揺さぶり
2049年2月3日。レジスタンス蜂起の対処に手詰まりながらも懸命に対応していたヨーロッパ合衆国に対して、更なる難題が降り掛かった。
『ブレグジット(Brexit)初期にはイギリスを表す形容詞[British]と退出を意味する[exit]の混成語で、イギリスのヨーロッパ合衆国離脱を指す用語となる。そんなブレグジットがスローガンとして用いられ、2049年2月3日にヨーロッパ合衆国イギリス州州都ロンドンにて大規模なデモが行われた。デモ参加者はイギリス王室がヨーロッパ合衆国に不当に扱われているとして、イギリスのヨーロッパ合衆国離脱を声高に叫んだ。当初は数百人規模であったデモも、マスコミの生中継やSNSによる拡散で瞬く間に参加者が拡大。最終的には1万人を超える規模にまで発展した。離脱運動のリーダーは、これは始まりに過ぎないと断言しヨーロッパ合衆国を離脱する事を目指して、一致団結して運動を行おうと力強く宣言したのである。
驚いたのはシャーロット大統領以下ヨーロッパ合衆国政府である。大日本帝国を筆頭とする世界と第三次世界大戦を繰り広げている最中に、国内から騒乱の芽が吹き出たのだ。これは著しい妨害活動であり、国家の結束を乱す内乱だとシャーロット大統領は断言した。中東アフリカ地域でのレジスタンス蜂起に続き、イギリス州でも問題が発生したとあってはヨーロッパ合衆国政府としては大騒ぎになった。内乱だと断言したシャーロット大統領は、警察により厳しくデモを取り締まるように命令しイギリスの州政府と州警察にその取り組みを実行するように命令が下された。
だが大日本帝国I3の工作員による手は州政府と州警察にも及んでおり、取り締まりを実行しようにも巧妙な妨害工作により阻止された。全ては2049年2月3日の離脱運動開始に併せて周到な準備をしていた賜物であった。大日本帝国の方針により資金提供も豊富に行われており、離脱運動の拡大と継続は容易であった。しかも大日本帝国が用意周到なのは自らが地球統一政府をヨーロッパ合衆国に成り代わり行うとした為に、ヨーロッパ合衆国からの[離脱]を目標に運動を展開させ[イギリス連合王国の復活]を目標としていなかった点であった。
ここにヨーロッパ合衆国はロシア戦線とイラン戦線のみならず、中東アフリカ地域のレジスタンス蜂起とイギリス州の離脱運動という難問を抱える事になったのである。』
広瀬直美著
『新世紀最終戦争』より一部抜粋