『きぼう』完成
大日本帝国は敗戦後本格的に宇宙開発を行うと決めた1963年に、本土の濃尾平野地域に大きなラインの組まれた『H系列』ロケット生産工場群を建設した。それ以後は拡大に次ぐ拡大を行い『第1次宇宙開発計画』策定時には、距離感を狂わせる程の巨大さを誇っていた。5万トンクラスの大型船が接岸できる港を近くに持った巨大なもので、そこではまるで大陸間弾道弾を作るかのようなスピードで大量のロケット建造を行った。さらには、特注の大型クレーンを装備した、専用運搬船も何隻か整備されていた。これを見た国外の友好国の同業者たちは一様に、いったい日本人達は何をそこまで急いで宇宙を目指すのか、全く疑問に思ったと言われるから、余程の規模とスピードだったのだろう。日本人にすれば単に経済原則に則っただけであり、一度坂道を転がりだしたら自分たちで制御できないぐらい規模が大きくなるのはいつもの事だったが、確かに急いでいるように見えるのは当然といえば当然なのだろう。なおこの様を対向国側の軍人の一部は、いつでも大陸間弾道弾を『量産』出来る体制を維持する事で、劣勢な正面弾道弾戦力を補完しようとしていると考えていると見ていた。だが日本人達は、そうした海外の目を全く無視するかのように、これらの工場を頂点とし、小は親父さん以下数名しかいない下町の小さな町工場から大は100万トンもの建造能力を誇る1000メートルドックを持つ巨大造船所までが、この新たな『産業』へ積極的に参加し、競争原理の働きから日本人の視点から見るなら実に大きな成果がこのときに得られる事になる。もちろん得られた事は政府のみならず各企業が投下した莫大な開発資金と基礎技術の広範な成長、経済原則に伴うコストの低下だ。
その工場がフル稼働し『H系列』最新鋭の『H-2Aロケット』を大量産し始めた。凄まじい状態であったが、5カ年計画で総重量500トンもの物資を地上から400キロメートルの宇宙空間に上げてしまわなければその存在価値を疑われるIAXAにしてみれば当然の行動であった。『第1次宇宙開発計画』を推進すると次々にロケットが建造されていきそれに搭載する衛星の開発も進んでいるので、もはや種子島宇宙センターだけでは限界であるのが顕になった。空軍に大泉総理から直々に協力命令が下され、硫黄島宇宙基地でも打ち上げが行われる事になったが、一日も早い新たな宇宙基地の開発が重要だと言う事も明白になった。だがそれでもスピードを落とすことなく、ロケットの打ち上げを次々と行った。最盛時には何と5日に1回のペースで『H-2Aロケット』の打ち上げが、種子島宇宙センターと硫黄島宇宙基地の合計15基ある発射台のうちのどれかで行われていた。大日本帝国はただひたすらに衛星軌道上のみを見つめ、そこに必要と思われるものを次々に送り込んだ。
そして2009年1月11日。大日本帝国政府は2日前に打ち上げられた『H-2Aロケット』が運搬した物体が、低高度軌道の衛星軌道上のとある幾何学的な構造物の一部となった時、大々的は報道を行った。 何とその報道は政府が設けた種子島宇宙センターの特設会場と、衛星軌道上のその奇妙な幾何学的な構造物の中からの二元中継が行われ、世界中の度肝を抜いた。当然、世界中に衛星放送で伝えられた。なお大日本帝国が建設した『軌道基地』、IAXAが国民投票で決定した愛称『きぼう』は総重量500トンに達し、最大長100メートルを越えるサッカー場よりも広い範囲に広がる巨体であり、もちろん衛星軌道にありながら人間が目視が可能なものの中で人類が生み出した最大の建造物だった。基地の主な動力は当初原子炉が予定されていたが、多数の人間が活動する場所で汚染の危険を犯すことはできないとして、結局大電力を生み出せるだけの太陽光発電を展開することで対応された。この為『きぼう』は見た目のかなりの部分をソーラーパネルが占めることになっていた。だがその中には常時6名、最大10名もの長期滞在が可能なだけの居住空間とそれだけの人間が実験を行うための施設が備えられていたのである。
軌道基地『きぼう』は2007年の中枢部4基の一気打ち上げとその接続による一部始動から約2年後の2009年に完全稼働を開始した。モジュール構造という利点を利用して陳腐化もしくは老朽化した区画の交換と、さらなる拡張が容易だという発展性も備えられていた。大日本帝国は自分たちの生活を犠牲にしないで国富拡大をしつつ宇宙にどれだけ投資し、その成果を得られるかを身をもって証明してみせたのだった。そしてこの『きぼう』完成をしてヨーロッパ連合の宇宙開発より数歩先を行くと、大泉総理は力強い言葉で言い切ったのだ。特設会場には亜細亜条約機構加盟国の首脳陣も招待されており、大日本帝国に付き従う事の正しさを再認識させる場になっていた。
それと対照的に苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていたのが、ヨーロッパ連合加盟国の首脳陣であった。わざわざ大泉総理はヨーロッパ連合も招待し、大日本帝国の優位性を見せ付けたのだ。この屈辱的な招待にヨーロッパ連合は更に一段と対抗していく事を決意させた。