六章 夢見る世界
リティルもノインも、咄嗟に動けなかった。
それほどカルシエーナの笑みが、透き通っていたからだ。
彼女の髪が無数の槍を形作り、放たれていた。彼女自身のその体に。
「──落ち着けよぉ」
無数の槍は彼女の体を貫けなかった。カルシエーナは震える瞳で、ケルゥの背中に突き刺さった槍を見ていた。ケルゥはカルシエーナを抱きしめて、彼女を守っていた。
「ケルゥ!はな……離れて!わたしは、わたしには抗えない!みんなを傷付けたくない。痛みがあれば止まる!こうするしか……こうするしかないんだ!」
「じゃあよぉ、オレ様を壊してから、心ゆくまで壊しゃぁいい」
「なぜ?なぜ今更優しくするの……?わたしは、セビリアと同じなのに」
「同じじゃぁねぇよぉ。姉弟じゃぁなくなった」
何の問題が?抱きしめられたまま、カルシエーナはケルゥが何を言いたいのかわからなかった。きっと、理解できる者などいなかっただろう。
「オレ様、恋愛感情があるって言ったろう?なんで、わかったか知ってっかぁ?」
こんなときに、何の話をしているのだろうか。本当に理解不能な男だと、カルシエーナは思った。
「オレ様とおめぇは、一心同体なんだ。やっと忌まわしい血縁が消えたぜぇ。これで、心置きなく、おめぇを手に入れられるってもんだぁ」
カルシエーナは瞳を見開いた。唐突すぎてついていけなかった。ケルゥに何をされているのか、それすら理解することに時間がかかった。リティルが力任せに、ケルゥの頭を殴ってくれなければ、どうなっていたのだろうか。
「おまえは……ものには順序ってものがあるだろうが!」
リティルは、いきなりカルシエーナの唇を奪ったケルゥに、反射的にツッコミを入れていた。殴られた衝撃でケルゥの手が緩み、カルシエーナは咄嗟に逃げ出していた。とにかく離れなければと、一番近くにいたノインの後ろに隠れる。ノインは何も言わなかったが、守ってくれる気はあるようだった。
「リティル、止めるなやぁ!オレ様なぁ、カルシエーナを手に入れにゃぁなんねぇんだぁ!」
「知らねーよ!カルシエーナも、迷惑だぜ!恋愛感情あるんだったら、わかるだろうが!落ち着けって、カルシエーナは元人間だぜ?グロウタースの民は繊細だぜ?強引に行ったら嫌われるぜ?それでもいいのかよ!」
そう怒鳴られて、ケルゥはやっと我に返ったようだった。
「嫌われるのは、困るなぁ。けどなぁ、破壊の衝動を抑えられるのは、オレ様だけなんだよなぁ」
「もっと他に方法ねーのかよ?だあああ!おまえら、風の城に来い。バカバカしくてやってられねーよ」
リティルは盛大に溜息をついた。
「ケルゥ、カルシーの半径一メートル以内に近づくな。近づいたら、お仕置きな!」
「リティル、そりゃないぜぇ!」
「うるせー!いきなり盛ってんじゃねーよ」
ぎゃーぎゃーと言い合っていると、目を覚ましたインファが近づいてきた。
「何の騒ぎですか?」
まだ眠そうで、彼にしては珍しく、リティルの前で思わず欠伸をした。
「インファ、帰ったら話す。まだ本調子じゃねーだろうけど、疲れる話だから悪いな」
リティルは疲れた顔で、溜息交じりにインファをすまなさそうに見た。インファは顔をしかめると、仕方ないと首を小さく横に振った。
「はあ、そうですか。では、帰りますか」
頷いたリティルは、レジナリネイに礼を言うためか、佇む彼女の方へ行ってしまった。スワロメイラも交えて、何事か話した後、レジナリネイに手を振ってスワロメイラと戻ってきた。
「さあ、帰ろうぜ?風の城へ」
カルシエーナは、落ち着いたブラウンの絨毯の引かれた広い廊下を、息を切らしながら走っていた。
窓から落ちる日の光が、四角く格子に仕切られながら、等間隔に廊下を照らしていた。
セビリアとのあの戦いから、二ヶ月が過ぎていた。カルシエーナはそのまま風の城に滞在し、インファの兄弟達と友のように、兄弟のように接していた。
「レイシ!助けてー!」
廊下の先に、風の城では異質な茶色い髪の青年がいた。レイシは振り返ると、目を丸くして息を飲んだ。
「わああ!オレじゃ無理だってー!」
カルシエーナに背中に隠れられ、レイシは悲鳴を上げた。本気で泣きそうなレイシは、それでも、ズンズンと殺気だってやってくるケルゥから逃げなかった。
「レ~イ~シ~!邪魔、しねぇよなぁ?」
「ひー!お、おお、落ち着こう?」
赤い瞳の凶悪犯罪者に真上から詰め寄られて、レイシは真っ青だった。それでも、レイシは逃げなかった。
「またですか?ケルディアス」
レイシに迫っていたケルゥは、冷ややかな声を聞いて一瞬で背筋を正した。
「あ、兄貴~」
レイシとカルシエーナは、サッとインファの背に隠れた。
「ナシャのクスリで、カルシエーナの破壊衝動は抑えられているでしょう?なぜ、そんなにキスしたいんですか?」
「そりゃぁ……好きだから」
ケロッと即答するケルゥに、インファとレイシは脱力した。
「ふざけるな!おまえが好きなのは、きっと、その、わたしじゃない!ケルゥのバカ!」
カルシエーナは怒りの声を上げると、廊下を走って行ってしまう。インファはレイシの肩をポンと叩くと、弟はすぐに頷き後を追っていった。インファは溜息をつくと、ケルゥをジロリと睨んだ。
「ちゃんと口説いてください。まったくもって、伝わっていませんよ?グロウタースの民の十七歳を、もっと勉強したほうがいいですよ?」
カルシエーナは精霊になったとはいえ、まだ十七年しか生きていない少女だった。境遇のせいで、今やっと人並みな感情を手に入れたばかりで、恋愛などできるような精神状態にはない。
「兄ちゃんには懐いてるのに、何でオレ様じゃダメなんだぁ!」
「それは、オレが兄として認識されているからです。うかうかしていると、レイシに攫われますよ?戦いに明け暮れる殺伐としたオレ達より、レイシはフワフワしてますから。見た目年齢的にも見合っていますし」
ケルゥはそれを聞いて、その場に座り込んでしまった。
「やっぱ、そう思うよなぁ?オレ様、兄ちゃんやノインと同じくらいだもんよぉ」
「見た目だけなら、あなたが一番上ですかね?どうします?あきらめますか?」
二五才くらいの容姿のインファから見て、ケルゥは三〇歳前後に見える。精神年齢はもう少し低そうだが……。
そして、カルシエーナは十七歳。見た目年齢だけなら、親子ほどに違う。
「んなわけねぇ」
「そうでしょうね。それを聞いて安心しました。ところで、カルシエーナの何が好きなんですか?完全に誤解しているようですが、地雷でも踏んだんですか?」
何が好き?と問われて、座り込んだケルゥはうーんと唸った。しかし、答えは出なかった。カルシエーナが誤解する切っ掛けの言葉や行動にも、思い当たることはなかった。
考え込んだケルゥを、沈黙で見守っていたインファは、ふと風の声を聞いた。
「父さんが戻ってきたようですね。一緒に行きますか?」
「おうよ!青い焔がどうなってたか、聞きてぇ」
ガバッと立ち上がったケルゥは、子供のようにウキウキしながらインファと並んで歩いた。容姿的にはインファよりも上に見えるのに、中身は子犬だなとインファは苦笑した。
石の扉を押し開けて、リティルは応接間に帰ってきた。
「おかえりなさい」
「ただいま、シェラ」
リティルは少し疲れた顔で、出迎えてくれたシェラを抱きしめた。その足下をすり抜けて、ナシャがトコトコと先にソファーに座った。儀式のような抱擁を終えて、風の王夫婦もソファーに向かう。
ソファーには、ノインがいて鳩たちと書類の整理をしていてくれていた。インの知識を持っているノインは、当然のように風の王の仕事を代行できるのだった。
顔を上げたノインが、お帰りと言ってくれ、リティルはただいまと返した。
「まだ、原因がわからないのね?」
仕事帰りの二人とノインにお茶を淹れながら、シェラは疲れ以外の感情の見えないリティルに尋ねた。
「ん?ああ、せっかく、ナシャに付き合ってもらったんだけどな、収穫なしなんだよな」
「あれ、毒とも病気とも違うよ。どこかに、開きっぱなしのルキルースのゲートがあるんじゃないかな?咽せるくらい幻夢の霧が充満してたし」
ナシャは、シェラの淹れてくれた紅茶に角砂糖を一〇個ほど入れながら答えた。
グロウタースにある、万年戦争大陸・青い焔は、未だ眠り病の渦中にあった。セビリアの件で、うやむやになってしまっていたが、元々は眠り病を解くために、リティルはルキルースへ行ったのだ。ルキルースにもあのあと行ったが、手がかりは掴めず、毒の精霊だが、医者的なスキルも持ち合わせているナシャを連れて、今回は青い焔に行ってきたのだった。
「シェラ、問題のあいつら、どうしてる?」
そういえばと、リティルは気分を変えたいと言いたげに、シェラに尋ねた。
「ケルゥとカルシーね?ケルゥったら、わたしよりもヒドイ追いかけ方をして、逃げられているわ」
シェラはフフフと、微笑ましいと言いたげに笑っていた。
「君のは情熱的って言うんだぜ?」
リティルは紅茶の入ったカップを置くと、隣に座るシェラの髪を一房すくい上げた。
「イチャイチャしたいなら、オイラあっちに行ってようか?」
紅茶を啜りながら、ナシャは言葉とは裏腹に、動く気はなさそうな様子だった。ナシャに釘を刺され、リティルはぱっとシェラの髪から手を放した。
「悪かったよ。拗ねるなよな。ナシャ、眠ってる奴らを起こすことは、できるんだよな?」
「うん。でも、すぐにまた眠っちゃうと思う。リティルもクスリ飲んでなかったら、寝ちゃってたと思うよ?それくらい、濃いんだ。ルキルースの精霊じゃなくちゃ、あんな中まともに動けないよ」
「ルキルースの精霊か……そもそもルキルースのゲートを開いたのは、カルシーなんだよな……あいつが、関係してるのか?けどなあ、あいつも眠り病をどうにかしたくて、ルキルースに来たんだよな……あー!わからねー!」
リティルは頭を抱えた。
「リティル、少し落ち着け。住人が眠っている原因は、幻夢の霧とみて間違いない。あとは、それがどこから来ているのか突き止めるだけだ」
見かねたノインが、簡潔に問題を定義してくれた。
「ノイン、ゲートらしいものがねーんだよ。ナシャも感じねーっていうんだよ」
リティルは、ノインにすがるような視線を送った。
「行ってみないことには、我も何とも言えないが、あれだけの規模だ。霧の発生源は一つではないかもしれない」
「それは、ゲートが一つじゃねーってことか?」
リティルの言葉に、ノインは次の言葉を続けるべきかを、思案するような素振りを見せた。
そんな時、城の奥に続く扉が開く気配に、リティルはソファーの背もたれに頭を置いてそちらを見やった。
逆さまに見える彼の視界に、十メートルほど先にある扉を開けて入ってくる、インファの姿が映った。その後ろにはケルゥもいる。インファは翼を広げると、すぐにソファーのそばまで飛んできた。
「おかえりなさい、父さん、ナシャ。……収穫はなかったようですね?」
ソファーの背もたれに、頭を置いたまま見上げてくるリティルに、インファは思わしくないことを察したようだった。
「そうなんだよ。インファ、ノイン、助けてくれねーか?」
もうお手上げだと、リティルは副官と補佐官の名を呼んだ。
「了解した」「了解しました」
名を呼ばれた二人は同時に風の王に答えた。
風の王から報告を聞き、ノインの隣に座ったインファは彼と顔を見合わせた。インと容姿の似ている二人だが、インファの方がノインよりもいくらか若く背もいくらか低い。
「そういえば、カルシエーナを追ったとき、ルキルースへのゲートが開いたままになっていましたが、ルキルースへのゲートは自然に閉じないモノなんですか?」
「開いた原因がわからないから、憶測でしかないけれど、開いた人が閉じないでと念じれば、しばらく開いたままにしておけるわ。たぶん、開いてから、そんなに時が経っていなかったのではないかしら?」
ゲートの固定には、鏡や水鏡のように風景を映すものが必要になる。それは、なかなか閉じないでと、念じ続けることが困難だからだった。
「では、自然に閉じるということなんですね?幻夢の霧が未だに晴れていないことを考えると、ゲートが固定されているんでしょうか?母さんやナーガニア以外に、そんなことができる精霊がいるんでしょうか?」
シェラは首を横に振った。
「わたしと母様以外に、できる精霊はいないわ。次元の力を持った魔導具でもあれば別だけれど」
「魔導具か。しかし、青い焔は神樹から遠い地だ。その線は低いだろう」
神樹とも、シェラとも接点がないとノインは言った。魔導具は、精霊の力を借りるか、精霊の協力者でなければ作り出すことはできないのだった。
「そもそもゲートだぜ?ナーガニアもシェラも関わらねーで、どうやって開くんだよ?神樹に縁のある精霊以外、開けねーんじゃねーのかよ?」
セクルースからルキルースに行くのとはわけが違うと、リティルは頬杖をついた。
「そうとはいえないかな?ルキルースはグロウタースと、夢を解して繋がっちゃうことがあるんだよ。逢魔が時って聞いたことない?そうだとすると、あの眠ってる住人の中の誰かが、まんまゲートって事もあり得るかもね」
ナシャは、クッキーを食べながら会話に混ざった。
逢魔が時――昼と夜の一瞬の隙間。世界の支配者が変わるその刹那、ルキルースはグロウタースに一瞬重なる。そのとき、夢魔に興味を持たれると、その者はルキルースと繋がってしまうと言われている。
「住人がゲートだった場合、一人一人確かめるしかないんでしょうか?百年くらいかかりますかね」
「やってられねーな。一度霧を一掃して、湧いてる所を見つけた方が早えーな」
オレ達三人ならできねーか?と問われて、インファは苦言を呈した。
「それをやれば、金色の大惨事になりますよ?」
「もう、天変地異なんだからいいじゃねーか。いい加減、面倒くせーんだよ。ちまちまと」
リティルは投げ遣りだった。そんな父の様子に、インファは苦笑した。
「父さんは頭を使うのは苦手ですからね。いっそ、オレとノインが担当しましょうか?」
「おまえ、城のゴタゴタ引き受けてくれてるだろ?そんなに押しつけられるかよ」
「その代わりに父さんは、ここ二ヶ月出突っ張りじゃないですか。今回は調査だけですから、負担ではありませんよ。むしろ、気分転換に丁度いいです」
「我も構わない。リティル、しばし休め」
インファはノインに目配せすると、うなずき合って立ち上がった。
そんな二人に、ナシャはそっと手を差し出した。彼の手の平に、緑色の葉っぱの形のような光が集まったかと思うと、手の平に透明なセロファンに包まれた、丸いモノが乗っていた。
「インファ兄、これ、リティル薬。これがないと、寝ちゃうからね。ちゃんと飲んでね」
ナシャは黄色のあめ玉のようなものを、インファに手渡した。
「ナシャ、薬に変な名前つけるなよな」
「目を覚ます薬だから、リティル薬。変な名前なリティルが悪い。なんで風の精霊なのに、そんな名前なのさ?」
「さあなあ、オレに名前をつけた奴は、もういねーからな」
リティルは天井を見上げた。その様子に、ナシャは名をつけたのがインであることを知った。地雷を踏んだと焦っているようなナシャの様子に、インファは小さく微笑んだ。
「目覚め、ですか。父さんは人の心に波風立てるのが得意ですから、言い得て妙だと思いますよ?オレは好きです。では、行ってきます」
インファの言葉に、リティルは波風ってなんだよ?と苦笑した。自覚ないんですか?と笑いながら、インファとノインは出かけていった。
「インファ兄、すごいよね。でもさあ、城のゴタゴタ、リティルの方が適任なんじゃないの?ケルディアス、さっきからキモい。リティルに話しあるなら、オイラもう行くね」
ナシャはクッキーの皿を遠慮なく持つと、ガラス戸を開けて応接間を出て行った。
「インファ……ナシャにまで兄貴って呼ばれてるのかよ?」
「ナシャは精霊だもの。リティルをお父さんとは呼べないわ。ケルゥ、リティルに聞いて欲しいことあるんでしょう?わたしも席を外すから、何かあったら中庭にきてね」
シェラはふんわり笑うと、ナシャを追うように中庭へ出て行った。
リティルは小さく息を吐くと、ケルゥに視線を向けた。
「で?」
「でぇ?」
「話あるんじゃねーのかよ?カルシーか?青い焔か?両方か?」
青い焔と聞いて、ケルゥはのっそりと身をかがめた。
「リティルよぉ、青い焔、変だよなぁ?カルシエーナなぁ、青い焔にゲートを開いてねぇって言ってたんだよなぁ」
「そうなのか?オレはてっきり……じゃあ、カルシーをルキルースへ導いたのは、誰なんだ?わからねーな。わからねーことだらけだな」
何が起きてるんだ?と、リティルは頬杖をついて唸った。
「あの大陸が戦争になった理由、知ってっかぁ?」
「いや。理由なんてあるのかよ?」
「水だ」
「水?そういや、カラッカラだったな。あの土地は、昔はそうじゃなかったのかよ?」
あの大陸は、一部水のある場所があり、その場所を巡って戦っているようだった。
「あの大陸の水を破壊したのはなぁ、セビリアなんだ。インと会ったのがあの大陸だったって言っただろう?インは調査に来てなぁ、オレ様達に出会ったんだ。今のオレ様なら水、再生させられっかなぁ?そしたら、戦争止まるんかなぁ?」
ケルゥは、ずいぶん優しくなったなぁと、リティルは思った。出会った頃は、自分以外のことに興味がなかったのに、今はこちらの仕事のことまで気にしてくれていた。
この変化は、インファの影響かもしれない。インファは知識欲の塊だ。暇さえあれば本を読み漁っている。もし今、休暇をやれば、おそらくルキルースへ飛んでいって、しばらく戻ってこないだろう。大地の精霊に生まれていれば、幸せだっただろうなと思ってしまうほどだ。
大地の王・ユグラとその配下の精霊達の仕事は、歴史の保管だ。
あの城には、世界中の専門知識が集まる。それを、整理、分類、加筆、修正して、蓄積していく。大地の城の地下には、それらを収める保管所があるのだそうだ。
そこには、この青い焔の歴史も眠っている。リティル達が眠り病を解決できれば、その歴史に書き加えられるだろう。
大地の城にある知識は、終わった事柄だけだ。対して風の城に集まるのは、知識とはまだ呼べないような最先端の事柄だ。そういえば、インファは、終わったことより、これからを切り開く方が好きだと言っていたなと、思い出した。知識は、切り開くのに必要だからほしいのだと。
ああ、彼は根っからの風の精霊だ。風の仕事は、戦うだけではなく、事象の調査、解決も含まれる。眠り病のことは、早くインファに任せればよかったと、リティルは今更ながら思った。
「水は発端だったかもしれねーけど、もう途方もねーくらい長く、いがみ合っちまってるからな、難しいかもなあ。でもまあ、長く時間をかけて収まるかもしれねーよ。オレにできるのは、見守ることだけだ」
リティルは高いシャンデリアを見上げた。
優しくなったからこそ、リティルは気になっていることがあった。
「なあ、ケルゥ、そろそろ教えろよ。何隠してるんだ?おまえのカルシーに対する態度、おかしいだろ?おまえ、あいつの中に居るのがセビリアだってわかったとき、殺そうとしてたよな?とても、セビリアが好きだったようには見えなかったぜ?」
ケルゥは、自分の家族のことを語りたがらない。嫌なのでなく、どうも思い出自体が少ないから、語れないといった風に見えた。一緒に暮らしていなかったのか?とも思ったが、そうでもないらしい。ならばなぜ、そんなに希薄なのだろうかと、リティルは疑問に思っていた。
ケルゥはリティルから視線を外して、考えあぐねいたが、観念したようにリティルに視線を戻した。
「破壊の衝動は、どうあっても止まらねぇ。セビリアはオレ様と殺し合って、それで何とか自分を保っていやがった。その関係が壊れたのがなぁ、青い焔での一件だ。オレ様がインに縋りさえしなけりゃぁ、セビリアは……。再生の力は、破壊と対になっていやがる。オレ様がそばにいりゃぁ、カルシエーナはあのままでいられるかもしれねぇんだ。あのヤロウ、おめぇや兄ちゃんを壊したくなくて、自分を壊そうとしやがった。あんなん見せられたらよぉ、オレ様だって罪悪感くらい持つぜぇ」
それを聞いたリティルは、腕を組んでジロリとケルゥを睨んだ。
「おまえ、それ、完全に間違ってるぜ?そんな感情で、あいつと永遠に一緒にいるつもりなのかよ?はっきり言うぜ。無理だ。そんな感情で、一緒になんていられねーよ」
何も、恋愛関係になれと言っているわけではない。インファとケルゥの関係のように、兄弟のように、リティルとケルゥの関係のように、友として、それだって一緒にいる理由としては十分だ。しかしそれらの関係に、罪悪感や同情のような感情は皆無だ。ただ、相手が好きで一緒にいたいと思っているだけだ。
ケルゥは、好きだと口にしていたのに、心なんてないと否定する。リティルはケルゥの本心がどこにあるのか、まだ見抜くことができなかった。
「じゃあよぉ!カルシエーナは、ずっとナシャの世話んなるんかぁ?この城にいたら、レイシとそうなるかもしれねぇ。そうなる前に、おめぇは決断しなけりゃならなくなるんだぜぇ?おめぇは、レイシしか選べねぇだろうが!」
はあ?レイシ?ナイト気取りのインリーがベッタリくっついているレイシと、カルシエーナがどうこうなるわけねーだろ!と、リティルは内心呆れた。
何を焦っているんだ?この男は……。レイシが引き合いに出されるくらいだ、ケルゥが否定した感情はどうやらありそうだが、だったら別に、引け目を感じることはないのでは?とリティルには思われた。
「レイシとって、飛躍しすぎだろ……。じゃあ、聞くけどな。おまえ、カルシーのこと、微塵も好きじゃねーのかよ?」
ケルゥの赤い瞳が、苦しそうな色を帯びた。
「正直、わっかんねぇ。オレ様とカルシエーナじゃ、釣り合わねぇだろう?」
ん?釣り合わない?リティルが、なにがと問おうとしたそのときだった。
「なんだそれは!」
金切り声に近い叫びだった。リティルとケルゥは思わず腰を浮かしていた。
「そんなことだろうと思った。ケルディアス、同情で愛の言葉を囁くな!おまえのことなど、大嫌いだ……。大嫌いだ!」
呆然と立ち竦んでいたレイシを突き飛ばして、カルシエーナは中庭へ走り出ていった。日の光に、何かキラキラ光るモノが彼女の顔の辺りから散っていた。
「カルシー!くそっあいつに気がつかねーなんて、父親失格だろ!」
リティルはソファーを飛び越えると、カルシエーナのあとを追って飛びだしていった。
「ケルゥ……今の……本心?」
レイシは信じられないモノを見るような目で、ケルゥを見ていた。ケルゥはストンとソファーに腰を下ろすと、額を掴んで俯いた。
「本心だよ」
「それじゃ、あんまりだよ。カルシーが……可哀相だ……」
心もないのに、あんなに追いかけ回されて、迫られて。カルシエーナが困っていることを、レイシは知っている。そして、ケルゥにキスされると破壊衝動が落ち着くから、受け入れた方がいいのかな?と悩んでいることも知っていた。
「オレ様とじゃ、可哀相だろう?」
「それ、どういう意味……?」
「まんまだよ。どうすりゃいいのか、わっかんねぇんだよ!」
「え?ケルゥ、それ──」
言いかけて、レイシはやめた。
中庭に走り出たカルシエーナの肩を、追いかけたリティルは掴んでいた。
「カルシー、落ち着けよ。おまえ、どうしてそんなに泣いてるんだよ?」
ケルゥと同じ色の瞳で、カルシエーナはリティルを睨みながらボロボロと泣いていた。
「わからない。勝手に溢れてきて止まらない」
「ケルゥの言葉に、傷ついたのか?どうして?おまえ、あいつのこと迷惑がってたじゃねーか」
「それは!毎日毎日、毎回毎回、強引だから!」
「それは、そうだけどな。カルシエーナ、強引じゃなかったらいいのかよ?例えば、インファだったら?レイシだったら?」
「あり得ない。何か違う!」
うんうん、そうだよなと、リティルは思った。カルシエーナにとって、インファはお兄ちゃんで、インファの弟であるレイシは兄弟のようなものだ。孤独だった彼女の育っていない心は、無条件の愛情である家族愛を求めていた。故に、リティルとシェラは容姿はあれだが、彼女に父と母のような接し方をしていた。それを、カルシエーナも望んだからだ。
「そうかよ、何か違うんだな?父さん、ホッとしたぜ……。とにかく、落ち着けよ。な?」
「うう──リティルぅ……」
カルシエーナは、リティルに縋るように泣き付いてきた。リティルは自分よりも背の高い娘を、そっと抱きしめてその頭を撫でてやった。
「なあ、カルシー、ケルゥはおまえのこと、ちゃんと大事に思ってるぜ?やり方があれなだけでな」
「それは、リティルの言葉でも信じない!」
「はは、そうだよな。信じなくていいさ。辛かったな、ごめんな」
「お父さん……怖いから、そばにいて……」
「わかった、わかった。父さん、しばらく城にいるからな。大丈夫、心配いらねーよ」
カルシエーナは、コクンと頷いてしばらく泣いていた。
困ったなとリティルは思った。青い焔のことを調べているあの二人は、たぶん一週間以内には帰ってくるだろう。その報告しだいで、風の城の主力がどれだけ動かなければならないかが決まる。大事なら、インファとノインも共に行かなければならない。
城に、ケルゥとカルシエーナを揃って置いていくのはなぁと思いながら、ケルゥを連れて行くとなると、カルシエーナの破壊衝動が心配だった。最悪、二人とも連れて行かなければならないのか?と思って、リティルは考えあぐねいていた。
青い焔に舞い降りた二人の風の精霊は、その異様さを感じていた。
「まるで、ルキルースにいるみたいですね」
「すでにルキルースに飲まれかけている」
ノインは長剣を抜いた。インファも槍を構えた。ザワザワと幾つもの気配が生まれていた。二人を取り囲んだのは、幻夢蝶の群れだった。二人は無言で蹴散らすと、武器を収めた。
幻夢蝶は幻夢の霧から生まれてくる。それが生まれ始めている事態に、もう一刻の猶予もないところまで来ていると、二人は危機感を感じていた。
それにしても濃い霧だ。それが晴れずに一定量を保って留まっていた。空気の流れは感じるのに、密閉空間でもないのに不思議なことだった。
ルキルースでも、幻夢蝶を生み出す部屋以外は、霧が留まっていることなどなかった。故に、セクルースの精霊でも、眠らずにルキルース内を歩くことができるのだ。
「霧の発生源は、一つではない。この大陸の、すべての住人……だとしたら……こちら側から霧を止めるのは、不可能か?」
ノインがぽつりとつぶやいた。
「インファ、夢とは何か、答えられるか?」
何気ない様子で、ノインはインファに問いかけていた。
「夢、ですか?……願い、ですかね?」
「眠りとは?」
「難しいことを聞きますね。そうですね……安らぎ、もしくは死ですね」
「我もほぼ同じ事を思う。この大陸は滅びに向かっている。ここに暮らす者達の、安らぎを願いながら眠りに落ちるその想いが、重なったとしたら?その想いに彼が答えたとしたら、これだけの規模の事象、起こせるかもしれない」
「彼とは、誰ですか?」
「幻夢帝・ガルビーク。セビリアとケルディアスの父親だ」
「とこしえに眠る夜の王が、この大陸と関係していると言うんですか?確かにその娘であるセビリアは関係していたようですが、その父までというのは……」
「飛躍しすぎか?だが、何か気になる。ガルビークだけでなく、その子供達も。我は、再生の力を封じたのは、ケルディアスではないのかもしれないと思っている」
「ケルゥでないとしたら、父と母、どちらなんでしょうか?そもそも、なぜ二人は魂を分け合ったりしたんでしょうか?共に暮らしていける存在では、ありませんよね?」
幻夢帝・ガルビークは、ルキルースの王で、その場所から無闇に出ることはできない。
大地母神と呼ばれた、大地の王・ユグラテティシアは、風の王と同列の最も基本的な元素である四代元素の一つを司る王だ。こちらも、性質上セクルースから動くことができない。大地母神と大層な名で呼ばれていたが、風の王同様替えのきく精霊で、死すれば新たに目覚める。現在の大地の王は、ユグラという少女の姿をした二代目の精霊だ。
「止められない想いは、そなたの両親の方が詳しい。もっとも、あの二人は不可能な関係ではないが」
風と花では力の性質上の相性は悪いが、共にセクルースの精霊だ。花の姫は王ではない為、城を持たない。故に、風の城で王妃として共にいられるのだ。
しかし、ガルビークとテティシアは共に王だ。テティシアが職務の合間を縫って、ルキルースに赴くしかない。
「まるで、必然のような関係。ですか?母は、風の王を生かすために、生まれたような存在ですからね。それはオレ達も同じですかね?十五代目を最後の王にするために、そばに居るんです」
インファは誇らしげに微笑んでいた。
「重荷ではないのか?」
「おかしなことを聞きますね。オレは精霊ですよ?この想いは永遠です。父さんや母さん、カルシエーナは、悩むんでしょうか?あの三人は、オレからすれば特殊な心を持っています。元グロウタースの民……存在を疑い、迷う。揺れ動く心。父さんは、無駄に傷ついて見えますよ」
「インファ、精霊にも迷いはある。そなたも、そのうちわかる」
知っている。インファもリティルの為に日々悩んでいるからだ。しかし、それは常に風の城のことで、それよりも多くのことに揺れ動くリティル達とは、違うと思っている。
「ノイン、オレが迷ったら導いてくれますか?」
ノインは首を横に振った。
「それは我の務めではない。リティルの務めだ」
「父を頼ることに、抵抗があるんですが……」
「そなたは自立心が強い。だが、そなたに父であるリティルは必要だ。それとも、頼りにならないか?」
「いいえ。あれで、もの凄く頼りになるんですよ父は。追いつけません……歯痒いんです」
インファは紫色に煙る空を見上げた。あの小さな体で、皆を導く大きなリティル。
関わる者の心を掻き乱して、苦悩させて、温かく包む。どんなに自身が傷ついても、笑っている強さを、インファは副官として守りたかった。
「すみません、ノイン。あなた相手だと、素直になりすぎてしまうんです」
「元風の王だ。我もまだ現役か?リティルには、内緒だ」
ノインは冗談めかして、口元に笑みを浮かべた。その瞳が、ふと鋭くなって前方を見やった。
インファもそれを見上げた。それは、初めてこの地に来たとき訪れた、カルシエーナの幽閉されていた塔だった。異様な雰囲気で立っている、頭の方が大きな、キノコ型の塔だ。
彼女を造った者達は、恐れ遠ざけながら、どのようにして彼女を兵器として使おうとしていたのだろうか。あんな関係では、力に目覚めた彼女に滅ぼされて終わってしまうことが目に見えていたのに、自分達は死なないとでも思っていたのだろうか。
戦争を止める――確かに、セビリアの言ったことは嘘ではない。すべてを滅ぼし、彼女は争いすら、跡形もなく消し去ろうとしていたのだから。
風の城で、ずいぶん感情豊かになったカルシエーナを想い、インファは珍しく怒りを覚えていた。そんな心を見透かしてか、ノインはインファの肩を軽く叩いた。
「行きましょう。ここは外せません」
「無論だ」
二人は翼を広げて、窓から塔内へ侵入した。そこは円形の、殺風景な部屋だった。初めに訪れたときのまま、何も変わった様子はない。あの時開いていたゲートも、閉じられて今は何もない。
インファは、セビリアに対抗する要素を見つける為に、カルシエーナの過去を、夢の形で覗き見た。彼女の幼少時代は、とにかくボンヤリとして感情がなかった。髪を操る力は発現していて、カルシエーナは身を守ることはできていたことが、せめてもの救いだった。
もしも、あの力の発現が遅かったなら……インファは、考えそうになった嫌悪するもしもを、振り払った。本当に、カルシエーナが傷つけられなくてよかったと思う。
インファは自分が幼かった日のことを思い出していた。幼いインファは、体に見合わず大きな力を持ち、よく暴走させていた。その度に、止めに入る父を傷付けていた。あの頃のインファは、自分に自信を持てずに迷っていた。インに似ていると言われ、存在を否定されるようで憤っていた。目付きばかり鋭くて、グロウタースにいる両親の友人達に、大分鍛えられた。
それが今や、血のつながりのない者にまで、兄と呼ばれ懐かれているとは、と、インファは思わず苦笑した。
「いえ、すみません。ちょっと、昔のことを思い出してしまいまして。父は、どんな子供だったんでしょうかね?レジーナに聞いてみれば、よかったですよ」
そう言ってインファは、床を調べていた。塔の内部は螺旋階段で、この部屋に上がれるようになっているはずだ。どこかに、階段への入り口があるはずなのだ。
「ここだ」
見つけたのはノインだった。上からは開けられないように、魔法がかけてあるようだ。ノインはそれを、力任せにこじ開けた。魔力で描かれた魔法陣が引きちぎられるのが、インファには見えた。
「強引ですね。父さんでも、解呪を試みますよ?」
「必要ない。見ろ」
階段に誰かが倒れていた。どうやら、世話係の男のようだ。規則正しい寝息を立てて、他の住人同様眠っていた。
インファは彼が懐に持ってるモノを、握りしめていることに気がつき、そっと取り上げた。それは、カルシエーナに宛てた手紙だった。
『カルシエーナ、国は君の処分を決めた。戦争を終わらせるためだとか言って、君を造ったのはいいが、あの得体の知れない精霊をずっと恐れていた。精霊の甘言に乗ったのはいいが、自分達も滅ぼされるんじゃないかとやっと思い至ったみたいだ。当たり前だ。君をこんな所に閉じこめて、独りぼっちにして、君がボク達の為に働いてくれるわけがない。ボクもずっと君が怖かった。でも、君は何も悪くない。眠り病だって、君のせいじゃない。何でもかんでも、悪いことは君のせいにして、あいつらは何がしたいのか、ボクにはわからない。君はここから出たこともないのに、いったい、何ができるっていうんだ。逃げてほしい。この塔を出る力、本当は君はもう持っているよね?もうじきここへ騎士が来る。それまでに逃げるんだ。ボクも君に恨まれる者の一人だ。だから、謝らない。今更、君に許されようとは思わない。これはボクの、身勝手な怒りと願いだ。逃げてくれ』
「これほど濃いルキルースの霧だ。ルキルースが、この者の願いを具現化したと見て間違いない」
彼の想いがカルシエーナの前にゲートを開いた。カルシエーナは、それを天命だと思いルキルースへ躊躇いなく行ったのだ。そんなカルシエーナの心が、切ない。この狭い場所で、心許せる者もなく、たった一人で……もっと早く、彼女のことを知ることができていたならと、インファは悔やんだ。
噂好きな鳥達は、常に新しい情報を風の城へもたらす。その中に、カルシエーナのことも当然あっただろう。けれども、そのすべてを拾いきれない。優先順位をつけて、対処していく以外にない。ここ以外に、インファには気になる事案がいくつかあった。その場所にも、今現在苦しんでいる魂があるのだろうか。きっとあるのだろう。けれども、すべてを救うことは、精霊であってもできることではなかった。
「本物の想いだったんですね。だとしても、許せるモノではありませんが。手紙によると、ここにゲートが開くよりも前から、眠り病は発生していたようですね」
二人は部屋に戻ると、窓から外を見渡した。
暗い紫色の霧に煙る大地。ルキルースにも、こんな禍々しい場所はない。ルキルースに夢を介して紛れ込んでしまった者達が、現実よりも、ルキルースのほうがいいと思ってしまったとしても、不思議はないと思えた。
忍び寄る死に怯え、せめて生きていきたいというささやかな願い。それを、この大陸を牛耳る者達は、壊し続けているのだなとインファは冷ややかに思った。
「夢の世界から帰れなくなった者達は、どこにいる?」
ノインは自問するようにつぶやいた。
「これだけの人数です。捕らえたままにしておくには、ルキルースでも、かなりの広さの空間が必要ですね」
意識は意外とかさばるからと、インファは言った。
「ルキルースの個々の部屋は、広いようでいて狭い。最も広い場所は、断崖の城だ。ガルビークの精神でできているあの城は、底なしだ」
「行くしかなさそうですね」
「そのようだ」
「風の王に報告しましょう」
ノインは頷くと、インファと連れだって風の城へ引き返した。
シェラは瞳を開いた。
ここは、どこだろうか。見慣れない石造りの建物の中だ。規則正しく並ぶ窓、黒い絨毯の引かれた真っ直ぐな廊下。窓の向かいに扉が並んでいたら、風の城かと錯覚したことだろう。自分の置かれた状況がわからずに、立ち尽くしていたシェラは、急に肩を掴まれた。
咄嗟にその手を振り払い、弓を引く。何もなかった彼女の手の中に白い弓矢が現れた。
「!リティル?」
シェラは誰に向かって弓を引いていたのかわかり、慌てて手を下に下ろした。妻に武器を向けられたリティルは、気にした様子はなく苦笑していた。
「ああ、ごめん。声かけた方がよかったな」
「ごめんなさい……リティル、本当にごめんなさい!」
シェラは夫に弓引いたことで、かなり動揺しているようだった。
「いいよ。君の感覚が鈍ってねーことがわかったしな。なんなら、オレのハート、射貫いてくれてもいいんだぜ?それより、ここはどこなんだ?オレ達は夢を見てるのか?」
リティルは冗談を言いながら、気遣うようにシェラの手を取った。リティルの冗談にシェラは、まだわたしに恋をしたいの?と、冗談を返してやっと笑った。
「そうみたいだわ。でも、わたし達の夢ではなさそうよ。こんなことができるのは、ルキルースの精霊ね」
「眠りを解して、オレ達の精神にアクセスしたっていうのか?いったい、何が目的なんだ?それにても、こんな何の抵抗もねーものなんだな」
「前に、カコルとニココが会いに来てくれたときも、何の抵抗もなかったわ。それに、今風の城には、ケルゥとカルシエーナがいるわ。ルキルースに対して、警戒心が薄れているのかもしれないわね。リティル、このまま進むの?」
進めと言わんばかりのこの廊下が不気味で、シェラは誰かの思惑で行動したくなかった。リティルは突然思わぬことを思いつく、破天荒さを持っている。進む以外の道を示してくれないかな?と、シェラは恐れを隠してリティルを見つめた。
「罠かもしれねーけど、君と一緒なら大丈夫だろ?」
リティルはあえて乗ってやると言って、どこか楽しむように笑った。
「……その自信はどこからくるの?クスクス、あなたと一緒なら、怖いモノなど何もないわ」
呆れた顔をしたシェラは、不意に蕾が綻ぶように笑った。
君と一緒なら――その言葉が、なぜかとても嬉しかったのだ。リティルと一緒なら、大丈夫。シェラの恐れは、影も形もなく消え去っていた。
シェラの控えめで、信じ切っている笑顔を見ながら、リティルは思わずつられて、愛おしそうに優しく笑っていた。
まいったなと、リティルは思った。不安そうにしていたシェラに、もっと慎重に!と、怒られるつもりで言ったのに、乗ってきてしまうとは思わなかった。
リティルには、このまま進むことに躊躇いはない。一人だったなら警戒はするが、さて、鬼が出るか蛇が出るかと、どこかワクワクしながらさっさと進んだろう。しかし、シェラは違う。彼女は最優先にリティルの身を案じる。だからこそ、軽率だと怒るのだ。
怒られると思ったのに、あんなに信じ切って微笑まれたら、照れるじゃないかと、こんな時なのに笑ってしまった。
二人は手を繋ぐと、廊下の先へ進んだ。
廊下を進んでいたはずなのに、いつの間にか何もない空間にいた。ゴオッと何か風なのか衝撃波なのかわからない威圧を感じて、二人は顔を庇った。前に何があるのか見ようとするが、目を開けていられない。そんな中、二人の手が離れてしまった。
慌てて振り向いたリティルと、駆け寄ろうとするシェラの間には、見えない壁のようなモノが立ち塞がっていた。
「シェラ!」「リティル!」
二人は見えない壁に触れ、これが何なのかを知ろうとした。透明な壁、ガラスの壁?二人は見つめ合って頷くと、シェラはそっと離れて弓を引いた。リティルは剣を抜いた。同時にリティルは刃を、シェラは矢を壁に突き立てていた。
「舐めるなよな!夢の中でだって、オレ達は簡単には引き離されないぜ?」
「ええ、必ず、あなたの隣へ戻るわ!」
見えない壁に亀裂が走り、穴が開く。躊躇いなく二人はその穴に手を差し込み、指を絡めて手の平を合わせた。
ハッとしてシェラは、顔を上げた。その視線が、夜の闇の中、金色の視線と交わった。
ここは、風の城の寝室だ。まだ、夜明けまでは時間があるらしく、部屋の中は真っ暗だった。
「……戻ってきたみてーだな?」
仰向けに寝ていたリティルの胸の上に、シェラは寄り添っていた。シェラは何か暖かくて無骨なモノを握っている感触に、自分の右手を見た。右手は、夢の中でリティルとそうしたように、現実でも手の平を合わせて彼の指と、自分の指を絡めていた。
「ええ」
シェラはリティルの胸からそっと離れた。それを追うように、リティルも体を起こした。短い夢だったが、不気味さと危機感のある夢だった。
「オレ達、誰かに試されたのか?」
「絆の強さ?そんなモノを試して何になるというのかしら……」
シェラは寒そうに自分の体を抱いていた。それを見たリティルは、さりげなく妻を抱き寄せる。リティルの肩にシェラは頭を乗せて、安心したように小さく息を吐いた。
ずっとこうしていたいが、間の悪いことに風が知らせを持ってきてしまった。
「インファとノインが帰ってきたな。オレ、報告聞いてくるよ。君はどうする?」
「一緒に行くわ。……今、あなたと離れたくない……」
素直に心を吐露するシェラの頭に、リティルはキスすると、連れだって応接間に向かったのだった。
シェラはリティルに並ばずに、彼の背中を見つめていた。夢の中で、肩を掴まれたとき、どうしてリティルだと咄嗟にわからなかったのか、シェラは考えていた。この人の気配を、わからないはずはないのに……。
もうどれくらい、リティルの隣から遠ざかっているだろう。レイシを言い訳にして、どれほどリティルから離れているのだろう。
怖い……。シェラは無意識に立ち竦んでいた。言いようのない恐怖が、シェラを、形のないその手で掴んでいた。
このまま、この人と離ればなれになってしまったら?心が離れてしまったら?
シェラというこの存在は、形を保っていられるだろうか?リティルを失って、彼の望まない死を選べずに、彼の望む生を守って、永遠を生きていけるのだろうか。
「シェラ?」
リティルは、シェラが立ち止まったことにすぐ気がついて、振り向いた。シェラはなんと言っていいのかわからずに、リティルの顔を見られなかった。
この恐怖は何?得体の知れない恐れ……リティルが、青い焔に行くと言ったときにも感じていた。理由のわからない恐怖。俯いたシェラの頬に、リティルの指が触れた。その指が顎まで滑る。思わず顔を上げていたシェラの目の前に、リティルの顔があった。シェラが自然と瞳を閉じると、リティルに唇を奪われていた。
「オレは何があっても、君を離さねーよ。約束だ。何度だって、誓ってやるよ」
こちらを僅かに見上げるリティルの力強い笑みに、シェラは恐怖が溶けるのを感じた。体温を失って震える指に、温かさが戻っていた。
「わたしも放さないわ。必ず、あなたを守るわ」
今更何を恐れていたのだろうか。リティルを失うかもしれないことなど、今更だ。この人との明日がないかもしれないことなど、出会った時からずっと突きつけられている。だから守ると心に刻んだのだ。今は隣にいられないかもしれなくても、守ることはできる。その力が今はあるのだから。シェラはリティルの隣に並ぶと、真っ直ぐ前を向いた。
応接間は昼間のような光に満ちていた。中庭に面した大きな窓には、ワインレッドのカーテンが引かれ、シャンデリアが明るく輝いて部屋を照らしていた。
「明日の朝でもよかったんですよ?」
「丁度目が覚めたんだ。帰って早々だけど、聞いてもいいか?」
「問題ない。仮説にもなっていないが許せ」
「聞かせてくれよ」
リティルの向かいに、インファとノインは腰を下ろし、青い焔で感じたこと得たことのすべてを報告した。
「ガルビーク?それは……オレの手に負えるのか?」
リティルは自問するようにつぶやいた。
「初代が手を焼いた相手だ。我々の手に余るが、行くのだろう?」
幻夢帝・ガルビークは、風とは因縁のある相手だ。ガルビークが眠っている原因に、初代風の王は関わっているのだった。
「……しかねーよな。さっきな、変な夢見たんだよ」
リティルはシェラに目配せすると、夢の話をした。誰かにあったわけでも、危害を加えられたわけでもない夢で、ただただ得体がしれなかった。
「夢に招待されたんですか?断崖の城へ行こうとしている矢先にそれとは……誰かの思惑を感じて、乗りたくないですね」
「気味が悪いな。あえて乗るのも一興だが、どうする?リティル」
「行く。というか、行く以外にねーよな。けど、ガルビークって寝てるんだろ?寝ながら干渉できるものなのかよ?」
「わからない。ただ、ルキルースの精霊達は恐れて、寝所に近づく者はいない」
インの知識を持っているノインも、知らないのかと思いながら、リティルはインファに視線を合わせた。インファもわからないと言いたげに、首を横に振った。
「……ケルゥの父親だったよな?あいつは、どこまで知ってるんだろうな?」
大きな図体をして、あんな強面なのに、寂しがり屋なルキルースの猛犬。風の城にずっといたいと、インファにそう言ったらしい。よほど、ルキルースにいい思い出がないのだなと思った。
風の城は居心地いい!風の城は居心地いい!と騒いでいたスワロメイラは、満喫した、また来ると言ってルキルースに帰っていった。スワロメイラにとって、居場所はルキルースなのだ。
しかし、ケルゥには違うのだ。そんなケルゥに、家族のことを話さない彼に、ガルビークのことは聞きづらかった。
「当事者ですから、それなりに知っていると思います。ただ、心の傷ではないかと思いますよ」
家族の話をするとき、ケルゥはいつも負の感情を滲ませていた。そして、自責の念?とインファは感じていた。
「だよな。カルシエーナも不安定だし、あんまり話題にしたくねーよな。情報通のスワロメイラさんに聞いてみるか。シェラ、何が起こるかわからねーからな、用心してくれよ?」
「ええ。気を付けるわ」
インファはシェラを観察していた。最近のシェラは、リティルに対してどこか不安そうにしていた。それが、今は一切見られなかった。件の夢が、母の憂いを晴らしたのだろうか。 揺るがない信頼で結ばれた、風の王と花の姫。
インファはケルゥに、恋愛感情を持っていると言われたことを、不意に思い出していた。もしも、そんな相手が現れてその人が心をくれたとしたら、オレも両親のようになれるのだろうかと、くだらないことを考えてしまった。
「父さん、ルキルース組はどうしますか?」
「ん?そうなんだよな……不安定なあいつらをどうするか、悩んでるんだよ。これはオレ一人の手に負えそうにねーからな。おまえら二人の手を借りるしかねーし、そうなるとなぁ」
リティルはソファーに深く身を埋めると、腕を組んで上を見上げた。
「連れて行って、リティル。二人には必要なことよ。ずっと、逃げているわけにはいかないわ」
「今のあいつらには荷が重いと思うぜ?」
リティルはソファーの背に頭を乗せたまま、隣のシェラを見た。
「ケルゥは悩んでいるわ。行くべきか、退くべきかすらわからなくなっているわ」
「そこまでかよ!あいつが押さねーと、カルシエーナは落ちないぜ?」
ケルゥがカルシエーナの心を得られなければ、彼女は破壊衝動を抑えるためにナシャの薬に頼り続けることになる。ナシャは気まぐれで、いつまでこの城にいるかもわからない、捕まえられない子供だ。カルシエーナは、ケルゥといたほうが、存在的にはいいのだろうとは、リティルも思う。
「押して落ちますか?逆効果ではないんですか?」
インファはここ二ヶ月間、ずっと監視していた。絶妙なタイミングで邪魔できるのは、そういうわけなのだが、二人は監視されていたことにすら、気がついている様子はなかった。カルシエーナはそれでもいいが、ケルゥがそんな状態では、父が仕事に連れて行くことに、抵抗を感じるのは当然だなと思った。
「うーん……オレ的には、カルシーは脈ありじゃねーかと思うんだけどなぁ。なあ、そもそも、どうしてみんな、あいつらをくっつけようとしてるんだよ?」
皆、ノインでさえもリティルの言葉に、え?と言葉を失った。そういえばと、誰も疑問に思わなかった。それはなぜなのか。
それは、ケルゥが追いかけ回しているからだ。むしろ、リティルがケルゥの心に疑問を持つ方が、皆には信じられなかった。
「シェラ、ケルゥは本当にカルシーが好きなのか?」
「え?なぜ?」
指名されたシェラは、そんな基本的なことを今更聞かれて戸惑っていた。
「釣り合わないって、どういう意味だと思う?」
釣り合わない?リティルの問いに答えたのは、意外にもノインだった。
「ケルゥは、そんなことを悩んでいるというのか?」
「ん?おまえわかるのかよ?」
「おそらく、姿形だ」
姿形?とリティルは眉根をひそめた。確かに、ケルゥとカルシエーナは、親子ほどに外見年齢が違う。だが、そんなことは、成長も衰退もしない精霊にとっては、関係のないことだった。
「精霊の姿形は、精神の形だ。カルシエーナは、可憐な美少女。ケルゥは、凶悪な自身の外見が、彼女に相応しくないと思っているのかもしれない」
「お、おまえが美少女とか言うと、妙な気分になるな!でも、ホントにそんなことなのか?オレは好きだけどな、ケルゥ、強そうで。実際強いんだけどな」
中身は子犬だけどと、リティルは笑った。
「外見の可愛らしいそなたには、無縁の悩みだ」
ん?
「ノイン、今、なんて言った?」
「さて。リティル、二人も連れて行くということで、いいな?」
ノインは涼やかな笑みをその目元に浮かべて、サラリとはぐらかした。
「へ?あ、ああ、カルシエーナに一緒にいてやるって約束したからな、連れていくしかねーな」
「向こうへ行けば、スワロが協力してくれます。大丈夫ですよ」
不安だけどと付け加えるリティルに、インファが言った。
スワロメイラをずいぶん信頼しているなと、あまり懐かないインファが珍しいと、リティルは思った。かく言うリティルも、彼女を信頼しているが。
セビリアの一件に一応の決着が着いたあと、スワロメイラは数日この城で遊んでいたが、今はもうルキルースへ戻っていた。彼女なら、ケルゥに喝を入れられるかもしれない。
しかし、ガルビークと関わることになるとしたら――と思うと、リティルは難色を示した。
「スワロか……ついてくるなって言っても、ついてくるよな……」
自分の身くらい自分で守れる精霊だが、危険だとわかっていることに、巻き込みたくないのは当然のことだった。
「スワロメイラを遠ざけたいなら、我が引き受ける」
ノインはさほどスワロメイラと親しくない。親しかったのはインだ。リティルは、ノインがスワロメイラとの今の関係と、インとの関係をどうやら混同していそうだと、咄嗟に思った。
「いいよ、ノイン。おまえにインの代わりになってもらおうとは思わねーよ。おまえは、インとは違うよ。おまえはどう見ても、ノインだよ」
リティルはそう言って笑った。盛っているのではなく、リティルは偽りなく本心だったのだろうが、ノインは少し複雑そうだった。そんな相棒を盗み見ながら、インファはノインを初めて心配した。彼の強さに、インファは彼の危うさを見て見ぬ振りをしてしまっていた。インの知識と、インの強いリティルへの想いが、彼を時折惑わせている。そう思うときがあったというのに。
「ノイン、ちょっと顔貸せよ」
リティルはそういうと立ち上がった。ノインも無言で従い、二人は真夜中の中庭へ出て行ってしまった。
そんな二人を見送って、シェラは不安そうにため息をついた。
「記憶を消しても、想いまでは消しされないわ……インにはわかっていたのでしょうけれど、それでも……」
シェラは祈るように胸の前で両手を合わせた。
「父さんに任せましょう。大丈夫ですよ。父さんは微塵も、ノインをインと重ねませんからね。ノインはノインだと、わからせてくれますよ」
それは、リティルの精神力ゆえだった。シェラも、ノインが記憶に引きずられている時があることを、知っていた。その時のノインは気がついていない様子で、シェラはそんな彼がインに見えてしまっていた。そんなときは、冷静に彼はノインだと言い聞かせていた。しかし、そのうち彼をインと呼んでしまいそうだった。
インをよく知っているケルゥも危ういのか、ノインの名を呼んでいるのを聞いたことがない。いつも、おいとか、おめぇとか、まるで熟年夫婦のような呼び方で呼んでいた。
セクルースには、時間の流れがあった。それはグロウタースに寄り添う世界故のことで、今は神樹の森のある双子の風鳥島と同じ真夜中だった。
中庭にはランプのような照明器具はない。明るい応接間から出ると、目が慣れるまでしばし暗闇が二人を包んだ。
「ノイン、おまえレジーナにオレとインのこと聞けよ」
おもむろに、リティルは切りだした。
「おまえ、中途半端に記憶があるせいで、たまに自分が何者なのか、わからなくなってるだろ?」
「言葉も無い」
ノインは自覚があったのか、すぐに認めた。しかしその様子に恐れがまったくなく、リティルは大きくため息をついた。
こいつ、インになってもいいと思ってるな?と感じたからだ。そんなこと許さないと、リティルは背の高いノインを睨み上げた。
「記憶を見たからって、おまえがインになるとは思えねーよ。悪いな。オレはおまえに、ノインでいてほしいんだよ。インの身代わりにはしたくねーんだよ。おまえはオレの親父じゃねーよ、頼れる補佐官だよ。兄貴みてーな相談役だよ。オレとインのことを知れば、オレの言ってる意味、おまえならわかると思うぜ?」
「リティル、我はこのままでも構わない」
いったいインはどんな想いで、ノインになったんだ?と、ノインの態度にリティルは思わずにはいられない。けれども、インに負けるわけにはいかなかった。ノインには、ノインとしての人格がちゃんとある。それを、消し去っていいわけがない。インが、ノインを消し去って、再び蘇ろうなどとは微塵も考えないことは、リティルには痛いほどよくわかっているのだから。
ノインがインに見えると、インに会いたくなってしまうことは認める。しかし、インはこの心にいるのだ。それでいいんだと、今のリティルは思えるようになった。それは、ノインのおかげだった。
インとは違う涼やかな瞳で、インなら言わない冗談を言って、インにはなかった表情でクールに笑うノインに、大人なノインに憧れる。リティルには、ノインが必要だった。
こんな不甲斐ない子供な王を、上からではなく下から支えてくれるような、大人なノインが必要なのだ。これから先、ずっと風の王として風の城の主として君臨する為に。
「ノイン、オレに遠慮してるだろ?おまえなら、オレとインの過去を知らねーといけねーことに、すぐに気がついたはずだよな。もう、インの蘇りの生まれ変わりだって気がついてたからな。いつ言おうか迷ってた。おまえやインファの事は、どうしても二の次三の次になっちまうんだよ」
ごめんなと、リティルは心底済まなさそうに謝った。
「それは、信頼されていると思っていいのか?了解した。リティル、先にルキルースへ行く許可がほしい」
「ああ、信頼してるぜ。だから早く、ノインになってくれよな。オレ達は明日の朝そっちに行く。レジーナの所で合流しようぜ。……そういえばおまえ、寝なくて大丈夫かよ?」
「問題ない。では、万年桜の園で待っている」
ノインはリティルに背を向けると、バードバスに向かっていった。その背を見送り、リティルは応接間に引き返した。
リティルは実は、ノインに過去を見てほしくない。封印球の中にいた幼少時代を、ノインが見れば何を思うのか、想像がつくからだ。きっと、今と全然違うと言って、からかわれる。そうに決まっている。インと違って、ユーモアのあるノインが突いてこないわけがないと、リティルは恥ずかしかったのだ。
万年桜の園では、レジナリネイが珍しく起きていた。
丘を登ってくるノインを、微睡んだ瞳で見つめている。
「レジナリネイ、どうした?」
「……ノイン、一人?」
レジナリネイは辺りをゆっくりと見回すと、ノインに視線を合わせて言った。
「リティルに用事か?」
レジナリネイはフルフルと首を横に振った。
「ノイン、レジーナに、聞きたい?」
ノインは頷いた。
「インの、リティルに関する記憶を見せてほしい。リティルの許可は取っている」
レジナリネイはコクリと頷いた。そして、桜の巨木にもたれて座るように言った。
「あら、ノインお一人?」
ヒョコッと現れたのは、スワロメイラだった。ノインは首を傾げた。なぜ、二人とも意外そうな顔で一人か?と聞くのだろうかと、疑問に思った。
「そうだ」
「ふーん、リティルがよく許したわね。あなたのこと、ずっと気にしてたから」
「気にしていた?リティルが?」
「あら、気がつかなかった?あなたでも、気がつかないこと、あるのねぇ。リティル、あなたが、インに飲まれちゃうんじゃないかーって。そんなことないわよぉって、言ったんだけどね。レジーナのところにいるってことは、見るのぉ?」
スワロメイラは、意味深に微笑んだ。リティルがそんなことを考えていたとは、微塵も気がついていなかったノインは、平静を装っていたが、その心は大いに驚いていた。
「そなたは、知っているのか?」
「見てないわよ。インにちょっと、聞いたくらい。だって、気になるでしょう?あのインから、魔性の笑顔の息子ができるって、想像つかないもの」
スワロメイラは、当然のような顔をした。そして、気になるけれど、リティルに絶交されたくないから見ないと言った。
「魔性の笑顔……?」
「あなたもやられてる口でしょう?まあ、いいわ。早く見ちゃいなさいよぉ」
スワロメイラは悪戯っぽい笑みを浮かべて、軽やかにノインから離れた。
レジナリネイは、座っているノインのこめかみ辺りを両手で包むと、そっと額にキスをした。頭の中に、何か映像が流れ込んできた。瞳を閉じると、眼前に記憶にない風景が広がる。レジナリネイには、記憶を抜いたり入れたりすることができるが、今回は傍観者として見せてくれるようだ。
ノインを記憶の旅へ送りだしたレジナリネイは、ふわりとスワロメイラのそばに降り立った。
「レジーナ、ずっと静かだったルキルースに、波風立つわね」
スワロメイラの言葉に、レジナリネイは頷いた。
「リティルの、せい?」
「どうかしらぁ?でも、ちょっと危険かもねぇ」
レジナリネイは、微睡んだ瞳のまま俯いた。
「ガルビーク、ずっと、同じ夢。もう、嫌だ。どういう意味?」
「なあに、それ。簡潔すぎてわからないわよ」
「グロウタース、青い焔、大陸。みんな、眠る。みんな、もう、嫌だ。ガルビークと、同じ気持ち」
「もう、嫌だ……ねぇ。今置かれてる状況から抜け出したい、逃げ出したいってことかしらね?グロウタースの青い焔?たしか、カルシーの故郷?そういえば、あの二人まだ鬼ごっこしてるのかしらぁ?」
「ケルディアス、迷走中」
「ケルゥはいつも迷走してるわよ。カルシーはどうなの?まんざらでもなかったり?」
「カルシエーナ、混乱中」
「あらあら、ダメだこりゃね。それで、ノインにまで迷われたら手に負えないわねぇ。……ノインくらいの精神力でも、迷ったりするのねぇ。ブレないって思ってたインも、迷ってたのかしらねぇ……」
スワロメイラの中のインは、正しくて、揺るがなく強かった。そんなインが、彼よりも弱く、苦悩ばかりしている小柄な風の王を説得できなかった。あんなに疲弊したインの背中を、スワロメイラは見たことがなかった。
蘇って生まれ変わったノインは、インと同じ心の強さを持ち、クールな微笑みを浮かべる、ユーモアもあるいい男だ。しかし、たまにスワロメイラはノインがインに見えた。リティルが心配していることを否定したが、スワロメイラも、このままではノインは、インに食われるかもしれないなと内心思っていた。
「風の王、グロウタースに近い。心、柔軟。イン、過去、リティル、大事。いつも、必死」
「必死なインなんて、想像できないわよ。って、ああ、必死だったわね。インが誰かに屈するとこ、初めて見たわよ。リティルに、会いに行こうかしら」
スワロメイラは、インがリティルを説得しきれずに強行して、ノインに生まれ変わった日のことを思い出していた。リティルはあの日のことを忘れさせられたが、何かあったことだけはわかっているようだった。それをレジナリネイに尋ねないのは、ノインのためかもしれない。ノインのことが枷になって、あの日のことをレジナリネイに尋ねないのであれば、ずっとそのまま知らなくていいと、スワロメイラは切に思った。
「ねえ、レジーナ、ノインにどこまで見せるの?」
「望むまま」
二人は視線を、眠るように目を閉じて動かないノインに向けた。ノインは、自分が目覚めた日のことを知りたいと思うのだろうか。インの、血を吐くような願いを知りたいと思うのだろうか。それをみて、彼はノインでいられるのだろうか。
「リティルが心配してたのって、これなの?ヤダ、ウチまで緊張してきちゃったじゃない」
「もうすぐ、ノイン、帰ってくる」
「ええ?もう?ちょっとぉ、なんでリティル一緒にこないのよぉ!」
心の準備が!と、スワロメイラは身悶えた。
インの想いは揺るがなく強い。ノインの心はその願いに勝てるのだろうか。スワロメイラは心配になってきた。
ノインがピクリと動き、その俯いていた頭がゆっくりと起き上がる。
「おはよう。元気ぃ?」
スワロメイラは恐る恐る、ノインに近づいた。
「スワロメイラ……まだいたのか?」
ノインはゆっくりと瞬きしながら、頭がふらつくのか右手で頭を押さえていた。
「そんなに時間経ってないわよ!リティルのところに行こうにも、あっちはまだ夜でしょう?ねえ、大丈夫?」
スワロメイラは、ズイッとノインの顔を覗きこんだ。覗きこまれたノインの瞳が僅かに見開かれて、次の瞬間フッと笑った。
「オレが誰か、案じているのか?」
ん?スワロメイラはノインの様子に違和感を覚えたが、何が引っかかったのかわからなかった。
「スワロ、リティルならそのうちここへ来る。待っていろ」
「来るの?ルキルースに?仕事?」
「そうだ。断崖の城に用がある。ガルビークがどうしているか、知っているか?」
眠ったまま動きのないガルビークのことを、ノインはあえて尋ねてみた。
「ガルビーク?なあに、リティル、ガルビークに用があるの?皇帝様は就寝中よ」
スワロメイラはあからさまに嫌そうな顔をした。
「ガルビークが起きたりしたら、セビリアなんか目じゃない破壊が始まっちゃうわよ」
そして、そう憎らしげにつぶやいた。
「詳しいのか?」
「ウチはねぇ、これでも古参の精霊なのよ。覚えてるわ。ユグラテティシアが簡単に死んじゃって、ガルビークは大荒れよ。初代風の王が矢面に立ってくれなかったら、この世界は終わってたでしょうね」
スワロメイラは身震いした。
「また誰かがガルビークを起こそうとしてるの?」
自分の身を抱きながら、スワロメイラは恐る恐る、座ったままのノインに視線を合わせた。
「調査中だ。君はどう思う?」
まただ、また違和感がある。
「……ねえ、ノイン」
スワロメイラは探るような視線を、座っているために顔の近いノインに向けた。
「なんだ?」
「何かあったの?」
「質問の意味がわからない」
「だって、なんか変!何がじゃなくて、もお、なんか変!」
ノインは声を出して笑い出した。こんな笑いかた、インなら絶対にしない。スワロメイラは唖然として、笑うノインを呆けたように見つめていた。
「すまない。インの記憶にあるリティルが、可愛らしすぎて、確かにリティルが言うように、オレには今更父親の感情は抱けない。フッハハハハハ」
ノインは、思い出したようにもう一度笑った。
「可愛いの?あのリティルが、あなたから見ても可愛いの?想像つかないわ」
立ち上がったノインは、ずっと高い桜の梢を見上げた。
「オレはずっと、インの身代わりでいようと思っていた。リティルを守りたいと強く思いながら、リティルとの記憶を捨てたインの想いに、報いてやろうと思っていた。リティルが”ノイン”を認めてくれようとも、守りたいというその想いの強さが、心地よかったからだ」
インに飲まれてもいいとさえ思っていたと、ノインは言った。
「記憶を見た今は、違うの?」
ノインは、吹っ切れた瞳に、涼やかに薄く笑いを浮かべながら、スワロメイラに視線を落とした。
「今のリティルに必要なのは、父であるインではない。対等に共に戦うことのできる、ノインだ。リティルに必要なのは、庇護ではなく、王に忠誠を誓う刃だ」
憑き物が落ちたかのように晴れやかに、ノインはインと同じ切れ長の瞳に、インとは違う温度のある笑みを浮かべた。
彼の微笑みは、夏の太陽のようなリティルとも、寒さを暖める暖炉の火のようなインファとも違う。寒くなってきた晩秋の朝を、暖める日の光のようだ。
ノインは再び、少し哀愁を帯びた瞳で、桜の高い梢を見上げた。
「イン……オレのこの想いが、おまえを裏切ることになるとしたら、許せよ」
「それは、大丈夫だと思うわよお?見てないのぉ?あなたが目覚めた日のこと」
「それを見る許可を取っていない。リティルが見ないのなら、オレも見ることはない」
スワロメイラは、今のノインになら見てほしいと思った。クールで包容力のある大人なノインだからこそ、見てほしいと思った。頼りになるが若いインファには、リティルを守り切れないとそう思うからだ。
「ノイン、今のあなたなら見た方がいい気がするわ。リティルはね、強いわ。でもね、脆いのよ。弱いんじゃなくて、脆いの!インがあの時、守ってなかったら、リティルは今頃……ノイン、リティルを守ってあげて!」
スワロメイラに真摯に訴えられ、ノインは戸惑った。ノインの目覚めた日のことは、風の城で暗黙のタブー扱いだった。それを、リティルに無断で見ていいものかと、思ったのだ。
サクッと草を踏むかすかな音がした。ノインが視線を向けるとそこには、レジナリネイが微睡んだ瞳のままこちらを見上げていた。
「望んで、ノイン。レジーナ、リティル、守りたい」
レジナリネイがそっと、大人の女性にはまだ届かない、少女のような手を差し出した。望まなければ答えないレジナリネイが、自ら与えようとしている事実に、ノインは驚いた。
「ウチら、口堅いわよぉ?」
スワロメイラに促されたが、ノインはリティルを裏切ることにならないかと、躊躇った。
ノインは当事者だ。あの日のことが、気にならないわけではなかった。しかし、皆が守っているのがリティルだとわかるからこそ、踏ん切れなかったのだ。
彼女たちはリティルの味方だ。決して悪いようにはしないと言い聞かせて、ノインは口元を引き締めるとレジナリネイの手を取った。
記憶が、流れ込んでくる。レジナリネイは、見せるのではなく、ノインにあの日の記憶を戻していた。
「こ、れは――」
ノインは仮面を外すと、思わずその大きな手で両目を覆っていた。スワロメイラは彼の指の間から流れる雫を見た。
「オレの責任は、重大だな」
ノインは涙を振り払うと、噛み締めるようにそう言った。
――イン、リティルのことはオレに任せろ。必ず、おまえの代わりに守り切る
スワロメイラは、未だ僅かに潤んだ瞳で静かに微笑むノインを見つめ、ああ、彼はインではないのだなと、唐突にそう感じて少し寂しく思った。
ノインは仮面を元のようにつけると、スワロメイラを見下ろした。あの記憶を見ても、あれくらいの動揺で済むなんて、さすがだなとスワロメイラは思った。
「スワロ、君を風の王の協力者と見込んで巻き込みたい。だが、これを聞けば後には退けなくなる。どうする?」
スワロメイラは、ジッと背の高すぎるノインを見上げていたが、フウと溜息をついた。
「ウチねぇ、リティルに病気うつされたかもしれないわ。無謀病。いいわよ。聞いてあげるわよ」
ノインは、青い焔のこと、リティルとシェラの夢のことをすべて話した。
「ガルビークが、グロウタースの住人達と繋がってるですって?突飛なこと考えるわねぇ。確かに夢の皇帝様なら、どの世界の誰の夢にも干渉できるわ。でも、実は夢に干渉することはそんな難しくないのよ。ウチにもできるしねぇ。ちょっと特殊な部屋に行かないといけないけど。何か匂いがしてたとか言ってなかった?」
「聞いていない。夢への干渉は結界に影響を及ぼさないのか?」
「リティルとシェラ姫ちゃんよね?内容からして、夢工房製かしら?危害を加える気がないのなら、普通の夢と同じだから結界は反応しないわよ。で、青い焔の件だけど、一日一人ずつなら、ウチクラスの精霊でも根気があれば眠ったままにできるわ」
「その方法とは?」
「教えてもいいけど、リティルが来たらね。ここで待ち合わせなんでしょう?あ、そういえば、レジーナ、ガルビークがどうとか言ってたわよねぇ?」
スワロメイラは、レジナリネイを振り向いた。
「ガルビーク、もう、嫌だ。青い焔、眠る人達、もう、嫌だ」
「………………同じ想いということか?」
しばらくレジナリネイの微睡んだ顔を見つめていたノインが、やっと口を開いた。
「ご名答。同じ想いが大量っていうのも、確かによくないのよね。想いは力でしょう?特に、ルキルースは想いでできてるから……ねえ、ノイン、もう嫌だの後、どんな行動をとるかしらぁ?」
「投げ遣りな感情か……自分に向かうか、他者に向かうかで結末は違うが……何かを傷付けかねない」
「ガルビークは、他者に向かうタイプね。ガルビークがなぜ眠ってるか、知ってる?」
「原初の風の犯した罪の話か?風の王ならば、誰でも知っている。風の王は償いのために戦い続ける。今はリティルが背負っている」
原初の風とは、初代風の王を指す呼び名だった。初代の名は、歴代の風の王達には伝わっていなかった。他の精霊達も、名ではなく原初の風と初代を呼んでいた。
「ねえ、原初の風の犯した罪ってなあに?ウチには、世界を救ったようにしか見えないのよねぇ。なんで、原初の風は罪人なの?」
原初の風は、罪人として風の王の力を剥奪されて、イシュラースのどこかに幽閉されている。彼は死んではいない。彼の心が無事なのかどうかはわからないが、インの知識を持つノインも、彼が死んでいないことは知っていた。
「セクルースの精霊は、世界を危険にさらしてはならない。仕方がなかったとはいえ、原初の風は、幻夢帝に戦いを挑んでしまった。幻夢帝の司るモノは、夜だ。もしも、幻夢帝を殺していたら、世界から夜がなくなっていた。許されることではない」
風の王は、世界を守る刃だから罪もまた重いと、ノインは言った。
「猛風鬼神って、呼ばれてたわね」
「風の王史上、最も強い王だった。罰を受けていなければ、未だに彼が風の王だっただろう」
「ねえ、もしも、もしもよ?今回ガルビークが黒幕だったとしたら、どうするの?ガルビークに挑んだら、リティルも罪人になるの?」
「……スワロメイラ、これ以上オレには──風には語れない。だが、リティルが罪を背負うことはないとだけ、言っておこう」
「そう、ならいいわ。いろいろ謎だわ。原初の風の強さは圧倒的だったわ。だけど、あとに目覚めた風の王達はそれほどでもないのよね。抜きん出てたインでさえ、足下にも及ばないもの。誰が何を、起こそうとしてるのかしらねぇ。問題なのは、その渦中にいつもリティルがいるってことよ。ねえ、リティルには何か引き寄せる力でもあるの?」
ノインは困ったように笑った。
「リティルは、目立ちすぎる。その一言に尽きる。そして、優しい」
「優しいって言葉で片付けちゃダメよ!あれはねぇ、激甘っていうのよ。もおおお!バカなの?バカじゃないわね……極限バカよ!」
スワロメイラは、感情が高ぶったのかドンドンッと片足を踏みならした。それをみたノインは、遠慮なく笑った。
「ハハハハ。インも面倒を引き受けるタチだったが、君はリティルのことは案じるのだな」
「だって、インより弱いもの!気ばっかり強くて、ハラハラさせられっぱなしよ。いーい?ノイン、リティルの事ちゃんと守ってあげてよね」
「心得た。インに誓って、リティルを守ろう」
ノインは、フッと涼やかな目元に、暖かな微笑みを浮かべた。
カルシエーナは扉を少しだけ開くと、隙間から廊下の様子を窺った。それから顔を思い切って出すと、左右を念入りに確認した。危険は……なさそうだ。ホッと溜息をつくと、恐る恐る廊下に出た。
「猫並の警戒心ですね」
「きゃああ!お、お兄ちゃん……驚かさないで!でも、なぜ窓から?」
窓の外から、窓枠に頬杖をついたインファが呆れたように笑っていた。
「父さんに用事を頼まれまして。あなたの気配がしたので、様子を見に来たんです」
「今帰ってきたの?」
「いいえ、帰ってきたのは昨日の夜です。またすぐ出なければなりませんが」
インファは窓から廊下に入り、カルシエーナの前に立った。
「そうなのか……」
カルシエーナは、あからさまに不安そうな顔をして俯いた。
「あなたも一緒に行くんですよ?ケルゥも一緒ですけどね」
インファの言葉に、カルシエーナは瞳を瞬いて顔をガバッと上げた。
「わ、わたしも?……行くのはルキルース?お兄ちゃんとノインと行くの?わたし、あ、足手纏いじゃ……」
「そう思うなら、しっかりしてください。父さんの邪魔をすると、お仕置きですよ?」
インファは冗談めかして笑った。他の兄弟達はインファのこの言葉を聞くと震え上がるが、カルシエーナはまだお仕置きされたことがなかった。
「お父さんも行くの?なら、お城にいた方が……」
カルシエーナは、自信なさげに手をもじもじとこねた。
「城に残るんですか?では、ケルゥに手込めにされないように、自力で頑張るんですね?」
インファの言葉に、カルシエーナはため息と共の俯いた。
「ねえ、お兄ちゃん……男の人は、気持ちがなくてもそういうこと、できるの?」
「精霊には、その感情自体ない者が多いですからね、快楽目的でも、男女ともにできると思いますよ?」
子供も皆無に等しいほどできないから、気兼ねもいらないとインファは言い切った。
「精霊は乱れているな!」
「精霊は永遠の命を持っていますからね、子孫を残す概念がそもそもないんですよ。父さん達のような感情を持っている精霊は、少数派です。本来その行為も、相手と霊力を分け合う儀式のようなモノで、感情があるからするモノではないんです」
カルシエーナは、話しについて行けないととばかりに、瞳を瞬いていた。
「お兄ちゃんは――」
カルシエーナは言いかけて、ハッとして口をつぐんだ。聞かれると思っていたインファは、小さくため息をつくと、気にするなと言うように微笑んだ。
「風はグロウタースに感覚が近いですからね。心もないのにできませんよ。もしオレがことに及んだら、大変な騒ぎになってしまいますしね」
だから、軽率なことはできないと、インファは笑った。
「ああ、お兄ちゃんは高嶺の花だったな」
「カルシエーナ、ケルゥの心を疑っているんですか?」
「わたしとじゃ、釣り合わないって……。ケルゥの好きが、同情だったんだって思ってしまったら、もう、どうしていいのかわからなくて……」
インファは俯くカルシエーナに、困ったような優しい笑みを落とした。そして、ふと風を手の平に集めた。髪を揺らした風に顔を上げたカルシエーナの目に、風が一冊の本になるところが映った。
「参考になるかどうかわかりませんが、これをどうぞ」
手の平よりも少し大きい小さな本だった。深緑の厚い表紙には、金文字で名が書かれていた。
「ワイルド ウインド?」
「奇しくもオレと同じ名前ですね。風の王夫妻の馴れ初めが書かれた本です」
「え?なぜ、本になってるの?」
「双子の風鳥という島を知っていますか?両親は、その島の英雄なんですよ。オレが持っていたこと、内緒にしてくださいね」
インファは微笑むと、カルシエーナを促して共に歩き始めた。
リティルとシェラの馴れ初め。そういえば、尋ねたことはなかった。
仲睦まじく、揺るがない絆で結ばれているような二人。リティルがいないときのシェラは、日に何度もボンヤリしていた。そういうときのシェラはおっちょこちょいで、紅茶を零したり小さな失敗をしている。
どうしたのかと聞くと、リティルがどうしているかと思ってと言って、寂しそうに微笑んだ。そんな二人にも、出会いがあり、心を通わせるまでに時間があるのだと思うと、なんだか不思議な気分になった。その課程が、この本に書かれているのだ。
応接間の扉を開けようとしたインファの手が、ふと止まった。どうしたのかと、後ろから覗きこんだカルシエーナの耳に、言い争うような声が聞こえた。
インファは小さく溜息をつくと、扉を一気に開いた。
「どうしたんですか?」
インファの静かな声に、応接間は一瞬静寂に包まれた。
その静寂を破ったのはケルゥだった。
「兄ちゃん!兄ちゃんも、止めてくれよぉ!リティルが、ガルビークとヤルなんて言ってんだよぉ!」
インファの姿に縋るように声を投げ、ケルゥは大いに困惑していた。
「待てよ。ヤルとは言ってねーよ。見に行くだけだぜ?」
「ケルゥ、見に行くだけですよ。オレとノインも同行します」
あまりの取り乱しように、インファは宥めるように声をかけた。しかし、ケルゥの暴走は止まらない。
「行くなや!シェラ、リティルが死んでもいいんかぁ!」
ケルゥは苛立っていた。インファの目には、彼が過剰に苛立っているように見えた。
ガルビークは眠っている。そんな精霊の何を、そんなに恐れているのだろうか。断崖の城には、眠りを守る恐ろしく強い番人でもいるのだろうか。そんな話はきいたことがないが。
「ケルゥ、リティルは風の王よ?何が相手だろうと、行かなければならないわ」
「原初の風の罪かぁ?なんでだぁ!あのヤロウに、罪なんかねぇ!あのヤロウがいなけりゃ、今頃……なのによぉ、なんでだぁ!」
ケルゥはやはり知っている。ガルビークがなぜ眠っているのか、その理由を。
リティルは、それを知っていて風と共にいるのかと、ケルゥが本当の家族に何ら思い入れがないことを知った。
なぜなら、ガルビークを眠らせたのは、初代風の王だからだ。ケルゥにとって、風は、父親の仇に等しいのだ。
リティルは溜息をつくと、ケルゥのコートの大きく開いた袖口を引っ張った。背の低いリティルでは、背伸びしても彼の肩まで手が届かないからだ。
「原初の風は、正義の為にガルビークと闘ったわけじゃねーんだ。王妃を傷付けられた怒りに、支配されてたんだよ。すんでの所で踏みとどまったのは、どうしてだかオレにはわからねーよ。でも、初代は何とか踏みとどまって、ガルビークを封印した。それが真相なんだよ。名前も、王の力も剥奪されて、このイシュラースのどこかに封印されてる、あいつの罪は、ガルビークを殺しかけたからじゃねーんだ。輪廻の輪を護る風の王が、怒りに支配されて、命を奪いかけたことが罪なんだ。風を穢したことが罪なんだよ。歴代風の王は、その償いをしているって言われてるけどな、オレはそんなつもりねーよ。闘うことは、初代もずっとしてきたことだからな」
インファはジッとリティルを見つめていた。リティルの言った、王妃を傷つけられ怒ったというくだりを、インファは知らなかった。原初の風の罪の話は、風の王の副官であるインファの知識にも当然あった。だが、原初の風は夜を消し去りそうになったために、罪人になったとだけ認識していた。
「父さん、その話は調べたんですか?」
「はあ?おまえもこれくらいの知識あるだろ?オレの副官なんだからな。ああ、他の精霊に無闇に語るなってあれか?ケルゥはガルビークの息子だろ?例外じゃねーか」
リティルは、インファの質問の意味がわからなかったようだった。インファはノインと合流したら、彼にも聞かなければならないなと今は口を噤んだ。
「レシェラ……死んでたんかぁ……」
レシェラは、原初の風の妃だ。リティルも名前を辛うじて知っている程度で、それ以上のことはわからない。その妃のことまでも知っているとは、ケルゥはあの戦いの時にはすでに物心ついていたのだと、リティルは気がついた。
「おまえがどうして、そんなにショック受けるんだよ?あれから誰も見てねーだろ?レシェラのことは、なぜかうやむやだけどな。ケルゥ面識あったのかよ?」
十五代目であるリティルでは、ケルゥの話には到底ついていけない。リティルにある記憶は、初代から受け継がれた断片的な記憶でしかないからだ。
「レシェラとなぁ、ユグラテティシアは友達だったんだ。二人はよく似てて、姉妹みてぇで……オレ様にも優しかったんだよ。リティル、オレ様は原初の風の名前を知ってんだ。名前も剥奪されてるなんてなぁ……おめぇだけでも、覚えといてやってくれねぇかぁ?」
ケルゥはそう言うと、リティルの耳元で囁いた。その名を聞いたリティルが、僅かに目を見開くのを、インファは見逃さなかった。
「リティル、オレ様も行くぜぇ?あのヤロウにゃ、手ぇ出すな。今度は、オレ様がやるぜ」
それを聞いてリティルは、おいおい、誰がガルビークと戦うって言ったんだと苦笑した。
「ハハ、見に行くだけだって言ってるだろ?オレとガルビークじゃ、勝負にならねーよ。じゃあ、行くか。ルキルース。ノインが先に行ってるんだ。あんまり待たせると、心配するだろ?」
「では、行ってきます。インリー、レイシ、留守番頼みましたよ?」
「うん、気を付けてね、お兄ちゃん」
「はあ、親父とケルゥが喧嘩になったときは、どうしようかと思ったよ……」
皆はゾロゾロと中庭へ移動していった。
残されたシェラは、リティルに並ぶ。
リティルは険しい顔で、中庭のバードバスに視線を送っていた。
「ガルビークと、ヤル羽目にならなきゃいいけどな」
「初代のかけた封印は強力よ。そんなに簡単に破れるものではないわ」
シェラがそっと、リティルの右手に手を重ねた。
「もしものときは、討ってもいい。精霊王も思いきったな。勝てるか!バカ野郎って思うけどな」
リティルは苦笑しながら、シェラの顔を見た。早朝、インファに頼んで有限の星に向けて、ツバメを飛ばしてもらった。もしもガルビークと闘うことになったときの為に、指示を仰いだのだ。返ってきた答えは、思うようにせよ。必要だと思うならば討て。と、ほぼいつも通りだった。
「まあ、何も考えなくていいのは、ありがたいけどな。シェラ、今回はちょっと強がれねーけど、必ず帰るからな」
ギュッとリティルはシェラを抱きしめた。
「わたしを頼ってね。どこにいても、どんな状態でも、あなたを必ず守るから」
「どんな状態でもって、怖えーこと言うなよ。シェラ、オレの為に命賭けるなよ?」
「リティル、わたしはもし散っても、同じ存在として必ず咲くわ。だから、わたしが忘れていたら捜して。絶対に見つけてね」
「やめろって。君を失ったら、百年くらいやさぐれてやるからな!」
「自暴自棄になるくらい、インファは許してくれるわ。でも、あなたは絶対に帰ってきて」
シェラはリティルの答えを待たずに、夫の唇を塞いでいた。妻のいつもよりも激しい口づけを、リティルは受け入れて求め返した。
応接間は、中庭に向けてガラス張りといっていいほど大きな窓が填まっている。それは、中から外がよく見えるということだが、外から中もよく見えるということだった。
「うわあ……今日は刺激強め……」
「見なければいいでしょう?父さんだって、形振り構っていられませんよ」
顔を覆いながら、指の間から両親を見ているレイシに、インファは呆れた顔をした。
「今回、危険なんだね……お兄ちゃん……」
インリーが心配そうにインファを見上げた。
「大丈夫です。オレ達は勝ち続ける以外ありませんから」
インリーは兄のいつもの自信ありげな笑みを見ながら、心配顔のまま微笑んで頷いた。
そう、勝ち続ける以外にない。インファは、笑顔の下でそっと覚悟を決めていた。
カルシエーナは、インファから離れないように行動していた。いつになく真剣なケルゥに、リティルの隣を取られてしまったからという、単純な理由からだった。こうして後ろから離れて見ると、ケルディアスはとても大きな体躯の男だった。二メートル近い身長と、隣にいるのが一五〇センチほどのリティルだということもあるが、大きくガッシリとして存在感があった。
隣で、インファが小さく溜息をついたのを聞いて、カルシエーナは兄を見上げた。
「いえ、ケルゥが復活してくれてよかったと思いまして。オレ達風だけでは、もしもの時、とても生きては戻れそうにありませんから」
「ガルビークは、ケルゥのわたしの本当のお父さん?」
「そうです。夜の世界を支配する王です」
「敵なの?」
「敵、というわけではありませんが……おそらく錯乱しているので、言葉は通じないでしょうね」
「なぜ?」
「何があったのかは、ケルゥの方が詳しいと思いますよ?簡単に言うと、愛する妻を失って、我を忘れ、ルキルースで破壊のかぎりを尽くし、初代風の王に討たれました」
「さっきリティルが、初代風の王の妃が傷つけられたって。ガルビークが殺してしまったの?なぜ?奥さんの友達だったって」
「オレにはわかりません。父さんが言ったことは、オレの知識にはありませんから。父さんに聞いても、あれ以上のことは出てこないと思いますよ?もう、太古の話で、父さんは十五代目ですからね」
桜の園の丘の天辺が見えてきた。そこに立つ、ノインの姿を見て、インファは内心ホッとしていた。不安があっても、インファはなかなかリティルにそれを言えない。ノインはインファの守護精霊で、頼りがいがあり不安を吐露しやすい相手だった。
「リティル、断崖の城へ行く前に、寄りたいところがある」
「へ?おまえ、情報収集までしてくれてたのかよ?お、スワロ、おまえもいたのかよ?」
ノインに会うや否や提案され、リティルは素直に驚いていた。ノインの影からヒョコッと顔を出したスワロメイラは、得意げな笑みを浮かべていた。
「久しぶりね、リティル。これから、バラの花園に行くわよ!」
「バラの花園?おい、理由教えてくれよなー!」
身軽にクルリと回転すると、タッタカ行ってしまうスワロメイラを追って、リティルは走り始めた。
「あいつ、なんでこういうとき走るんかなぁ。風の精霊だろう?」
「そういうな。リティルは、目覚めた時から風の王ではない。たまには走りたいのだろう」
ノインはフッと微笑むと、ふわりとリティルと同じオオタカの翼を広げて、後を追っていった。
『ケルゥ、乗りますか?』
「兄ちゃんのほうがそういうとこ、柔軟だよなぁ」
ケルゥのそばに、人を乗せられるくらい大きなイヌワシの姿に化身したインファが、飛びながら近づいた。すでにカルシエーナを乗せたインファの大きな背に、ケルゥは軽々と飛び乗った。
「バラの園か……あんまり行きたくねぇ」
ケルゥは、ルキルースに来てからずっと険しい顔をしていた。まるで、風の城にきたころに戻ったようだった。
『何がある部屋なんですか?』
「ただのバラ園だよ。テティシアローズっていうバラのなぁ」
テティシアと聞いて、そのバラ園が彼の母の縁の場所であることがわかった。
『ケルゥ、母親のこと覚えていますか?』
「……思い出したくねぇ」
つっけんどんに言われ、やはり触れてはいけないことだったかと、インファは思った。
『そうですか。すみません』
「兄ちゃん、イライラしてすまねぇ。でもよぉ……オレ様は見ちまったんだよ。ガルビークが、テティシアを──」
「やめろ!」
ケルゥは後ろから肩を強く掴まれて、驚いて振り向いていた。後ろにいるのは、一人しかいず、彼女が触れてくるとは思いもよらなかったのだ。
「そういうことは、言ってはいけない気がする。ケルディアス、おまえ、どんな声をしているかわかっているか?とても、辛そうだ」
「……ありがとうよ、カルシエーナ。でもなぁ、オレ様はこれでいいんだよ」
ケルゥは前を向くと、つぶやくように言った。拒絶されたようで、カルシエーナはズキリと胸の痛みを覚え、ケルゥから手を放していた。
「兄ちゃん……これから先も、オレ様、ずっとリティルの協力者でいるからなぁ。手に負えねぇような化け物が出てきたら、遠慮なく連れてけよぉ」
ケルゥはそっとインファの背に手を押し当てた。
『感傷的ですね。どうしました?』
「オレ様が再生の精霊だったら、原初の風は、名前まで剥奪されなかったんじゃぁねぇかなぁってなぁ。兄ちゃん、思い出したんだよ。オレ様の再生の力を封じたのは、ユグラテティシアだ」
『理由を聞いてもいいですか?』
「わっかんねぇ。あの戦いが起こったのは、そのすぐ後だったぜぇ?ガルビークがテティシアを――あの後はひでぇもんで、ルキルースの最上級から上級の精霊達が虐殺された。レジナリネイもその一人だ。あいつはただ、テティシアの記憶を守ろうとしただけなのによぉ。原初の風がこなかったら、オレ様やセビリアもやられてた。凄かったぜぇ?三日三晩ガルビークと原初の風は戦い続けてなぁ。もう、誰も手を出せなかった。猛風鬼神――初代風の王は、本当に鬼神だよ。兄ちゃん、絶対死ぬなよぉ?オレ様はよぉ、リティルが恐ぇんだ。あいつはこれ以上、傷付けちゃぁいけねぇ」
『もちろん、死ぬ気はありませんよ。オレが今、守るべきはただ一人なんです。母さんの代わりに、父さんを連れ戻しますから、安心してください』
「安心できるかぁ!兄ちゃん、中身リティルだもんよぉ!」
『なんですか?オレの中身はオレですよ?心配いりませんよ。冷静でいますから』
相変わらず飄々とインファは言ってのけたが、最後の声色はケルゥを労るように優しかった。素直に頷く大男の背中を見つめながら、カルシエーナは二人の信頼関係を羨ましく思った。
常に戦いの渦中にある風一家の結束は固い。特に、リティルとインファの信頼は恐ろしいほどに強固だ。その脇を、今ノインとケルディアスが支えていた。その背後にシェラが君臨し、守っている。それでも、錯乱した幻夢帝に通用するかは、わからなかった。
見に行くだけだ。見に行くだけだと口では言いながら、皆、ガルビークと争いになると薄々覚悟していた。
ノインは走るリティルに追いついていた。その先を走るスワロメイラは、かなりのスピードでリティルは少々、むきになっていた。
「リティル、――と、いうわけだ」
「ああ、ありがとな。にしても、あいつ速えーな」
リティルはノインに事の次第を説明され、やっとバラの園へ向かう理由を知った。その場所に、眠り病のヒントがあるらしい。
「リティル、一つ気になっていることがある」
「なんだよ?」
やっと眠り病が解決できるかと、リティルがやれやれと思っていると、ノインに真面目な視線を送られ、ピリッと心が引き締まる。
「インと引き離され、取り戻すまでの間に何があった?性格が違いすぎて、あれでは別人だ」
思いもよらないことを真面目に問われ、リティルはずっこけそうになった。
「あはははは。教えてやらねーよ!」
ノインが知りたいのは、リティルの黒歴史だ。グロウタースの仲間には、黒い時期と呼ばれていた。そんな汚点、語れるわけがない。
「それは残念だ。あんなに純粋無垢だった天使が、堕天した理由が知りたかったのだが」
残念残念と、ノインはからかうような笑みを、その瞳に浮かべた。
「ノイン……上手いこと言ってんじゃねーよ!」
「フッハハハハ。シェラは知っているのか?」
「知られてるぜ?あいつが持ってる、オレの牙知ってるだろ?シェラの奴、あれにダイブしやがったんだよ。薄汚ねーオレの過去を知っても離れていかねーなんて、もう、捕まるしかねーだろ?」
「なかなかいい告白だった」
「もう、やめろよ。恥ずかしいだろ?だから嫌だったんだよ。おまえ、絶対からかってくると思ってたからな!」
記憶を見たら、からかわれると思っていたリティルに、ノインは驚いた。父親であるインが記憶を見たとしても、優しく見守るのみでからかうことはないだろう。リティルは微塵も、ノインがノインでなくなることを考えていなかったのだ。ノインは、この人格を認められていることが素直に嬉しかった。そして、インになってもいいと思ったことを恥じた。
「リティル、礼を言う。おまえが、主君でよかった」
「ハハ、なんだよ?気持ち悪りーな。お、あの扉っぽいな」
先に辿りついたスワロメイラは、銀色に輝く扉を開いた。美しいバラの銀細工で飾られた、庭園の扉のようだった。スワロメイラがいっぱいに開けた扉に、リティルとノインは先に飛び込んだ。
桜の優しい香が遠のき、リティルとノインは主張するような芳香に包まれた。
青色の巨大な満月の照らす下、ガラスのように透き通った、青いバラが咲き乱れている。地平線の彼方まで続いているような、森の中の広大なバラの園だった。所々に、アクセントのように置かれた柱の上には、虎や蝶の彫刻が鎮座していた。
「テティシアローズ」
ノインがつぶやいた。
テティシア……その名で、このバラを誰が作ったのかリティルは察した。大地母神と呼ばれた、ユグラテティシアが咲かせたバラだ。
「綺麗でしょう?この花の香りにはね、夢を繋ぐ力があるのよ。リティル、夢に介入されたんでしょう?花の香りがしなかった?」
「してたかな?覚えてねーな。ただ、シェラがオレに気がつかなかったな。あいつも花だからな、花の香りに惑わされたのかもな」
リティルはマジマジとバラの花を見た。花弁の先が磨りガラスのように青白く、がくへ近づくにつれて透き通っていく。ルキルースならではの花だなと、リティルは思った。
「テティシアは、精神体でルキルースに来ていたのか?この花を使えば、セクルースにいながら、ルキルースに来ることができる」
「それは、きついな。肉体は精神を守る鎧だよな?それを脱いだまま長く行動すれば、命をすり減らすぜ?」
ノインも、リティルに同意して頷いた。
「それほど、共にいたかったということか」
「大地の王と幻夢帝じゃ、難しい関係だよな?どっちかが自由な精霊だったら、よかったのにな」
王という壁に阻まれて一緒には暮らせない関係に、リティルは寂しいなとつぶやいた。
「おまえは、幸運だったな」
ノインはしみじみ言うと、リティルの肩をポンッと叩いた。
「ノイン……まだ引きずってるのかよ?そういえば、原初の風の妃も、神樹の花の精霊だったな。シェラと同じかよ」
「調べたのか?」
「へ?おまえ忘れたのかよ?レシェラは花の姫だぜ?遊風天女って、すげー異名だよな」
ノインは、本当にしらなかった。リティルは初代の妃のことを、風の王なら当然知ってるはずだと思い込んでいるようだなと、ノインは思い、少し突いてみることにした。
「リティル、幻夢帝と原初の風がなぜ戦う羽目になったのか、その理由を知っているか?」
こちらを見上げてきたリティルは、当然だという顔をした。
「ああ、知ってるぜ?ユグラテティシアと遊風天女――レシェラは、双子みてーにそっくりだった。その姫達をガルビークは見間違えたんだ。原初の風と自分の妻が浮気してると思ったんだよ。ガルビークはただでさえ、テティシアと逢えてねーよな?嫉妬に狂って、襲っちまった。でもな、それは、テティシアじゃなく、レシェラだったんだ。レシェラにしてみたら、夫に対する裏切りだよな。無理矢理でも、別の男と……しかもその相手が友人の旦那だなんてな。それを知って原初の風はルキルースへ行ったんだ。あとは、泥沼の殺しあいだ。三日三晩闘って原初の風が勝った」
予想以上だった。静かに聞いていたノインは、リティルの中で、何かが起きていることを知った。
「リティル、その話は本当か?」
「ああ、オレが風の王になったとき受け継いだ記憶の一つだぜ?インの記憶にもあるだろ?」
リティルは、ノインが知っているものと思い込んでいる顔をしていた。聞かれたのは、抜き打ちテストのようなものだと、思ったようだった。
「ない。オレの記憶にはない。そもそも原初の風の罪の話に、遊風天女は出てこない。彼女が何者だったのか、わざわざ調べなければ知るよしもない」
「ああ?じゃあ、オレの記憶はなんなんだ?」
リティルはその記憶がいつからあるのか、わからなかった。初めから有ったのか、後から植え付けられたのか、それすらわからなかった。
「でも、リティルの話、信憑性あるかも。だって、幻夢帝と大地母神は仲睦まじかったのよ。それなのに……。でも、それが事実なら、もの凄い悲劇じゃないのぉ」
話を聞いていたスワロメイラが、嘘でしょう?と言いたげに声を上げた。
あの戦いは本当に凄まじかった。セクルース最強の精霊と謳われた猛風鬼神と、ルキルースの王との一騎打ち。場所がルキルースでなかったら、未だに癒えない傷が大地に刻まれたままだっただろう。
それが、その戦いの発端が、勘違いだったなんて、いったい誰が想像し得るだろうか。
「だよな……みんな可哀相だよな。テティシアは不貞なんてしてねーのに、疑われて、聞く耳持ってもらえなくて、辛かっただろうな」
リティルがしんみり答えていると、いきなり黒い塊が覆い被さってきた。
「リティル!その話、ホントかぁ?」
「うわあ!第二弾来やがった!オレの記憶が誰かの悪戯じゃなきゃな」
リティルは、飛び込んできたケルゥに両肩を掴まれていた。
「テティシアは、ガルビークを裏切ってなかった?そうなんかぁ?」
ケルゥの瞳が恐いくらいに真剣だった。無理もないかとリティルは思った。ケルゥは、当事者なのだ。リティルからすれば太古の話だが、ケルゥにとっては昨日のことのような色あせない出来事なのだろう。
「そうなんじゃねーか?おまえから見て、テティシアは、友達の旦那に色目使うような女だったのかよ?」
ケルゥは首を横に振った。そしてその場に、長いため息と共に崩れるように座り込んでしまった。
「オレ様……ずっと誤解してた……ガルビークがあんなに怒り狂って、テティシアとの記憶も打ち砕いてよぉ、そりゃぁ、ガルビークを信じるだろう?このバラ園はなぁリティル、原初の風が守ってくれたんだぁ」
吹き抜ける夜風に、波のようにバラの花が揺れていた。この花は、テティシアのガルビークに対する愛の形だ。怒り狂ったガルビークに破壊し尽くされずに残っているのは、確かに奇跡だった。
「初代、意外と冷静だったのか?シェラが同じ目に遭わされたら、オレならぶち切れて、相手ごと滅ぼしてるな」
「うん、リティルならそうよね……」
スワロメイラが神妙な面持ちで、リティルの言葉を肯定した。
「おい!冗談だよ!どうして、本気に取るんだよ?嘘だろ?インファまで!」
皆の瞳がやりそうだと言っていて、リティルは焦った。そして、シェラに怒ると手に負えないと言われたことを思いだした。キレた記憶などないのに、皆確信していることがリティルには衝撃だった。
ふわりと風がバラの花を揺らした。バラの芳香が静かに皆を包んでいた。
「スワロ、ここに何があるんですか?」
狼狽えるリティルの様子に笑っていたインファは、やっと、本題を切り出した。
「あーえっと、なんだったかしら?」
「夢に囚われたままにする方法だ」
ノインの静かな声に、スワロメイラはやっと思い出した。それでここまで、マラソンしたのだったと。
「そうだったそうだった。ええっとね、この花を媒介にして、座標を設定するのね。そこへ夢を流し込んで完了よ」
「よくわからねーけど、簡単そうだってことだけはわかったぜ」
「青い焔は眠ったままなのよね?だったら、ルキルースのどこかに意識が囚われてると思うんだけど……ケルゥ、心当たりないの?」
「ああん?オレ様?なんでぇ、オレ様に聞くんだぁ?」
「ルキルースの精霊だからよ!聞いたウチがバカだったわ」
「スワロメイラ、なぜ青い焔の住人たちの意識は、囚われているの?それをすると、何が起こるの?」
ずっと傍観していたカルシエーナが、疑問を口にした。
「レジーナが、ガルビークと青い焔の住人たちの想いが、一緒だって言ってたのよね。誰かが、ガルビークを起こそうとしてるのかもしれないわねぇ」
「起きてもらうと、困るんだよな。錯乱したままなんだろ?また大暴れだぜ。ガルビークを起こしたい奴は、世界を滅ぼしたいのか?それとも、風に恨みでもあるのかよ?」
「ルキルースは壊しても壊しても再生するから、ハードル低いんでしょう?精霊王が本気出せば、ルキルースごと封じることだってできるでしょう?ねえ、リティル、あなた生け贄にされたんじゃない?」
「風の王は替えがきくからな。オレが失敗したらしょうがねーよな?ただなあ、もうちょっと強く、目覚められると楽なんだけどな」
リティルは青紫色に澄んだ空を見上げた。
「インは初代に一番近かったんだ。それなのに、その魂を受け継いだオレは、それほどでもねーんだ。たまにキツイぜ?絶対帰るのも、楽じゃねーよ」
リティルはフッと優しく微笑んだ。まるで、愛する者の姿が見えているような、そんな瞳だった。そんなリティルの様子を見ていたカルシエーナは、切なくなって胸の前でギュッと手を握った。その様子を、ケルゥは感情を隠した瞳で見つめていた。
ケルゥは一人、皆の輪から離れた。
どこまでも、テティシアローズは主を失っても咲き乱れていた。決して枯れることなく、決して散ることのない花。
この花園を造ったのは、ガルビークだった。一輪だったテティシアローズをここまで増やしたのは、寡黙で寂しそうな瞳をしたケルディアスの父だった。何者も拒絶するようで、近寄りがたかった父親。なかなか来ない母親のことも、ケルディアスには希薄だった。
風の王夫妻とは大分違う。待たされているのが、妻の方だからなのだろうか。シェラはたまにボンヤリしているが、それでもどこか幸せそうだった。もちろん、リティルがそばにいるときの方が幸せそうだが、離れていても確かな信頼と絆を感じられた。
けれども、ケルゥの両親からはそれが細く危うかったように思えた。
リティルは、同じ状況になっても、シェラを信じられるのだろうか。リティルなら信じるような気がする。シェラが偽っても、暴いてしまうような気がする。それがリティルだと、なんだろう、根拠もないのに思える。
原初の風と、遊風天女と呼ばれていたレシェラは、どんな夫婦だったのだろうか。
原初の風が妃と連れだってルキルースに来ることは稀だった。大抵バラバラに訪れていた。けれども、二人でいるところをケルゥは一度だけ見たことがあった。
粗暴な感じのするガッシリとした体躯の美丈夫。それが、原初の風の印象だ。その傍らにあった、少女の様な無垢さを残す笑顔の眩しい姫。シェラと同じ、モルフォ蝶の羽根がルキルースにはない色合いで、綺麗だなと、いつもケルゥは目を奪われていたことが思い出される。レシェラは背の高い原初の風に見合う身長で、テティシアを月とするなら、太陽のように無邪気な精霊だった。
それでいて気丈さも持っていたレシェラが、ガルビークに為す術なく奪われたというのは、ケルゥには信じられなかった。彼女なら、逃げるだけの力も、はね除けるだけの心も持っていたはずなのに……。
──あなたがそうしたいのならば、私は受け入れます
ケルゥの耳に、母親の最後の声が甦った。
「なんで……なんでおめぇは、諦めちまったんだよぉ!潔白だったなら、なんで……!お袋……それじゃぁ、親父が憐れじゃねぇか……」
ケルゥは、この場所で、ガルビークの腕がテティシアの胸を貫くのを見た。ただ、見ていることしかできなかった。
──それでも、私はあなたを愛しています
「そんなん、愛してねぇよ!オレ様にゃぁ、間違いにしか思えねぇ……」
惨劇を目の当たりにして、うずくまった幼いケルゥの肩に、あの後、やって来た原初の風が触れた。
──ケルディアス、ガルビークはどこだ?奴に、話がある
ケルゥは原初の風に、ガルビークの居場所を教えてしまった。そして、父が母を殺したことを告げてしまった。
──バカは、どこまで行っても、バカだな。仕方のない
あのとき、原初の風はどんな表情をしていたのだろうか。三日三晩殺し合う二人を、幼かったケルゥはただ傍観していた。
ずっと、原初の風は何事かをガルビークに向かって叫んでいた。彼自身の心も、傷ついているはずなのに。揺るがない瞳で、まるで何かをわからせようとするかのように、何度も何度も、原初の風は叫んでいた。
あの日の原初の風が、彼には似ても似つかないのに、小さく華奢なリティルと重なる。原初の風はガルビークを封じるしかなかったが、リティルならどうしただろうかと、ふと考えてしまった。
「親父……まだ辛いのかぁ?まだ、何も聞く気にならねぇか?まだ、真実を受け入れられねぇか?どうなんだぁ?親父……」
風がサワサワとバラの花達を揺らした。ケルゥの語りかけるような声は、誰にも届かずに虚空に吸い込まれていった。
事が起こった時、ケルゥはまだ精霊としても未熟な時期で、大人の精霊でルキルースに来ると構ってくれた原初の風に、すべてを頼らざるを得なかった。月日が過ぎ、やっと精霊として一応の一人前になったケルゥは、この日のことをこれまで何度も思い返して今まで生きてきた。
もしも、こうだったならと、後悔することもできないくらいで、ただ、なぜこうなったのかと憤ることしかできなかった。ただ一つ、後にわかったのは、母が不貞を働き、父に殺されたということだけだった。それが間違いだったことは、今リティルが教えてくれた。
でも、ならば、こんな取り返しがつかなくなる前に、何かができなかったのだろうか。
なぜ、ガルビークとテティシアは、続いていく努力を怠ってしまったのだろうか。
なぜ、繋いだ手を、放して、しまったのだろうか。
ケルゥのそばに知った気配が立った。
「エネルフィネラぁ……てめぇかぁ!」
ケルゥの瞳に怒りが灯り、その腕が黒い犬のそれに変わった。振り下ろした腕をふわりと避けて、エネルフィネラは薄く笑った。
「青い焔の住人たちの意識は、断崖の城よ。そして、ガルビークは、錯乱したままよ。目覚めたら、風の王は太古の戦いをなぞることになるでしょうねぇ。あの小さくて可愛い風の王様に、勝ち目はあるかしらぁ?」
「理由はなんだぁ!エネル、リティルに何でちょっかいかけやがる?」
「弱すぎるけれどねぇ。名前がねぇ。だから、教えてあげようと思って。原初の風の宝がどこにあるのかをねぇ」
原初の風の悲願でしょう?とエネルフィネラは、意味のわからないことを言った。
「原初の風の宝だぁ?なんだそりゃぁ?」
攻撃を避けて、上空に逃れたエネルフィネラをケルゥは睨んだ。
「ウフフフ。遊風天女はどこに行ったのかしらねぇ?」
「てめぇ!いったい、何を知っていやがるんだぁ!」
あの戦いの後、原初の風の妃を見た者はいない。三日後、断崖の城から出てきた原初の風に、ケルゥは何も声をかけられなかった。そんなケルゥに彼は、通り過ぎざまに言葉を落としていった。
――終わった。ケルディアス、すまん
あの謝罪の言葉の意味が未だにわからない。彼は、これ以上の破壊を止めてくれた。多くのモノを守ってくれたのに。なぜ、ケルゥに謝ったのか、わからない。
彼と入れ替わりに入った断崖の城で、玉座の間に置かれた、大きなガーネットでできた石榴を見上げながら、ケルゥは呆然としていた。その石榴の中に、怒り狂っていた父が眠っていた。
あの戦いから数日後だった。原初の風が姿を消し、新たな風の王が誕生したのは。
罰を受け、原初の風が幽閉されたと聞いて、大いに混乱した。彼は、ルキルースを救ってくれたのに!と。
「ルディ・ルとリティ・ル。偶然かしらねぇ。ねえ、ケルディアス、あなたもガルビークをこのままにしておいていいとは、思ってないわよねぇ?」
ケルゥはカッとして、空中のエネルフィネラに腕を振るった。それを、薄笑いを浮かべたまま彼女は躱した。
ルディル――失われた原初の風の名を、エネルフィネラが口にしたことが、たまらなく嫌だった。原初の風は何も悪いことはしていない。リティルが、何が罪なのかを教えてくれたが、そんなこと、やっぱり罪だとは思えなかった。
風の王の源流である原初の風を、彼を知りもしないで貶めてほしくない。彼に連なる風の王たちを、彼等が戦うのは必然だからと、そんな言葉で片付けてほしくなかった。
ガルビークは化け物だ。そんな相手と、リティル達を戦わせたくない。
王の帰りを城でずっと待っているシェラから、リティルを奪ってほしくない。
「オレ様に、何ができるっていうんだぁ!眠りと目覚めがどうしたってんだぁ!勝手にこじつけて、リティルに背負わせてんじゃぁねぇ!」
「ウフフフフ。ケルディアス、ルキルースの目覚めの時よ。面白い物を、見せてあげる」
エネルフィネラはテティシアローズでクルリと円を描くと、扉を開いて、去って行った。
ケルゥは、エネルフィネラの消えた空を見上げていた。あいつはガルビークを起こすつもりなのだとわかった。わかったが、今までそれができた精霊がいないことを、ケルゥは知っていた。それほど、原初の風のかけた封印は強力なのだ。リティルが解けるとでも思っているのだろうか。無理だ。リティルは壊滅的に魔法が苦手なのだから。
それなのに、なんだろう?この胸騒ぎは……。
「大丈夫か?誰かいたの?」
ケルゥはその声に驚いて、恐る恐る振り向いた。
「カルシエーナ……」
「なんだ?わたしで悪いか?」
「おめぇ、一人かぁ?」
彼女の様子から、今のエネルフィネラとの会話は聞かれていないことがわかった。
「それ以上近づいたら斬るぞ?……大丈夫か?」
「オレ様、そんなひでぇ顔してるかぁ?」
「うん。こんな傷ついて子犬みたいなおまえなら、怖くない」
カルシエーナは近づいてきた。そして、手に触れてきた。
「わたしには、両親がいないからわかってやれないが、知りたくないことだった?」
「……リティルとシェラほどじゃぁねぇけど、両親も仲良かったんだぁ。リティルが教えてくれたことが真実なら、オレ様も、テティシアを裏切ってたんだなぁ……」
「信じるって難しいな。でも、今わかってやれたじゃないか?死んでしまったテティシアはもう、ケルゥに干渉できないけど、ケルゥは生きてる。想いは変えていける。違うか?リティルを質問攻めにしたら、あの記憶は最近目覚めたことがわかった。お父さん、ちょっと混乱してるから、少し待ってって。みんなの所に戻るか?」
今まで、風の王がガルビークに近づいたことはなかった。原初の風が、罪を背負う切っ掛けを作った精霊に近づいた為に、彼に連なるリティルの記憶に影響を及ぼしたのだろうか。
リティルのことは心配だが、今ケルゥは彼のそばに行きたくなかった。
「……」
「そう、わかった。じゃあ、わたしもここにいる」
答えないケルゥの足下に、カルシエーナは座り込んだ。そんな行動に出るとは思っていなかったケルゥは驚いて、カルシエーナの前にガラ悪くしゃがみ込んだ。
「いいのかぁ?」
「迫ってきたら刺す!そうでないなら、いい。少しな、混乱してる。手を取り合っても、その手が離れてしまうことがあるなんて、知らなかった。愛は永遠のモノじゃないんだな。リティルとシェラを見ていると、永遠に見えて信じられない」
「あの二人は、永遠だよ。何があっても離れねぇさぁ。なんで、ガルビークはテティシアを信じてやれなかったんだぁ?なんでだぁ……」
ケルゥは額を押さえて俯いた。俯いても、身長差のありすぎるカルシエーナからは、彼の表情がしっかりと見えていた。とても、悲しそうだった。
「ガルビークは、引け目を感じてたのかも。一緒にいられないこと、奥さんに無理させてること。もしかして、手放そうと思っていたのかも」
そういえば、二人がたまに言い争う姿を見た。何を言い争っていたのかわからないが、ガルビークは苦しそうで、もしかすると泣いていたのかもしれない。
「だとしたら、お袋が親父を追い詰めちまったのかもなぁ。想いが強いのも、重荷なのかもなぁ」
「そうだ。やっと気がついたか!なあ、ケルゥ、わたしのこと、背負わなくていい。何とかなるさ。わたしは、あの頃のように一人じゃないから」
「カルシエーナ、すまねぇな。オレ様、おめぇがちっこくてフワッフワで、どう接していいのかわっかんねぇんだぁ。インリーに触るのは平気なんだけどよぉ」
インリーは平気なんだと、カルシエーナは、同じくらいの年の容姿をしている彼女を思った。恐ろしげなケルゥを全く恐れない、インファの妹。再生の精霊になったことで、白銀色に変わったケルゥの髪を、興味深そうに触っていた。そして、こう言った。
――ケルゥ、お兄ちゃんとお父さんの戦い方があんまりあれで、それで、髪の毛真っ白になっちゃったの?
苦労したんだねと本気で同情するインリーに、皆は笑っていた。ノインに力が覚醒して本来の彼に戻ったと説明され、インリーは戸惑うケルゥに、満面の笑みでよかったねと言っていた。
素直で可愛いインリー。あの可愛げが少しでも自分にあったらなと、カルシエーナは今思った。
「触ってみるか?」
カルシエーナを見ないケルゥの前に、華奢な手が差し出された。インリーよりも小さな手に、ケルゥは恐る恐る指先で触れた。
「フフ、くすぐったい。おまえは、落ち込んだり浮上したり忙しい。そんな情緒不安定で大丈夫?」
「オレ様、おめぇのこと、好きだよ」
「だから、それは──」
「好きだよ!好きなんだぁ……おかしいかぁ?太古から生きてるオレ様が、おめぇみてぇなお嬢ちゃんが好きで」
ケルゥは拗ねた瞳で、カルシエーナをジロリと睨んだ。カルシエーナはたじろぐしかなかったが、その場から逃げる気にはならなかった。
「ケルゥ……」
いつものように、彼の想いを否定できなかった。
「カルシー、どうしたら、伝わるんだぁ?」
「それは……」
ケルゥの大きな手が、カルシエーナの頬を包んだ。壊さないように大事に扱われているような手つきで、カルシエーナはその手を拒めなかった。
「なあ、おめぇの心は、オレ様じゃぁ、得られないものなんかぁ?」
近づいてくる顔を、カルシエーナは見つめていた。そっと触れられた唇に、カルシエーナはゆっくりと瞳を閉じた。
「カルシー、オレ様……」
唇を離し、頬に触れた手はそのままに、ケルゥはカルシエーナを見た。
「ガルビークを殺す。リティルにゃぁ背負わせねぇ」
ケルゥの赤い瞳が、哀しい決心に暗く燃えていた。