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七章 破壊の精霊・カルシエーナ

お兄ちゃん、ついにキレるの章

 セビリアはなぜ、眠るガルビークを殺そうとしたのだろうか。

風の王とその協力者以外の精霊が、精霊を殺す事は禁じられている。それは、精霊だけが精霊を完全に消滅させることができるからだ。

輪廻の輪を護る風の王だけが、精霊を殺すことを許されていた。世界の始まった時から。

「ケルディアス!おまえは理解不能だ!なんだ?なんなんだ!そんな宣言などして、命を捨てるの?わたしを惑わせておいて、結局、わたしのことなど……大嫌いだ!おまえなど、大嫌いだーーーー!」

「すまねぇな。それでも、好きなんだ」

立ち上がったケルディアスに、カルシエーナは怒りをぶつけていた。しかし、カルシエーナではケルゥを止めることはできないことはわかっていた。

彼を止められるのは、たぶんリティルだけなのだ。

「ケルゥ、眠っている者を、わざわざ目覚めさせることはありませんよ?かつて、インとあなたは、それをしようとしたセビリアを阻止したんでしょう?」

騒ぎを聞きつけたインファが、冷静な声でケルディアスの前に立った。カルシエーナの背に慰めるように手を触れてきたのは、スワロメイラだった。

「兄ちゃん、オレ様、セビリアがなんでガルビークを殺そうとしたのか、わかった気がしたんだぁ」

ケルゥはテティシアローズを見下ろした。

「オレ様とセビリアはずっと、過去に囚われて、ここから動けねぇ。セビリアは、ただ、自由になりたかったんだぁ。そんなオレ様達を解放してくれたのが、リティルだ。オレ様、リティルだけは……リティルだけは守りてぇんだぁ!原初の風にも、インにも甘えちまった。だから、今度はオレ様が代わりに闘う」

気持ちはわかるがと、インファはため息をついた。何をそんなに思い詰めているのかと思っていたが、こんなことかと呆れた。

リティルを筆頭に風達は、破壊姉弟を解放したとは思っていない。ただ、風として必要なことをしただけだ。今回は、それが結果的に解放したことになっただけのことだった。所詮風ができることは、殺すことだけなのだから。

「はあ、ケルゥ……父さんが聞いたら怒りますよ?十五代目風の王は、か弱いお姫様ではありません。共に闘う選択肢はないんですか?」

「矢面に立てなんてぇ、言えねぇ!あいつは……ガルビークは、化け物だ!兄ちゃん、すまねぇ。オレ様行くわ」

ケルゥは逃げるように踵を返す。今ここでリティルに諭されたら、説得されてしまう。

「おい、ケルゥ!どうして、一人で行くんだよ?」

記憶の混乱とやらから、立ち直ったらしい。呼び止めるリティルの声に、振り向きそうになって頼りそうになって、ケルゥはギリッと奥歯を噛んだ。そして、意を決して振り返る。

その表情を見たインファとノインは、咄嗟に、リティルの前に割って入ると風の障壁をドーム状に展開していた。ケルゥの顔が魔犬のそれに変化し、業火を吹きかけたのだ。炎はテティシアローズを焼きながら、リティル達を取り囲んだ。

 ケルゥは無言で、バラを一輪摘みその花で円を描いて扉を開くと、飛び込んで行ってしまった。

「ケルゥ……オレ、そんなに頼りにならねーのかよ?お姫様って酷くねーか?」

「ちょっとぉ、リティル落ち込んでる場合?いいじゃない、お姫様。今度着飾ってあげるわよ!シェラ姫ちゃんとどっちが綺麗かしらね?」

どんな慰め方だよ?シェラに決まってるだろ?とリティルは、ジロリとスワロメイラを睨みながら、惚気ることも忘れなかった。

「リティル、冗談を言っている場合ではない。スワロ、断崖の城への扉はどこだ?」

リティル達を中心に燃え広がった炎は、未だバラの花を焼きながら広がっていっていた。

「ちょっと待って。嫌だ、ケルゥ!ご丁寧に扉壊して行ってくれちゃってるわ!ノイン、花!花!一輪でいいから取ってきて!大至急!燃えちゃう前に!」

スワロメイラに責付かれ、ノインは鋭く飛び立った。ルキルースの物は時間が経てば復活するが、それを待っていては手遅れかもしれない。ケルゥは強いが、いつもと違う精神状態に、皆、危うさを感じていた。

「ケルゥ……!大嫌い……!」

カルシエーナは、哀しいのか悔しいのかわからない感情のまま、インファに縋って泣いた。


 応接間でボンヤリしていたシェラは、ふと、中庭に視線を向けた。そういえば、日が落ちたのにカーテンを引いていなかったと、シェラはおもむろに立ち上がった。窓辺に立ち、そっと手を上に上げる。大きな窓だ。魔法でカーテンを引くのだが、そうしようとしたシェラの手がふと止まった。窓の外に視線を向けたシェラは、ハッとして中庭へ走り出た。

バードバスの上にルキルースへの扉が開いていた。おかしい、風達が騒がない。城はまるで眠りの中にあるように、しんと静まりかえっていた。

何かが侵入した?それとも、これから?

シェラはルキルースの扉に向かい、弓を引いた。

「誰?ここが風の王の城と知っての狼藉ですか?」

力の抜けるような威圧感を感じる。弓引く腕が怠い。この扉の先に何かがいる。賊の侵入前?けれども、この静けさは?シェラは、背中に冷たい汗が流れるのを感じていた。

「勇ましいお姫様ねぇ」

背後からの声に、シェラはルキルースへの扉を気にしながら、ゆっくりと頭だけ振り向いた。この声を知っている。魔水晶の精霊・エネルフィネラだ。

やはり、風の結界が機能不全を起こしている。それにしても、シェラをも欺くとは、彼女の能力は何なのだろうか。

ルキルースの幻惑の暗殺者。宝石三姉妹の長女であるエネルフィネラ。かつて、ガルビークの為に働いていたらしい。風が、ガルビークの所へ赴こうとしていることを知られていて、こんなことをしているのだろうか。

「母さん……ごめん……」

レイシ?そんな、インリーはどこ?シェラは見あたらない娘の姿を捜していた。

腕を後ろに捻り上げられ、首にナイフを突きつけられたレイシが、応接間から出てくるところだった。息子の背後にいるのは、赤い袴を着た透き通るような水色の髪の女──エネルフィネラだ。

彼女一人?シェラは、エネルフィネラが一人でここまでのことをしたとは、信じられなかった。現に、目の前の彼女からは、さほど強い力を感じない。

「花の姫様、あなたならガルビークの封印、解けるわよねぇ?」

エネルフィネラの言葉に、シェラはインリーを想う心を押し殺して睨んだ。

「わたしを脅しに来たの?無意味よ。わたしは風の王の妃です。夫の不利になるようなことは、決してしません」

こうしている間にも、バードバスからの威圧感が増していくのがわかった。

どうする?ルキルースから侵入しようとしているモノは得体がしれない。その姿がこちら側に出てこないかぎり、シェラの矢は届かない。しかし、こちらの隙を狙われていることは確かだ。もともと開いている扉からの侵入では、風の結界は働かない。迂闊だった。ルキルースの精霊が当たり前のようにこの城にいたことで、警戒心が薄れていた。

今見なくとも、この距離ならば矢を当てる自信はあるが、子供達を助けられないかもしれない。シェラは動くことができなかった。

「可愛い息子がどうなってもいいのかしら?」

「その子は風の王の息子です。何があっても、決して屈したりしません」

シェラの言葉に、レイシは小さく頷いた。彼にも覚悟があるのだ。

「あら、そう?これを見ても?」

エネルフィネラは、左手で何かを掴むようにグイッと動かした。ドサッと彼女の隣に倒れたのは、細い糸に縛られたインリーだった。インリーの剥き出しの肌に、いくつも赤い筋が走っていた。

「バラバラにしちゃうわよ?」

「お母さん……!ダメだよ!うっ……ダ──メ!お母さん!」

インリーはリティルによく似た力強い瞳で、シェラを睨んだが、食い込んできた糸の痛みに身悶えた。ぷつっとインリーの白い肌に、糸が潜り込む。インリーが声なく苦痛に仰け反った。

「!」

シェラはエネルフィネラに体ごと向き直ると、矢を放っていた。シェラの矢は狙いを違わず、彼女の額を貫いていた。

「アハハハ。やっぱり、子供達は見捨てられないわよねぇ」

エネルフィネラの体が霧散する。インリーを縛っていた糸も切れて消えていく。

「母さん!」

バードバスの上にあったルキルースへの扉から、闇色の腕が生えていた。シェラは矢を放つが、それが実体のないモノだと気がついた時にはすでに遅かった。矢に切り裂かれた闇が再び、ケルゥによく似た腕の形に戻り、シェラに覆い被さってきた。避けられない。

シェラは無意識に、胸で揺れるリティルの牙を掴んでいた。

「リティル!ごめん──なさ……い……」

実体がないというのに、掴まれた感触が体を襲ってきた。そして、強烈な眠気がシェラを支配し、抗えずに意識は眠りの淵に落ちた。


 バラの園は、燃え尽きて永遠の静寂に包まれていた。

スワロメイラに責付かれたノインは、難なく一輪のテティシアローズを確保していた。スワロメイラがそれを使い、断崖の城への扉を開こうとしていた矢先だった。

「!」

不意に、リティルの右手首にあった、花の姫のブレスレットが切れて、玉が飛び散った。

「シェラ?」

咄嗟に一つだけ掴んだ玉を見つめ、リティルは動揺していた。シェラの霊力で繋いだブレスレットが、何もないのに切れることはありえない。

シェラの身に何かあったと、瞬間察した。しかし、風の結界に乱れはなかった。どういうことだ?と、リティルが考えを巡らせようとしていたときだった。

「リティル!大変だよ、早く城に戻ってよ!」

ここにいることのあり得ない、よく知っている幼い子供の声に、リティルは我に返った。声のした方を見ると、ナシャが駆けてくる所だった。ナシャは幽閉中の身のため、リティルの許可がない限り風の城から出られない。そのナシャがお仕置きを承知で城から出るとは、よほどのことだ。リティルはシェラの身に何かあったことを確信せざるを得なかった。

「エネルフィネラが城に来たんだよ!シェラが対峙してるけど、インリーとレイシが人質に取られて、身動きが取れないんだ!」

レイシはともかく、インリーが不覚をとるとは珍しい。防御だけでいえば、インリーはインファ以上に鉄壁だ。インリーを城から出さないのは、レイシを守らせる為だったが、実戦経験の乏しさが裏目に出てしまったようだ。

「リティル!城に戻らないと!」

ナシャがリティルの腕を掴んで、風の城への扉を開いた。カルシエーナがリティルの背を押したが、リティルは動き出そうとしない。

「お父さん?どうしたの?」

カルシエーナは訝しそうにリティルを見た。

「ケルゥを追わねーと……」

「そんな!お母さんはいいの?ねえ、お父さん!」

カルシエーナに揺さぶられながら、リティルは苦しそうな顔で動けないでいた。その肩をノインが掴むように触れた。見上げてきたリティルの瞳を見たノインは、動揺した彼の瞳を睨んでいた。

「オレが行こう。シェラの事だ、今おまえが行ったところで、すでに終わっている。おまえは、ケルディアスを追え」

ノインの言うとおりだ。間に合わない。シェラは侵入者に対して容赦ない。人質がいようがなかろうが、勝とうが負けようが速攻だ。今ここでリティルが戻ればきっと、わたしが信用できないのか!と怒られる。彼女はそういう女だ。

「ノイン……ああ、みんなを頼むな!」

ノインはリティルの瞳に、真っ直ぐな光が戻るのを見届けると、ナシャを掴んで扉を潜っていった。ノインを見送っていたリティルにインファが並んだ。

「帰ったら、直してもらってください」

インファは、小さな袋に集めた玉を入れてリティルに渡してくれた。

「ありがとな。さあ、行こうぜ」

いつもの顔で、スワロメイラの開いてくれた扉に向かい合ったリティルに、カルシエーナは信じられない心持ちだった。インファもスワロメイラも、心配ではないのだろうか。リティルの一番は、シェラだと思っていたのに。裏切られた気分だった。

──シェラ……無事でいてくれ

 インファは、リティルが強く拳を握っていることに気がついていた。本当は形振り構わずにシェラのもとへ行きたかったことを、インファも、スワロメイラも知っていた。けれども、行けない。彼は風の王だから。

そして、城に引き返すのは、ノインが適任だ。戦闘能力の高さもあるが、彼ならばインファよりも早く合流できるだろう。インの知識を持っているノインは、ルキルースにインファよりも慣れているからだ。

本当は、リティルがその判断をし、ノインに指示を出さなければならなかった。しかし、できなかった。それが、リティルの危うさだった。リティルはきっと、原初の風と同じ状況になったら、踏み留まれない。


ここは……どこだ……わたしは……誰だ……

何も考えないで……もう、いいのよ……

おまえは、誰だ……

知らなくていいの。眠って……眠って……

このままで、いいのか……

いいの。いいのよ

おまえは誰だ!わたしは……何を……

心を静めて。もう、終わったの……

何が、終わった……

何もかも。眠って……お願い……

──ル!リティル!リティル!いやあああああああああ!リティル!リティル!

め・ざ・め・ろ・?

ダメ!あなたは、眠っていて!

リティル、リティ・ル、目覚めろ!わたしを起こすか!猛風鬼神!

ダメ!ガルビーク!ダメよーーーーーー!


 リティルは、断崖の城に足を踏み入れたはずだった。

なのに、ここは一体どこなのだろうか。扉を潜ったはずなのに、自分だけが別の場所に落ちてしまったのだろうか。扉を使えば、こんなことあるばずがないのに。

「猛風鬼神!なぜだ!なぜ、わたしを裏切った!」

リティルは咄嗟に、剣を抜くと飛び退いていた。今し方リティルが立っていた地面が、大きくえぐれていた。

大きな月が辺りを昼間のように照らしていた。月の中に、細長い影となって崖の上に立つ断崖の城が見える。槍のように大地を埋め尽くす針葉樹の森。この部屋に、外の空間があるなんて知らなかった。リティルが立っていたのは、眼下に針葉樹の森を望む、断崖の城とは別の崖の上だった。

リティルは、攻撃を仕掛けてきた者をキッと睨んだ。

上空に、夜のような色をした長い髪をなびかせた、長身な男がいた。彼の腕が、ケルゥと同じ黒い犬の腕に変わる。

「ルディル!」

男が黒犬の腕を振るう。リティルは襲い来る衝撃波を避けた。

「ルディル?オレはリティルだぜ?」

リティルは上空の男を睨んだまま、低くつぶやいた。

「おまえは、レシェラがいながら、なぜテティシアと!」

ガルビークの赤い瞳が、憎しみに染まって暗く光り輝いていた。

「おまえ、まだわからねーのかよ?あれは、レシェラの悪戯だ。原初の風をからかったんだよ。自分とテティシアを間違えないかをな!」

リティルは、こちらに突っ込んできたガルビークの黒犬の爪を刃で受けた。

原初の風の代わりに憎しみを受けながら、リティルはガルビークを怒りを込めて睨んだ。

「ルディル──原初の風は間違わなかったさ!間違えたのは、おまえだよ!ガルビーク!」

あのとき、双子のようにそっくりな二人が、原初の風を試すためにお互いの服を交換しなければ、交換した服のままキスをしなければ、その光景をガルビークが見なければ、その後原初の風に急な仕事が入らなければ、あのとき、原初の風がレシェラから離れてさえいなければ、あんな悲劇は起こらなかった。

「どうして、テティシアを信じてやらなかったんだ!」

原初の風とガルビークの戦いに、レシェラは出てこない。次第に鮮明になる戦いの記憶に、彼女はいない。ガルビークに、犯した間違いをわからせようと、原初の風は訴えていた。その中で次第に、原初の風も間違いに気がついた。傷ついた最愛の者を一人、置いてきてしまったことに気がついたのだ。けれども、もう彼女のもとに戻れなかった。

気がつくのが、遅すぎた。

 黒と金の閃光が瞬いた。

「傷ついた顔してるんじゃねーよ!おまえ、誰を抱いたのか、まだわからねーのか?」

リティルの剣がガルビークの腕を掠めた。白銀の刃から、赤い雫が尾となって空に散った。

「おまえは、レシェラをずたずたにして原初の風から奪ったんだよ!オレを見ろ!ガルビーク!」

高く高く鋭く空へ飛んだリティルは、眼下のガルビークを見据えた。そして、両の剣の切っ先を、ガルビークに向ける。その切っ先に風が集まり始める。

「オレは、リティルだ!」

ドンッと風の弾丸が撃ち出されていた。真っ直ぐに空を裂いた金色が、ガルビークを打ち抜いていた。

 ザアッと世界が揺らめいた。すべてが幻となって消え失せる。リティルは荒く息を吐きながら、石の規則正しく並べられた床に、落ちるように両手両膝をついた。

心臓に悪い。脳裏に鮮明に、憎しみを向けるガルビークの姿があった。あれは、過去の再現だ。ああやって、ガルビークと原初の風は激突したのだ。

テティシアを殺してしまったガルビークにしてみれば、後には退けなかったのだろうが、あんなのに三日三晩付き合ったのかと、原初の風の精神を疑う。

 リティルはやっと顔を上げた。目の前には大きな石榴が鎮座していた。

そういえば、ガルビークとは石榴という意味だったなと、リティルは思った。

炎赤色のガーネットでできた巨大な石榴の中に、今し方闘ったガルビークが眠っていた。ガーネットにかすり傷でもついているのかと思っていたが、どうやらこの宝石の含有物である、ルチルの針状結晶が、眠るガルビークを中心に放射状に入っているらしい。まるで、近づくなと言われているみたいだなとリティルは思った。

起きている気配はないのに、さっきの戦いはなんだったのだろうか。

 リティルは静まりかえる大広間を見回した。四角い部屋の両脇に、尖頭窓が規則正しく並び、その一つ一つに藍色のカーテンがタッセルで結わえてあった。

「シェラ?」

大きなランプか何かかと思っていた、天井から鎖で釣り下げられた球体の底に、見知った者が倒れていた。リティルは慌てて飛ぶと、名を呼び、ガラスなのか水晶なのかわからない球体を拳で叩いた。

「……リ──ティル……はっ!いやああああああ!見ないで!見ないでえええええええ!」

体を少し起こしたシェラは突然絶叫して、自分の身を掻き抱いた。体を起こした彼女の白い肩を、かけられていただけの着物が滑り落ちた。

「ああ……ごめんなさい……」

シェラはリティルから目をそらさず、涙を流して謝罪の言葉をつぶやいた。

「シェラ……落ち着け」

「ごめんなさい……!リティル!ごめんな──さい……!」

「落ち着けって!オレを見ろ!そんな遠くにいねーで、こっちに来いよ。大丈夫だから!」

裸のシェラと、気が狂いそうなほどの叫びを聞いて、リティルも一瞬傷付けられたのかと、疑ってしまった。だが、誰がそんなことできるというのか。ここで間違うわけにはいかない。リティルは記憶を頼りに、ゆっくり優しくシェラに語りかけた。

「誰だったか覚えてるか?」

「うう……わたし……」

「ごめん、相手は、あいつじゃなかったか?」

リティルはガーネットの石榴を指さした。壊れそうな危うい瞳だったが、シェラはリティルの指さす方を恐る恐る見下ろした。そして、ビクッと身を震わせた。

「あいつなんだな?そっか、じゃあ大丈夫だ。君は夢を見せられたんだよ。体にアザとかあるか?どこか痛いか?何もないだろ?」

シェラは首をゆっくり横に振った。だが、まだリティルを裏切っていないことを、信じられないでいるようだった。

「あいつは君をなんて呼んでた?その名前が誰かわかるか?」

「テティシア……初代大地の王……?」

「そうだ。君が体験させられたのは、遊風天女の記憶だ。わかったらこっちに来てくれよ」

シェラはまだ怯えた顔をしていたが、それでもリティルのそばに来てくれた。

「リティル……怖かった……わたし……あなたを……」

シェラは球体の壁に手をついて、再び涙を流した。リティルは、触れられないシェラの手に手を重ねた。

「大丈夫だ。オレを想ってくれるなら、どこへも行くなよ?君が自分を許せねーっていうなら、オレも連れて逝ってくれ。オレの心臓がどこにあるのか、わかるよな?君なら一撃でオレを殺せるだろ?だからシェラ、何があっても離れないでくれ!ごめん、夢だとしても間に合わなくて、ごめんな!」

球体に触れているリティルの手が震えていた。シェラは涙の流れるまま何度も頷いて、夫の触れられない手の平に手の平を重ねた。リティルの真摯な言葉に救われる。もしも、裏切らされたとしても、この人の腕の中になら戻れる気がした。

「リティル……わたしには夢でも、遊風天女──レシェラには現実だったのね……」

こちらの体のことなど構わずに、押さえつけられ、蹂躙された。シェラは貫かれる瞬間に、唐突に目の前が真っ暗になったことを思い出した。それで、あれだけ生々しかったのに、下腹部に引き裂かれる痛みを感じなかったのだと思った。夢の中でもシェラは、リティルを裏切らされてはいなかったのだ。

「ああ。やるせねーよな。そばにいられない……たったそれだけのことで、ガルビークとテティシアはすれ違っちまったんだ。原初の風とレシェラに、ガルビークはもしかすると嫉妬してたのかもしれない。自分達の得られないモノを持ってる二人を、壊したいって、思ってたのかもしれねーな」

 シェラは着物の袖に手を通すと、前を合わせた。黒地の着物には、テティシアローズが咲いていた。合わせるべき帯がなく、シェラは仕方なく手頃な紐を作り出すと、合わせ目がはだけないように結わえた。

こういう格好も新鮮だなと、リティルはこんな時だが思った。

しかし、素肌にあれ一枚かーと、リティルは不謹慎にも考えてしまった。そしてやっと、シェラの背から、モルフォ蝶の羽根がなくなっていることに気がついた。

「シェラ、羽根、どうしたんだよ?」

シェラはえ?と自分の背を見た。

「霊力を奪われてしまって、具現化できないわ。この檻、外と遮断されているみたい。霊力を戻せそうにないわ。リティル、わたし、出られないわ」

不安そうな顔で、自力で出られないと訴えるシェラに、何とかするから心配するなと、リティルは宥めた。

「これ、何製なんだ?硬いな……」

風の刃で壊れるのか?と、リティルは透明な球体を観察した。

「硬い?柔らかいわ?」

シェラは中からグイグイと球体を押した。が、リティルには、柔らかいかどうかよくわからなかった。

「ん?そうなのか?ほら、硬いだろ?」

リティルは拳で軽く球体を叩いた。コンコンッと硬質な音がした。本当ねとシェラは言って、微笑んだ。その笑顔に、リティルもつられて笑った。

 よかった……一時はどうなるかと思ったと、リティルはホッとしていた。それにしても、なぜシェラを攫い、あんな非道い夢を見せたのだろうか。また、絆を試された?それとも、何か別の意図が……

──どうして?

リティルは恨みがましい声を聞いて、バッと振り返りシェラを庇うように、球体に背中を張り付かせた。

「リティル!危ない!」

突如襲ってきた闇色の腕を、リティルは避けることを躊躇ってしまった。避ければ、後ろにいるシェラに危害が及ぶと、咄嗟に思ってしまったからだった。リティルは、ガーネットの石榴から生えてきた闇色の腕に捕まっていた。

「うあ……!なんだ?」

ガーネットの石榴の滑らかだった皮が破れていた。粒状の果実の間にリティルの体がズブッと沈む。リティルは抜け出そうと藻掻いたが、泥沼のようだと感じていた表面が、ガーネットに戻ってしまっていた。擦り傷のようなルチルの針状結晶が、リティルの体に無数に突き刺さってきた。ガーネットは硬い石だ。リティルの風の刃では抜け出すのは難しかった。

「なぜ、許せるの?」

石榴の影から姿を現したのは、カルシエーナだった。しかし、彼女の心はここにはないようだ。中に居るのはたぶん──リティルはチラリと背後に視線を一瞬だけ送った。リティルの背後には、眠るガルビークがいた。

「そりゃ、許せるさ。シェラは襲われただけなんだぜ?シェラの心がオレにある限り、オレはあいつを放さねーよ」

リティルは大げさに明るく、カルシエーナに視線を戻すと答えてやった。

「嘘かもしれないのに?」

「どうして嘘つくんだ?嘘なんか付く必要ねーだろ?オレに愛想が尽きたなら、そう言えばいい。オレより好きな奴ができたって言えばいいんだよ」

「裏切られてもいいって、言うの?」

「ああ。それよりもな、シェラがオレを裏切るはずがないんだ。オレの事、大好きなんだからな!無意味な問答だぜ?オレはシェラを疑わない。疑わなければ、嘘もねーんだよ」

バカバカしくておめでたいなと、リティルは言っていて思った。

けれども、騙されていても、本当は裏切られていてもいいと思えるくらい、シェラが好きだった。そして、シェラはやっぱり裏切らないと言い切れた。疑う余地はないほど、彼女の気持ちを得ていると、リティルは今この瞬間も感じていた。シェラは球体の中で、外に出ようと足掻いていた。あんなに必死な顔をして、オレを助けようとしているんだと、リティルはこんなときなのに、照れて笑った。

「信じられない……おまえの心と融合すれば、わたしも、信じ抜くことができるのか?」

ゾクッと、リティルは全身に悪寒が走るのを感じた。

「おまえ!どこまでイカレてるんだよ?おまえの心はおまえのモノだろ?オレを手に入れても、オレはおまえにはなれねーよ!ガルビーク、おまえ、どうして自分を見ようとしねーんだよ!原初の風とレシェラだって、初めからおまえが羨ましがる絆があったわけじゃねーよ。ただ、二人一緒にいようとしただけだ!オレ達だって、そうだ!」

ズブッと、リティルの体が石榴に沈む。

「くっ!わからねー奴だな。断固拒否するぜ?おまえが目覚めようが構うかよ!ぶっ壊してやる!ついでに、カルシーも返してもらうぜ?」

リティルは、体にありったけの風を集め始めた。リティルを拘束しているガーネットに、ヒビが入り始める。しかし、抜け出すのは至難の業だ。ガーネットを砕けたとしても、含有物の針が無数に突き刺さっている。それも断ち切らなければならないのだから。

 その様を、カルシエーナは静かに見上げていた。

「ならば、言うことを聞きたくなるようにしてやろう。抵抗すれば、殺す」

カルシエーナの静かな声に、リティルは顔を上げた。

言うことを聞きたくなるように?何を言っているんだ?と思ったリティルの瞳に、この大広間に入ってくるインファの姿が映った。

「お兄ちゃん!お父さんとお母さんが!」

カルシエーナがインファに駆け寄る様を、リティルは見つめていた。インファは、球体の中に居るシェラと、ガーネットに囚われているリティルに、順番に視線を巡らせた。

「インファ!避けろ!」

リティルの声は間に合わなかった。辛うじて殺気に反応したインファだったが、真後ろからの攻撃に避けきれない。リティルとシェラの目に、インファの右腕が斬られて宙に舞う様が映った。


 断崖の城に入ったインファは、シェラの叫びを聞いた気がした。

父の名を呼んでいたように思えた。

リティ・ル──目覚めという意味の精霊の言葉だ。あんなに何度も何度も呼ぶと、起きて起きてと言っているように聞こえるなと、インファはふとそんなことを思った。

 断崖の城には、何か罠が仕掛けられていたようで、皆バラバラに分断されてしまった。父は大丈夫だろうが、カルシエーナのことが心配だった。リティルがシェラを助けにいかない選択をしたことが、不満そうだった。彼女にはまだ、その選択が信頼の上になりたっていることをわからない。そして、シェラをただ守られるだけの姫だと勘違いしている。

もしシェラが敗れるなら、他の誰が行っても結果は同じだ。

 時に無慈悲な風の王妃。彼女の異名をカルシエーナは知らないのだ。

(かぜ)(まも)(いくさ)(ひめ)──風の王を守っているのは他でもない、花の姫であるシェラだ。

そして、シェラのもとへ行かない選択をした父が、内心どうしようもなく動揺していたことにも、カルシエーナは気がついていない。平気なわけがない。リティルにとってシェラは、半身ともいえるほどに大切なのだ。誰よりも何よりも大切なのだから。

 扉を抜けると別世界であるルキルースでは、城であっても扉がない。一際大きなアーチを見つけて、インファはここが玉座の間だと思った。

 アーチをくぐると、そこはガランと広い四角い部屋だった。思った通り、玉座の代わりに巨大な石榴が鎮座する、幻夢帝の寝所だとわかった。

そして、何やら不穏なことになっているようだ。

「お兄ちゃん!お父さんとお母さんが!」

慌てたように、カルシエーナが駆け寄ってきた。視線を巡らせると、二人とも囚われているようだ。母の状況はわかるが、父は?なぜ、ガルビークの封印に飲み込まれそうになっているのだろうか。不意に、真後ろで気配が動いた。

「インファ!避けろ!」

 油断していた。カルシエーナが無事でホッとしてしまった。彼女は不安定だった。そして、ガルビークは夢を解して意識に入り込む悪夢の王だ。カルシエーナが支配されていることを、想定しておかねばならなかったというのに……。

 インファは、右腕に鋭い痛みを感じて、咄嗟に腕を押さえていた。バランスを崩して膝をついたところに、二撃目がきた。辛うじて避けたが、羽根が散る。破壊の毒が体を蝕み始めていた。超回復能力が破壊の毒を中和しようと働いてしまい、意識を集中できない今、失った右腕から流れる血が止められない。利き腕を失っては槍を握ることすらままならない。辛うじて攻撃を避け続けるが、蹌踉めいた所を狙われ、数本の髪の毛の槍に体を貫かれていた。

ああ、一生の不覚だ。父の前でこんなに血をまき散らすことになるとは……。ガルビークはどうやら、父の前で息子をいたぶる事が目的のようだ。すべて急所を外してくる。

「インファーーーーー!やめろ!やめてくれ!ガルビーク!オレの心を手に入れても、おまえは救われねーよ!自分を救えるのは、自分だけなんだ!どうしてわからねーんだよ!」

リティルの叫びで、インファは父が存在を取り込まれようとしていることを知った。リティルが抵抗しているのだろう、彼の心を屈服させるために使われているのだと、インファは思い至った。なんとかして、シェラかリティルの拘束を解きたいが、インファにはカルシエーナの攻撃を避けるだけで精一杯だった。

それでも信じていた。母が球体から抜けだそうとしているように、父も諦めないことを。

なのに、信じていたのに、インファは、信じられないリティルの言葉を聞いた。

「ガルビーク……!なら、試してみろ!オレを喰らって、試してみろよ!」

多分、追い詰められていたのだと思う。破壊の毒と、責め立てられる攻撃の嵐に、冷静さを欠いてしまったのだと、インファは後に思う。

だから、最後まで、リティルを――父を信じ抜くことができなかったのだと思う。

 カルシエーナの猛攻を辛うじて避け、床に転がったインファはユラリと立ち上がった。

――オレを喰らって試してみろ?何を、言ってるんですか?

インファは、自分の心がスウッと冷えていくのを感じていた。なのに、奥底から何か煮え滾るようなモノが湧き上がってきていた。

 リティルは、立ち上がったインファの様子に、焦りを募らせていた。

インファのなくなった右腕から、ボタボタと未だに血が流れ落ち、体を何度も貫かれ、もう全身血まみれだった。

これ以上攻撃されたら、インファが死んでしまう!

ガーネットに囚われたままでは、手も足も出ない。今、インファを救えるとしたら、眠るガルビークの精神にあえて取り込まれて、その精神をねじ伏せるしかない。

リティルのガルビークの願いを叶える言葉に、カルシエーナの猛攻が止んでいた。後一押しだ。後一押しで、ガルビークの精神と直接対決できる。

「ガルビーク!おまえのそばに行ってやる!オレを取り込め!」

背後で、ガルビークが暗く喜ぶのが感じられた。いいぞ、来い!と、リティルはガルビークと戦う気満々だった。

「父さん、オレ達を捨てるんですか?」

ガルビークに存在を捧げる発言をしたリティルは、インファのつぶやくような声にハッとした。そして、耳を疑った。

オレが、インファを捨てる?そんなつもりさらさらなかったリティルは、なぜそう思われたのかわからずに混乱していた。故に、インファに信じろとすぐに叫べなかった。

「冗談ではありませんよ……父さん……そんな選択をさせるくらいなら、オレはここで、死にます!」

叫ぶインファの瞳が、リティルを射抜いた。インファのこんな感情的な瞳をリティルは見たことがなかった。息子が、本気で怒ったその瞳に、リティルは言葉を失った。

そして、信じてくれていた息子の信頼を踏みにじり、裏切ってしまったことを知った。

肩で息をするインファには、もう闘う力は残っていなかった。そう見えるのに、その瞳だけが爛々と輝き、とても死を覚悟しているようには見えなかった。

カルシエーナの無数の槍が、インファの心を砕こうと無慈悲に迫る。

「許しませんよ。父さん!あなたが諦めることは、このオレが、許しません!」

インファの周りの空気が、電気を帯びて白い閃光が時折閃いた。どこにそんな力が残っていたのか、インファの周りには金色の風が渦巻き、カルシエーナの髪を切り裂く。閃光が閃き、インファの髪を束ねていた紐を焼き切った。荒れ狂う白い雷がシェラを捕らえている球体を割った。

 インファの長い髪が、吹き荒れる風を染めるようになびく。怒りのような憎しみのような感情のこもった瞳が、リティルをずっと睨んでいた。リティルはインファに向けられたことのない感情を目の当たりにして、いつも冷静な息子の中にも、こんな激情があるのだと知った。

こんな暴走とも取れる無茶な力を止めなくてはならないのに、言葉も思考も何もかも失って、ただ命をすり減らしていくインファを、リティルは見ていることしかできなかった。

 荒れ狂う金色の風の中、一際鋭く閃光が閃いたかと思うと、空間が一文字に切り裂かれていた。

唐突に嵐が止み、インファの瞳がフッと閉じられた。意識を失った体がドッと床に倒れる瞬間、切り裂かれた空間から飛びだしてきた黒い固まりが、インファの体を抱き留めていた。それは、ケルディアスだった。インファの閃光が時空を切り裂き、歪められた空間をここへ繋げたのだ。

インファを抱き留め膝を折ったケルゥにも、カルシエーナの槍は迫った。刹那、鋭い金色の刃と銀色の輪が閃いて、髪は切り裂かれていた。そして、トンットンッと軽くインファ達の前にノインとスワロメイラが立ちはだかった。間髪入れずに迫り来る髪の毛の槍を、長剣で切り裂いたノインは、睨むその眼力だけで風を操り、カルシエーナを壁に叩きつけた。そして、彼女が動き出す前に間合いを詰めると、その口と鼻を大きな手で塞いだ。息を奪われてカルシエーナはしばらく暴れていたが、次第にその体が動かなくなる。窒息させて、意識を奪ったのだ。

その鮮やかすぎる攻撃に見とれていたリティルすれすれに、白い光の固まりが突き刺さってきた。何本も何本も打ち込まれ、リティルを捕らえている赤い球体を割る。体を貫いていた無数の針は凍り付き、砕けて消えていった。

 やっと抜け出したリティルは、ノインに掴まれて連れ戻されていた。

「シェラ、ありがとな!」

「間に合わなくて、ごめんなさい。インファをお願い。今のインファには、あなたと、あなたの霊力が必要よ」

白い弓を引いたシェラのそばに舞い降りたリティルは、ケルゥに失った腕を再生してもらっているインファを、ひったくるように抱きしめていた。インファは辛うじて生きている。そんな状態だった。

「ごめんな、インファ……ごめん……父さんを、許してくれ……」

存在が希薄になっていくのがわかる。ここまでインファを追い詰めてしまったことを、リティルは悔やんでいた。このままではインファは消滅する。ケルゥが再生の力を使ってくれていたが、どうにも芳しくない。

「逝かないでくれ、インファ!逝くなあああああ!」

叫んだリティルの翼が輝きを増す。ケルゥは力が引っ張られるのを感じた。リティルが自分の霊力とケルゥの再生の力を混ぜ合わせてインファに送っているのだとわかった。こんな力の使い方があるなんて、ケルゥは知らなかった。

──シェラ……力を貸してください……

シェラは透き通った声を聞いた。いつ動き出すかわからない敵を警戒していたシェラの肩に、ノインの手が置かれた。ノインを見ると彼は、静かに頷いた。彼女の声は、ノインにも聞こえていたのだ。スワロメイラもいてくれる。シェラは前線を離れた。


 リティルの腕の中でインファの気配が崩れ始めていた。リティルの呼びかけにも、インファの魂は答えなかった。まるで拒絶されているようで、リティルはどうすればインファに許されるのか必死に考えていた。

――父さん、またこんな傷を負って……だからオレも行くと言ったんですよ?

インファはいつも、無駄に傷つくリティルを案じ、ヤンワリと困ったように笑って諫めてくれていた。インファは本当は、そんな父を声を荒げて叱りたかったのかもしれない。けれども、インファはそうしなかった。リティルはそういう人だからと認めて、ならばどうすればサポートできるのかと、考えてくれていた。それは、リティルが絶対に死なないと信じてくれていたからだ。

あの場面で軽率だった。リティルは、自分を犠牲にして、インファを救おうと思ったわけではなかった。一か八かだったが、ガルビークのそばに行き、とりあえずインファへの拷問をやめさせようと思った。その後は、説得なり勝負するなりしようと思っていた。

あの状態で、インファを苦痛から解放するには、ガルビークの願いを叶えて、リティルが彼のそばに行くしか思いつかなかったのだ。

それが、インファには、諦めたと映ってしまったのだ。普段、危うい戦い方をしてきたツケが、今、回ってきてしまった。

「インファ……オレはオレを、諦めたわけじゃねーんだ!おまえを――守りたかったんだ!インファ!インファ……戻ってきてくれ!」

引き留められない!もう、手遅れだとわかってしまっていた。リティルは、無数の金色の光の粒となって消えていくインファを、ただ抱きしめてやることしかできなかった。

 そんな打ちひしがれたリティルの背に、そっと希薄なモノが触れた。

「レシェラ……?」

触れてきた者が誰なのか、リティルには自然とわかった。ドッと流れ込んできた力に、意識を持っていかれそうになって、リティルは歯を食いしばると慌てて耐えた。花の姫二人分の透明な霊力を風に変換して、インファに流し込む。リティルはこの二人――シェラとレシェラは紛れもなく姉妹だと思った。信頼されているのかもしれないが、これだけ大量の霊力を流し込まれては、こっちの身が保たないというのに、無茶を平気でさせる。

「インファ?インファ!戻って……きてくれたのか?」

リティルは腕を掴まれた感触に、顔を上げた。インファの手が確かな存在感を持って、リティルの抱きしめている腕を掴んでいた。まるで、行かないでとでも言うように。

しかし、その手はすぐに力を失って、パタリと床に落ちた。けれども、体温も、鼓動も、呼吸も戻ってきていた。

『もう、大丈夫……』

スウッと希薄な気配が離れるのを感じて、リティルは咄嗟に掴んでいた。そして振り向くと、もう殆ど透明な女が、驚いた顔でこちらを見ていた。シェラに似た面立ちの、シェラよりも派手な女神だった。空気に溶けそうなほど透明な、緑の波打つ髪が風もないのにたゆたっていた。

「逃がさねーよ!レシェラ、オレは、オレ達は、ルディルに代わって君を解放するために、今まで生きてきたんだ!ルディルがあのあとどうなったのか、知ってるか?知らねーよな?君はずっと、眠るガルビークのそばにいたんだからな。ルディルはな、死ぬこともできないで、まだどこかにいる!何があってこうなってるのか、オレにはわからねーよ。でもな、わかることが一つあるんだ。ルディルは今でも君を待ってる!王の力も、名前も捨てて、君を待ってる。オレ達風の王は、償うために罪の物語を継いでるわけじゃねーんだ。君を連れ戻す為に、ルディルと今でも繋がってるんだよ」

必死だった。自分が何を言っているのかわからなかった。それでも、彼女を放してはいけないと思った。また、記憶が蘇ってきていた。インファを抱きしめたまま、リティルはレシェラも掴んで放さなかった。

『わたしは、あの人を裏切ってしまった……もう、あの人の腕に帰れません……。わたしはあのとき、ガルビークを庇ってしまったの。ルディルの傷ついた瞳……忘れられないわ。あの人がわたしを待っているなんて、信じられない……。それほど非道く、傷付けてしまったのよ!』

ガルビークを封印したのは、レシェラだったのだ。原初の風が、ガルビークにトドメを刺すその瞬間彼女はそれを止め、原初の風が大罪を犯すことを阻止したのだと、リティルは知った。

「君がガルビークを封印してたんだな?ルディルは踏みとどまったわけじゃなくて、君に救われたのか。全部わかってるぜ?ルディルは、君の残酷な優しさ全部わかってた。それでも、ショックだよ。傷付けた相手を庇われたらな。オレだってたぶん、勝手にしろって言うぜ?それで後悔するんだ。もう、逢えねーのにな。ルディルは、君を解放できる風の王を待ってたんだ。条件を満たした風の王に、記憶が蘇るように道しるべを残してな。けど、どうしてオレだったんだ?」

リティルの中に、姿なき声が蘇っていた。レシェラを解放してやってほしいと。短い言葉だったが、レシェラを想う心を確かに感じた。その声色から、ルディルは怒っていないと、リティルは確信していた。

『たぶん、ガルビークを目覚めさせることができたからよ』

「へ?オレ、何もしてないぜ?」

『あなたの名前よ。シェラがあなたを呼ぶ声が、ガルビークには、起きて起きてと聞こえてしまったのよ』

「ハハ、こんな名前でごめんな。オレはまだ、ルディルに辿りつけねーけど、いつか!必ず!あいつを見つけ出してやる!だから、帰ってやれよ!可哀相だろ!あのとき、君から目をそらしたことを、ルディルは悔やんでる。あのとき、君のそばから離れちゃいけなかったんだ。それが……できなかった。君もルディルも、ガルビークなんか放っておいて、向き合うべきだったんだよ!」

『ルディルは、わたしを許してくれる?怖いの……あの人に逢うことが怖い……穢れたわたしを、本当に待っていてくれるの?わたしのために怒ってくれたあの人を、裏切ったわたしを!そんなはずない……そんなはずないわ!』

泣きそうな顔で、首を横に振るレシェラを掴む手に、リティルは力を込めた。

「初めから怒ってねーよ。ただ、取り戻したかっただけだ。恐れないでやってくれよ。ルディルは今でも、君が一番大事なんだ。それを、君が一番よくわかってるんじゃねーのか?どうなんだよ?レシェラ!」

レシェラの美しい顔が不意に歪んだ。そして、見えない涙を流した。

──ごめんなさい!ごめんなさい!ルディル!

──もういい。もういいんだ!レシェラ!おまえは、何度言ったらわかるんだ?愛していると、このオレが言ってるんだ!なぜ、わからない?レシェラ!

ガルビークを封印して離れ離れになっても、彼とはゲートで繋がっていた。謝罪しか繰り返さないレシェラに、ルディルは何度も何度も叫んでくれた。大好きだった彼の声が聞こえないように、レシェラはいつしか耳を塞ぐようになった。大好きな人の声すら、レシェラには苦痛になってしまった。傷付けられたこの身が、許せなかった。

──愛してる!愛している、レシェラ!おい、聞いてるのか?レシェラ!

答えないレシェラに、一方的に繰り返される愛の言葉。

普段、こんな言葉を連呼する人ではない。もの凄く恥ずかしかっただろうに、触れられない、逢えないでは、言葉を尽くすしかないとルディルは形振り構わずにぶつかってくれた。なのに、レシェラは一方的にゲートを閉じた。

「姉様、わたしの羽根にいてください。わたしが、あなたを十五代目風の王と共に、原初の風の所に連れて行きます。帰ってあげて。わたしも花の姫です。風の王の妻です!あなたは今でも変わりなく、ルディルを愛しているでしょう?」

──今でも変わりなく……ルディルを──

レシェラは顔を覆って、素直に頷いた。

『わたしがここを去れば、ガルビークは意識だけでなく完全に目覚めてしまいます。衰えたとはいえ、強力な王よ。策はあるの?』

「策なんかねーよ。いつも、行き当たりばったりだぜ。……なあレシェラ、おまえの目から見て、ガルビークとテティシアは愛し合ってたか?」

『ええ。もちろん。でなければ、ガルビークがあんなに怒るはずないわ』

あんなに、壊れてしまうはずがないとレシェラは言い切った。

「そっか。なら、何とかなるかもな。よし!行ってくるぜ!」

リティルは何かを思いついたようで、よし!と気合いを入れると、インファを横たえて元気に立ち上がった。

『お願いリティル……無事に戻って……』

レシェラの姿が揺らめいて、シェラの羽根に吸い込まれた。

「シェラ、インファを頼むな」

「ええ、導いてあげて」

リティルは頷くと、シェラを一度だけ強く抱きしめた。そして、ノイン達のいる前線へ飛んだ。

 

 カルシエーナはずっと暗闇にいた。

もう、何を信じればいいのかわからなくなっていた。球体の中に囚われたシェラを、リティルよりも早く見つけたのは、カルシエーナだった。彼女の乱れた姿を見て、カルシエーナの中で何かが切れてしまった。

裏切った母と笑い合う父を見て、怒りが湧いた。どうして、罰しない?許せるわけない。

けれども、この感情が本当に自分のモノなのかよくわからなかった。

「カルシエーナ、リティルの心が理解できねぇのかぁ?」

暗闇の中に、白い髪の大男が音もなく舞い降りた。

「すげぇよなぁ。絶対に癒えない傷ごと、愛すなんてできねぇぜぇ?しかも、シェラが自分を許せないなら、オレも殺して連れて行けなんてなぁ。そりゃ、シェラはリティルから離れらんねぇよなぁ」

ケルゥは哀しそうに笑った。

「あいつの愛の十分の一でもありゃぁ、ガルビークとテティシアは違ったんかなぁ?おめぇは?許すあいつが、おかしいと思うんかぁ?」

ケルゥは、カルシエーナの目の前に立った。

「それともおめぇは、シェラが羨ましいんかぁ?」

温かく揺るがない愛を得られるシェラが……

盲目的で真っ直ぐな愛で包めるリティルが……

「すまねぇな、オレ様にゃあ、自信ねぇなぁ」

それでも……

「それでも、おめぇが好きなんだ。戻って来いよぉ、カルシエーナ」

ケルゥが手を差し出した。

「こんなオレ様でもよけりゃぁなぁ」

カルシエーナは差し出された手を見つめていた。

「わたしでいいのか?」

「いいから、来たんだけどよぉ?」

「わたしで……いいのか?」

「泣くほど嫌なんかぁ?オレ様のこと、嫌いでもいいからよぉ。せめて、戻れよ」

ズイッとケルゥは手を差し出した。カルシエーナはなぜ泣いているのかわからないまま、顔を上げてやっとケルゥの顔を見た。

「わたしがケルゥにイライラするのはたぶん、嫌いなのではなくて、好きだからなんだ」

カルシエーナはケルゥの差し出した手を取った。


 「あっちは終わったな!ノイン、スワロメイラ!ちょっとの間、ガルビークと遊んでられるか?」

ガーネットの石榴が消え、肉体のあるガルビークとリティル達は闘っていた。ケルゥは、ノインに意識を奪われたカルシエーナを連れ戻すと言って、行ってしまった。どうやら上手くいったらしいことは、何となくわかった。

「ウチが壊れる前に戻ってよね!」

「ハハ、善処するぜ。ノイン、頼むな!」

「了解した」

ガルビークは狂気の瞳で、リティルだけを付け狙っていた。ガルビークの爪を弾き、後ろへ下がったリティルを追わせないように、二人は行く手を阻む。

 距離を取ったリティルはナーガニアにもらった神樹の実を風から取り出すと、ふわりと風の中に浮かせた。留まる金色の風に左翼の羽根を舞わせる。

そして、風の奏でる歌を小さな魔水晶の笛で奏で始めた。その旋律に、シェラの歌声が重なった。

──心に 風を 魂に 歌を 苦しいのなら その目を閉じて

──永遠の 眠りに 手を伸ばしてもいい

──再び 目覚める その日を わたしは夢見て 待っているから――……

「起こして悪いな。でもな、君にも責任の一端があるんだぜ?ユグラテティシア」

バラの香りがする。不意に香った花の香りに、ガルビークの攻撃の手が緩まった。

『ガルビーク』

その声は、呪いだった。戯れに出たセクルースで、彼女に出会わなければ心が壊れることはなかったのに。


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