IAXA設立
ヨーロッパ連合の試みを知った大泉総理は暫くは静観する事になった。まずは第5次国防力整備計画の完遂と、新領土のインフラ整備が急務であった。だがヨーロッパ連合の宇宙開発を放置するのは得策で無いのは分かり切っていた。そこで大泉総理は組織構造の改革から手を付ける事になった。大日本帝国の宇宙開発組織は、科学技術省下部機関の『特殊法人宇宙開発事業団』、『独立行政法人航空宇宙技術研究所』、文部省の『宇宙科学研究所』が存在した。国防省も空軍が偵察衛星を打ち上げる為にロケットを運用していたが、完全に軍用であり宇宙開発組織とは言えなかった。だが宇宙開発組織が3組織も並立しているのは、世界的に見ても異様であった。文部省の宇宙科学研究所は大学が中心となり純粋な学術目的であり、科学技術省下部機関の特殊法人宇宙開発事業団と独立行政法人航空宇宙技術研究所は国防省と協力しての宇宙開発を行っていた。これまではこの分立状態で良かったが次世代の優位性を確立する為には、宇宙開発の大規模化は優先事項であった。
そこで大泉総理は宇宙開発組織の統合を決定した。2003年4月1日『国立研究開発法人帝国宇宙航空研究開発機構法』を帝国議会に提出した。法案自体は新世紀日米戦争以前から構想を練られており、戦時中には法案は完成していた。法案は1ヶ月で審議され帝国議会で成立。2003年6月1日に国立研究開発法人帝国宇宙航空研究開発機構(Imperial Aerospace Exploration Agency、略称: IAXA)が設立された。設立されたIAXAに対して大泉総理は宇宙開発に於ける新しいロケット打ち上げ場所の試案を出すように命令した。現状大日本帝国は3ヶ所のロケット打ち上げ場が存在した。
かつての宇宙開発事業団と航空宇宙技術研究所が共同利用していた『種子島宇宙センター』、宇宙科学研究所が利用していた『内之浦宇宙空間観測所』、そして大日本帝国空軍の『硫黄島宇宙基地』である。何故3ヶ所もあるのに、新しいロケット打ち上げ場所を確保するのか。それはIAXA設立前のヒアリングでこのままのペースでいけば、現行の3ヶ所では能力の限界が訪れると聞いていたのだ。そこでIAXA設立により新しいロケット打ち上げ場所を確保する機会となったのである。命令を受けたIAXAは早速協議を開始した。そして1ヶ月後にIAXAが要求した基地の規模は、最終的(半世紀後)には最低5キロメートル四方、最大15キロメートル四方の安定した平面空間とそれに附随する工場など周辺区画と言う、途方もない数字だった。しかもそれは、建設場所によっては空港や港湾施設、商業地区、はては職員用のベッドタウンと歓楽街も用意しろと言う贅沢な要求だった。対テロ用部隊を含めた四軍の基地については言うまでもない。要するに、100万人都市に匹敵する土地とそれに付随する全ての物を要求していたのだ。
閣議に於いてその試案を聞いた閣僚達は一様に驚いた。宇宙事業はすでに国家事業であるから今更さまざまな理由から縮小などできないし、むしろ拡大すべきなのは分かり切っている。それに、そこで発生する経済波及効果と国富拡大には大いに期待し、政府側としても大いに後押ししたいところだった。だがそれだけの土地は、総人口1億6000万人が見え人口が飽和状態になりつつある日本列島のどこにもなかった。だから頭を抱えてしまったのだ。しかも彼らはその新たな場所が、可能な限り赤道に近いほうが良いとも言った。赤道に近ければ近いほどロケット打ち上げがしやすく、これは経済性を最重要に置く彼らにとって死活問題だったからだ。確かに大日本帝国はニューヨーク講和条約と太平洋島嶼国併合により西太平洋全域を領土として保持しており、海洋面積と言う点では世界最大であったがその島々の過半は珊瑚礁か火山島のなれの果ての小さな島ばかりで、とても巨大な宇宙基地を建設できる平面は存在しなかった。一時は、マリアナ諸島のサイパン島の南半分とサイパン島に隣接する平面の多いテニアン島を全て与えようかと言う話しにもなったが、アメリカ合衆国領土の時代からリゾート地として有名で海外旅行から国内旅行になった地を国民から取り上げる事など不可能に近かった。いや、不可能だった。それに、宇宙基地は先端技術の牙城であるだけに、国防という点も考慮しなくてはならない。となると誰でも気軽に訪れる事のできる観光地に帝国の未来の拠点を作るなど論外だった。それに併合したばかりでいきなりそのような事をすれば地元住民の反対は凄まじいものになってしまう。
そこで国土交通大臣が関西国際空港建設に行った方法を提案した。『浮体構造物方式』と呼ばれる工法、つまりコンクリートの堤防で囲った中に鋼鉄で組み上げられた人工の島を浮かべて、その上に巨大飛行場を建設してしまうというものだ。利点としては、埋め立て地に付き物の地盤沈下が全く存在しない事、そして何より埋め立てに比べて建設期間が非常に短くできる事が挙げられる。また、拡張も単なる構造物の集合体のため非常に容易で、これ程の巨体となると波の揺れによる問題も一部が非難した程の事はなかった。なお最後の点は、これだけの規模の構造物が揺れで使えないような状態なら、飛行機そのものがとうてい飛べる状態でない可能性が極めて高いという、ある種滑稽な理由もあった。更には大日本帝国と亜細亜を牽引していると自負している重厚長大産業企業体が、自らに大きな発注が来る事が確実なこの事業を大いに後押しし、計画は模型を使っての実験を入念に行ってから始動された。第一期工事においてすら、4000メートル級滑走路2本を含む、約4.3✕2.5キロメートルという途方もない人工物が建造された。しかも2005年までに規模がこの二倍以上に拡大される事が第一期工事完成時点ですでに決定しており、最終的には余剰空間を利用してコンテナヤードや港湾施設、商業施設も増設し、単なる空港島ではなく一つの複合商業区画を建設しようとしていた。その浮体構造物方式を大泉総理は採用し、IAXAに対して建設候補地の選定を行うように命令した。そして閣議は一応の終わりをみせた。
そうなると後は早かった。すぐにも建設できるようにとIAXAは予定地の物色を行った。候補地は、巨大な環礁の存在する赤道近在の島嶼。ついでに電波、電探施設を建設するためのそれなりの高地があれば言う事ナシと言う条件に合致する場所で、最終的には三つに絞りこまれた。マーシャル諸島にあるエニウェトク環礁、カロリン群島にあるパラオ諸島、そしてトラック環礁だ。そして、最終的には立地条件と国防上の観点からという何となく納得しやすい理由により、西太平洋のど真ん中に存在するトラック環礁に宇宙開発に携わる者たちの集う未来の梁山泊の建設が決定された。時に2003年8月の事だった。もちろん、ここに至るまでの道のりは平坦ではなかった。特に建設に伴い発生するあまりにも巨大な利権と関係各省庁の縄張り争いは、人間と人間が作り上げた官僚組織、政治組織の醜悪さを最大限に見せつけるような様相すら呈したが、計画の大元たるIAXAは断固たる決意を以て自らの新たな巣穴建設に邁進していたし、それを後押しするグループが大日本帝国そして世界的にも最大級の企業集団だった事から、一部の人間の醜悪な行動を後に喜劇として語らせてしまうものとした。また、比較的簡単に勝負が付いた理由は、『浮体構造物方式』の最大の対抗馬の『埋め立て方式』を後押しすべき土建屋集団が、1950年代ならともかく2000年代には時代の趨勢からか相応の規模に縮小しており、世界の巨大構造物建造シェアの4割を牛耳ると共に発言権が拡大し続けていた、大日本帝国巨大構造物建造集団には対抗できないという物理的な理由があったからだ。
トラック諸島への宇宙基地建設は第5次国防力整備計画の完成後に開始される事になった。