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手の鳴る方へ

外の世界。


一人の青年が、朝の山道を歩いていた。平均的な背丈に、少し細身の体型。年は二十代半ば。フードのついた上着を羽織り、小さなリュックサックを背負った姿は、違和感なく山に溶け込んだ。


秋晴れが続いて空気が澄んでおり、道の端には落ち葉が粉のように積もっている。足先でつつくと、さくさくと乾いた感触があった。降水確率はゼロで、雨が降ることはないだろう。


この山は見晴らしが悪く、上ったからといって遠くが見渡せるわけではない。山歩きの初心者には疲れるだけの道のりで、熟練者には物足りない。寄り付く人が少ない無名の低山で、人気が少ないからこそ、青年には好都合だった。


木々の間に「不法投棄禁止」の古びた立て看板が見える。青年はズボンのポケットに手をやって、煙草の箱に指先で触れた。右のポケットにジッポーライター、左には煙草の箱が入っている。


煙草は好きではない。肺に悪いし、咳も出る。味だって美味いとは思わない。

火を灯す瞬間だけが好きだった。


火に魅せられた青年は、放火のために山道をゆく。


────


小学校の夏休み、庭先で新聞を焼いたことがある。


父親の部屋からルーペを持ち出して、レンズで日光を集めて火をつけた。光を一点に集めると、新聞紙がじりじりと焦げていく。黒く焦げるばかりで燃え上がることはなく、父に見つかって怒鳴られた。


腕を掴まれて居間に引きずられ、火事の恐ろしさを分かってるのか、大馬鹿者、と厳しく叱られた。


それからは、むやみに火をつけることはなくなり、新聞の火事の記事を切り抜いて集めるようになった。

ぼや騒ぎ、住宅火災、外国の山火事。切り抜いた記事は菓子の箱に入れ、宿題の合間に触ったり、寝る前にベッドで腹ばいになって眺めたりした。


中学校に入ると、陸上部の部室で先輩に声をかけられ、グラビア雑誌を貸してやると言われて渡された。夜に鞄から出してページをめくったが、特に興味をそそるものはなく、雑誌を鞄に戻して菓子箱を取り出した。


ある日、部活から帰ると、母が部屋に入って掃除をしていた。床のじゅうたんに座り込んで、箱の蓋を開けて中身を触っていたのだ。床に置かれた箱を見つけたとき、背中がすっと冷たくなった。


「おかえり。なんなのこれ」

「……授業で使ったやつ。調べ学習のテーマが“防災について”だったから」

「ああそう」


もういらないから捨てていいよ、と少年は自ら言い放った。特段なにかを問い詰められたり、疑われたりすることはなく、母は箱の中身を廊下のごみ袋に捨てた。


次の朝、ベッドの中でごみ収集車のメロディを聴いた。水を吸った雑巾のように体が怠い。メロディがすっかり聞こえなくなってから、重い体を引きずってベッドを下りた。



就職して親元を離れたとき、ジッポーライターと煙草を買った。


抑えられてくすぶっていた火が具体的な形を持ち、手の中に収まった。火は何にも遠慮せず、大きく燃えるべきだ。自分にはそれを解き放つ役割がある。


そうはいっても、場所は慎重に選ばないといけない。ごみ集積所のごみ袋を燃やすのは論外だ。人家の近くではすぐ通報されて消されるだろうし、好きこのんで他人を殺したいわけでもない。焦りは禁物だ、と自分に言い聞かせた。


空気の乾いた日に、近くに民家のない山に入って、ライターで草に火を移す。炎は空に向かい、地を這い、すべてを飲み込むように広がるだろう。


アパートと会社を往復し、ときには付き合いの飲み会に参加する傍ら、山の地図を眺め、オイルライターの手入れをしながら計画を練った。


────


そして、今日は決行の日。火を放つにはもってこいの朝だった。


風向きや土の湿り気、枝の乾きぐあいに注意を払いながら、青年は足を進める。五感が研ぎ澄まされていき、頭のほうは眠りに沈んでいくような不思議な感覚があった。葉が風に揺れる音と、自分の足音、微かな呼吸だけを聞いている。


歩いている間の意識が抜け落ちていることに気づいて、青年はふと足を止めた。


空を見上げると、葉につやがある広葉樹ではなく、小径の両側に竹が茂っていた。竹は先が見えないほど高く伸び、上のほうは霧に包まれている。これほど高い竹は見たことがない。


日光が遮られていて時間が分からないが、どうも日が暮れかけているらしい。

そんなはずはない、とすぐに思う。朝に山に入ったのだ。


腕時計を確かめると、数分しか経っておらず、針がいつも通りに動き続けていた。日が傾いているというのは勘違いで、今はまだ午前中に違いない。自分の感じた時間と違っていても、時計が指す時刻を信じるしかなく、青年は少しずつ歩き続ける。


どこか開けた場所から下を見通して、街がどっちにあるかを確かめようと思った。前に進んでも引き返しても竹ばかりで、風景は一向に変わらない。日没が近づいている、という感覚だけがあった。


迷いの竹林。逢う魔が時。

昼と夜が移り変わる頃。

外の世界で人目を避けていた青年は、夕暮れの幻想郷で、今度は人の姿を探し始める。


おーい、と声を張り上げる。


耳を澄ませると、はぁい、と返事があった。少女のような声が弾む。姿は見えないまま、声がするほうに向かって、青年は手を振ってみせた。


「すみません、道に迷って──」

「わぁい!」


嬉しげな声に遮られる。


「もしかして外のヒト? そっかそっか。かーごめかごめ、籠の中の鳥はー」

「あ……」


歌声は耳を通って青年の脳を侵し、酒が回ったように頭がふらついた。現実に縋るように、ポケットに手を入れてライターを指先でなぞる。


「後ろの正面だあれ。私は夜雀、ミスティア・ローレライ」


ミスティア、と青年は口の中で呟いた。聞き慣れない響き。


「そうね、好きなのは歌を歌うことと、人を襲うこと」


青年はポケットから手を出して、両手で耳を塞いだ。これ以上聞いてはいけない、と直感する。声自体は心地よいのに、ずっと聴いていたら気が狂いそうだった。


上着のフードを被り、耳を塞いで足元に目を落とすと、ミスティアは怒ったように言葉を続けた。


「失礼だなぁ、そっちから呼んどいて。そんなヒトは鳥目になるよ」


怒りと愉快さが交ざった、こちらをからかうような声音。

その宣告と同時に、帳が下りるように、視界が真っ暗になった。


「鬼さんこちら、手の鳴る方へ」


ぱち、ぱち、と手を鳴らしながら、夜雀は歌い続けていた。

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