“聖女”、処刑される!!
「聖女さまは今日もお美しいな? ナルヴ」
同僚にそういわれ、最年少の神殿騎士、ナルヴは微笑んだ。
ふたりの視線の先には、正殿へ向かって歩く“聖女”の姿がある。聖女は昂然と顔を上げ、僧達に囲まれて歩いていた。
ナルヴは頷く。「あのように美しいかたは、ほかにいらっしゃらないよ」
聖都。それが、ナルヴが居る場所だ。
聖帝教の本山で、聖地。聖帝教の認める聖女に統治権のある、平和で温和な都市である。
と、いうことになっているが、それは欺瞞だとナルヴは知っている。
聖帝教とは、“聖帝”という神――というか、人間がそう考えている上位の存在――を第一とし、その言葉に従って生きることを教義にした宗教だ。
聖帝は聖女にのみ言葉を授け、聖女はその言葉を実行しないといけない、ということになっている。
あたらしい神殿を建てろ、とか、どこそこへ視察へ行け、誰を大僧正へ任命しろ、という、単純で罪のないものから、どこそこの土地が聖帝の意にかなわないから軍を派遣しろ、という人間にとってはそれなりに物騒なものまで、聖女は日々、正殿で聖帝の言葉をうけとっている。
日々、一番聖女がよく聴く言葉は、「殺せ」だ。
聖都には聖帝教を国教としている国から、大きな罪を犯した人間が送られてくる。聖女はその罪の重さを聖帝にはかり、聖帝が死刑判決を出せば即座に執行する。
聖女というのは、死刑執行が日々の仕事なのだ。
“聖女”ニヴェン。
バルファ帝国皇帝の長女だが、王女の称号は戴いていない。皇帝が身分の低い女性に生ませた娘である為、彼女ははじめ見向きもされなかった。
だが十歳の頃、聖帝と親和性があることがわかった。
それは、めったにある能力ではない。高貴で魔法の力を持つ人間に多い、とされている。
ほんの少し、聖帝の力を借りるだけでも、人間にとっては凄いことなのに、ニヴェンは聖帝の声を聴き、その力を――自在に、とまではいかないが――ある程度自由につかうことができた。
皇帝は娘を聖女としてさしだせという聖都の要請に従って、ニヴェンを聖都へ送り、聖帝教が国教であるバルファ帝国内で人気を不動のものにした。
娘が聖女である皇帝だ。聖帝教を妄信しているバルファ帝国の人間にとってみれば、それは素晴らしい皇帝である証なのだ。
ニヴェンが聖女にされたのは不幸だが、嬉しくもある、とナルヴは思っている。もし彼女が聖都へ来なければ、俺は彼女を知らなかったかもしれない、と。
ニヴェンが聖女として聖都へ護送されている時、偶然、彼は彼女を見た。
うねった黒い髪を、聖帝につかえる女性らしく肩口で切り、まっすぐ前を向いた顔に表情はない。肌が浅黒いのは帝国の人間らしいな、とナルヴはその時思った。ニヴェンは体の線の出ない簡素な黒の衣装に身を包んでいたが、それがかえって彼女の美しさを際立たせていた。
ナルヴは彼女に恋をしたのだ。
その晩、ナルヴは神殿騎士や僧の目をかいくぐり、ニヴェンの寝所へ忍びこんだ。まだ八歳なのに、彼女をさらうつもりだった。そしてそれくらいの芸当は、彼ならたいしたものではない。昔も、今も。
ニヴェンは窓を開け、星空を眺められるようにして、寝台へ横たわっていた。ナルヴが這入ってきたことは気配で気付いたのか、ゆっくりとナルヴへ顔を向け、静かな声でいった。わたしを殺しに来たの、と。
バルファ帝国は急進的で、好戦的だ。周囲の国々をのみこんで拡大してきた。焦土にされた国は数知れず、断絶した王家も多い。恨みを持っている人間は掃いて捨てる程居る。
そして、聖帝教は、ほかの宗教に対して弾圧を繰り返していた。ほかの宗教だけではなく、聖帝教のいち派閥を潰す為に、三年以上にわたって戦争が行われたこともある。
ニヴェンはバルファ皇帝の娘で、聖帝教の定める聖女だ。そのどちらか、或いはどちらにも恨みを持った人間が、彼女を傷付けてもおかしくない。
ナルヴはそれらに気付いて、頭を振り、さらいにきたといった。たすけてあげる、と。
ニヴェンは、いらない、と答えた。
聖女になれば、聖都で毎日死刑執行しないといけないことも、恨まれることもわかっている。それでも、聖女にならないといけない理由が、彼女にはあった。
ナルヴは彼女を説得しようとしたが、さすがのナルヴでも人の心を簡単にかえさせることはできなかった。結局、交渉は決裂した。
だがニヴェンは、自分のことに親身になってくれて嬉しいともいった。
それで、ナルヴの心は決まった。彼女をまもる為に、神殿騎士になろう。彼女が聖女を辞められるその日まで、傍でまもろう。彼はそんなふうに、単純で、愛すべき人物なのだ。
翌日、ナルヴはニヴェンを護送している僧正に頼み込み、荷物持ちの従僕としてついていくことをゆるされた。
それから数年の月日をかけ、最年少の神殿騎士になったナルヴは、ニヴェンが自分を見たのに気付いて微笑んだ。ニヴェンもかすかに笑みをうかべる。
僧達の目を盗んで、ナルヴとニヴェンはひそかに会い、愛を育んできた。聖女を辞められたら、一緒にナルヴの国へ行こうと約束もしている。
ニヴェンの在位期間は今までの聖女よりもずっと長くなっていたが、聖帝は彼女を聖女の座から降ろそうとしない。彼女が聖帝との親和性を高く保ち続けているからだ。そして、バルファ皇帝の娘という立場を背負わされた彼女がまったく従順で、扱いやすいから。
ナルヴはそのことを考えると、気分が悪くなる。心のなかで聖帝に文句をいい、毒づいていた。本当なら、彼女は聖帝の力をつかって今すぐにだって逃げ出せるのに、父や妹のことを思ってそれをしない。
母親の出自をとやかくいわれ、王女の称号すら未だにもらっていないニヴェンが、どうして毎日したくもないことをさせられないといけないのだろう? 世のなかは彼女にばかりつらいようだ。
ニヴェンが目を逸らすと、ナルヴは微笑みを消した。神殿騎士の槍がいつもより重いように感じている。こんなものなんでもない筈なのに。
ニヴェンは聖女として、勤勉に働いている。今日も死刑を執行した。正殿で聖帝の言葉をうけとると、その足で処刑場へ向かい、名簿から罪人を選んでつれてこさせ、命を奪ったのだ。
聖都の民衆はそれに神々しさを感じている。聖帝の言葉に従う聖女というのは、彼らにとっては美しいものであるらしい。しかし、ナルヴはそうは思わない。ニヴェンが聖女として働く時、なにを考えているかがわかる。
彼女はなにも考えていないのだ。考えればつらくなるから、心をからっぽにしている。心をさかしまにして振り、中身をすべてこぼしてから死刑執行に臨んでいる。
「明日は、神罰執行を見られるといいな」
同僚がのんきにそういった。ニヴェンの死刑執行は、聖帝のお言葉に従ったものである為、神罰執行といわれる。
ナルヴは溜め息を吐いてから、ごまかした。
「ああ、たまには拝見したいものだな」
ニヴェンの在位の長さや、聖女に相応しい神秘と奇跡の数々、そして美しさは、民衆にひろく知れ渡っている。普通、聖女は二年もすればその座を降りるのだが、ニヴェンはもう七年も聖女をしているのだ。ナルヴもにヴェンもそれがどうしてかはわかっているが、かといってどうしようもない。
彼女は神話上の人物のように語られ、あがめられた。死ぬまでずっと聖女であり続けるのではないかとさえいわれている。
きっとそんなことは起こらないと、ナルヴは知っていた。ニヴェンの妹のアーサ王女が、そんなことをゆるさないだろうから。アーサは婚約者のワスラスと結婚したいだろう。どうして聖女の任を解かれないのか、バルファ帝国の帝都で不思議に思い、じりじりしているのではないだろうか。
「ニヴェン?」
そっと、呼びかけながら、ナルヴはその場所へ這入っていった。
ニヴェンが振り返る。かたく凍り付いたような表情が解れ、微笑みにかわった。それも、民衆へ向ける完璧な微笑みではなくて、眉尻がさがる彼女らしい可愛い微笑みだ。
「ナルヴ、来てくれたの……」
ニヴェンはそういって、ナルヴの腕をとった。ナルヴはにっこりして、ニヴェンを片腕で抱き寄せる。「模様替えした?」
「ちょっとね」
ニヴェンはいたずらっぽく笑い、夜空を示した。
「あなたが来てくれた晩みたいな、空にしたの」
「ああ、こんなふうだったっけ」
「彼はご機嫌よ」
「それは素晴らしい」
ナルヴは皮肉っぽくいい、恋人のこめかみへ口付けた。こんなことをしても、ナルヴに神罰がくだることはない。そんなことは起こらないというのも、彼は知っている。起こる訳がない。
その場所は、ニヴェンが「つくった」ものだ。
彼女は聖帝との親和性が高く、その力を引き出せる。だから、なにもないところからあたらしいものをつくることくらいは簡単にできる。
その場所は、ナルヴと隠れて会う為につくられた。ニヴェンとナルヴしか這入れない空間だ。
そこは、ニヴェンの好みでいろいろな形をとった。正殿のような時もあれば、なんでもない野原のようなときもあるし、星空に浮いているような時もある。聖都の大神殿から出られないニヴェンは、ナルヴに助けられてそれらの形を創造した。
「アーサが、そろそろ結婚したいんですって」
「ああ」
「聖都へ来てくれるそうなの……」
ニヴェンの声には、喜びがにじんでいる。ナルヴは恋人の肩に腕をまわし、抱き寄せる。「よかったな」
「ええ、本当に」
ニヴェンは潤んだ目で、遠くを見ていた。「あの子、病はよくなったのかしら。彼が尽力してくれているけれど、こんなに時間がかかるのだもの、きっととても悪い病なのよね……」
ナルヴは黙っていた。
「おい」
神殿騎士に与えられている僧坊へ這入ると、ナルヴは低く、脅しつけるような声を出した。
「聴こえているんだろう、聖帝。どうしてアーサが病だなんて嘘を?」
嘘だ、とナルヴは思っているらしいが、嘘ではない。
ニヴェンの妹、アーサは、重い病なのだ。聖帝の力でもどうしようもない。
聖帝は、身体的な不調ならば奇跡によってたちまち癒すことができる。だが、アーサの病はそういうものではない。彼女の心自体が腐りきっていて、聖帝が何度奇跡を起こそうとしても無駄だったのだ。
だが、ニヴェンとの約束はまもっている。ニヴェンがおとなしく聖女をしている限り、アーサはぎりぎりのところで踏みとどまる。ニヴェンが聖女の資格を失っても、アーサへの恩恵は与え続ける。
ナルヴはむっつりと不満そうだったが、鼻を鳴らし、寝台へとびのった。「お前達の存在は不愉快だ」
その恩恵に浴しているのに?
ナルヴはそのまま眠った。人間には眠りがどうしても必要だから。
「ニヴェン! 元気そうね」
アーサは騒々しい女だ。
聖女用の邸に、ナルヴの手引きでこっそりと這入りこんだアーサは、居間をとっくりと眺めた。ニヴェンはナルヴの腕を掴んで微笑んでいる。よく似た妹と会うことができて、嬉しいのだ。
実際のところ、彼女達はよく似ていた。アーサのほうが幾らか小柄で、色が少し白いが、身長の差は靴でごまかせる。ふたり並べば差は明らかだが、ひとりひとり見れば、親しい人間でもなければ違いはわからないだろう。そして、聖女というのは、僧や騎士と個人的な関係を結ぶことは普通ない。
アーサは微笑んで立っているナルヴに目を遣り、にっこりした。
「ああ、ニヴェンの恋人ね。聖帝が報せてくださったわ。あなたに騎士の恋人ができたと」
「ええ、アーサ。でも勿論、隠れての付き合いよ。心配要らないわ」
「あなたがやることを心配していないわ。あなたって不気味なくらいに抜け目ないんですもの」
言葉にはちくちくとした棘があるが、ニヴェンはそれを無視することにしたようだった。微笑んで答えない。ナルヴは完璧な微笑みを維持しているが、それは意思のたまものだった。
アーサは行儀悪く、長椅子にぼんと座ると、脚を組んだ。また、室内を見る。「ふうん。そんなに悪い暮らしでもないのね。わたしが来てもよかったわ」
アーサとニヴェンは隣り合って座り、相談をはじめた。ナルヴは戸口に立って、ふたりの会話が誰にも邪魔されないように警戒している。アーサは騒々しく、声が大きいので、ナルヴはそれにいらいらしていた。
「明日でいいのよね?」
「ええ。そうなるの」
「もう死刑の執行はないんでしょ?」
「彼が、明日になったらわたしの退位を伝えるって。書簡がひらかれることになっているのだけれど、それに退位を記してくれているそうよ」
アーサはにっこり笑った。ニヴェンとはまったく違う笑いかただ。ナルヴはぞっとしたらしい。
「よかったわ。今までお疲れさま、ニヴェン」
「お前の妹はいやなやつだ」
アーサがニヴェンの寝室へゆき、ニヴェンとナルヴはいつもの場所でふたりになっていた。
ニヴェンは困ったみたいに微笑んでいる。その心は、ナルヴにはわからない。
ナルヴはニヴェンを抱き寄せて、口付けた。
「どうしてお前が聖女なんてやっている?」
「ナルヴ、いったでしょう。バルファ帝国の為なの」
バルファ帝国がアースィファ帝国へ攻め入った時、甚大な被害が出た。
アースィファにではない。バルファにだ。皇帝はアースィファの軍事力を舐めていた。女帝が治めているアースィファには、怪物があまり出ない。ほかの地域に比べれば微々たる被害だ。新女帝が魔境を浄化したという噂も届いていた。
バルファはその秘密を知りたかったし、怪物との戦いになれていないのなら軍はたいした強さではないとたかをくくっていた。それが敗因だ。
バルファはアースィファの端を少し攻撃しただけで、逃げ帰った。バルファ帝国軍は半壊し、無様に敗走したのだ。
そのことで、皇帝の権威は一時、地に落ちた。それを回復するには、国教である聖帝教の力をかりるしかなかった。
そして、皇帝の娘のふたりともに、聖帝との親和性があった。
人間は物事の一面しか見ることができない。それはまったく不幸なことなのだろう。
皇帝は愚かにも、アースィファの女帝が聖帝教でいうところの聖女に相当する親和性を持っていて、聖帝の力を扱って国を治めていることを知らないし、そんなことを考えもしなかった。
皇帝は娘達を手許に置いて、聖帝の力を盗むすべを学ばせるべきだったのだ。そうすれば、バルファ帝国はもっと拡大していただろう。
翌日、聖女の正殿参りに、騎士としてナルヴは同行した。
正殿前には時期聖女候補の娘達が並んでいて、聖女にはなびらをふりかける。「聖女、アーサさま、お越しになりました」
聖女の黒いドレスに身を包んだアーサは、昂然と顎を上げて正殿へ這入った。
皇帝は娘に、聖女になるように命じた。勿論、次女のアーサにだ。聖女になるのは、王女の称号を戴いているアーサのほうが相応しい。
だが、聖都へ出発する直前に、アーサは病に倒れた。それで、アーサにそっくりで聖帝との親和性もあるニヴェンが、アーサの身代わりになった。
彼女はこの七年、アーサとして聖女の仕事をこなしてきた。
一方のアーサは、帝都に残り、うまく姉に聖女の使命を押し付けられたことに喜んでいた。罪人といえ、死刑を執行する役目なんて、彼女はしたくなかったのだ。それで、わざと毒をのんで、病のふりをした。それで、ニヴェンがアーサのふりをし続けた。
昨日、アーサはニヴェンとして、聖都にやってきたのだ。
アーサは正殿から出てくると、書庫に保管されているある書簡のをひらくように命じた。書庫には幾つもの書簡や書物があり、そこにはお告げが書いてある。
僧が書簡を持ってきてひらき、そこには聖女アーサの任を解くとあった。にわかに、場が慌ただしくなる。
「ああ、疲れた」
「お疲れさま」
アーサがだらしなく寝台に寝そべり、ニヴェンがその足をもんでいる。アーサは寝返りを打った。
「ニヴェン?」
「なあに、アーサ」
「あなたはわたしの姉よね」
「ええ」
ニヴェンの声に戸惑いがにじむ。
アーサは上体を起こし、脚を寝台から出してぶらつかせた。
「あなたはわたしの為なら、なんでもしてくれるのよね」
「ええ……」
ニヴェンは立ち上がり、妹を見詰めた。自分によく似ている顔を。
アーサはにっこり、満足そうに笑った。
「そ。じゃあ、悪いんだけど、死んでくれないかしら。わたしが本当は聖女をやっていなかったって露見したら、帝国の為にならないじゃない?」
ニヴェンはあおざめた。
ニヴェンは隠れていた。周囲では、神殿騎士達が慌ただしく走りまわっている。アーサの甲高い声が響く。
「ニヴェンがわたしを殺そうとしたわ! 聖女を退位したわたしなら聖帝さまのご加護がないと思って! あの反逆者をとらえなさい! 殺しなさい!」
ニヴェンは震え、なにも考えられないでいた。心が乱れ、はねまわっている。「ニヴェン」
はっと顔を上げるニヴェンに、ナルヴは笑みかけた。
ナルヴはニヴェンの手を掴み、彼女を立たせた。
「ナルヴ」
「ニヴェン、少し目を瞑っていて」
ナルヴはそういって、ニヴェンを抱えた。ニヴェンは目を閉じる。すぐに、彼女は眠りについた。
ナルヴはひとつ、呼吸して、いう。
「力をかりるぞ」
僕の領域へ彼が介入してくるのがわかった。
ニヴェンが目を覚ました時、彼女は聖都から遠く離れたところに居た。
僕が彼女に干渉しようとしても、うまくいかない。観察は今までのようにできるけれど、こちらから話しかけることはできなかった。
干渉が楽な場所というものがこの世界には幾つかあって、そこから離れれば、ナルヴくらい親和性が高い人間でないと、こちらからの干渉がうまくできなくなってしまうのだ。あちらからは、かなり簡単にアクセスできるらしいから、それは不公平だと思う。
聖帝のひとりである僕はだから、まったく、不満だった。
もし、ニヴェンに今までどおりに干渉できたら、ナルヴがやったことを子細余さず見せてあげられた。
ナルヴは聖都を破壊したのだ。
ナルヴはニヴェンを避難させ、僕の力をつかって聖都の人間達を聖都から出した。それは、避難というよりも、目撃者をつくる為の工作だ。
ナルヴはニヴェンを利用するだけ利用して殺そうとしたアーサも、皇帝も、ゆるすつもりはなかった。
彼は聖帝の力をつかって、聖都を燃やし、隕石を降らせ、洪水でおしながすというむちゃくちゃなことをやった。それだけ聖帝の力をつかってもけろりとしているのだから、まったくおそろしい。ずっと、聖帝にならないかといっているのに、彼はそんなこときかないし。
とにかく聖都は跡形もなくなった。それは僕達も困ることだけれど、人間にとっては一大事だった。だって、聖帝の守護する都市なのだ。お告げの書かれた書簡もなくなってしまったし、聖帝教を信じている人間達の喪失感はとんでもないものだ。
結局は、ナルヴの思惑どおりに事が運んだ。聖女は退位が正式には宣言されていなかったし、次の聖女も決まっていない。聖帝教の考えだと、聖帝の力をここまでつかえるのは認定された聖女のみ。
ということは、これはアーサの仕業だ。
人間達はそう思った。聖女を辞めさせられたアーサが聖都をむちゃくちゃにしようとしたから、聖帝が自分達をまもる為に、奇跡を起こして逃がしてくれたのだとさえ考えた。
今、バルファは大変なことになっている。王女が聖都を破壊したのだ。その上、アーサの許嫁だったいとこのワスラスが、反乱予備の疑いで捕まった。それも、ナルヴが手をまわしたんだけれど。
バルファ皇帝には娘を庇うすべはなく、ついでにそんなつもりはみじんもなくて、自分と無関係だという主張で手一杯だ。それで結局、アーサは処刑された。
僕達聖帝はナルヴに脅されているから、それを奇跡で助けるような真似はしなかった。
人間達の歴史の流れにくちばしをつっこむつもりは、そもそもない。聖帝……僕らはただ、彼らが彼らの法に則って死刑に値するかを訊いてくるから答えていたし、彼らが力をかしてほしいというからかしてきた。それをどう利用するかは、人間達の裁量に任せていた。
だから、ナルヴが邪魔するなというならしない。それに彼は、僕らに報復できるくらい親和性が高い。
今、ふたりは手をつないで、山道を歩いている。少しだけ干渉しやすいポイントに来たけれど、聖帝はニヴェンへ干渉しようとはしない。そんなことをしたら、ナルヴがなにをするかわからない。
人間との窓口役をしていて、人間をよく知っている僕だって、ナルヴが報復しようとしたらどんなことだってやってのけるだろうとわかっているから、下手なことはしない。できない。しようとすら考えていない。
ニヴェンは多分、これからもずっと、妹が処刑されたことは知らないだろう。聖都が破壊されたことさえ知らずにすごすかもしれない。
「ナルヴ、あなたのお国は、まだ?」
「もうそろそろだよ」
ナルヴが示したのは魔境だ。魔境やその近くで生まれ育った人間は、聖帝の力を無意識に行使できる。ナルヴみたいに親和性が高いと、意識的につかうことさえできる。
ナルヴはにっこりした。彼は七年前、ほんの少しの好奇心から、普通の人間の国がどのようなものか見るために、魔境から出てきたのだ。そこには、魔境の外の人間は知らないことだが、きちんとした国家が存在している。
ニヴェンが崖の下を覗きこんで、微笑んだ。そこには森がひろがり、人間の姿はない。
だが聖帝と親和性の高いニヴェンには、別の姿が見えている。聖帝の力をつかって巧妙に隠された、豊かで美しい土地と、少数だが聡明で頑強な人々の気配とを、彼女は感じていた。
「いいところみたい」
「気にいってもらえてよかったよ」
顔を上げたニヴェンを、ナルヴはまぶしそうに目を細めて見た。
「ねえニヴェン、君のように美しいひとは、ほかに居ないよ」