第二声「謝って済む問題ではない」
幼い頃の記憶が流れくる。
生まれ育った砂漠の集落から貴族の屋敷に連れられた十数人の小さな子供たち。アサンもその内の一人。文字の読み書き、言葉。上流階級を相手にする際の礼儀作法。一般教養に必要とされる特異な知識を次から次に。肉体の基礎訓練に護身や間諜の技術。その過程には男を悦ばすことも。寝る時間などない。最低限の食事で生きれるように訓練された。それを強いられたのだ。
さもなければ命の綱で定められた家族の誰かが命を落とすのだ。
共に連れてこられた誰かが些細な失敗をした。すると別の誰かの家族が酷い目に遭った。切り落とされた指や足を目の当たりにしたときに、そこは救いなどない奈落の底に変わる。
温かさも温もりも忘れて、数人だけが完成される。
アサンもその中にいた。
感情は喪失し、表情は彩をなくす。
十歳を前にして、涙などすべて涸れてしまった。
「あなたの黒い目と髪はとっても素敵ね。わたくしは大好きだわ!」
極寒の小国にて同い年の姫に仕えることになったアサンに王女は親友にでも再会したように迎え入れた。
あどけない顔立ち。一片の邪気も感じられないことに苛立ちを覚える。なのに氷の眼で見つめられると全身が強張った。酷いことをしてきた貴族たちのような威嚇や侮蔑とも違う。
アイセンブルグ王族特有の蒼い瞳はとても濃く、強く深く、飲み込むような、包み込むような慈愛と威厳と畏怖を感じさせた。
アサンはすぐに察した。この同い年の白い王女に仕えながら、弱みなりを握ること。もしくは王女自身を害することになるのだと。
※
「大丈夫? 少しは落ち着いた?」
侍女は頷いてから「ここの所あまり熟睡できていませんでした」と謝意を告げて距離を取る。初めは抱きつかれていたはずなのに、いつしかアサンの方が王女の薄い胸に抱かれていた。幼子のように頭を撫でられてむせび泣いていたことを思い出さぬように無表情を作るも、目は赤い。
「全然いいのよ。普段はアサンに助けてもらってばかりですもの。たまにはお姉様っぽいこともしてみたいわ」
「お姉さんですか?」
「そうよお姉様! 感情が溢れて止まらない妹を胸に抱きなぐさめるお姉様って素敵ではなくて」
御年十五歳。平均よりもやや低いアサンよりもさらに小さな王女は膨らみすらない胸を反らした。侍女は鼻で笑いそうになるのを堪えながら「そうですね」と同意だけしておく。
「なんだか間が変ではなかった?」
「とんでもございません」侍女は踊りそうな心を抑えて淡々と口にしたが、王女はむぅーっと頬を膨らませた。
「少し故郷の家族を思い出して感傷的になっておりました」
「そうね。ご家族と会えないのは悲しいものね」
「はい……いいえ、今のわたしはルインネイス様にお仕えする身です。不足などあろうはずがありません」
「本当に嘘つきね」
見透かすような蒼い眼がわずかに緩む。幼子然とした王女はそこにない。慈母のような落ち着いた雰囲気で優しく侍女を包み込んでいた。
「どうにもならないことがあれば言ってね。わたくし、アサンの為だったら不可能なことなんてないのだから!」慈母は形を潜めて、悪戯好きな王女の表情に戻る。
白磁の指が侍女の髪を撫でた。
「お止め下さい」との言葉を侍女の喉は紡げない。一瞬でも長く、この感覚を味わっていたかった。
「姫さ……」
アサンが声を上げることができた時に、不意に戸が強く叩かれる。
侍女は零れそうな感情を押し込んで、無表情を浮かべた。
※
「ルインネイス入るぞ!」部屋主の許しを聞くことなく扉は開かれる。雪狼の毛皮をあしらった外套を纏った壮年男性が無遠慮に入室して、王女を見下ろしていた。男性の眼もまた蒼い。
「あら叔父様。どうされましたか? このような時間にうら若い姪の部屋を訪れるなんて。もしもわたくしがアサンと情事に耽っていたらどうなさるおつもりだったのでしょうね」
王女は猫のように眼を細めると、鼠でも弄ぶようにドレスの端を摘み上げた。
「フリザニス大公様」アサンも膝をついて臣下の礼をとる。男性は侍女を一瞥しただけだ。すぐに慇懃な態度の姪王女を睨み付ける。
「ルインネイス。其方、宝物庫より大楯を持ち出して王宮のいたるところを破壊してまわったこと、どう申し開きをするつもりだ?」
「どう、と申されましても。すでにやってしまったことではないですか? 申し開きなどしなくても各所にしっかりと謝ってまわりますが、それがなにか?」
「それがなにかだと!?」
「ええ」王女はけろりと応じる。
「貴重な財源を無駄に浪費するなど、この小国の国庫を疲弊させるつもりか」
「そんなつもりはありません。大切な国民の血税を無駄にするなど毛頭ありませんわ」冷笑に近しい微笑を浮かべる王女にアサンは鼓動が早まるが、叔父である大公には通じない。
「わたくし最期の思い出作りをしたかったのです」
「なんだと?」
「ご存知でしょう? わたくしが十五を迎えた後は、彼の南の国へと嫁ぐことになることを。だって叔父様がご用意くださった政略結婚なのですからね」
「王女など国の発展のために使われる外交手段に過ぎぬ。我がアイセンブルグの恒久的な発展と安全保障が得られるのなら其方とて本望であろう」
「勿論ですわ。我が国の民の為になるのならば、こんな幼少な身とて喜んで売り払いましょう。例えお相手が二十歳も年上の殿方だとても」
「王族の娘に選り好みをする自由などあろうはずがない」
「存じ上げております」
「ならばわかるであろう。あとは粛々と輿入れを待てばよい。我が国が出せる商品に傷をつけて、婚儀が破たんになればどう責任をとるつもりだ?」
「責任責任と、叔父様は責任の鑑ですね。謝ればよろしいではありませんか?」
「謝って済む問題ではない」
「交渉次第ですわ。わたくしであれば上手く収めて見せますけど」
「兄王にも王妃にも似ぬ自信家よの、ルインネイス」
「案外、叔父様に似ていますわね。あら、もしかして母上と間違いでも起こっていたのでしょうか?」クスクスと声を上げる王女の態度を見ても、大公は冷えた表情を崩さない。
「不遜な娘だな。龍に魅入られ産まれた忌子よ」
「別に忌まれていると感じたことはありません。それに清浄協会の予言などわたくしにはなんの関係もありません。乳母のロイマーが嬉々として触れ回っているだけです。ばあやは徹頭徹尾、聖龍信仰に傾倒されていますからね」
「儂にとってはロイマーと其方の差異こそ些末。薄気味悪いことに変わりない。なにが勇者の母たる聖なる者であるか」
「ですから、わたくしが申し上げているわけではありません」
「薄気味の悪い娘だ。東の端におる彼奴らとさえ同類ではないか」
「それこそ失礼なお話ですね。わたくしも叔父様も大陸東端の方々との交流はほぼ皆無でしょう? よく知りもしないお相手を貶めるような言動は、その方の器が知れますわね」
「……ほぅ」壮年の大公は眉根を寄せる。
小さな王女も冷たい微笑を崩さない。
二対の蒼眼の交錯を前に、アサンは眩暈すら覚えていた。
「世を知らぬ小娘が……よいか、これだけは断言しておく。いくら其方がアイセンブルグの政に介入し、多大な成果を上げようとも、民からの信を得ようとも、其方のしておることは害悪でしかない。遠くない将来においてこの国を滅ぼす類の浅知恵に過ぎんのだ」
「なんですか? 税を下げ、民に恩恵を返すことのどこが間違いだというのですか? 民がより豊かに、より幸せに過ごす社会を作ることが王族の務めでありましょう!?」
「そんなこともわからぬから其方はいずれ国を滅ぼすというのだ。兄王を賢君とは呼べぬが、そなたの思想は暗君よりも尚悪い。西の帝国の暴虐と同じものよ」
「わたくしのどこがっ!」
「身に害がないのならこれ以上の問答は不要だ。其方のような破壊者に構っている猶予など儂にはない」
言い捨てて大公は踵を返し、大股で王女の私室を後にする。
「叔父様、お逃げになるのですか! お話はまだ終わっておりません!」
「よいか、アイセンブルグ元首の兄王のに代わり命じる。其方はすでに南のフィアーガルドへの貢物。輿入れまではなにもせず静かにしていることだな」
蒼眼を鋭く吊り上げて、王女は大公を追いかける。
王女の呼び止めに大公はもう耳を貸さない。
「黄金の円環か。聖龍教団の妄言など信じる気にもなれぬが、東の彼奴らが其方をかどわかしに来るというのならば、それも一興よの」
「叔父様っ!!」
「ルインネイスよ、アイセンブルグにもう其方は不要なのだ」
王女を、そして侍女をきつく睨み付けると大公はもう振り向かない。付き人が扉を強く閉じる。気勢をそがれた王女は扉を何度か叩くに留まった 。
「姫様?」恐る恐るアサンが声をかける。
数秒間の沈黙。そして大きな深呼吸。
「喉が渇いたわ。お茶を淹れてくれる?」
無邪気な笑みを浮かべる小さな王女がそこにいた。