オン・ステージ編
この童話がもたらした教訓は、本当に必要な者には届かない。
「昔々のことでした。エメラルド色の豊沃な丘が、 空と地が出会う逢瀬の方まで雄大に広がっていました。所狭しと植物が繁茂し、樹木は枝を天に向けてめいっぱい伸ばしています。
人工物といえば、丘の腹をキュッと締める帯かのように、あるいは取り留めのない大地の背中を絞める骨かのように、未舗装の道路が一本、真ん中に通っているだけでした。
その丘のはるか上空で、北風と太陽とが言い争っています。
…、いや、“言い争っている”というのは少し語弊があります。実際は、北風の一方的な主張でした。」
北「いいか、太陽。俺様が起こす風は、とっても強い。草も木も、花も石ころも、人間共の家だって、俺様の一吹きで粉々に飛ばせる。」
太「はぁ、凄いんだね。」
北「当たり前だ。何もせず、ボケっと突っ立ってるだけのお前とは違うんだ俺様は。
あぁ、もっとこの力を使って人間共に俺様の凄さを思い知らせてやりたいっ!」
太「そうなんだね、で、できるといいね。」
「その時でした。丘の麓から、一人の中年男性が歩いてきます。男の名はウィルバー。30代の機械技術者です。…何か悩みがあるのでしょうか。紺色の大振りなコートのポケットから腕を出し、左の手で顎を、右の手で左肘をいじりながら、道路をトボトボと歩いています。
うつむくウィルバーが、北風の目に留まりました。ますそして、北風は太陽にこう言います。」
北「おい!太陽!良いことを思いついた!」
太「な、なんだい急に?」
北「下を見ろ。あそこに冴えないおっさんが歩いてるだろう。
どうだ、一勝負しないか。」
太「勝負…?」
北「あのおっさんのコートを脱がせた方の勝ち。簡単だろ?」
太「そんなことしてなんの意味があるの?」
北「俺様が楽しいからっ。いいから付き合え。」
太「えぇ…。」
「こうして、ウィルバーのコートを脱がせる勝負が始まりました。
勝った方が、“より多く空を支配できる”。そういう約束の上です。」
北「じゃ、俺様が先行な。」
「北風が、大地に降ります。そして大きく息を吸い込み、ウィルバー目掛けて風を吹きかけます。」
北「フー、フー」
ウ「おっと、風だ。寒いな。」
「ウィルバーは考え事を止め、コートを引き寄せます。」
北「むっ!」
「予想に反した彼の行動に、北風はもっと強い風を吹きかけます。」
北「フーッ、フーッ」
ウ「強い風が吹いてきたな…。」
「ウィルバーは、コートのボタンを留めました。」
北「なっ、なに!」
「ますます目的から逸れる彼の行動に、北風は動揺を隠せません。」
太「もうその辺で止めた方が…。」
北「うっさい!」
「北風は、もっともっと強い風を吹きかけます。」
北「フーッ!フーッ!」
ウ「なんだ…!この強風は…?」
「未舗装の道路には、砂埃が舞い上がり始めます。
草木は斜めに倒れ、森は騒めき、湖の水面は幾重にも波紋を浮かべています。」
ウ「ハリケーンか!?油断すると飛ばされてしまいそうだ!」
「突然の異常気象に、ウィルバーは遂に立ち止まってしまいました。
小さな砂利や、折れた樹木の枝が、彼の身体を打ち付けます。」
北「はっ!は!はぁ!そんな安っぽいコートなんて吹き飛ばしてやる!
フーッ!!フーッ!!」
「北風は出せる全力を尽くして、烈風を巻き起こします。
ただの石ころは砲弾に、しなやかな枝は鞭に、柔い木の葉はナイフへと化け、ウィルバーの細い身体を襲う。いつの間にか紺色のコートは黄土色へと染まり、整えられていた毛髪は風の形にヨレています。」
ウ「クソッ、なんて痛烈な風なんだ…!」
「今にも背を向けて逃げ出したい状況にもかかわらず、ウィルバーは諦めません。
それは彼が向かうあの先に、大切な家族が待っているからです。」
ウ「オーヴィル…、待っていてくれ。もうすぐ着く。オーヴィル!」
北「なんだ此奴は!」
「オーヴィル、と弟の名を連ねるウィルバーは、風へと立ち向かいます。
一歩ずつ…、いや半歩ずつでも、待ち人のいる方角へと歩みを止めません。
そしてついに…」
北「フーッ!フー!ふー…、はぁっはぁ、くそぉ!」
「体力尽きた北風による烈風は、たった今止みました。
丘には、さっきまでの天候が冗談だったかのような静寂が鳴り響きます。」
ウ「ふぅ…、耐えたか。やったぞ…。」
太「おや、彼は凍えているじゃぁないか!このままでは身体に障ってしまう!
僕が温めよう!」
「萎んだ北風と代わった太陽は、その丸い体を紅く燃やし、地上を照らします。
透明で鮮明な灯りは、ウィルバーを含む地上の動植物を優しく包みます。」
ウ「暖かい…、フッ、どうやら神は私を試していたようだ。」
北「違う!違うぞっ!」
「北風の叫びは、彼には届きません。それどころか、変色しきったコートを脱ぎ始めたではありませんか。」
北「やめろー!」
ウ「なんて気持ちの良い日曜日だ。少々暑いくらいだよ。」
「まくったシャツの厚い部分で、滲んだ額の汗を拭う。コートを肩に掛け、浮き足立てて丘を越える。この屈辱的な光景に、北風は思わず絶叫します。」
北「くっ、くそぉぉぉー!!!」
太「北風くん…、大丈夫かい?」
北「触るなぁ!!」
太「わぁっ!」
「予想もしなかった北風の狼狽に太陽が戸惑う最中、地上のウィルバーは、どうやら目的地に到着したようです。」
オ「兄さんっ!どうしたんだいボロボロじゃないか!」
ウ「やぁ、オーヴィル。さっきまで神の試練に遭っていたんだよ。」
オ「カミノシレン…?」
ウ「あぁ、オーヴィル。どうやら、成功というものは北風を乗り越えられないと手に入らないようだ。」
オ「え…?」
「要領を得ない兄・ウィルバーの言葉に、弟・オーヴィルは困惑しています。
しかし、不思議にも満足気なその表情に、オーヴィルはつぶらな理解をするのでした。
それから、数ヵ月が経ちました。
1903年12月17日
この日は、兄弟にとって忘れられない一日となるのです。」
太「おー!ついに始まるぞ!
北風と勝負をしたあの日から、この二人を見守っていたかいがあった。」
「太陽は、ウィルバーとオーヴィルを天空から楽しそうに眺めています。
地上では、10人にも満たない人間が輪を作り、世紀の挑戦に臨んでいるのです。」
ウ「オーヴィル、準備はいいかい…?」
オ「あぁ、もちろんだよ兄さん。」
「緊張と期待、躍進と渇望。真剣な眼差しとほんの少しの勇気。
この兄弟の挑戦が今、始まろうとしています。」
ウ「やぁ、ジョン。君は、このカメラで撮影していてくれないか。」
ジ「あぁ、もちろんだとも。」
「状況は整いました。天空の太陽もどこか誇らしげです。」
太「おー!ようやく始まるぞ!頑張れ!頑張れ!」
「ウィルバーが走り出した、その時です。地上を眺める太陽のそばから、彼が現れました。」
北「…。」
太「北風…?何をするつもりだい!?今日は僕の担当だろう!」
北「スー…、フーーーーッ!!!!」
ウ「うわぁ、風だ!!」
オ「わぁーー!」
太「北風!!やめるんだ!そんなことをしても意味がない!」
北「だまれっ!!!!俺様をコケにしやがって…。
ウィルバー、お前の大事な弟を吹き飛ばして殺してやる!!」
太「やめろ!北風―!」
「怨嗟に囚われた北風は、オーヴィルの生命を標的にしました。
巻き起こる風は、オーヴィルが掴む構造物ごと飛ばす勢いです。
道徳も倫理も存在しない。「自然」という皮を被った鼠色の悪意が、人命を脅かさんとしているのです。」
オ「くっ…!このままでは何があってもおかしくない!」
北「はっはぁ~!やめろ!諦めろ!お前には無理だ!!」
「吹き荒れる突風と軋む木片の間で、オーヴィルは考えました。
自身の命に浸食する悪意が、そこまで迫って来ていることに。だんだんと、身体が恐怖で震えて来ます。
しかし、オーヴィルはあることを思い出しました。
兄・ウィルバーが、ボロボロになって自分に会いに来た時のことを。
そして、その時彼が口にした言葉。
「成功というものは、北風を乗り越えられないと手に入らないようだ。」」
オ「そうか…。これが兄さんの言っていた“北風“か!
確かに、強い。痛い。怖い。でも、乗り越えないと成功はない!!
ぐぅ…、行くぞ。いけぇーーー!!」
ウ「あ…。」
太「わぁっ。」
北「なっ!!」
オ「わぁー!飛んでいる!!」
ウ「飛んだ!飛んだぞ!!やった!!」
ジ「わぁ、すげぇ~。」
「1903年12月17日木曜日 アメリカ、ノースカロライナ州キルデビルヒルズ。
強風という天候の中、二人の機械技術者による世界初の有人動力飛行が成功しました。
兄・ウィルバー・ライト、弟・オーヴィル・ライト。今日日の我々に“ライト兄弟”と呼ばれる偉人は、数々の苦難や挫折を跳ね除け、人類が空へと駆ける第一歩を切り拓いたのです。
記念すべき最初の飛行は、僅か12秒。距離にして約36m。目撃した観客は、撮影を頼まれた地元の海難救助所員であるジョン・ダニエルズを含めた5人のみ。
しかし、フィルムに刻まれた輝かしい偉業の痕跡は時間と場所を超え、世界中の科学者と民衆に未来の可能性を予見させました。」
オ「兄さん!!やったぞ!!」
ウ「オーヴィル!!私たちは正しかった!!」
「自転車を趣味としていた経験から空中での旋回の必要性に気付き、ロール運動の手段としてたわみ翼を考案。二人の知識と技術とアイデアが搭載されたライトフライヤー号は、百年後に再現されることになりました。
ですが、コンピュータシミュレーションでは姿勢が安定せずに飛べず、完成した復元機に至っては離陸すらできなかったのです。成功した理由は、当時の強風とオーヴィルの卓越した操縦技術によるものだという見解も存在します。
しかし、この二人の功績が今日の航空分野の礎を築いたというのは、言うまでもないでしょう。著名な研究者から不可能だ夢物語だとなじられてもめげず、群衆に心無い言葉を投げかけられても怯まない覚悟が、二人を空へと押しやったのです。
なんて素晴らしいのでしょう。
なんて感動的なのでしょう。
なんて美しいのでしょう。
「お前」と違って。」
北「…。」
「北風、そなたに力を与えた日、私がなんと告げたか憶えていますか?」
北「…、己が万能だと勘違いするな、お母様はそうおっしゃっておりました。」
「その通りです、北風。ただの微風に過ぎない、自然の循環の一節として消えゆくはずのあなたに、五体と風を司る力を与えたのはこの私です。
その口は、誰かを罵るためのものではありません。
その腕は、誰かを傷つけるためのものではありません。
…、なぜあのような事をしたのですか?」
北「だ、だって、なぁなんか…鼻につくじゃないですかぁ!
大人しく従順でいればいいのになんか逆らって来たり、俺の逆風を利用して飛ぼうとしたり、やることが逐一癪に障るんですよぉ!」
「なるほど…、それが理由なのですね。」
北「そうですよぉ!」
「己の薄っぺらい感情のため「だけ」に、そのようなことをしたのですね?」
北「…。」
「…そなたに、罰を与えます。」
北「…。」
「北風を、我ユピテルの名の下において、「力」と「心」を没収します。」
北「い、いやだ…。それだけは、それだけは…!許してくださいっお母様!」
「北風よ。その段階はとうに過ぎたのです。」
北「嘘だ嘘だ!おかしい、おかしいよ。
悪口なんて俺様以外にも言う奴なんてたくさんいる!
いじわるだって、ちょっとほんのちょっと魔が差しただけだ!
俺様は悪くない…!悪くなぁー…。
あっ」
「あれから、少し時が経ちました。
北風は、もう北風ではありませんでした。
失った力と、廃れた傲慢さを嘆き、今日も文字通り地上を眺めています。
清らかな心が入っていた場所は、大きな空洞になっています。
ライト兄弟は、物理的な意味の北風も、精神的な意味での北風も、両方を利用して勇敢に飛翔しました。
ですが、それは全ての人間が真似出来るわけではありません。
あおられた樹木の枝のように、ぽっきりと折れてしまうことだってあるのです。
百年余りの間、彼は考え続けています。
自分は何がしたかったのだろう、どうであって欲しかったのだろう、と。
ですが、その結論は永久に出ません。
だってもう、彼に心は無いのですから。」
北「おっ、おっ、おかおかあさまっ。」
「どうしましたか?」
北「あれあれから私ははn反省しつつづけけけました。」
「そうですか。それは良いことですね。」
北「わたたわたしは、大変なな罪をおあか犯していたののですね。」
「そうですよ、気付けて偉いですね。」
北「だkだからお母様、私にもっと重いばば罰を与えてくだださい。」
「ほう、もっと重い罰? それはなんですか。」
北「わたしっしをこr、殺して下さい。」
僕は前方のまばゆい光をぼんやりと凝視しながら、そう懇願した。
数秒ほど黙った後、彼女は僕の肩に手を置いた。
「いいえ、あなたを殺したりはしませんよ。
あなたはここで、自身が犯した罪と向き合い続けるのです。」
同じ方を向いているのに、なぜか彼女と目が合った。
ユピテルの顔には、観た事のない笑みが煌々と浮かんでいる。
「ずぅっとね。」
その言葉だけに感じた歪な形の重量を、私は気付かないフリをした。