不尽の火
暗闇の中、誰かに背負われて竹林を駆けていた。
夜雀に鳥目にされたせいなのか、出血のせいなのか、視界がはっきりとしない。
──永遠亭に行く。八意永琳という薬師に診てもらえ。
斜面から滑り落ちて倒れていたとき、こちらに人影が近づいてきた。ぶっきらぼうな声で、耳慣れない名前を口にすると、自分を背負って走り出した。
肩に回していた手に、さらさらとした髪が触れた。髪を房にしてリボンで結ってあり、走るのに合わせて揺れている。女なのか、と今更のように思った。なんとなく少女のような気がした。
あれが少女なら、男を背負ってこんなに迷いなく走れるはずがない。でも、やっぱり少女のような気がしている。人を鳥目にする夜雀のように、この少女もただの人間ではないんだろう。
指先の感触に意識を向けると、泥や血でざらついて濡れていた。髪を汚さないように指を動かすと、背中越しに「掴まってろ」と言われた。
結局、数メートル先の岩場に飛び移る離れ業を披露し、屋敷の窓から洩れる灯が近づいてきた。目が回る。どこか夢のような感覚だったが、思い出したように脇腹の痛みが襲ってきて、現実に引き戻された。
灯が近づいたこともあって、暗いばかりの視界が少し明るくなった。少女の髪は真っ白で、リボンの赤いふち取りが目に留まる。
「ちょっとあんた」
ふと、呼び止める声がした。
屋敷の入り口に誰かが立っている。腰より長い黒髪に、手が隠れるほどの桃色の上衣。ここからは表情は見えないものの、纏う空気はどこか妖しく、おとぎ話のお姫様を連想させる。
「後ろのは──」
白髪の少女は「怪我人」と返した。先に行って待ってろ、と首を動かして示す。黒髪の少女は興味をなくした様子で、滑るように静かに屋敷の陰に消えた。
*
永遠亭の診察室に着くと、銀髪の女が現れた。白髪の少女は短い言葉を交わして、さっさと立ち去ってしまい、二人きりで診察室に残された。
台に寝かされる。青いナース帽をかぶった銀髪の女が、手首に触れながらこちらを見下ろした。この人が薬師なのか、とぼんやり考えていると、彼女はまるで思考を読んだかのように名乗った。
「八意永琳。ここで薬を作ったり、病人を診たりしているの」
部屋の壁際に、兎耳の少女が立っている。紫の髪に紅い瞳、二本の耳がなかほどで折れて揺れていた。自分は幻を見ているのかもしれないと思い、永琳を呼び止めた。
「あの。これって……夢ですか」
「いいえ。あなたは確かにここにいるわ」
「兎が」
腕を持ち上げて兎耳の少女に向けると、永琳が「うどんげ」と呟いた。
「兎が珍しいのかしら。ここにいるのは確かだけれど、ここはあなたの知る世界ではない。外の世界に生きる人間が、時折、こうして迷い込むことがあるの」
青年は天井の木目を眺めた。
永琳は傷口から血を少し採り、紙に塗って何かを調べている。
「このままだと助からないわ。もってあと数時間。生きて話ができているのが不思議なくらいよ」
淡々と告げると、永琳は兎耳の少女に点滴の準備をさせた。袋の中で赤い液体が揺れている。
「助かる方法があるかもしれない。もっとも、まだ人間に試したことはないのだけど」
永琳は血液の袋を持ち上げながら続けた。
「提供者は蓬莱人。魂を起点にして新しい体を再生させる──簡単に言えば、死の概念を持たない存在。今調べた限りでは、血液型は合っているようね。もし適合すれば、助かる可能性はある」
──死なない人間。
信じがたい内容のはずなのに、彼女の言葉は妙にすんなりと脳に染み込んできた。
「私の計算では、助かる確率は五割ってところ。生きたいなら、賭けてみる?」
死にたくはない。青年はそう思った。
「……はい」
かすれる声で答えると、永琳は「いい決断ね」と返して、迷いなく腕に針を刺した。
*
最初はちょっとした違和感だった。
腕の内側がちりちりと痒くなる。爪を立てたくなるような感覚。
次の瞬間、灼熱に変わった。肺を焼き、心臓へと流れ込んで全身を駆ける。脇腹の痛みは遠のき、代わりに全身を焼き尽くすような熱が広がっていた。
──体が燃えているように錯覚した。
血管の中で何かが暴れ回り、内側から体を侵していく。
反射的に跳ね起きようとして、両肩を押さえつけられた。足元に片膝を押し当てられる。
「動かないで」
耳元で声が聞こえる。兎耳の少女が、自分に覆いかぶさって動きを封じていた。縫い止められたように全く動けない。
「暴れると、余計苦しくなるから」
どこにも逃げられない。熱は自分の内側にある。爪を立てて喉を引っ掻こうとしたが、兎に押さえられた腕は震えるだけだった。
目の前の世界が霞んでいく中、青年は何かを見た。
夜の竹林を歩く、ひとつの影。
背を向けて、まっすぐにどこかへ向かう白髪の少女。
──待て。
呼び止めようとした。足を動かしても追い付けない。それでも、目だけは幻影を追い続けた。
少女はこちらの存在を知らないように速足で歩き続ける。
──名前は。
まだ名前を聞いていないことに気がついた。
名前は知らないけれど、自分の頬に触れた手を覚えている。背中越しに聞こえた声を覚えている。
わずかに残っていた意識が消えていく。
幼い頃から火に魅せられていた青年は、名も知らぬまま──蓬莱人、藤原妹紅を慕っていた。