第三声「アサン大好きよ。心から」
甘酸っぱさが充満する。
上品な陶器のカップの白に夕焼けじみた赤がよく映えていた。カップを揺らすたびに、芳香が拡がり、ルインネイスの口内はよだれが満ちる。
「アサンの淹れた紅茶、本当に美味しい」
「このくらいは誰でもできますよ」
「わたくしにはできないわ。飲む食べるの専門なのだから」
ころころと表情を変える王女の本心を窺うことはできない。
殺気にも似た威圧感もすっかりと霧散している。意味じくもフリザニス大公が口にした「龍に魅入られ産まれし忌子」という比喩がどこかしっくりくる。
「さっきのこと気にしてくれているの?」
心でも読まれたのかと動転するも、アサンは小さく「はい」と呟き
「大公様は……なんと申しますか」
「まあ厳しいお方ね。頑固で融通も利かない。芯が通っているというのかしら?」
「叔父上様とはいえ、随分と辛辣でしたね」
「わたくしもまだまだね。煽り耐性も結構あるほうなのだけれど、叔父様にはいつもやられっぱなし。いつか泣かせてやりたいわね」
生真面目が人の形をしたフリザニスが泣いている姿など想像もできないが、ルインネイスが言葉にすると実現するように思うのが不思議であり、侍女にはどこか心地良さを覚える。
アサンは感情を殺し、袖の内側の小瓶を意識する。
どれだけ夢想しようとも、王女の想いが仮に本心であったとしても、アサンに許された道はひとつしかない。
「でも泣かせるのは叶いそうにないわね。黄金の円環が明けるまで、あと」
「半日ほどです」捩子巻式の懐中時計を読みあげた。
「まったく清浄協会のお偉いさまも面倒なしきたりを考えてくれたものね。黄金の円環の日にはずっと起きていないといけないなんて」
「姫様は信じておられないのですか? 黄金の円環は凶兆、聖龍フラウバルクリムの加護が一時的に失われて、大陸東端から多くの魔物が押し寄せてくると」
「信じてないわ。別にわたくしは聖龍信仰者ではないもの。国教としてあるからそれなりの敬意は払うけれど、正直ついていけないわね。ばあやを見ればわかるでしょう? もっと古い時代の教えであればいざ知らず、今の教義なんか恣意的に歪められ過ぎてもう言葉ではないわ」
フラウバルクリムも不憫よね―――友人の悩みを聴いたような口ぶりで王女は溜息をつく。
「世界広しと言えどもフラウバルクリム様をそのように仰られるのは、きっと姫様だけです」
「どうかしらね。西の皇帝様というのも案外懐疑的ではないかしらね。あとはデモナリア王国もね」
「デモナリア……大陸東端の魔物の国であれば、創造主たるフラウバルクリム様を信仰しているとは思えませんね」
「そう! そこなのよアサン!」
腰かけていた寝台の縁から突然立ち上がると王女は目を輝かせた。
「今のアサンの言葉がすでに矛盾しているの! 清浄協会の教えでは万物はフラウバル……フラバルが創造したということに成っているわ。創世記ではフラバルがその力のほとんどを使って悪鬼魔物を大陸東端に封印したとある。ではなぜ、フラバルは魔物たちを創造したの?」
「それは……確か魔物たちは地上に溢れた毒から生まれ出たと」
「では、その毒はどこから来たの?」
「驕った人間たちの負の感情が澱となって意思を宿したんだと記憶しております」
「そう! では、その驕った人間たちを創造したのは誰?」
「それは……」
「フラウバルクリム当人よ。とういうか当龍ね。アサンならわたくしが言いたいこと、わかるでしょう?」
僅かに間隙を置いて「人間も魔物も共にフラウバルクリム様が創造されたと」
蒼い眼が爛々と星を宿す。王女が悪戯をする時の顔つきだ。
「それは深読みをし過ぎではないのでしょうか? 創世記が事実だとして、遥か大古の真実なんてわたしたちには知りようもありません」
「協会の方々は知りようもない遥か大古の出来事を、さも昨夜の晩餐会の出来事のように語っておられるわ。まるで見てきたようにね。彼らの言が真実ならば、わたくしの妄想も真理ではなくて?」
アサンは考えたこともなかった。
幼き頃より、聖龍信仰と魔物の存在を疑うことなく受け入れてきた。疑問の余地などなかった。魔物は聖龍に封印されて、東の端から出てこれない。屈強な肉体に鋭い牙と爪。邪悪なる心。歩くたびに腐敗の毒を撒き散らす。
数年に一度訪れる『黄金の円環』に際してのみ、魔物は封印を解かれて跳梁跋扈する。
「アサンは魔物を見たことがある?」
頭を振った。寝物語に聞かされた姿形を勝手に想像して、眠れなかった夜は多々あるも、実際に目の当たりにしたことはない。
「少し見方を変えるだけで、世界は面白いことでいっぱいでしょう?」
王女はけらけらと笑い、お茶のお代わりをとカップを渡す。
「黄金の円環なんてただの不定期な現象よ。アイセンブルグの吹雪の方がよっぽどの脅威。昼間なのに暗くなるのは、月が太陽を覆い隠してしまうから。金色の輪が浮かぶのは、月の影からはみ出た太陽の輪郭ね。太陽が隠れたくらいで解ける封印しかできないなら創造主なんて肩書は今すぐに没収ね。解任解任」
「ロイマー様がお話を聞かれたら」
「三年くらい寝込んでしまうかもね。そうなったらわたくしがきっちり看病するわ。ばあやの傾倒具合は煩わしいけど、嫌いではないし家族だと思っているわ」
暖炉で沸かした湯をティーポットに注ぐ。乾燥した茶葉の準備を行いながらアサンは小瓶の中身をポット垂らした。
「アサンもそうよ。大事な友人であり大切な家族の一人よ。幼女趣向のムキムキ王子に嫁いでも一緒にいてくれるんでしょう?」
「勿論です。わたしはルインネイス様の……従者ですから」
「ちぇ。守りが固いのね」
王女はパタンと床の絨毯へ大の字に倒れると、足をばたつかせた。
「わたくしはいつでも、どんなことがあってもアサンを助けるわ。命に代えてもね」
「勿体ないお言葉です」
震えそうな声音を殺す。
指先に伝わる動揺を殺す。
乱れた呼吸を殺す。胸の内の早鐘を殺す。
閉じそうな瞼の動きを殺す。表情の弛緩を殺す。
情にほだされる思考を殺す。
王女との記憶を殺す。
温かい思い出を殺す。
初めてできた無二の友人への想いを殺す。
―――わたしは姫様を―――
「ん。美味しい」
手渡されたカップ。無警戒に中身を呷る王女。白い陶器に映えるはまるで血の赤色。
「アサン大好きよ。心から」
王女の脚は力を失った。
糸が切れた傀儡人形。
アサンは熱い茶を被ることも厭わずに、姫を抱き留める。
ただカップとソーサーが割れる音を出したくなかっただけ。
それだけのことだ。