乙女ゲームの世界に転生した私は婚約破棄に備えてビンタの威力を上げるトレーニングをします
とある乙女ゲーの主人公、シェーラ・クロイツに転生した私が真っ先に始めたのは、ビンタの威力を上げるトレーニングだった。
自作のサンドバッグを用意し、手が赤く腫れるまで毎日ビンタを繰り返した。今では、手の平の皮は石のように厚くなった。
筋トレにも励んだ。ゆったりとしたドレスに隠れているけど、筋肉がついて鞭のようにしなやかな腕になった。
ここまで身体を仕上げるのは、当然辛かった。それでも、今日までやめようとは思わなかった。
どうしてもビンタをくらわせてやりたい相手がいる。それも、か弱い乙女のビンタじゃない。一瞬で意識を刈り取る強烈なビンタだ。
「シェーラ、君との婚約を破棄したい」
婚約相手のジェラルド卿が婚約破棄を告げたのは、最悪のタイミングだった。
親族一同を集め、正式に婚約を発表するパーティーの最中だ。突然の言葉に、出席者の誰もが困惑している。
「どういうことなんだ!? 説明したまえ、ジェラルド卿!」
私の父が、声を荒げてジェラルド卿に問いただす。
「心の底から愛することができる女性を見つけてしまったのです。サリナ、来てくれ」
サリナと呼ばれた女が現れる。この場に自信満々の表情で来れるのは、素直に尊敬する。
サリナ・エーデルホーン。最初にジェラルド卿に言い寄る女キャラで、いわば一面ボスだ。
「初めまして、サリナ・エーデルホーンです」
「彼女との出会いは、正しく運命でした。グレイズ家の跡取りとしてではなく、ジェラルド・グレイズという一人の男として彼女を愛したい」
私は冷静だった。この世界の未来がゲームのシナリオのとおり進む保証はなかったけど、こうなることを半ば確信していた。
この世界の元になった乙女ゲーは、悪い意味で印象に残っている。
はっきり言って、笑えないクソゲーだった。バグが酷いとか、そんな理由じゃない。もっと根本的な、シナリオに関する部分が酷かった。
攻略対象のジェラルド卿は、面白いくらい好感度が下がる。その上、次々と現れる女キャラに惚れ、好感度が低ければ別れを切り出してくるのだ。
プレイヤーからすれば、浮気性のクズ男にしか思えない。それなのに、ジェラルド卿は作中では聖人君子として扱われるのだ。嫌いを通り越して、不快になる人も多かったと思う。
ジェラルド卿と結ばれるなんて、こっちから願い下げだ。喜んで婚約破棄を受け入れよう。好感度を上げることも一切しなかった。
ただ、されるがままなのもムカつくから、ビンタの一発でもくれてやろうと思ったのだ。
「すまない、シェーラ。君を悲しませることになってしまった。それでも私は、真実の愛に生きたいんだ。わかってくれるね?」
もしこれがゲームなら、この台詞が出た時点でゲームオーバーの表示が現れる。
だけど、これは現実だ。こんなことで、世界が突然終わったりしない。
伸びきった右腕が、ジェラルド卿の頬に丁度当たる距離まで近づく。
何千、何万回とビンタの練習をしたのだ。最も威力の出る距離は、完璧に把握している。
「いくらでも殴ってくれて構わないよ。君にはその権利がある」
ジェラルド卿は、真実の愛とやらを貫こうとする自分に酔っている。今の状況も、自分を魅せる演出としか考えていないのだろう。
緊張はない。私の集中力は今、最高まで研ぎ澄まされている。
「あなたがそんな人だなんて──」
思いっきり息を吸う。
これまで頑張ってくれた過去の自分。私の血肉となった命たち。その全てに万感の感謝を込めて──
今、右腕を振り上げる!
「思わなかったッ!!!!」
──ボゴォン!!!
爆発のような轟音が鳴り響く。部屋の中で反響し、ビンタの音がいつまでも耳に残る。
ジェラルドは吹き飛び、そのまま床に倒れた。白目を剥き、手足の先がピクピクと痙攣している。ビンタを受けた左頬は赤く腫れ上がり、餌を口の中に隠したリスのようだ。
確認するまでもなく、気絶している。
笑ってしまうほど無様な姿だけど、私は笑わなかった。笑い声よりも先に、涙が溢れた。
胸の内にあるのは、人生最高の達成感だ。辛い日々だったけど、続けて良かったと心の底から言える。この掌の感触を、私は生涯忘れない。
他人からは、婚約破棄を宣告された悲しみや悔しさで泣いているように見えるだろう。そのときの私には、そんな打算は一欠片もなかった。
「い、医者を呼んでこい!」
「それより氷だ! 氷で頬を冷やすんだ!」
水を打ったような静けさから一転、周囲の人間は慌てふためく。
ジェラルド卿は担架に乗せられ、そのままどこかへ運ばれた。
誰も私に近づこうとしない。恐怖で顔が引き攣らせ、遠巻きに眺めている。
そんな状況に私の心は次第に冷静になり、ある不安が胸をよぎる。
「…………ジェラルド卿、死んでないわよね?」
誰一人として、私の質問に答えなかった。
†
結論から言うと、ジェラルド卿はどうにか一命を取り留めた。
最初にそう聞いたとき、心の底から安心した。ジェラルド卿のことは嫌いだけど、殺したいと思ったことはない。現実の世界なら尚更だ。
私のビンタでジェラルド卿は重傷を負ったが、罰されることはなかった。婚約を一方的に破棄したジェラルド卿に非があるのと、他でもないジェラルド卿が「殴ってもいい」と言ったおかげだ。
私は今も、ビンタの練習を続けている。多分、初めてジェラルド卿をビンタしたときより強くなっているだろう。
理由は当然、ジェラルド卿にビンタするためだ。
「あら、ジェラルド卿」
「アヒィ…⁉︎」
街で偶然、ジェラルド卿と遭遇した。
ジェラルド卿の顔は、真夜中の冬空に放り出されたように青白くなる。
お決まりの反応をするジェラルド卿に、私はお決まりの言葉を投げかける。
「ねえ、もう一度ビンタしていい?」
「許してくださいお願いします!! だからどうか、どうかビンタだけはご勘弁を!!」
ジェラルド卿は深々と頭を下げた。
怒りが治まらないという建前で、顔を見るたびにジェラルド卿にビンタしている。偶然を装って近づいたりしてるので、二桁は優に突破している。
あくまで偶然の範疇に留めているだけで、出待ちとかはしていない。ただ単にビンタしたいだけなのがバレてしまう。
少し前までは、プライドの高いジェラルド卿が頭を下げるなんて、想像もつかなかった。今ではすっかり見慣れてしまった。
人目が多い街中だからか、いつもより必死にビンタだけはやめてくれと懇願する彼の姿は、とてもいじらしい。
「いいから頬を差し出しなさい。未だに許せていないから、あなたの顔を見てまたビンタしたくなったのよ?」
口ではそう言っているが、許す許さない以前に恨みすらない。最初から婚約破棄される前提で、ジェラルド卿と接していたのだから。
子犬のように弱々しく震えているジェラルド卿を見ていると、またビンタしたくなる衝動に駆られてしまうのだ。
自分にこんな嗜好があるなんて、二度目の人生を経て初めて気づけた。
いくらでも殴っていいと、他でもないジェラルド卿が都合良く言っていたので、私は他人に迷惑をかけないように欲求を満たしているに過ぎない。
「顔を上げて」
ジェラルド卿の肩に優しく左手を置くと、彼はおそるおそる顔を上げる。
「ビンタした後、私が満足するのを祈りなさい」
絶望に染まったジェラルド卿の顔に、ビンタを叩き込む。
ジェラルド卿は往来で思いっきり倒れ、感情を剥き出しにして痛みに悶える。その姿は、人々の哀れみと好奇の視線を独占する。
至高の瞬間だ。肉を弾いた感触が、私の掌にいつまでも残っている。
私は今、怪我をさせず、痛みだけ最大限に与えるビンタの練習をしている。思いっきりビンタをしたい気持ちもあるけど、会うたびに怪我をさせたら、流石に問題になる。
ジェラルド卿の姿を見る限り、練習の成果は出ている。ただ、成長の余地はまだ残されていると思う。
「次もまた、よろしくね」
未だに痛みで悶えるジェラルド卿にそう言い残し、私はその場を立ち去った。
†
「そろそろ私も、命の危険を感じてきた」
ジェラルド・グレイズは、深刻な表情で呟いた。その頬には紅葉のような手形が浮かんでいる。
シェーラにビンタされた後、行きつけと化した病院で手当てを受けていた。
特別設備が整っていたり、医者の腕が良いわけでもないのだが、シェーラに初めてビンタされた日に運ばれた病院なので、今もこうして通っている。無様な姿を、これ以上他の医者に見せたくないのだ。
ジェラルドの呟きをただ一人聞いているドクターは、少々うんざりした顔を浮かべる。何百回と同じセリフを聞かされたら、誰だって同じ顔をする。
「君の自業自得だ。彼女の気が晴れるまで、我慢するしかないだろう。絶妙な手加減で、不思議と怪我はしていないんだ」
「怪我はしなくとも、痛みでショック死しそうなんだ……!」
彼女なりに怪我をしないよう配慮していたのか、最初のうちはまだ耐えられた。
しかし最近、出会うたびにビンタの痛みが大きくなっていく。あまりの痛みに、人目を気にせず地面を転げ回ってしまうほどだ。
「サリナにも振られて、今の私は人生のドン底だ……」
「あのビンタの矛先が自分に向いたら、堪ったものじゃないからな」
永遠の愛を誓ったはずのサリナは、逃げるようにジェラルドのもとから去った。
今では、もう私には何も関係ないと言わんばかりに他の男と付き合っている。
一方的に婚約を破棄したジェラルドの自業自得とはいえ、この散々な状況に医者は少し同情する。
「……シェーラさんに許してもらうには、誠意を見せるしかないだろう。謝罪の手紙を送るなりしてみてはどうだ?」
「とっくの昔に送ったさ。それでもシェーラは、毎日ビンタの練習をしているらしい。彼女はもう、未来永劫私のことを許すつもりがないんだ……」
何をしても、どんなに謝っても、返ってくるのはビンタばかり。ジェラルドの心は既にへし折れていた。
「いっそ、ビンタされても平気なように鍛えてみてはどうかね?」
ドクターが何気なく言ったその一言に、ジェラルドは食いつくように反応した。
「それだ、ドクター! 向こうが許す気がないのなら、何発ビンタをくらっても平気な、無敵の肉体を手に入れればいい!」
「えっ」
追い詰められているジェラルドにとって、その一言は暗闇に見えた最後の光明だった。それがどれだけ細く、儚く消えるものだとしても。
時々シェーラのビンタで吹っ飛ばされつつ、ジェラルドは死ぬ気で体を鍛えた。少しでも早く、この惨めな日々から脱却するために。
†
クロイツ家の屋敷には、私専用のトレーニングルームがある。
ビンタを鍛えるだけの部屋なので、そんなに大掛かりではない。自作のサンドバッグと筋トレ器具が置いてあるだけだ。
完全に日課と化したサンドバッグへのビンタをしながら、私は考え事をしていた。
最近、ジェラルド卿が姿を見せない。私の前だけでなく、完全に屋敷に引き篭もっているらしい。
外に出られないくらい追い詰められているなら、もう許すべきだろうか。
ある時期から、ジェラルドは一切許しを乞わず、黙ってビンタを受け入れるようになった。正直、痛みに悶える姿を見ても面白くないというか、かわいそうになってきた。
「シェーラ様。いらっしゃいますか?」
メイドがドアをノックした。声がわずかに震えているが、何かあったのだろうか。
「入っていいわよ」
部屋に入ったメイドの顔には、何かに困惑しているように見えた。
「何かあったの?」
「ジェラルド卿がお見えです。今は客室でお待ちいただいてますが、いかがなさいますか……?」
「すぐに向かうわ。もう少し待たせおいて」
その言葉を聞いて、少し驚いた。
ジェラルド卿が屋敷に直接訪れるのは、初めてのことだ。相応の覚悟をしているに違いない。
良い機会だと思った。ビンタする建前を捨てるのは少し惜しいけど、ジェラルド卿を許そう。
「失礼するわ」
客室に足を踏み入れた瞬間、思考が停止した。
熊と見紛うほど大きい男がソファーに座っている。
男の向かい側のソファーに座る。
私の知り合いに、こんなに体の大きな男はいない。いないはずなのに、私は彼が何者か知っている。ある知り合いと、面影が重なるのだ。
「ジェラルド卿、なの……?」
「久しぶりだね、シェーラ」
間違いなくジェラルド卿だ。だけど、以前の彼にはない貫禄がある。
これにはちょっと動揺を隠せない。ジェラルド卿がこんな筋肉ダルマになる展開、ゲームでもなかった。
ふと、興味が湧き上がる。今のジェラルド卿に、私のビンタは通用するのだろうか。
「ええっと…… すっかり見違えたわね」
「ありがとう。実は、君のビンタに耐えるために体を鍛えたんだ。以前の私は、君の手加減したビンタでさえ耐えられなかったからね」
「そのことなんだけどね、あなたのことを許そうと思っていたの」
そう伝えると、ジェラルド卿は目を丸くした。
「本当にいいのかい? 私は君に、一生許されないことをしたと思っている。君に殴られるつもりで、今日はここに来たんだ」
「大丈夫、もう気にしていないわ」
「……そうか」
もうビンタされなくていいのだ。喜ぶとばかり思っていたけど、ジェラルド卿はむしろ心残りがある様子だった。
「なんだか残念そうね」
「そんなわけない。許してもらえて、ホッとしているよ」
「本音を言って。多分、私も同じようなことを思っているから」
ジェラルド卿は本当に本音を言って良いものかしばらく悩み、やがて意を決したように口を開いた。
「君のビンタをくらっても無事でいられるか、試してみたい」
「そうね。あなたに膝を着かせられるか、私も試してみたいの」
自分の力を試してみたいという気持ちは、よくわかる。かつての私も、今の私も、同じ気持ちを抱いているのだから。
ジェラルド卿は好戦的な笑みを浮かべている。きっと私も、そうなのだろう。
怯えるジェラルド卿を見るときとはまた違う、熱い気持ちが胸の奥底から湧き上がる。
今までのように、無様に負けさせたいのではない。ジェラルド卿に敬意を表した上で、彼に勝つことを私は望んでいる。
「やりましょうか」
「ああ、やろう」
ジェラルド卿と同時にソファーから立ち上がる。
広い場所に立ち、ビンタの間合いまで近づく。
ジェラルド卿は首をゴキゴキと鳴らし、大きく息を吸う。ただでさえ大きな彼が、より一際大きくなったように感じた。準備は万全のようだ。
私も肩の力を抜き、右腕を後ろに引く。
これから始まるのは真剣勝負。意地と意地、プライドとプライドのぶつけ合いだ。
「膝を着いたらあなたの負け。それでいいわね?」
ジェラルド卿は静かに頷く。
いつでも来い。彼の目が雄弁と語っていた。
私はそんな彼の目に、従うことにした。
「行くわよ」
──ガァンッ!!!
岩か柱にでもビンタしたような、そんな感触だ。鍛え上げたはずの掌に、久しぶりの痛みが走る。
あの日と最も違うのは、ビンタをくらったジェラルド卿が吹き飛ばないことだ。
今のジェラルド卿を吹き飛ばせると思うほど、私は自惚れていない。それでも、膝を着かせるくらいの力はあるはずだ。
「ぐっ…… おおおぉぉぉ……!!!」
ジェラルド卿は二歩、三歩と後ろによろめく。
足を動かしたのはそれっきりで、それ以降彼はその場に踏みとどまった。上半身は揺らめきながらも、足の裏は根が生えたように地面から離れない。絶対に倒れてなるものかと、そんな意志を感じる。
決着の瞬間が来るのを、静かに見守る。どちらの結果に転がろうと、受け入れる覚悟はできている。
やがて、ジェラルド卿の体は揺れなくなった。見事な仁王立ちの体勢を貫いている。
それは私の敗北を意味していた。
「私の負け──」
そこまで言いかけて、私は違和感を感じた。
「……?」
注意深く、ジェラルド卿の様子を窺う。
ジェラルド卿は目を開けている。開けてはいるが、彼は何も見ていないように思えた。
そう、これは──
「立ったまま、気絶している……」
私のビンタは効いていた。それどころか、ジェラルド卿をギリギリまで追い詰めていた。
それでも倒れなかったのは、ジェラルド卿の精神力が己の肉体を、そして私のビンタを上回ったからだ。
どちらにせよ、この勝負は私の負けだ。意識を失ってなお倒れない姿を見せられたら、素直に負けを認めるしかない。
「──……俺、は…………?」
数秒後に意識を取り戻したジェラルド卿を、称賛の拍手をして迎える。
ジェラルド卿は何が起きたかわからない顔をしている。寝起きの頭のように、今の状況を理解していないのだろう。
「今何をしているかわかる?」
「ああ、覚えている。確か君と勝負をしていて……」
「そう、私のビンタをくらって意識が飛んだのよ。だけど、その間もあなたは遂に膝を着かなかった。この勝負は、あなたの勝ちよ」
ジェラルド卿は視線を落とし、自分の足元を見る。
やっと今、自分が立ち続けていることに気づいたのだろう。
ジェラルド卿はそのまま、私の方に視線を移す。
勝利を誇る表情ではなく、なぜか神妙な表情をしていた。どうしたのだろう?
「それなら、引き分けにしてくれないか? このままでは私が納得できない。胸を張って、君のビンタを耐えたと言えないんだ」
私は負けを認めているけれど、ジェラルド卿が勝ったと思っていないなら意味はない。元よりこれは、納得を優先した勝負なのだから。
それに、リベンジの機会をくれるのは願ってもない話だ。
「こちらこそ、お願いするわ。今日みたいな勝負を、またやりましょう」
「楽しみに待ってる」
再戦の約束をして、ジェラルド卿は帰った。
次会ったとき、ジェラルド卿はもっと筋肉をつけているだろう。
これまでとは違う胸の高鳴りを感じながら、私はトレーニングルームに戻った。ジェラルド卿に勝つために、今よりもっと強くならなくては。
†
いつからだろう。寝ても覚めても、次にジェラルドに会えるのはいつなのか、そんなことばかり考えてしまう。
ジェラルドとの勝負は、勝ったり負けたりを繰り返している。勝負をした後は、世間話をしたり、一緒に食事することも多くなった。
そんなことばかりしているせいか、周囲からはすっかり変人扱いされている。陰ではSMコンビと呼ばれているらしい。
最近、ジェラルドが勝ち越すようになってきた。
トレーニングは怠ってはいない。競う相手がいるので、むしろモチベーションは維持している。
それでも、男女の体格差は埋められない。ジェラルドに勝てなくなる日が来るだろう。
だけど、それは今日じゃない。
クロイツ家の屋敷の中庭にジェラルドを呼び出し、勝負を申し出た。従者には人払いを頼んでいる。この勝負だけは、誰にも見せるつもりはない。
「今日は一段と気合が入っているじゃないか、シェーラ」
ジェラルドは今回も首を鳴らす。彼にとってルーティーンのようなもので、準備ができた合図だ。
「勝ちたい理由があるのよ」
「それは初耳だな。どんな理由だい?」
「私が勝ったら、教えてあげる」
「それは楽しみだ。もっとも、負けるつもりなど更々ないが」
コンディションは万全に整えた。初めてジェラルドにビンタした日── いや、それ以上に集中力が研ぎ澄まされているのを感じる。
ビンタをするタイミングは、私に委ねられている。
何度となく勝負を重ねてきたからか、何をせずともお互いの呼吸が合うタイミングを感じ取れるようになった。
鳥の囀りが聞こえる。柔らかな風が肌を撫ぜる。
ここだと思った瞬間には、私はもう右腕を振っていた。
「ぐおッ、うおぉぉ……!?」
轟音で中庭の鳥が一斉に飛び立つ。
掌に伝わる感触。間違いなく過去最高のキレだ。
ジェラルドが膝を着く。私の完勝だけど、今回ばかりは喜んでいられない。本当の勝負は、むしろここからなのだ。
ところで、ジェラルドが膝を着くと、私が少し前屈みになれば顔を合わせられる。身長差があるので、普段は彼から屈んでくれないと、顔を合わせられない。
それが何よりも大切なことで、私が彼に勝ちたかった理由だ。いつもとは別の意味で、鼓動が早くなるのを感じる。
「私の勝ちね」
「ここまで大負けしたのは久々だ…… それで、私に勝ちたい理由は何なんだ?」
「……それはね──」
私は前屈みになり── ジェラルドの頬にキスをした。
「!?」
ジェラルドは目を見開いて驚いていた。
筋トレに夢中になっているせいか、ジェラルドは他人に向けられる好意にすっかり鈍感になってしまった。その方が私も安心できるけど。
最初にビンタしたあの日、先のことなんて何も考えていなかった。それがまさか、ジェラルドにこんな想いを抱くことになるなんて。
「これが勝ちたかった理由。好きよ、ジェラルド」
想いを口に出して伝える。
私たちの関係は普通じゃない。複雑で、奇妙で、他人からは理解されないのは自覚している。
だからだろうか。普通に告白するのは、何か違う気がした。次にジェラルドに膝をつかせたとき、告白しようと決めた。
思いっきりビンタした後に告白する女なんて、世界は広いといえど私くらいだろう。だけどこれが、私たちらしいように思った。
ジェラルドは、敵わないといった風に笑った。
「ああ、私もだよ」