亜細亜条約機構海軍集結
亜細亜条約機構軍の侵攻は、大日本帝国海軍連合艦隊機動打撃群を中心とした海軍の全面的支援により順調に進展していた。
『久し振りの海軍の集結であった。2048年11月3日に行われたアラビア海海戦以来の亜細亜条約機構海軍の集結である。アラビア海海戦は大日本帝国海軍連合艦隊機動打撃群の完勝に終わったが、その直後にヨーロッパ合衆国海軍機動部隊の攻撃型原子力潜水艦アルプス級による雷撃によりタイ海軍と大韓民国海軍合同編成の機動打撃群が全滅したのだ。その他の亜細亜条約機構海軍も雷撃による損傷を受け、アラビア海海戦に勝利したのに関わらず亜細亜条約機構海軍は一路インドにまで撤退する事になったのである。結果大日本帝国海軍連合艦隊機動打撃群は補給整備の為に2週間、亜細亜条約機構海軍は修理の為に半年間は、それぞれ行動不能になったのだ。その後イラン戦線への支援を行う為にインド洋に展開していた大日本帝国海軍連合艦隊機動打撃群であったが、ヨーロッパ合衆国海軍攻撃型原子力潜水艦による通商破壊戦への対応の為に太平洋へと引き揚げた。シーレーン防衛を成し遂げた後もイラン戦線での膠着状態を受けて海軍連合艦隊は各鎮守府に留まり続け、インドで修理を行っていた亜細亜条約機構海軍も全艦が航行可能になるとそれぞれの母国に帰り、修理の仕上げを行う事になった。
整備や修理を終えた亜細亜条約機構海軍であったが戦争そのものが両陣営の予備兵力不足による不思議な状態での停戦により、各国の母港に留まり続けた。訓練や戦意高揚の為の観艦式を行ったが、それだけに留まった。だが2049年7月20日に大日本帝国の方針によるイラン戦線からの反攻作戦により、亜細亜条約機構海軍は久し振りにインド洋にまで進出する事になったのである。大日本帝国海軍連合艦隊機動打撃群は保有する15個全てが出撃しており、ロシア連邦海軍太平洋艦隊は5個機動打撃群・中華連邦海軍は5個機動打撃群・アメリカ西岸連邦海軍は3個機動打撃群・インド海軍は3個機動打撃群、30個機動打撃群がインド洋に集結したのである。
反攻作戦のタイミングを見計らっていたが、2049年8月2日午前8時28分にヨーロッパ合衆国が先手を打ってロシア戦線への全面侵攻を開始した。予想外の事態によりロシア戦線は押され続け、戦線は大幅に後退した。事態打開の為に大日本帝国叶総理はイラン戦線での全面攻勢を命令した。これを受けてインド洋に展開していた亜細亜条約機構海軍はイラン戦線への攻撃位置に進出したのであった。』
広瀬直美著
『新世紀最終戦争』より一部抜粋