八章 幻夢帝
戦闘なしのラスボス戦の章
ルディルは、セクルースの精霊なのに、何が面白いのかルキルースによく侵入してきた。
猛風鬼神という大層な異名を持つ、風の精霊だった。
「ガルビーク、相変わらずつまらなそうな顔していやがるなぁ」
ガルビークからすれば、綺麗な金色の髪なのに、まったく手入れせずに伸ばしたいほうだい伸ばしている、ずぼらなだけの男だった。
「また来たのか」
豪快で派手なルディルは、ガルビークとは正反対だった。それでも、不思議と馬が合った。
「こんなところで、油を売っていていいのか?戦中だと言っていなかったか?」
窓辺に立ち、針葉樹の代わり映えのしない森を見下ろすガルビークに、ルディルは何か見えるのかと、楽しげに並んだ。
「ん?ああ、終わった終わった。適当に捻ってきたわ!」
いつの話をしているんだと、ルディルは豪快に笑った。
「またそういう……だから、おまえは猛風だの鬼神だの言われるんだ」
「気にしねぇさ。レシェラも気に入ってるしな。で?そっちはどうなんだ?上手くいってるのか?」
ルディルは笑ってこそいるが、こちらを心配しているようだった。
「どうだろう……所詮、わたし達は離れていなければならない」
ガルビークは、自信なさげに視線を森へ落とした。
「しっかりしろよな。選んでおいて、そりゃぁない」
ルディルには、上手くいかないことが薄々わかっていたのかもしれない。だから、気にかけてくれていたのだろう。闘うためにすべての世界を行き来するルディルは、閉ざされた世界にいるガルビークよりも、物の道理がわかっている。
それにしても、奥方を放っておいて、こんなところに来ていていいのだろうか。風の王は絶え間なく、世界を行き来しなければならないというのに。この訪問だって、仕事の合間合間で、この男はまたすぐに慌ただしく飛んでいってしまうだろう。
「ここにいていいのか?レシェラは城に一人なのだろう?」
「おまえ、このオレを心配してくれるのか?ガハハハハ!大丈夫だ。ここへ来る前、レシェラとはやることやってきたわ!」
やることって……と、ガルビークはあまりに開けっぴろげで絶句した。そして、もう聞くまいと思った。しかし、ガルビークは、ルディルを鬱陶しいとは思わなかった。
「よお、噂をすれば。テティシア、今日は生身か?」
ガルビークとは反対に、テティシアはルディルが好きではなかったように思う。共にいることの困難さをいちいち突きつけてくるような物言いが、彼女の勘に障っていたのだろう。けれども、事実だ。ガルビークは、ルディルを静かに睨むテティシアを見つめていた。
テティシアがルキルースで咲かせたバラを、ガルビークは感情無くせっせと増やしていた。気がつけば、地平線の彼方までバラが続いているしまつだ。
ガルビークは、何をやっているのか、自分で自分がわからなかった。
遠巻きに、幼いケルディアスがこちらを窺っている。だが、ガルビークからは声をかけなかった。テティシアは自分達の子だというが、いきなり連れてこられて、どう接していいのかわからなかった。
「おーい!おまえ、マメだな。オレは、サボテンも一日で枯らしちまうってのになぁ」
ルディルは、ケルディアスを肩に乗せて大きく手を振りながらやってきた。子のいない彼だったが、父親のガルビークよりも子供の扱いに手慣れていた。ガルビークは、なぜルディルに子がいず、自分にいるのか、逆だったらよかったのにと思った。
「サボテン?なんだそれは?それより、風の精霊のおまえが植物を育てられるわけがない」
「そりゃそうだ。レシェラの花園にも近づくなって言われてるしな。この前うっかり入って、花が散ったとかすげぇ怒られたわ」
ルディルは豪快に笑った。
「で?おまえ、ケルディアスと遊んでやらないのか?そばに行きたそうにしてたぞ?」
ガルビークは、ルディルの肩に乗って、こちらを見下ろしているケルディアスを見上げた。しかし、すぐに視線を地面に向けてしまった。
「わたしといても……」
「言うと思ったわ。なあ、悩んでるのか?」
ルディルの瞳が、探るようにこちらを見ていた。
終わりにしよう。何度、口にしたかわからない。
けれども、テティシアは首を横に振るばかりだった。
なぜ彼女が共にいようとするのか、ガルビークにはすでにわからなくなっていた。
ルディルはバラの園に呼び出されたと言って、城を出ていった。誰に?と聞いても、わからんとしか言わない。ルディルは単純な男だ。おそらく、本当にわからないのだろう。
なぜ、見に行ってみようと思ったのか自分でもわからない。
バラの園では、ルディルがすでに待ち合わせの相手と会っていた。
あれは……ガルビークは自分の目を疑った。ルディルを呼び出した相手は、テティシアだった。ルディルは見たこともない甘い瞳で何事が言うと、テティシアに口づけした。
信じられない気持ちのまま、ガルビークはその場から逃げていた。
このとき、乱入していれば、仕事へ向かうルディルを捕まえて問いただしていれば、すべてを壊さずに済んだのに。
怒りと憎しみが、テティシアに向かうくらいなら、ルディルに向けていたらよかったのに。
「おまえ、このオレを騙せると思ったのか?可愛い奴だな」
「つまらない男ね。どうしてわかるの?」
テティシアに扮したレシェラは頬を膨らませて、子供のように駄々をこねていた。
唯一違う、モルフォ蝶の羽根まで隠したのにと。
「香だよ。おまえ達は姿形は似てても、香が違うんだよ。風のオレが騙せるかよ」
そう言って、ルディルはレシェラを抱き寄せた。
「ルディル……」
ルディルは、いつも元気な妻の死んでしまいそうな声で、振り向いた。そして、変わり果てたレシェラの姿に、瞳を見開いた。
レシェラは、テティシアの服のままだった。しかし、さっき見た服とはかなり形状が違って見えた。丈の長かったスカートは短く破れ、袖も、肩の辺りから千切れていた。
その無残な服の下に見える体も、押さえつけられた痕なのか、指の形だとわかるアザが多数見えた。
「おまえ……誰にやられた?」
何とかここまで来たのだろう。ルディルに辿り着けずにうずくまったレシェラに、駆け寄ったが、その傷ついた体に触れられない。
「ガルビークが……わたしと……テティシアを間違えて……」
それでも気丈な妃は、伝えてくれた。残酷な事実を。
「!」
ルディルは城を飛びだしていた。
「ルディル!ルディル!行かないで!嫌ああああああ……!」
とても、レシェラと一緒にいられなかった。情けないが、穢されたレシェラの傷ついた瞳をまともに見られなかった。そして、ガルビークが間違いでもそんなことをするなんて、信じたくなかった。
バラの園に、うずくまる幼いケルディアスがいた。
「ケルディアス、ガルビークはどこだ?奴に、話がある」
「断崖の城……」
ケルディアスの様子がおかしい。
「断崖の城だな」
飛び立とうとすると、ケルディアスに手を掴まれた。
「ルディル……親父が……お袋を……」
ルディルは瞳を見開いた。
「殺した」
な、んだって?
ルディルは蹌踉めいたが、何とか踏みとどまった。何が起こっているのか、まるでわからなかった。二人はずっと危うい糸で繋がっていたが、こんな結末を導くなんて思いもよらなかった。
「ここで、言い争ってた。裏切ってないの、裏切ったのって!」
ケルディアスは泣いていた。その様子から、ルディルはケルディアスが、父が母を殺すその場面を見てしまったことに、やっと気がついた。しかし、慰めてやる余裕がなかった。
何が起こったのか、それを把握することで精一杯だった。
裏切った?テティシアがガルビークを?ルディルは混乱していた。そこへ脳裏に、ガルビークに襲われたと訴えたレシェラの姿が浮かんだ。
ああ、そういうことか。冷えた心で、ルディルはすべてを理解した。
「バカは、どこまで行っても、バカだな。仕方のない」
レシェラとテティシアは似ている。ルディルをからかう為に、二人は服を交換した。だが、それで自分の妻をわからないほど、ガルビークは疑心暗鬼になっていたのだ。それに、ルディルも気がつかなかった。どんな姿をしていても、レシェラがわかるルディルには、ガルビークの気持ちがわからなかった。
唯一無二だと言い切れるレシェラを得ているルディルには、一緒にいるだけで辛い存在になってしまったテティシアと、共にいるガルビークの気持ちを、わかってやれていなかった。
ルディルは金色のオオタカの翼を広げ、その瞳に怒りを滾らせて飛び立った。
この夜の国で、金色の翼は眩しすぎた。
その傍らに、苦痛と成り果てたはずのテティシアが、寄り添っているその事実が苦痛よりもさらに深い痛みをもたらした。バラの園で、ルディルと幸せそうに笑っていた彼女。
そういう幸せを、テティシアと築けなかった。
あれは違う!レシェラだ!と、ルディルの叫んでいた声が、耳に残っている。それを聞いたとき、本当は間違ったことを理解していた。それでももう、戻れなかった。
妻も友も、すべてを裏切って、もう、友の手で討たれる以外に、決着のつけようがなかった。
ルディル……風の王のルディルなら、この心ごと存在を引き裂いて終わらせてくれる。だのに、世界はそれを許してはくれなかった。
この存在は、悪夢に囚われたまま、目覚めさせられた。そして、ルディルではない風の王が、罰を与えようとしていた。
『ガルビーク』
あの日、その胸を貫いて殺したテティシアが、生きて目の前にいた。これは、罰なのだと思った。リティルという名の風の王が用意した、恐ろしい罰。ガルビークは、殺した者を目の前に途方に暮れていた。
「テティシア……わたしを、恨んでいるだろう?」
恨んでくれていたらどんなに楽か。それでも彼女は、残酷なまでに許すのだろう。
「恨んでいません。わたしはあなたを許しています」
「はは、はははは、君は、残酷な女だ……そんな君が、大嫌いだった」
ガルビークは疲れた声で俯いた。
今更、何を言えと言うのか。風の考える事は、いつもよくわからない。
ルディル──眠りという名の風の王と、対のような名の風の王。ずいぶん小柄で、力もかなり弱いというのに、勝てる気がしなかった。あの時、彼の挑発に乗って取り込んでいたら、負けていたのはこちらのほうだったと、ガルビークは今ならそう思えた。
リティルは険しい顔でこちらをジッと見上げていた。謝罪しろと言っているのだろうか。今更、謝ったところで何になる?もう、テティシアとの関係は完膚なきまでに壊れているというのに。テティシアはもう、逝ってしまっているというのに。
リティルが溜息をついた。そして、おもむろに口を開く。
「おまえらな、せっかく逢えたのにくだらねーこと言ってるよな。逢えたら、やることは一つだろ?」
テティシアでさえ、彼が何をしろと言っているのかわからない様子だった。
「抱きしめるんだよ。言葉なんかいらねーんだよ。なんだよ、おまえら、相手に触りたいって思わねーのかよ?とにかく触ってみろよ!仮初めでも体、造ってやったんだからな」
ドンッとリティルはガルビークの背を押した。
「おまえ、浮気現場見て思わずキレるくらいだ、今でも好きなんだろ?テティシアの名誉の為に言ってやるけどな、あれ、レシェラだからな?誰も裏切ってねーからな?」
今でも好きだろ?といわれ、そうなるのか?とガルビークは、戸惑った。今でも、あの光景を見て、なぜあんなに哀しくて苦しかったのか、よくわからなかった。戸惑いながらリティルを見下ろすと、彼は揺るがない瞳で頷いた。
ガルビークは、目の前にいるテティシアに怖ず怖ずと手を伸ばす。そのゆっくりと開かれた胸に、テティシアは飛び込んできた。信じられずに、抱きしめられたガルビークは瞳を見開いた。
もう、想う心の一欠片も残っていないと思っていた。込み上げてきた想いのままに、ガルビークはテティシアを強く抱きしめていた。
「すまない……テティシア……すまない……」
驚くほどすんなり、その言葉は出ていた。今更無意味だと思っていたのに。
「そうです。あなたは非道い人……それでも、それでも……ガルビーク……!」
もうこれ以上近づけないというのに、テティシアの背中に回された手が、足りないというように掴んでくる。
ずっと、離れたかった。そばに居られない彼女を想うと苦しくて、苦しくて堪らない。こんな想いをし続けるくらいなら、手放してしまいたかった。
世界中を飛び回るルディルが、どうして耐えられるのか理解できなかった。あんな風に揺るぎなく、過酷な仕事中、逢えないレシェラと続いていけることが不思議だった。
「バカだな……どうして、こんな簡単なことがわからねーんだよ……」
呆れた声で、リティルがつぶやいた。
「明日なんて、当たり前にこねーかもしれねーんだぜ?オレには、逢いたいときに逢えるおまえらが羨ましいぜ……」
リティルは、シェラの方を愛しそうに見つめながらそう言った。
そうだ。風はいつ風に帰るかわからない。だから、当たり前にわかっているのかもしれない。世界に隔てられていようと、ガルビークとテティシアを死が分かつことはない。この手で壊しさえしなければ。壊しさえしなければ、ずっと続いていけた。
「ガルビーク、オレは世界を守護する刃として、おまえを討たねーといけねーんだ。承諾してくれ」
ガルビークはテティシアを放さないまま、リティルを見た。リティルの瞳は、力強く哀しく輝いていた。また、風に助けられるのかと、ガルビークは自嘲気味に微笑んだ。
「風の王、手間をかけさせてすまなかった。ルディルに会ったら、あいつにも謝っておいてくれ。許されないが、それでも謝っておきたい」
ガルビークはテティシアを放そうとした。しかし、彼女はしがみついて離れなかった。
「テティシア、それでいいんだな?」
ガルビークは驚いて、胸に顔を埋めたまま抱きついているテティシアを見下ろした。ガルビークはオロオロとリティルを見た。リティルは哀しそうな瞳で、それくらい許してやれと微笑んだ。もうすでに、彼女は死んでいるのだからと。
リティルは瞳を閉じると、右手に風の中から剣を抜いた。彼の愛用のショートソードではない。もっと鋭利で長い風の刃だった。それは、ルディルが使っていた刀によく似ていた。
剣を構え、開いたリティルの瞳は立ち上る金色の炎のような光はそのまま、冷徹に冷えていた。リティルの刃が閃いた。
ガルビークは前から来るだろう衝撃を待っていた。しかし、衝撃は背後から来た。体を貫き通し、テティシアと共に串刺しにしたのは黒い犬の腕だった。
「ケルディアス……」
力なく振り向いたガルビークは、こちらを真っ直ぐに見上げる息子の赤い瞳を見た。睨むその瞳が、哀しそうで、それでも真っ直ぐに揺るぎなく見返していた。
セビリアに引っ張られて、再生の力を失い消滅しかけていたあの、弱々しかったケルディアスの面影はもうなかった。テティシアのかけた封印を解き、彼を導いてくれたのはリティルなのだろうか。そんなことを思いながら、ガルビークは息子に微笑んでいた。
ありがとうと。
リティルの刃は、カルシエーナの髪に阻まれていた。
「リティル、すまねぇな。おめぇにゃ、やらせらんねぇ」
血にまみれた腕を引き抜くと、二人の体は霧のように幻のように消えていった。
「ここにもバカがいたよ。オレは数えきれねーくらい殺してるんだぜ?今更なんだよ」
リティルは刃を風に返して、ケルゥに哀しそうな顔で笑いかけた。
それでも、おまえはすべて背負ってるじゃないかと、思ったが、ケルゥは言わなかった。
「ケルゥ」
カルシエーナがそっと、ケルゥの血にまみれた腕に手を重ねてきた。そんな彼女に頷き、ケルゥはその手を何もない床に向かってかざした。
「おめぇの名前は、ルキだ」
呼ばれた名に呼応するように、ケルゥの腕から滴り落ちた血の雫に、蝶の形をした闇が空間中から集まってきた。
これは、新たな精霊の目覚めだ。リティルも、目の当たりにするのは初めてだった。
「ルキ?ちょっと、安直だね。でも、気に入ったよ」
少年の声だった。
ルキ──夜という意味の精霊の言葉だった。
立ち上がってきた闇色の固まりは、リティルの背くらいで止まり闇が晴れる。
そこには、黒猫の耳と尾を生やした油断ならない瞳の少年が立っていた。
「ボクは、幻夢帝・ルキ。月と夜の支配者。前王が世話になったね、風の王」
「心にもねーこと言ってんじゃねーよ。オレは風の王・リティル。よろしくしたくねーけど、よろしくな」
リティルは差し出された手を何気なく取った。ルキはリティルの手をグイッと引く。引っ張られると思っていなかったリティルは蹌踉めいて、ルキに抱き留められていた。
「ありがとね。内緒でボクも、君の協力者になってあげるよ」
ルキはそっとリティルにだけ聞こえる声で、そう囁いた。リティルは小さく頷くと、何かとんでもないことを言われたように慌てた演技をして彼を突き放した。幻夢帝の申し出をありがたく受けたリティルだったが、精霊王の手前、幻夢帝が協力者など口が裂けても言えない。ルキもわかっているから、リティルにしか聞こえないように囁いたのだ。
「げっ!怖えーな!ハハ、これからよろしくな、ルキ」
ルキはニヤリと悪いことを企んでいるような笑みを浮かべると、サッと腕を振るった。カーテンの引かれていない窓から、サアッと光が射してきた。
「朝日?」
ルキルースは夜の世界。セクルースと違い、太陽はどんなに望んでも輝くことはない。それなのに、この光はどう感じても太陽光だった。
「白夜だよ。これも立派な夜でしょ。眠ってる大陸の住人は、ボクが起こしておくよ。彼等は、君をおびき寄せる餌に使われたみたいだね」
「ガルビークとは関係なかったってことか?」
「まあ、ある意味ではね。彼等を使ってガルビークを目覚めさせようとしたんじゃなくて、ガルビークの想いを使って眠らせていったんだ。風の王、気を付けた方がいい。君はどうやら目立つみたいだ。誰かの思惑に翻弄されすぎないようにね」
「ああ、わかった。でもなあ、防ぎようがねーよな」
「フフフ。まあね。君は風の王だからね。さあ、お帰り?帰って眠るといい。おやすみ」
ルキは指さしただけで風の城への扉を開き、皆を促した。
「ああ、おやすみ。さすがに疲れたぜ」
リティルはインファを抱き上げて隣に立ったノインと、シェラと並んで扉を潜った。