冬の死闘
大日本帝国陸軍の展開する防衛線兼地雷原を突破しながら走り込んで来たのは、斥候として派遣していた機械化歩兵師団の兵士であった。時に2049年1月15日午前10時28分の出来事である。現地にはたまたま視察に訪れていた大日本帝国陸軍ロシア派遣部隊総司令官がおり、その目の前で事態は繰り広げられたのであった。しかも従軍取材を行っているノンフィクション作家も鉢合わせていたのである。
防衛線兼地雷原という縦深を確保された地帯を、1人の兵士が走り抜ける事態は滅多に見る事が出来ない事であった。だがそれだけ切羽詰まった状態であるのが見て取れた。兵士は左腕を押さえていたが、明らかに折れていたのである。何とか走り込んで来た兵士を、ヨーロッパ合衆国側からの銃撃が襲って来た。総司令官は周辺の兵士に反撃を命令し、防衛線兼地雷原を突破しようとする兵士を支援する事にした。総司令官の命令により3式歩兵戦闘車は40ミリレーザーガトリングガンによる攻撃を開始し、兵士達は42式自動小銃を撃ち始めた。総司令官も自ら44式自動拳銃による射撃を行った。そのおかげもあり何とか兵士は防衛線兼地雷原を駆け抜ける事が出来たが、その兵士は総司令官の命令により派遣された斥候であった。息も絶え絶えである兵士は、待ち伏せされ他の仲間は全滅した事を伝えた。
総司令官は自ら兵士に肩を貸すと3式歩兵戦闘車に乗り込ませた。腕だけの負傷かと思いきや身体にも銃撃を受けており、出血が激しかった。何とか後送させたが、ヨーロッパ合衆国側の攻撃は激しくなる一方であった。事態を重く見た総司令官は更なる増援を命令し、反撃を行わせた。副官達は事態の大きさにより司令部に戻り、戦況を把握する事を進言し総司令官もそれを受け入れた為に、総司令官一行は司令部に戻る事にしたのである。
『私は司令部に総司令官と一緒に戻って来たが、事態は急激に悪化していた。増援派遣はヨーロッパ合衆国も行った為に、戦いは更に激しくなるばかりであったのである。しかも悪い報告は続き必死になって防衛線兼地雷原を駆け抜けた兵士は、医療措置も虚しく死亡したとの事であった。この結果ただただ膠着状態にあった戦線に、過熱させる効果を齎しただけであり敵情報告や待ち伏せされた状況について聞く事が、全く出来なくなってしまった。その報告は総司令官には悪過ぎる報告であった。だが過ぎた事を悔やんでも仕方無い。総司令官は何にせよ現状に対応する必要があったのである。
前線では今や45式戦車のみならず、44式自走185ミリ超電磁砲・4式185ミリ機動砲・43式自走多連装ロケット砲・46式戦闘ティルトジェットまで展開し、双方が激しい砲火を交わしていた。総司令官は空軍にも出撃を要請し、何とかして前線突破を食い止めようとしていた。総司令官の要請により空軍は45式ステルス戦闘攻撃機閃光を出撃させヨーロッパ合衆国陸軍に激しい空爆を行ったが、ヨーロッパ合衆国空軍もステルス戦闘攻撃機ミッドガルドを投入して激しい空戦に発展した。
事態の深刻さに総司令官はこれが大日本帝国陸軍の展開している前線だけの事なのか、担当士官に確認するように命令した。担当士官は斥候の兵士が理由で戦闘に発展したのだから、自軍の前線だけに決まっていると思ったが命令は命令である。即座に確認する事にした。
すると担当士官の予想に反して各国の前線に於いて攻撃が行われているとの事であったのである。それを聞いた総司令官は斥候の兵士の逃走から始まった攻撃は、ただの切っ掛けに過ぎないと判断した。そしてロシア戦線全体に対する攻撃という事なら、総力を挙げた迎撃が必要として全てのロシア派遣陸軍を総司令官は投入する事にしたのである。
私もそれしか手段は無いと思ったが、その命令を総司令官が下し終えたタイミングで新たな報告が司令部に舞い込んだ。ヨーロッパ合衆国陸軍が防衛線兼地雷原に対して攻撃を開始し、突破戦を仕掛けてきたのであった。』
広瀬直美著
『新世紀最終戦争』より一部抜粋