つには不足だと、そう結論づけた。漏れ聞こえる噂から判断するに、騎士としては有望なのだろう。ソフィア王女に剣を捧げるとすでに決意しているという気持ちもわからなくはない。だが圧倒的に熱量が足りなかった。カーク・ダンフィルの意識はソフィア王女に向いていながら、完全に振り切れてはいない。


 そしてそれは王女の方も同じだった。確かに憧憬と淡い思いとが透けて見える、十五歳の少女らしい振る舞いを、静かな表情の中にうまく隠してはいる。すでに仮面を被ることを覚えた彼女には通常営業の、周囲からの評判の良い佇まいだ。


 ソフィア王女のお相手は、せめて彼女と愛情を育めるような男であってほしいと願っていた。だがそれだけでは足りぬと、ここに来て思い至った。


 あんな取り繕った表情の下に簡単に隠せるような思いしか抱けぬ相手に、彼女を託したくない。隣に立つ妹姫のようにあからさまに求めるような表情を見たい。


 叶うなら、自分が暴いてやりたい——。


 湧き上がる渇望は、ユリウスの中に深く閉じ込めていた箱を引き摺り出した。ソフィア王女に救われたあの日から六年。決して開けてはならぬと厳重に鍵をかけていたその箱を容赦無く開け放ち、白日の元に晒してしまった。


 気づいてしまったのなら、もう後戻りはできない。今まで通り、ひたすらあの場所を目指すのみだ。


(責任は取ろう。だが、それは貴女もだ、ソフィア王女)


 あのとき自分に向かって手を差し伸べたのは彼女の方だ。藁をも掴む思いでユリウスはそれを掴み、ここまで駆け上がってきた。まだ遠い王女の立ち位置を見て、決意を新たにする。


 ——貴女を得る代わりに、自分はその表情を崩して差し上げよう。泣いて縋り付いてでも乞うような、困惑するような思いをルビーの瞳に灯して、何をおいても欲しいのだと、その可憐な唇に言わしめてみせよう。


 もちろん、貴女が求める熱量以上のものを返し、貴女を愛することを、誓う。




◆◆◆◆



 二年後、ルヴァイン王国で魔獣暴走(スタンピード)が発生し、カーク・ダンフィルが英雄に選ばれた。正騎士の叙任の場でソフィア王女は彼に聖剣を授け、王都から送り出した。


 入団式以降、カーク・ダンフィルの動向を窺って騎士団にも出入りしていたユリウスは、当然ながらエステル王女と彼の関係にも気づいていた。だからカーク・ダンフィルの行動を制限せず、わざわざソフィア王女と引き離すようなこともしなかった。


 魔獣暴走(スタンピード)をの発生を受けて、前年に引退した前宰相補佐に代わってその地位に就いていたユリウスは、ソフィア王女とともに対策本部に詰め、この国難に対処した。あれほど願ったソフィアの傍での初仕事が魔獣暴走(スタンピード)対応ということもあって、彼の力量が相当に問われる事態となったが、ぎりぎりまで自分を酷使するソフィア王女と国を全力で支え切り、ついに魔獣の王が倒されたという知らせを受け取った。


 英雄の無事の帰還と魔獣暴走(スタンピード)の収束を、自分ほど強く願った男もいないだろう。凱旋を果たしたカーク・ダンフィルがエステル姫を褒賞に望むことは容易に想像できた。そう世論が動くように仕掛けをしたのはユリウス自身だ。仕掛けたのは事後処理の話だけではない。討伐隊が出発してから常に現地の動向に敏感でいたユリウスは、王都にいながらにして現地の壊滅ぶりも老いた領主の一人息子が命を落としたことも、真っ先に把握していた。


 状況が動く度に布石を打った。四年前、己の決意改めたその日から、国内外で巧妙に蒔いてきた噂の種はするすると地を覆い尽くすまでに育ちきり、ユリウスが愛する人を絡め取ろうとしていた。


 だが最後の最後で、ユリウスが抱いていた仄暗い思いが、ほんの少しだけ揺れた。


 単なる気まぐれか、なけなしの温情のつもりか、ユリウス自身にも計りかねる思い。


 ソフィアの婚約者候補として宰相の推薦を得ることはできたが、候補は彼以外にも数名いた。ただし自分が最有力だということは、両陛下に呼び出され直接問われたことからもわかっていた。


「決定はソフィア様に委ねたいのです。……ただ、もし王太女殿下が選択を両陛下に任せるとおっしゃるなら、私に異存はありません」


 彼女自身が候補者を見て、そこにユリウスの名前があることを知って、その上で他の者を選ぶなら、そのときは潔く諦めようと、そう思ったのだ。


 だがソフィア王女は自分で選ぶことを拒んだ。


「ご自分で選ばなくてよろしいのですか」


 出ていった宰相を追いかけ、やっぱり自分で選ぶことにすると彼女が意見を覆し、結果を改める。それが、彼女がユリウスから(のが)れられる、最後のチャンスだったのに。


「……えぇ。問題ないわ。父と宰相閣下にお任せしていれば間違いはないでしょう。大切なのはエステルとカークの婚姻の方であって、私の話ではないのです」


 カーク・ダンフィルへの、恋とすら呼べぬ未熟な思いが、彼女の選択を阻害した。


 仮面を被ったまま静かに書類に目を落とす王女を残し、ユリウスは執務室を後にする。廊下を歩きながら、愛しい女性が自分を選んでくれたことに心の底から歓喜していた。




◆◆◆◆



 ユリウスが国王夫妻の前で婚約者としての内定を貰い、ソフィア王女を部屋に送り届けた後。


 仕事中だったこともあり職場に戻れば、すぐに宰相から呼び出された。


「まずはおめでとうと言うべきかな。目ぼしい候補がいなくなってしまった中で、君が最有力であったことは間違いないが、正直君に決まってよかったと思っている。他の候補ではあまりに英雄に劣ってしまっていただろうからな」


 何せ妹姫のお相手があの英雄だ。姉であり王太女であるソフィア王女の相手となれば、本来はそれ以上の物が求められる。自分も英雄には到底及ばないが、爵位持ちであり宰相補佐という肩書きは、他の候補者よりはまだマシな方だった。他国の王族が候補に混ざっていたら勝ち目はなかっただろう。


「閣下には計り知れないご助力を賜り、感謝に湛えません」


 素直にそう頭を下げれば、宰相は葉巻を取り出し、おもむろに火をつけた。ゆっくりと紫煙を吐き出しながらユリウスに視線を向ける。


「それで、いつから企んでいた」


 愛用の葉巻をもってしても緩めることができない眉間の皺。むしろそれをさらに深くしながら問いかけた。


「四年……いえ、十年前ですかね」

「十年だと!? 君は確かまだ十代……。待て、まさか、あの伯爵家取り潰しの事件のときか」


 葉巻を取り落としそうなほど驚く宰相を前に、さすがは国の政治中枢のトップにある人だと感心した。十年という単語からユリウスの身上について思い出し、点と点に過ぎない事象を線で結ぶ。加えてユリウスの企みについても見透かしていた上でのこの質問だ。


 それを想定して答えを用意していた自分も大概かもしれないが、ともかく彼の元で働けていることを少しだけ誇らしく思った。


「策を講じるようになったのは、四年前の騎士団の入団式のときですが……それ以前にはもう囚われていたのだと思います」


 彼女がランバート家を救ってくれたときから、自分はとっくに堕ちていたのだろうと、今となっては思う。


「……ソフィア王女は当時九歳だったがな」

「私は十六でした」


 そんなことは聞いてないと苦虫を噛み潰した宰相は、死んだ魚のような目をユリウスに向けた。


「エステル王女にただの一件も縁談が舞い込まなかった時点でおかしいと気づかなかった私にも落ち度はあるが……明らかにやりすぎだろう」

「目的のためには手段を講じられるだけ講じろ、やり過ぎのぎりぎりを狙えというのが上司の教えでしたので」


 語学が得意だっただけの自分に外交のいろはを叩き込んだのはこの人だ。まだ秘書だった頃から他国への出張に随行させてもらっていたが、四年前からは自ら積極的に願い出るようになった。ルヴァイン王国の伯爵の肩書きもあるので、あちらの社交界にもできるだけ参加した。


 そして静かにそっと、囁くように噂の種を落としてくるのだ。——ルヴァイン王国の姫君と縁を結びたいなら、ソフィア王太女の方がお勧めです。両陛下は妹のエステル王女を溺愛しており、国外に出す気はないご様子。バランスを取るためにも姉姫のお相手は他国からと密かに決めておられます——。


 そして国内では真逆の噂を。——姉妹姫の仲の良さを外交面で生かさぬ手はないと、国王はエステル王女を他国に嫁がせてかすがいとさせることを画策している、そうなればソフィア王女のお相手は国内から見繕うことになるだろう、と。


 結果として妹姫に縁談は舞い込まず、姉ソフィアに集中することになった。エステル王女とカーク・ダンフィルのためにやったわけではなく、ソフィア王女の相手が決まるのをできるだけ引き伸ばしたかった。選択肢が多ければ多いほど、政治的な策略をあれこれ考慮する幅が広がり、時間がかかる。その間に自分が未来の王配候補に上がる可能性や、カーク・ダンフィルが功績を上げてエステル王女を貰い受ける可能性もゼロではないと信じたかった。もちろん、ソフィア王女が抱く淡い憧れが恋と呼べるほどのものではなかったと気づき、目が醒める可能性もありうるだろうと、半ば祈っていた。


 さすがのユリウスも魔獣暴走(スタンピード)までは予測できなかったが、対応に奔走する中でも、ソフィア王女に関することには決して手を緩めなかった。南部の領主に英雄の養子について打診する根回しをしたのはユリウスだ。ソフィア王女が持参金欲しさに他国から婚約者を迎えることになったと密かに噂を蒔いたのも自分。


 地を這う蔦は幾重にも蔓を延ばし、やがて蕾をつける。それでも王女が自分を選ばなければ、諦めるつもりもあった。


 だが、もう譲れない。


「私ほどソフィア様に忠誠を誓える者はおりません」


 聖剣を捧げた忠誠など糞食らえだ。物に委ねられるほど、この思いは軽くない。


 そう告げれば、宰相は深々と煙を吐き切った。


「ソフィア様に長い間無理を強いてきたのは我々大人だ。いくら王太女とはいえ、叶うなら年頃の令嬢らしい思いもさせてやりたいと思っていた。そう簡単な話ではないがな。……まぁ、君が彼女を大切にしてくれることは期待できそうだから、この際私の胸に納めておくこととしよう」


 そして葉巻を嗜み終えた彼は、思い出したように付け足した。


「あぁ、私もしばらくはまだ宰相を続けたいから、君のその熱意を貸してくれると嬉しい」

「そうですね。閣下のことは……裏切らなくてすむよう鋭意努力します」

「おい、いろいろおかしなものが漏れ出ているぞ。……はぁ、なんだかソフィア様が不憫に思えてきたな」


 そう指摘されるくらいにはユリウスも浮かれていたのかもしれなかった。顔色に出ないのは自分も同じだ。



◆◆◆◆


 自分を見るソフィア王女の目は実に心地がいいと、満足しながらユリウスは愛しい女性と向かい合う。誰にでも見せる完璧な王太女の姿はすっかり鳴りをひそめ、自分を見返す視線に疑り深く何かを探るような色がある。カーク・ダンフィルに向けていたような簡単に押し込められる浅いものではない、取り繕うことさえ忘れた、彼女の紛うことなき本心。


 そしてそこにあるのは恐怖ではない。十年の思いが暴走してやり過ぎた感は否めないが、婚約者としての初対面の挨拶に微塵の後悔もないユリウスは、ただ微笑んで手を差し出した。呼吸を早めて、ルビーの瞳を揺らして、それでも自分のエスコートを受けて、歩く間にもちらちらとこちらを見上げる様に、気づかない振りをしながら笑みを深める。


 この婚約が破棄されることはもうない。自分が彼女の夫となることは明らかだ。


 だが、彼女が恋のひとつも知らないまま生きていくなど、彼女の幸福も願う自分としては到底受け入れられなかった。ユリウスが這わせた細くしなやかな蔦に絡め取られた彼女に、「ここにいたい」と、そう思わせたい。


 だがその前に。


「この十年間のことをお話しさせてください」


 彼女を得る対価には足りないが、己のすべてを捧げるつもりで、ユリウスは十年前の顛末を語った。さすがのソフィアも、あの伯爵家取り潰し事件の数百名にものぼる被害者たちの、その後のすべてを把握してはいなかった。


「納税の遅延申請と併せて税務管理官の派遣の要請も行なったのですが、それに先立って、気鬱の病で静養中だった兄に手紙を出しました。私がいない間のランバート家を取り仕切ってほしいと頼んだのです」


 当時家には妹のローラひとりが残されていた。派遣されてくる管理官の年齢はわからないが、男性と十四歳の未婚の娘とを二人きりで過ごさせるのはあまりに外聞が悪い。


 後継がユリウスに変更となって以降、兄とは一切の会話を交わしておらず、閉じこもった彼と顔すら合わせていなかった。兄からすれば自分は己が持っていたものを奪った憎い弟だ。体調を崩してもいる中、受け入れてもらえる自信はなかったが、とにかく頼むだけ頼んでみようと、療養先に手紙を出した。


 そして兄は——ユリウスの要請を受け、自宅に戻ってくれた。ただしユリウス宛に届いた返信には「わかった」との一言しか書かれておらず、兄の胸中を完全に察することはできなかった。


「今思えば兄が諾の返事をくれたときに、会いに戻るべきでした。お飾りではあっても私が当主だったのですから。ですが……私も怖かったのです」


 面と向かって会えば恨みをぶつけられるのではないか。そう思えば故郷に戻る足も鈍ってしまった。


 そんな状況で、再び兄と対面するのにさらに二年の月日を要することになった。


「妹がかねてより思いを交わしていた子爵家の令息に嫁ぐことになりました。まだ十六で早すぎるかとも思いましたが、兄の治療費が戻ってきたことで持参金も捻出できましたし、何よりまた不測の事態に陥って結婚が難しくなる可能性もありうるかと思うと、安定している今のうちにと考えたのです」


 十八歳になったユリウスは妹の結婚式に出席するために、二年ぶりに帰郷した。そこで彼の兄スチュアートはユリウスを——朗らかな顔つきで歓待してくれた。


「伯爵家の再興のために領地経営に精を出せたことが、兄にとって生きる活力となったようです。さらに兄は……私に頼られたことが嬉しかったと、そう言ってくれました」


 二年もの間病に苦しみ、弟妹に看病されるだけの毎日。やっと克服したと思えば後嗣から外されるという現実。大学進学の夢も絶たれ、それがすべて弟へと譲られる。まるで必要ない人間だと烙印を押されたかのような状況は、兄にとってどれほど絶望的だったか。


 父が亡くなったタイミングで発覚した巨額の借財の前に、兄もまた苦しんだのだろう。それが解決した矢先に届いた、弟からの依頼。病に伏しているわけにはいかないと取るもの取らずに戻った兄を待っていたのは、王宮から遣わされた税務管理官だった。


「実は私も長いこと勘違いしていたのですが、管理官の方は女性だったんです。兄より八歳年上の、男爵家出身の離婚歴のある方でした」


 女性ながら大学を卒業し、一度は王宮に勤めたものの、実家の圧力に負けて退職し親の言いつけで嫁いだ。だがその後二年間懐妊の兆しがなく、婚家から離縁された経歴のある女性だった。地方へ派遣される管理官は独身者が選ばれやすい。我が家に未婚の娘がいたことも考慮されて、再就職したばかりの彼女が選ばれた。たまたまファーストネームが男性でも女性でもありうる名前だったため、書面のやりとりしかしていなかったユリウスも気づかず、妹の結婚式で発覚した事実に少なからず驚いた。


「その女性の存在も、兄が快方へと向かう大いなる助けとなってくれたようです。その頃の私はいずれ時期がくれば兄に爵位を譲ってもいいと考えていたのですが、本人にあっさりと断られてしまいました。兄は彼女にプロポーズしたいとまで考えるようになっていたんです」


 貧乏伯爵家とはいえ当主の嫁ともなれば、それなりなものが求められる。離婚歴があり、かつ子どもが産めぬ可能性があるとなれば、社交界でひどく後ろ指を刺されることになるだろう。自分も事情持ちであるし、彼女をそんな目に合わせたくないと願った兄は、このまま伯爵家当主の補佐としてこの家で雇ってほしいのだと弟に頭を下げた。ユリウスが二つ返事で了承したのは言うまでもない。


「実直な管理官だった彼女は、その後も一管理官として任務を果たし、任期を終えてから職場を退職しました。今はランバート伯爵家当主の兄嫁として、二人で領地を切り盛りしてくれています」


 これがこの十年の間にあったランバート家の物語だ。語り終えた後で、ユリウスは「あぁそうでした、もうひとつありました」と付け加えた。


「妹が結婚する直前に、父の遺体を故郷に帰してやることができました」


 旅先で事故に遭い、身元不明のまま一度は現地で埋葬された父の棺を輸送することすら、当時の自分たちには難しかった。約二年ぶりに自宅へと戻ることができた父は今、最愛の妻の隣で眠っている。兄嫁や嫁いだ妹が定期的に花を供えてくれていると、兄から報告を受けている。


「すべて貴女が成し遂げられたことです、ソフィア様」


 婚約者の手を取り見つめれば、彼女はルビーの瞳を数度瞬かせ、「それは違うわ」と唇を震わせた。


「ユリウス殿は勘違いをしているわ。ランバート家が受けた補償は法に則った当然のものであって、私が特別に与えたわけではないもの。あなたの家が再興されて、お兄様方や妹さんが幸せに暮らせているのはとても喜ばしいことよ。でも、そこまで盛り返すことができたのは、あなたたち家族の努力があったからよ」


 言い切ったソフィア王女は、合点がいったかのように肩の力を抜いた。いつもの王太女に相応しい賢い表情が戻る。


「あなたは私に恩義を感じてくれていたのね。だから、私の婚約者がいない状況で手を上げてくれたということでしょう?」

「違います」


 この先をソフィアと共に過ごし、彼女に従うと決めた。彼女が白を黒と言えば自分もそうだと追随し、なんなら白を黒く染めることにまで手を尽す。


 だがこの思いを歪めることだけは、たとえ彼女であっても許せなかった。


「私の思いは、恩義などという言葉で簡単に飾れるものではありません。この際正直に言いますが、この国がどうなろうと大して興味もありません」


 未来の王配として決して口にしてはならぬ気持ちを告白すれば、ソフィア王女はまたしても目を丸くした。


「ですが、貴女が国を思い、民を導くというなら、私も共にありましょう。貴女の望みを叶えることが私の喜びなのです。だからソフィア様」


 取った手を握りしめ強く引けば、彼女は実に簡単にユリウスの胸元に倒れ込んだ。


 白い腕の先の、自分よりもはるかに細い身体を囲い込む。


「ユリウス殿、何をっ」

「どうかこれからも思うままに生きてください。貴女がしたいことを好きなだけ背負ってください。疲れ切って倒れてしまった先には必ず私がいます。いつでもこうして受け止めて、抱きしめて差し上げます。また立ち上がりたくなるように」


 カーク・ダンフィルでは駄目なのだ。仮にあの騎士がソフィア王女の隣に立ったとして、彼女のために戦い、命を散らすくらいのことはするだろう。自分は無茶をしてもソフィア王女には無茶をさせたくないと、そう動く。


 だが生まれながらの王太女である彼女が、心からそんなことを望むはずがないのだ。自分がしたことを、救った大勢の人を、特別なことではないと言い切る彼女が。


 ソフィアを王太女足らしめる考え方は、もはや彼女の血肉となってこの細い身体を作り上げていた。だとすればすぐ傍にある者の役目は、彼女を囲って守ることではなく、全力で走り切った後に倒れ込める先の存在になること。


 この腕の中でなら何も取り繕わず、仮面を脱いだまま休めると、疲れを癒す彼女の止まり木となること——。


「貴女が守るべきものの中に、この先私は入れなくて結構です。私の命は、貴女が自由に使っていただいて構わないものですから」


 捧げるのではない、預けるのだ。彼女の半身となって、身も心もひとつとなること。それこそが十年かけて自分が目指した場所だった。エステル王女やカーク・ダンフィルのように、十年前の十六だった自分のように、彼女に守られる存在ではもういられない。


「ただし、貴女を傷つけるような輩がいれば、それが英雄であろうと他国であろうと、全力で潰しにかかります。それだけはお許しください」


 ユリウスの胸の中で細い身体がぴくりと揺れた。彼女を覆い尽くす蔦は、決してきりきりと縛りつけるものではない。その小さな手でもってしても簡単に引き千切れる程度の、脆いものだ。


 怖ければ、逃げたければ押しのければいいのだ。ユリウスの気持ちは本物だが、力には細心の注意を払って加減していた。


 だがソフィアは彼の胸を押し除けはしなかった。むしろゆるゆるとその尊い手が自分の背へと回される。


 ユリウスはこの十年で一番の笑みを浮かべた。


「おわかりですか、これが恋するということですよ。いつか貴女からもその思いを返してもらえるよう、全力で口説いてみせます。——どうか、お覚悟を」


 誰よりも優秀な男は、さらに十年かけてこの日の言葉を現実にしてみせる——。




◆◆◆◆

英雄カークのその後の十年の物語に続きます。

(https://ncode.syosetu.com/n8697kf/)


裏タイトル「ヤンデレが醸成されるまでの10年間」でした。


聖剣に国の未来を託したソフィア

聖剣なぞ糞食らえと吐き捨てたユリウス。


この対比でもあります。

妹姫エステルは愛する人を前線へと送ることになった聖剣を嫌いました。ユリウスもまた自分が聖剣に劣ると思われたこと(ソフィアの一番になれないこと)を腹立たしく思って聖剣を嫌いました。

二人して聖剣が嫌いですが、その意味はまったく違うので、たぶんこの二人の気が合うことはないでしょう。


ある意味自分本位なエステル・ユリウスに対して、自分本位に生きることがなかなかできないカーク・ソフィアというのも、両カップルがお似合いということかなと思っています。


ヤンデレを最後にもってくるのがしのびなかったため、英雄カークの物語をもって終わりを目指そうと思います。

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