雪中の睨み合い
2049年1月15日。厳しい冬に見舞われたロシア戦線は、膠着状態に陥っていた。何せ尋常では無い雪に加えて、湖さえも凍り付く寒さであったからである。だが地理的な当事国であるロシア連邦陸軍にとっては、今になって行動し易くなるとの事であった。それは雪も降り積もり寒さで柔らかくなる事無く、戦車も走り回れる強度になっているからである。これはアラスカを領有するアメリカ西岸連邦陸軍と、中華民国東北部とチベットのヒマラヤ周辺のそれぞれの厳しい冬を知る中華連邦、ヒマラヤに面する厳しい冬を知るインドはロシア連邦陸軍の意見に同意していた。
確かにマイナス数十度に達する極寒では機械の負担が増大し各種兵器の故障が頻発していたが、それら全ては秋の長雨と春の雪解けに比べると段違いに楽だと言っていたのである。それはその時期になると大地が辺り一面泥濘となるからである。そうなると装輪車輛は当然ながら履帯まで泥濘に纏わりつかれ、走行するのがとても厳しくなり最悪の場合には走行さえ不可能になってしまうからだ。そうなるともはや歩くしか無くなり作戦遂行の難易度は飛躍的に高まってしまう。その為に極寒の冬こそ逆に行動し易くなるのであった。
ロシア戦線に展開する陸軍で唯一大日本帝国陸軍がある意味で呆気にとられていた。大日本帝国国内も北海道や東北地方等の地域で豪雪による災害派遣は陸軍としても行っていたが、その規模は桁違いであった。ロシア戦線に派遣された大日本帝国陸軍は180個師団と現役兵力のほぼ全力という事もあり、北海道や東北地方配備師団や災害派遣を経験する師団ばかりであった。だがそれらの経験を遥かに上回るのがロシア戦線での冬だったのである。
もちろん大日本帝国は亜細亜条約機構の盟主である為に、あらゆる気候での作戦展開を想定して演習を行っていた。それは年に1回の亜細亜条約機構合同軍事演習とは別に、各国に軍を派遣して行っていたのである。その為に大日本帝国陸軍という組織としてはあらゆる気候での作戦展開が可能な体制と装備を有しており、だからこそ亜細亜条約機構で唯一ロシア戦線とイラン戦線で展開する事も可能だったのだ。
『アラビア海海戦終結後暫くは海軍の取材を行い、一時帰国して資料を整理した私は再びロシア戦線に取材に訪れていた。大日本帝国陸軍総軍総司令官は久し振りの再会を喜んでくれた。私も久し振りの再会であり嬉しかったが、なんと言っても陸軍が展開する地点が拠点として整備されていたのに驚いた。その整備された拠点は本国の陸軍基地に迫る規模にまで安定した能力を有していたのである。その驚きように総司令官も、なかなか壮観ですよねと語ってくれた。そして総司令官は自ら私をヨーロッパ合衆国軍と対峙する最前線に案内してくれた。
少し移動した最前線では大量の兵力が展開していた。そして展開する部隊の先には十分な縦深を確保された防衛線兼地雷原が構築されていたのである。いつの時代でも対人対戦車地雷は役に立ちます、と総司令官は語っていた。それに私は地雷も無力化される恐れは無いのですか、と尋ねた。すると総司令官は、無力化する手間がかかるのが重要なんですと教えてくれた。
地雷原があると無闇矢鱈と進撃する事が叶わず、それを無力化する為に地雷原への攻撃や処理を行う必要が有り、その手間をかける事で相手に隙を作らす事になる、そう説明してくれたのである。その後総司令官は雪上での地雷埋設作業を直々に教えてくれた。雪上での地雷埋設作業は非常に独特であった。まず雪原に浅い穴を掘ると、底に厚く丈夫な板を敷く。その上に地雷を置いて雪を被せるのだがこの時も薄い板を置いてから、適度に雪を被せるように注意しないといけなかった。
まず底に丈夫な板を敷くのは、地雷が自重で雪に沈み込むのを防ぐ為である。必要以上に地雷が自重で雪に沈み込むと、周囲の雪が固まりその後に凍結するとコンクリート並みの強度になってしまい、地雷の信管が作動しない場合があるのだ。更に地雷の上に薄い板を置くのも、周囲の雪が被さり凍結し信管が作動せず、不発になるのを防ぐ為の措置であった。
このように独特な作業を雪上での地雷埋設作業では行わないといけなくなると、総司令官は教えてくれたのである。そしてその成果は目の前に広がる十分な縦深を確保された防衛線兼地雷原として現れていた。その場に於いて説明を受けていた私は、ふと視界の端に何かしら人影が動いたのに気付いた。立ち位置的に私の視界だけにしか入っていなかった事から、私が視線を向けると総司令官や副官達も視線を防衛線兼地雷原に向けた。すると明らかに人影がこちらに走ってくるのが確認出来たのである。
そして2049年1月15日午前10時28分、そこからが騒動の幕開けであった。』
広瀬直美著
『新世紀最終戦争』より一部抜粋