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夢の後追い

作者: 大春寫菊

 人は空想の中でなら何にでもなれる。ずっとずっと先の未来に出現し、人々を恐怖させる悪と戦うヒーローにだって、生まれたときに戻って一からすべてをやり直すことだって。

誰もが知らなかったことを知って、有名人になって…。だが現実は、そんなに甘くない。

 私は県の公立高校に通う一年生、霞千陽だ。

千陽という名前は人々を照らすようなあたたかい女の子になってほしいという思いでつけられたみたいだが、今の私にはそんなことができるとは一ミリも思えないし、思っていない。今日もいつもと同じような一日が、ただ扁平に過ぎていく。


「本日の授業はここまで。しっかり復習しておくように。」

現代文の授業が終わった。今日は論説文だった。五十分の間、自分の存在理由がどうたら言っていたが、今の私にとっては、自分の存在意義を見つけるなど不可能に近かった。

「私には今のような平凡な日常が一番いい。どうせ自分の存在理由なんていつまでもわかりはしないから」そういう勝手な決めつけがなぜか私には心地よかった。

 それでも進路というものは決めなければならないわけで。中学の時も私の数少ない友達がここにすると言ったのでここに来たようなものだ。

 私には前から、文系だという自覚があったさっきの現代文で、みんなが頭をひねって考えているような問題でも、割とすんなりと理解できた。文章を書くのも得意ではある。

 だが困ったことに、得意だからという理由だけでは、どうも通らないらしい。文系、理系のどちらへ進むのか志望理由書を書かなければならないのだ。さすがに、消去法で文系に行きます、と書くことはできない。私は下書き用のプリントを前にして、ただ呆然とするしかなかった。なんでこんな時に限って、文章がすらすらと出てこないのだろう。

今まで時の流れに身をまかせてきただけの人間だからだろうか? 別に勉強だって、決してできないわけではないし、運動だって全然というわけではない。いたって平凡だから将来何になりたいかさえも浮かばないのか。

強いて言うなら、ピアノがちょっとできるくらいだ。一応クラスで一番だと言われているが、コンクールに出たり、ピアニストになったりするだけの技術は持ってないし、なりたいと思ったこともない。

八方塞がりである。私は無言で、ゴンと鈍い音を立てて机に頭をぶつけた。



「ええ! 千陽ちゃんまだ進路決めてないの?」

 昼休み。屋上でお弁当を食べているときに響いた声。

「いや、その言い方は傷つくんだけど。」

「ごめん! でも意外だなあ。決めなきゃやばいのはやばいんでしょう?」

「そういう怜ちゃんは決めてるの?」

「まあ一応は、ね。」

 数少ない友達とはこの人である。志未怜ちゃんとは中学生のとき市立図書館で知り合い、同じ高校に通っている。クラスの中でも、学年内でも、勉強がずば抜けてできる怜ちゃんのことだ。きっとすごい夢を持っているんだろうな。

「ずっと前から考えてたんだけど、国語の教師になりたいなあ、なんて。」

「国語の教師? 昔から本好きだから?」

「芥川龍之介とか読むようになってからだよ。文章を読むのって人の心に触れることだから、難しい分やりがいがあるなって。」

「さすがだよ、やっぱり。」

 私みたいに何かと理由をつけて進路選択を先延ばしにしている人とは違う。急にみじめな気持ちになった。


部活が終わって帰るときでも、くもった気持ちは晴れなかった。帰ってもどうせ、家で進路の話第二ラウンドが開幕する。正直なところ、帰りたくない。しかし、

「ただいま。」疲れた声で発した帰宅宣言は母の焦った声でかき消された。

「千陽、大変なの。おばあちゃんがお腹痛で倒れたの。」

「え…、救急車は? 呼んだの?」

「それがまだで…」

「早く呼ばないと! なんで呼んでないの?!」

部活後の疲れも忘れ、慌てて家に上がると、祖母がお腹を押さえて苦しそうにしていた。母の一一九番通報する震えた声が聞こえてきた。

「おばあちゃん、ただいま。もうちょっとしたら救急隊の人が来てくれるからね。もう少し我慢してね。」

祖母の保険証を探す。そうこうしているうちに救急車が到着した。妙に冷静な自分に驚きながらも、祖母を介抱している母に代わって、救急隊の人に状況を説明する。母は祖母に付き添って病院へ行ってしまった。

 一人の家。しんと静まり返った部屋にポツンと取り残された。静寂が私と外の世界を隔てているようだった。

 夜遅くになって、母は帰ってきた。

「検査は明日って。」

「…そう。」

「疲れてるでしょう。全部済ませたなら、もう寝なさい。」

「うん…。おやすみ。」

ベッドには入ったものの、なかなか寝付けなかった。


 翌日、いつも通り学校から帰ってくると、母が険しい顔をしてソファに座っていた。手にはスマホが握られている。

「ただいま。」

「お帰り。…がんが見つかったって。」

「…手術、するの?」

「ええ。来週の土曜日。」

「入院はもうしてるの?」

「今日入院したの。もう荷物も持って行ってきたわ。昨日は千陽が冷静で助かったわ。しっかりしたお子さんですねって。」


そして手術当日。祖母に、頑張ってね、と声をかけて送り出すと病室のドアを閉める音がやけに大きく響いた。

少しの沈黙の後、母が話を切り出した。

「進路のことだけど、決めたの? 決めてないんだったらいよいよ真剣に考えないと。」

「…それを今話す?」

「え?」

「お母さんはそれで自分の気を紛らわせてるのか知らないけど、私にとっては今一番考えたくないことなの。今はおばあちゃんが無事に手術を終えて帰ってくることだけ考えてたいの。」

「でも考えなきゃいけないことはいけないのよ。あなたは言い訳して逃げてるだけ。」

 この一言が私の心を深く、えぐった。

「帰ってきたらいきなりおばあちゃんが倒れてて、救急車も呼ばずにあの状況を起こしたのは誰なの? 私が悩んでるときになんでそんな余計に心配させるようなことするの?

冷静さを装ってただけで実際は心配と悩みでしんどいのがどうしてわからないの?…………

ごめん。言い過ぎた。ちょっと出てくる。」

 私はさっき閉まったばかりのドアへ足を向ける。背中に母の視線が突き刺さるのを感じたが、振り返らずに出ていった。



「七階に喫茶店あるんだ。」

そこで珈琲でも飲もうか、と思った。エレベーターに乗る。七階のボタンを押す。

 チンという音がして七階についたことを知る。エレベーターを降りる。するとどこからともなく優しい音色が聞こえてきた。院内に一括で流れるものではない。人が今、奏でているようなあたたかみのある音。

「ピアノ…?」

私は音のする方へ引き寄せられるようにして歩いていくと、黒く光沢のあるグランドピアノが見えた。弾いているのは名札を下げた看護師だろうか。その周りにはたくさんの患者が集まっている。

ボーっと見ていると、通りがかった看護師に声をかけられた。

「あれは音楽療法というものですよ。」

「音楽、療法?」

「はい。この病院では終末医療の一つとして取り入れています。今弾いているのは音楽療法士の水木さんという人です。こちらへどうぞ。」

 ついていくと、その看護師の人はついさっき弾き終わったばかりの水木さんに声をかけた。水木さんが私の方を向く。

「弾いてみますか?」

「ええ?! なぜ私なんですか…?」

「ピアノ経験者なのかなあ、と思いまして。」

「ひ、弾けますが…」

「どうぞ座ってください。ドビュッシーあたりがきれいだと思いますよ。」

 どぎまぎする私をよそに、周りの患者さんは楽しそうにしている。

 ピアノの前に立って一礼、椅子を引く、座る、深呼吸。目を閉じる。


 ゆったりとしたピアノの音が流れる。ざわざわした音が、私の中で消化されるような感覚。いつの間にか周りも静かになっていた。

 私が選んだのは『月の光』 言われたとおりドビュッシーの曲だ。私の奏でた音が、指先から体じゅうへゆっくり流れていく。体全体で表現された私の『月の光』は、ダイナミックかつ、やさしさのある音色だった。

 演奏が終わると、少し間があってそれから大きな拍手が轟いた。私は驚いて目を見開き、あたりを見まわした。

「音楽療法は音楽で人の心を癒すものです。あなたのピアノはとても素晴らしかったわ!」

「あ、ありがとうございます。」

水木さんにそう言われ、赤くなっていると、集まっていた患者さんからも

「とってもきれいだったわ。」

「若いのにすごいなあ。」

という声が聞こえてくる。

 そのとき、私の頭の中で何かがカチッと音を立ててはまるのが分かった。



 病院から帰った私は、志望理由書の下書きプリントの上でシャーペンを動かしていた。私は文系コースへ進み、そこで表現力や感性を磨いていきたいと思っています…

 今日あった出来事は、まだ誰にも話していない。私があのとき七階に行かなければ、母と口論にならなければ、たどり着けなかっただろう。ちょっと癪だけれど。

やることはいっぱいある。ピアノの練習もしなきゃいけないし、本も読みたいし、勉強もしなきゃいけないし。でも私が頑張るだけで、つらい思いをしている誰かの助けになれるのであれば、少しでもヒーローらしくなれるのなら、それだけでも私が生きている価値は、あるのかもしれない。



見上げては 雲一つない 五線譜に

描けわたしの 夢のシナリオ


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