講和会議以後の2002年
2002年新世紀日米戦争は終結した。約8500万人もの被害者を出した戦争は、アメリカ合衆国の覇権を徹底的に破壊した。東西冷戦に勝利し世界唯一の超大国となったアメリカ合衆国は、自らの力を過信し過ぎて理不尽極まりない理由で大日本帝国に戦争を仕掛けた。だが結果は見るも無惨な大敗北であった。講和会議の結果、合衆国領有小離島と言われたアメリカ合衆国本土以外の海外領土を全て失った。そしてロッキー山脈以西の州は完全にアメリカ合衆国から分離独立し、アメリカ西岸連邦となった。それら領土は権利・権限及び請求権を放棄する事になり、アメリカ合衆国の東西分断は確定された。その後アメリカ合衆国侵攻作戦を行った大日本帝国陸軍を中心とする亜細亜条約機構軍は、アメリカ合衆国から撤収を開始した。大日本帝国国内ではかつての占領に対する報復として、アメリカ合衆国の占領統治を行うべきだとの声もあった。だが大泉総理はそれを財政負担が大き過ぎ時代錯誤だと、現実的な理由で断固として拒否した。感情的な行動よりも現実的判断をするべきだとも言い切った。
アメリカ西岸連邦では戦争終結により、統治体制を整える為に選挙が行われた。大統領選挙は戦争中にアメリカ合衆国の核攻撃後に擁立されたオーストリア移民の元ボディビルダーの映画俳優が、圧倒的な得票率でアメリカ西岸連邦初代大統領に就任した。就任演説で初代大統領は亜細亜条約機構加盟国として、大日本帝国との友好関係を最優先にすると明言した。アメリカ合衆国との東西分断についても触れ、ロッキー山脈以西は完全なる独立国家だと断言した。その力強い演説は数々の主演映画で演じてきた役に重ねられ、特に主演作で人類とアンドロイドの戦いを描いた映画から核戦争が起きた日である『審判の日』を引用し、アメリカ合衆国を痛烈に批判したのがアメリカ西岸連邦国民に称賛を受けた。その為に審判の日というフレーズは、アメリカ西岸連邦で一躍大流行となった。
そして初代大統領は大日本帝国に協力を要請し、アメリカ西岸連邦軍の設立を推し進める事になった。軍の下地には合衆国の州時代に存在した、州兵であった。この州兵をアメリカ西岸連邦軍の陸軍と空軍に昇格させた。そして大規模な募集を行い、陸海空軍を編成する事になった。
アメリカ西岸連邦が実質的に大日本帝国の影響下に入った事で大日本帝国は、ソフトウェア市場で世界シェアを獲得する事になった。『TRON』と呼ばれるオープンソース型のOSである。
時は1980年代。大日本帝国は東京通信工業株式会社が開発した自社製品のパソコン『VAIO』にオープンソース型のOS『TRON』を搭載し発売した。大日本帝国国内のみならず亜細亜市場を席巻し、ヨーロッパやアメリカ合衆国にも進出していた。これに焦ったアメリカ合衆国が、貿易問題や政治問題にまでして巻き返しを図ろうとして大日本帝国が強く反発。『OS戦争』もしくは『パソコン戦争』と呼ばれる競争が勃発した。この時点で日米は戦争に突き進む運命であったとする識者も少なくない。『OS戦争』でのアメリカ合衆国側の尖兵はMicrosoft社の『Windows』であった。だがアメリカ製のパソコンは売れなかった。市場原理的にわざわざ海外製のパソコンを導入する大日本帝国の企業は存在せず、亜細亜諸国も心情的にアメリカ製を忌避していた。それでもアメリカ合衆国は大日本帝国に対して強引な貿易交渉を開始。他の貿易品目を盾にして、強引に受け入れさせようとした。しかも交渉では、貿易、商業以外の純粋な外交や国防、さらには先端軍事産業の供与などにまで話しを広げていったので、尚更大日本帝国の反発は強まった。
しかしアメリカ合衆国も大日本帝国が核保有国でアメリカ以外で原子力空母など多種多様な兵器を保有し、亜細亜世界の自由主義陣営の防衛を担っている以上、軍事面で強く言いすぎることはできなかった。時代はまだ冷戦中なので、ソ連と直に向き合っている大日本帝国に対して強く言う事が難しかった。この為アメリカは大日本帝国に対して決定打に欠けていた。大日本帝国もアメリカ合衆国の横暴に腹を立てつつも、ねばり強く交渉を重ねた。そして何にせよアメリカ合衆国製OSを、大日本帝国の市場が求めているわけではないので売れる道理が無かった。これはアメリカ合衆国製の車が大日本帝国で売れなくなったことと似ている。時代の進展に伴い、アメリカ合衆国のスタンダードが世界のスタンダードではなくなっていたのだ。しかも、アメリカ合衆国が言い立てた頃には既に大日本帝国では教育現場などに『TRON』の普及を進めたりしていたので、尚更アメリカ合衆国の強引な言い分を受け入れるワケにもいかなかった。だがアメリカ合衆国の態度はいっそう硬化し大日本帝国も同じように態度を強めた。そしてアメリカ合衆国は大日本帝国の閉鎖的市場を強く非難し、貿易の不公正を言い立てて『スーパー301条」と』いう貿易に関する対外制裁をちらつかせる。
これは到底同盟国に対して行う事では無かった。既にソ連の退勢が明らかなのでできた事だが、アメリカ合衆国の強欲さに流石の大日本帝国も呆れてしまう。そこで大日本帝国は、完全な自由競争である事を絶対条件に、互いのOS市場を開放することを提案する。この場合の「互い」とはアメリカ合衆国も同じ条件で市場を解放することが条件だった。そして自由貿易であるなら、アメリカ合衆国が不用意に拒否すれば最低でも二重基準になってしまう条件でもあった。これをアメリカ合衆国は大日本帝国の市場をこじ開けるために受け入れざるを得なかった。そして取りあえずではあるが大日本帝国の市場に参入していったが、アメリカ合衆国にとって結果は思わしくなかった。『TRON』と『Windows』は最初から正面衝突した。そして91年に参入したところで、1985年から大日本帝国だけでなく亜細亜地域を中心に世界中に広まっていたオープンソース型汎用OSの牙城の大日本帝国で太刀打ちできるわけが無かった。しかもそこに、電子ゲームという思わぬ伏兵がアメリカ合衆国に追い打ちをかける。その存在をアメリカ合衆国が明確に意識したのは、湾岸戦争での携帯型ゲーム機だった。兵士達の娯楽物の一つとして、世界中で買い漁られた携帯ゲーム機はアメリカ合衆国製ではなく大日本帝国任天堂製だった。当時は大日本帝国製しかなかったからだ。その頃はインターネットもないし、コンピュータ機器とは競合する事は無かったが、1994年に東京通信工業株式会社が高性能の家庭用ゲーム機を出す頃になると状況が変化し始める。そしてその頃にOSは次なる競争の時代、というより本格的な競争時代を迎えるのだが、そこでもアメリカ合衆国は出遅れた。『TRON』を搭載した東京通信工業株式会社の基幹PC『VAIO』は、マイクロソフト社が『Windows95』を出す頃にはすでに世界の個人用パソコン市場を席巻していた。しかも『TRON』は、オープンソースなのを利用して、家庭用パソコン以外で広く使われるようになっていた。その上、早くも急速に小型軽量化されていった携帯電話に使われるようになっていた。大日本帝国では携帯端末が活発に開発され、世界の市場を覆い尽くしていった。それでもアメリカ合衆国が発明したインターネット技術、IBMなどの企業力によって『Windows』の普及は一定程度進んだが、少なくとも亜細亜圏の市場を奪うことは出来なかった。逆にアメリカ合衆国市場の3分の1程度は、大日本帝国製に染められてしまっていたほどだ。旧東側陣営にも、オープンソースタイプつまりパテント料無料という点もあり『TRON』が先に広まった。欧州など他の地域でも、アメリカ合衆国企業優位とは言えなかった。結果として、世界市場の60%近くを大日本帝国のパソコンが占めたことになった。そしてその状態で新世紀日米戦争が勃発。パソコン戦争を戦ったマイクロソフトはワシントン州にあるが、大日本帝国によるアメリカ合衆国本土空襲で物理的に壊滅させられていた。その為にソフトウェア市場は大日本帝国の圧倒的な世界シェアとなった。僅かにカリフォルニア州にあるApple社のOSが追随するばかりであった。
大日本帝国はアメリカ合衆国を崩壊させると同時に、世界市場でコンピューター市場をほぼ独占する事になった。更には電子ゲーム市場では大日本帝国の企業である任天堂と東京通信工業株式会社の独壇場となり、その2社が販売するゲーム機が世界標準のゲーム機となった。