突破戦
2048年11月6日。ヨーロッパ合衆国軍によるイラン戦線突破戦が開始された。
それは絶妙なタイミングであった。航空撃滅戦が行われていたイラン戦線だが、常に行われていた訳では無い。お互いに修理や整備の為に一時的に中断していたのである。無人遠隔操縦機である為に航空撃滅戦では、機体の喪失はあってもパイロットが死亡する事が無いのが、唯一の救いとも言えた。
亜細亜条約機構軍は僅かな時間を使って、機体の整備を行っていたのである。当然ながらヨーロッパ合衆国軍も同じ事をしている、そういう判断であった。しかもタイミング悪くイラン戦線の主力となる大日本帝国の空軍が展開のローテーションで、一時的に後方に下がっていたのが大きかった。もちろん大日本帝国も前線での空白を最小限にする為に、24時間以内に別の空軍部隊を展開させる予定であった。だがヨーロッパ合衆国軍はその絶妙なタイミングを突いて、イラン戦線突破戦を仕掛けて来たのである。
突破戦はヨーロッパ合衆国軍の弾道ミサイル攻撃から始まった。アラビア海海戦の前に行われた会戦で甚大な被害を受けた亜細亜条約機構軍は、未だに各国の陸軍部隊の増援を派遣出来ていなかった。予備役招集は行っていたが、戦力化に時間が必要であったのである。その増援も急いでおり今月中旬には各国共に、派遣の目処が付く状況であった。この為にヨーロッパ合衆国は二重の意味で、絶妙なタイミングであったのだ。
突如として降り注ぐ弾道ミサイルはヨーロッパ合衆国がトルコ州に派遣した、車載型の短距離弾道ミサイルであった。巧妙に隠蔽された陣地に展開させた為に、偵察衛星網をくぐり抜けていた。そこから奇襲的に発射され、イラン戦線に大量に降り注ぐ事になったのである。
攻撃を受けた亜細亜条約機構軍は対応に追われた。まさかの事態であった。お互いに空軍の動きが低調になっており、暫くは小康状態が続くと思われた矢先の攻撃だったのである。これには対応するのがやや遅れた。被害の実態を把握しようとしている間に、ヨーロッパ合衆国陸軍による突撃が開始された。
亜細亜条約機構軍は35個師団しか残存しておらず、人造人間師団150個と機械化歩兵師団・機甲師団100個の合計250個師団で侵攻して来たヨーロッパ合衆国陸軍に対して、圧倒的に劣勢であった。攻撃開始から僅か1時間でイラン戦線の防衛線の要である、ハマダーンが陥落する事態となってしまった。これは亜細亜条約機構軍にとっては、大きな痛手であった。
ハマダーンが陥落すれば前線の後退は避けられなかったからである。だが現状の兵力では圧倒的に劣勢であり、何をどうしようとも覆す事は難しかった。そこで亜細亜条約機構軍のイラン戦線司令官であった、イラン陸軍参謀総長は一気に首都テヘラン近郊へ退却する事を決断した。
それは即座に全軍に伝えられ、退却は速やかに実行される事になった。この時に司令官であるイラン陸軍参謀総長は首都テヘランの最高指導者に対して、首都の一時的放棄も伝達していたのである。
『その時私はインドの海軍基地で、与えられた一室で休んでいた。大日本帝国海軍連合艦隊機動打撃群は、VLSをほぼ撃ち尽くし超電磁砲も残弾僅かであった。その為に補給と整備の為にインドの海軍基地に入港していたのである。
そこでイージス原子力戦艦大和から降り、久し振りに地上で休む事が出来た。だがその休みもヨーロッパ合衆国による攻撃で、御破算となってしまった。
私の部屋にはイージス原子力戦艦大和に居た時と同じ士官が起こしに来てくれた。かなり慌てた様子で起こしに来た士官は、司令官がお待ちですと言うと私を連れて移動を始めた。
移動先は海軍基地に隣接するインド海軍司令部であった。現状インド海軍司令部には亜細亜条約機構海軍の首脳陣が詰め寄り、情報収集に当たっていた。その中でヨーロッパ合衆国軍によるイラン戦線への突破戦は、即座に知る事になった。
この為に海軍司令部は対応に追われた。だがだからといって何か出来る訳では無かった。大日本帝国海軍連合艦隊機動打撃群は補給と整備中、亜細亜条約機構海軍は修理中、海軍としては全く行動不能であったのである。海軍司令部に到着した私を、司令官は出迎えてくれた。
司令官は開口一番に「大変な事になりました。これはどうしようもありません。」と語った。それは偽りの無い表現であった。そして一緒に管制センターに向かうと、情報の波に襲われたのである。ヨーロッパ合衆国軍の侵攻は大規模であり、とてもでは無いが抑えきれる物では無かった。支援攻撃を行っていたが海軍が撤収したタイミングで増援を派遣し、この日に備えていたのである。
そして情報の整理を行っている所へ、首都テヘラン近郊への退却を行うという情報がもたらされた。』
広瀬直美著
『新世紀最終戦争』より一部抜粋