行きずりのふたり
──鬼さんこちら、手の鳴るほうへ。
暗闇の中、ぱち、ぱち、と拍手が聞こえる。
視力を奪われた青年は、しばらく動くことができず、地面にしゃがんで頭を伏せていた。楽しげな拍手と、竹の葉が風に揺れる音、自分の呼吸だけが響いている。手の指先が震えていた。
放火癖という異常性は、幻想郷という非常識のなかで霞んでしまった。竹林の地理を知らず、身を守る術をもたない、ただの無防備な人間がそこにいた。
夜雀の歌が頭の中で反響する。暗闇の向こうに何かが潜んでいて、自分を捕って食おうと狙っているように感じられた。このまま動かずにいると悪い目に遭う。
腰に手をやると、オイルライターの手触りがあった。このままでは埒が明かない、と自分を奮い立たせてライターを取り出す。夜目が利かないだけで、光を失ったわけではない。光源があれば動けるはずだ。
蓋を開けてホイールを親指で回すと、小さな火が灯った。手元が明るく染まる。
ライターを持つ手を掲げてみても、夜雀の姿は見えなかった。好きなのは人を襲うこと、という弾むような声が頭をよぎる。
──ふざけるな、と思う。
人は火を手に入れ、火を信仰し、火を使って獣から身を守った。ならばこの炎も、己を暗闇と捕食者から遠ざけてくれるはずだ。
震える膝を押さえつけて立ち上がった。足元に気をつけながら、ライターの炎の輪郭を頼りに一歩ずつ進む。竹の根や石につまづきそうになったが、足を止めることはできない。振り返れば「何か」に食われる気がしていた。
やがて、竹がわずかに開けた場所に出る。
闇の向こうに広がる空気の感触に、青年は無意識に足を早め──。
踏み出した先には地面がなかった。
「っ……!」
体がぐらりと傾く。
理解する間もなく、前のめりに倒れ込んだ。闇の中で竹が次々と横切り、体が回転する。
ライターが手から離れて転がり、全身を打ちつけながら斜面を滑り落ちた。何かを掴もうとした指先に竹の葉が触れる。握りしめることもできず、指の間をすり抜けていった。
落下は止まらない。
鋭い衝撃が脇腹を貫いた。
息が詰まり、目の前が白く染まる。
ようやく落下が止まる。青年は暗闇の中で横たわり、荒い呼吸を繰り返した。
脇腹には何かが刺さったらしく、服の上からでも生温かい感触があった。動かそうとした足に痛みが走る。息がうまく吸えている感じがせず、喉の奥から血の味がする。
誰か公衆電話で助けを呼んでくれないだろうか。山の麓で見かけた電話ボックスを思い出した。あそこまでは戻れそうにないし、扉を開けて受話器を取って119を押すのも無理だった。
──寒い。
出血のせいか、体の奥から冷えが染みてくる。
夜明けまでに死ぬのかもしれない。
どれぐらい横たわっていたのか分からない。ふと、こちらに近づく足音を聞いた。
*
藤原妹紅はひとりで竹林を歩いていた。
月の姫の顔を見にいって、ついでに何度か殺してやろうと思ったのだ。
竹林は数百年間さんざん歩いていて、目をつぶっていても迷いはしない。道すがら、煙が燻る匂いと、自分のものではない血の匂いを感じた。最初は気に留めなかったが、歩くうちに、どうにも鼻につく。
少し足を止めて、気配のほうへと向かう。
足元に銀色の薄い装置が転がっていて、傍らの草から一筋の煙が上がっていた。文々。新聞で香霖堂の特集が組まれたとき、外の世界には「らいたー」なるハイテクな火打石がある、と読んだことがあった。
装置を拾い上げて煙を踏み消し、うずくまる人影のほうへ急いだ。
「おい」
声をかけて首筋に触れ、顔をこちらに向かせる。若い男だった。
出血が多い。脇腹が赤黒く染まっていて、顔色がかなり悪いが、首筋には温もりが残っている。里では見かけない服装をしているから、外来人だろう。
青年の傍らには、先の鋭い竹が生えていて、竹の断面にも擦れた血が付いていた。数日前にこの辺りを通ったとき、気まぐれに手刀で竹を切り払ったのだ。
外来の男は薄目を開けて、口をぱくぱくと動かした。まだ意識はあるらしい。
「朝から山を歩いてたら、周りが竹ばかりになって。……日が沈んでから、夜雀、ってやつの歌を聴いたんだ。鳥目にしてやる、って言われて、何も見えなくなった」
問いもしないのに、途切れがちな声で話し始める。竹林に迷い込み、ミスティア・ローレライの悪戯で視界を奪われ、足を滑らせたらしい。元凶のミスティアは飽きてどこかに消えたか、八つ目鰻の屋台の支度をしている頃だろう。
「間の悪いやつだな」
妹紅はそう呟いて、男の腕を自分の肩に回した。
「永遠亭に行く。八意永琳という薬師に診てもらえ」
そう言いつけて、男を背負い上げる。
「途中で死ぬなよ」
冷たくなっていく死体を背負うのは気分が悪いからな、と妹紅は思う。
男が返事のように息を吐き出した。妹紅は地面を蹴って、竹の隙間を縫うように駆け抜けた。
弓のような弧を描く道に行き着いた。ぶらぶら歩くにはちょうど良いが、歩いている時間が惜しい。
しっかり掴まってろ、と言って青年の姿勢を直し、助走をつけて前方に跳んだ。
膝を曲げて岩場に着地すると、二人分の重さが足腰にのしかかった。足首に嫌な力がかかった感じがするが、この程度ならよくあることだ。それぐらいで止まっていては輝夜を殺せない。
背中の男がかすれた呻き声を漏らした。
──痛がるのは生きてるやつだけだ。
心の中でそう答えて、妹紅は永遠亭への道を急いだ。