第零話その2「苦悩のアサン~強い情念を以て、心でナイフを真横に滑らせた」
アサンの髪は黒く、眼球も同様に夜の色をしていた。
星でも浮かべればさぞ美しく映るだろうに。
彼女の双鉾は暖炉を、揺らめく焔を睨み付けていた。
眉間には皺が寄り、目頭は深く沈む。
握りしめたペーパーナイフの切っ先は微かに震えている。
朱炎が揺れる。
時折パチリと音を立て、暖気で室内を満たしていた。
燃え尽きた黒い灰は上昇気流に煽られて、煙突の奥へと上がり行く。
総て燃えてしまえば良い。そんな気持ちで放り込んだ上等な紙片は僅かな痕跡も残さなかった。
なのに!
アサンは奥歯をきつく噛む。
すでに存在を失ったはずの紙片が幻想、現像となり彼女の脳裏を駆け巡るのだ。
紙に染み込んだラズローの香油の残り香。双刀で飾った赤獅子の封蝋。
それどころか、
差出人である人物の無為に非道の一言一句が蘇って、耳奥を愛撫する。
低く曇った声音。残虐の調べを奏でる。
強い葡萄酒の混じった臭気。
死者の如く黄色い歯列は不快感をも越えたおぞましさを醸し出す。
悪寒が走る。憎悪で吐き気を催し、殺意で悔し涙をこぼす。
諦めと同じ意味の無力感に震わせた肩を落とすと、お仕着せの袖口で瞼を強く擦った。
アサンは顔を上げる。
何も映らない瞳。何事をも映さない表情。
あらゆる事象を見て、見ぬ振りをする極寒の仮面で、彼女は感情を覆い隠した。
厚い石壁越しにさえ耳に騒がしい氷雪の嵐は「ひゅうひゅう」と、時には「ごおおお」と吹き荒れている。
直接の光景を見ずとも推し量れる。
砂粒よりも小さく細かい雪は変幻自在に大地を、城の石壁を打ち付ける。
総てを飲み込み、覆い隠す。
氷と雪が嵐となった日には一切合切の痕跡が真白に埋没するのだ。
草木も動物も等しく。
神話の時代よりの竜ならぬ身の人間など、羽虫も同然に吹き飛ばされる。
一度豪雪の寝台に横たわれば、二度と起き上がることが敵わない。
凍れる白き寝台に横たわる様を描きアサンは手にした得物の先端を喉にあてがう。
決して自身を突き通すためでもなく、頸動脈を引くためでもない。
岐路などどこにもない。
道程は既に決した。
逃れられない。
強い情念を以て、心でナイフを真横に滑らせた。
いつの間にやら閉じていた瞳を開く。代わり映えしない使用人の室内で小さな暖炉が音を立てる。
微かに深呼吸し、きつく唇を結んだ。
「黄金の円環まで、あと七日」
呟きは「運命の日」を再確認するためだけではない。
きっとその日に世界は変わる。大波のようにうねり寄せ、些末な物事など押し流して、飲み込んで行くだろう。
遺言であり、
決意の顕現であり、
別離の独白。
悲しい。身が爆ぜ、裂かれるほどに悲しくともアサンは落涙を強固に止めた。
泣く資格などない。
涙を流して良いのは、真にあの御方を愛するものたちだけだと。彼女は沸き上がる感情を、使命の激情で相殺する。
「姫様。申し訳ありません。返しきれぬご恩を仇でお返しするこの身は、必ずや奈落の獄へと赴く所存です」
幼い頃に読み聞かされた寝物語にあった。罪人が無限に苦痛に処される死後の牢獄。
初めて耳にした際には恐ろしくて足が震えたことを、幼友はケラケラと笑い転げた記憶が鮮明に喚起された。
「許されるならば、姫様へ久遠の懺悔を―――」
目を伏せる。とても長い時間。
朱炎が鳴いて、初めて瞼を開くアサンは平時の表情に戻っていた。
ペーパーナイフをチェストに戻して、部屋を後にする。
お仕着せの袖口が頬を掠めるも、それは刹那。
きっと不都合なナニカを拭いとった。
それだけのはずだ。