第五声「お断りします」
振り上げられた手甲の鉤爪。その重量と鋭さに加え男の腕力の総計値であれば少年ほどの体躯を数度は貫くことも難しくはない。並の男性よりも直線的で、無駄のない攻撃動作。体幹部を、重要臓器ごと抉り出すのはサウズの得意技でもあった。屈強な戦士であれば止めるも、逸らすもできよう一撃。
子供じみた、それこそ幼王女がどうにかできる威力でも速度でも間合いでもない。 にもかかわらず、サウズの鉤爪は届かなかった。
若枝のような細腕が手にした銀扇の先端が、重厚な殺意を完全に相殺せしめている。
「は、はぁぁぁぁぁぁぁっ!? なんで、なんで止めれるんだよぉぉぉっ!? ってか、なんで薬が効いて……」
「先ずはそこをどいてくださいな」
銀扇で鉤爪を巻き込んで腕ごと捻るだけで、男は容易に外側の重心を崩されて転倒を強いられた。場数を踏んだ暗殺者でもあるサウズは難なく受け身をとり体勢を起したが、王女を凝視したまま動けないでいた。
「っしょと」両脚を振り下ろす反動で寝台を飛び下り、ルインネイスは立ち上がる。ディアレが盛った睡眠剤の効果は欠片も残っていないことは明白。
「わたくしを疎んじる方は少なくありませんので、本来ならばこのままお帰り頂いても構わないのですが」
氷の鈴音。冷たく彩のない言葉が紡がれる。
「わたくしの大切な侍女を傷つけたあなたには、少しだけお仕置きが必要ですわね」極寒の微笑とともに、王女は愛らしく首をかしげた。
「お仕置きだと? はは、やってみせろよ幼王女! ちんちくりんのクソガキになにができるって!?」
「では、参りますわ。ごめんあそばせ」
裸足の王女が床を駆けた。雪山を跳躍するクロジカが跳ぶように俊敏で軽やかだ。見た目からは想像できないほど疾い。
「はっ、そんだけだよなぁぁぁっ!」
しかし、サウズの動体視力の前ではただ速いというだけの娘だ。直線的な突進しかしない相手など、寝むっていても捌き切ることができる。
自身の間合いに入った瞬間に片脚軸回転で王女の背後を取り、得物を豪速で突き出した。 王女は軽やかに跳躍するが、男の戦闘センスは軽々と追いすがる。狙いがどこであっても、少し撫でるだけで相手行動不能にできる。
「逝けやぁぁぁぁ幼王女!」
「お断りします」
空中で身を捩ったルインネイスは閉じられたままの銀扇を再度鉤爪の間に差し込み、難なく一回転着地を決める。王女の軽い体重でも、体の先端に負荷がかかれば力の方向は大きくずれる。男は再び得物ごと体を横転させることに成った。
「お立ち下さいな。アサンを害したあなたにはもっと罰を受けて頂かないと困りますので」
「いいぜいいぜ幼王女! なんだよなんだよ全然できんじゃねぇの! 了承だ! 本気で行くわ! 久々に楽しくなりそうだぜ!」
サウズは手甲を締める金具を外して、羽織っていた外套を放り投げた。得物を装着していた右腕がやや外側を向いているのは、王女が科した痛痒であろうが気にも留めていない。
「あなたの本領が丸腰でも、わたくしは銀扇を手離しませんわよ?」
「構わねぇぜ。オレはこっちのほうが百倍は殺り易いってもんだ!」
男の動きが両方の拳を器用に扱う闘い方に切り替わる。変幻自在に伸縮する左腕に、縦横無尽に歪曲する右腕。時折混入される強力無比な直線軌道が大きく風を切る。脚さばきも独特で、小さく跳ねながら接近と後退を瞬時に使い分けていた。
拳を避けるのだけでも王女は手一杯。得物にて逸らすこともできず、顔と肩、腹部に数発とおまけに範囲の長い蹴りで大きく壁まで飛ばされ背部を強打した。
「なかなかにお見事な拳闘技ですね。輿入れ前の娘の顔をこうも殴打するなど。また叔父様に嫌味を言われてしまいますね」
「オレは男女平等主義でね。つか思ったより遥かに頑丈だな幼王女、なに食ってりゃそんなに硬くなるんだよ?」
「さあ、どうでしょうか? デザートに頂いた焼き林檎の効能かもしれませんね」
「はははっ、減らず口まで叩けるか! 気に入ったぜ! すぐに焼きリンゴみたいな顔にしてやるから泣いて悦びな!」
「折角ですが遠慮いたします。わたくし、焼き林檎よりも柑橘の方が好物ですので!」
後方を壁に遮られ、前方には豪速の拳打の嵐。
ルインネイスは銀扇を利き手側の右に持ち替えた。
閉じられていた扇が開く。アイセンブルグを表わす三つの氷柱と大楯、そして守護者である氷竜が克明に刻まれている。
サウズは銀扇を向ける王女を一瞬警戒したが、拳の方が速いことを確信して一撃を繰り出す。狙いは頭部。必中にして必殺。当たれば潰れた柑橘の完成だ。
ゆらり。王女が扇で男を仰ぐような動作をしたが何も起こらなかった。
故に、これで楽しい時間は終わりなのだ。
「今度こそ本当にサヨナラだっ、楽しかったぜ幼王女さまぁぁぁっ!!」
突進の勢いも相まって、顔面を壁に埋めるように男は倒れ伏した。
「ですから、さようならはあなたの方ですわ」