五章 破滅のセビリア
中ボスの人と対決の章
レジナリネイは草の上に正座して、桜の間を飛び回って遊ぶカコルとニココを見つめていた。微睡んだ瞳には、何の感情も浮かんでいないが、その様子はどこか楽しげに見えた。
『あなたは、記憶の精霊なのか?』
「何か、聞きたい?」
カルシエーナは、会話の糸口を見つけられないでいた。人とどう接していいのか、よくわからなかったのだ。
「インファの、こと、知りたい?」
レジナリネイは微睡んだ瞳のまま、目の前に座っているウサギのぬいぐるみを見下ろした。
『無断で聞くのは、気が引ける。それに……インファのことは、よくわからない』
「ケルゥの、兄的存在」
『え?兄的?本当の兄弟ではない?』
「ケルディアス、破壊の精霊。インファ、風の精霊。血縁、存在共に、繋がりなし。ケルディアス、風の城、居候中」
そ、そうなんだと、カルシエーナはどこかホッとしていた。二人は似ていないし、年も逆転しているような容姿なのにと思っていた。けれども、それでもインファが兄?でも、なんだかしっくりくるような気がするから、やはりインファは侮れないなと思った。
『共に暮らせば、わたしもそうなれる?』
「確証なし。想い、レジーナ、よくわからない」
『リティルが好きなのに?』
「リティル、好き。それだけ」
『それだけって……よくわからない。インファは否定するし……。あなたとわたしと、何が違うの?』
「リティルに、聞く、解決」
『そうかな?』
レジナリネイが顔を上げて、カルシエーナの後ろに視線を向けた。カルシエーナもつられて振り返ると、そこにはインファとケルゥが丘を上がってくる姿があった。
「お待たせしました。無事で何よりです」
カルシエーナはニッコリ笑うインファに、ホッとすると同時にモヤモヤした。
「インファ、あまり寝てない。大丈夫?」
「大丈夫ですよ。レジーナ、闘うのに適した空間はありませんか?」
「ここで、いい」
「壊れますよ?」
「問題なし。再生する。レジーナも、死なない。言わずに、ごめんなさい」
レジナリネイの言葉に、インファは苦笑した。
「知っていても、あなたを斬ることはオレにはできませんよ。もう、終わったことですから気にしないでください」
「リティル、泣いてた。ノイン、気がついた」
レジナリネイは微睡んだ瞳を伏せた。
ノインが気がついたと聞いて、インファはそうでしょうねと思った。風の城に引き返してから、ノインはずっとリティルを気にしていたことに、インファは気がついていたのだから。初めは、歴代の風の王と、あまりに容姿の異なる十五代目に、違和感を感じているだけかとも思ったが、どうもそうではないらしかった。リティルの方も、何か気になることがあるようで、ノインの様子を窺っているような素振りがあった。
二人は多分、話をしたのだ。そして、同じ結論にたどり着いたのだろう。
「あの二人は大丈夫です。先代の蘇りを経た生まれ変わりと、今代の風の王ですよ?易々と乗り越えますから、見守ってください」
インファは、レジナリネイの頭をよしよしと撫でた。頭を撫でられたレジナリネイは、素直にコクンと頷いた。
「兄ちゃん、兄弟の面倒見すぎなんじゃぁねぇか?」
それを見たケルゥは、兄の行く末を何となく案じた。
「オレには恋愛感情はありませんから。本来、風の精霊は心を奪われない存在なんですよ?」
「風は捕まらないとかいうあれかぁ?ありゃ、嘘だぜぇ?初代以外でオレ様の知るかぎり、今まで風の上級精霊は風の王だけだったからなぁ。すぐ死んじまうから、誰も知らねぇだけだ。おめぇはなぁ、まだ、そういう相手に出会ってねぇだけだ」
「ケルゥ、らしくないことを言いますね」
「オレ様は大地母神の息子だからなぁ。恋愛感情あんのよぉ。おめぇだって、花の姫の息子だろう?いらねぇって言っても、あんだよ。二世は、結構両親の影響受けちまうってぇもんだぁ」
「あの両親ですからね。それは素直に納得できますが……自分のことはわかりませんね」
インファは困ったように首を傾げた。
それはそうとと、インファはケルゥを見上げた。
「ケルゥ、セビリアのことですが、捕まえられますか?」
「できるって言いてぇけどよぉ。体がなぁ」
ケルゥはうーんと太い腕を組んで、難色を示した。セビリアの今の体はカルシエーナのモノだ。あの体を壊してしまっては、カルシエーナは体を失ってしまう。インファの役目は、風の王が戦いやすいように、何とかしてあの体からセビリアを追い出すことだった。
しかし、インファ一人の力では、拘束して、なおかつセビリアを引っ張り出すことなどできない。
「最難関ですが、体を取り戻さないことには、まともに戦えません」
ヒューンッとカコルとニココが戻ってきた。
『追い出したセビリアは、これに入れるニャン』
二人は小さく扉を開くと、例の陶器の人形を引っ張り出した。
『出られない呪いをかけたワン。捕まえたら逃がさないワン』
カルシエーナは、意を決してケルゥの眼前に飛び出した。
『ケルゥ、多少なら壊しても構わない。一思いにやってくれ』
「心意気は買いますが、多少で済まないのがうちのケルディアスです」
「やるっきゃねぇ!捕まえたら。兄ちゃんがやるんか?」
ケルゥは、バシッと拳を自分の手の平に受けた。
「命懸けですので、オレは手伝えません。あなたが一人で、捕まえていてくださいよ?」
「う、が、がんばるぜぇ」
ケルゥは未だに力業だ。兄の手助けを受けられないと聞いて、途端に弱気になった。そんなケルゥを見て、インファはやれやれと優しくため息をついた。そんなに強い精霊ではないと言っているのに、頼ってくるのだから……しかたないなぁと、インファは困ったように笑うしかなかった。
「ナシャが間に合ってくれることを祈ります。もし間に合わなければしかたないので、腕の一本や二本くれてやりますよ」
本当にナシャ頼みだ。父が来てくれれば――そう思って、これではオレもケルゥと同じだなと思った。セビリアは、父の技量では手に余る相手だ。ノインがいてくれて、それでも勝てるかどうか、わからない。インファには勝てると言い切れなかった。
「やっぱ、中身リティル……」
「なんですか?オレの中身はオレですよ?ノインが加わって、金色の天変地異はどこまで落ち着くんですかね。それとも悪化するんでしょうか?」
インファはふとつぶやき、どこか楽しげに苦笑した。
「なんでぇ、知ってたんかぁ?そのトンデモ異名」
「父さんと闘うと楽しいんですよ。それでちょっと派手になってしまうんです」
インファは肩をすくめた。
「ちょっとで天変地異って、オレ様も真っ青」
「あなたと違って、地形まで変えませんよ」
精々、天候が大荒れに荒れまくるだけだと、インファは溜息交じりに微笑んだ。
「わはははは。今は暴れなくても、気分いいんだ。不思議だぜぇ?壊さなくても、自分を保てるなんてなぁ」
ケルゥは瞳を閉じて空を仰いだ。桜の香りの混じった夜のヒンヤリした空気が、肺に心地良かった。こんなことすら、リティルに、インファに、インリーに、レイシに、シェラに出会わなければ知らなかった。
一人前になる前に、家族が離散したこともあったが、ケルゥはその後の努力を怠って生きてきてしまった。それをやっと突きつけてくれたのは、インファだった。インファは本当に厳しくて、その合間の息抜きをリティルがくれた。この父と息子は常に連携が取れていた。二人が互いを信頼し、離れていても背中を預け合えるその姿が、ケルゥには眩しかった。眩しさに目がくらんで、ケルゥはインファの苦悩に気がつかなかった。
「あなたは本来そういう人なんですよ。元に戻っただけです。そうでなければ、とっくに母さんに殺されています」
「だな。しばらくシェラの目が怖かったからなぁ。あんなことした後じゃぁ、しかたねぇけどよぉ」
ケルゥは悪かったと、頭を掻いた。
風の城で、シェラだけが、ケルゥをいつでも殺してあげるという瞳で見ていた。彼女は、可憐な外見の下に、わたしが最後の砦だという覚悟を持っていた。
自分が矢面に立てばそれでいいと、懐深く受け入れてしまうリティルと、そんなリティルの決定に逆らわない子供達、シェラはそんな家族を守っていた。
あるとき、シェラと二人きりになったとき、ケルゥは風の城を襲撃した日のことを、やっと謝れた。それを聞いたシェラは、言った。
――気にしていないわ。夫はそういう人だから。わたしがあなたを警戒しているのは、そんなことではないの。ケルディアス、インファが卒業を許すまで城から出て行かないで。あなたは、あなたが思っている以上に危険な精霊よ。もしも、出て行くと言うのなら、その背中、射貫くわ
彼女は有言実行だと思って、久しぶりに背中に冷たい汗が流れた。そんなシェラに、ケルゥは強がりも言わせてもらえずに、出て行かないと約束させられていた。
これは、インファとリティルが城の強化に追われて、疲弊しているときだった。罪悪感を感じて、インファに出て行くと言って止められた矢先のことだった。
そんなシェラの瞳が優しくなったのは、いつだっただろうか。城を壊し尽くし、インリーにまで怪我を負わせたのに、今では家族に見せる優しい顔で笑ってくれる。
殺さなければいいよと、許してくれるあの城は、壊すしか能のないケルゥにとってありがたく、居心地がよかった。
「ケルゥ、オレは、あなたが再生の精霊だと思っていますよ?」
穏やかに笑うインファをその見開いた凶悪な赤い瞳に映し、ケルゥは驚いて固まっていた。
──ケルゥ、我はそなたが再生の精霊だと思っている
最後にインと交わした言葉だった。時を越え、再び風の精霊はケルゥに同じ言葉を投げかけた。あの時ケルゥは、親友の言葉すら軽んじて頭ごなしに否定してしまった。
どうして、インファの言葉は重く優しく心に響くのだろうか。
インといた頃と、ケルディアスが壊すことしかできないという現状は変わっていない。なのに、なぜ壊れたモノを治すことのできる精霊だ、などと言うのだろうか。そんな要素を、インとインファは、この精霊のどこに感じているというのだろうか。
風の本質は風化だと言いながら、リティルはとても綺麗な魔法をたまに使う。普段は、相手の命を奪い蹂躙する為の力を、鳥の姿にして放ったり、舞い散る花びらに変えたり、ただ、人の目を楽しませる為だけに使っていた。
器用だなと言ったケルゥに、リティルは、力なんて心一つだと笑っていた。あれで魔法は苦手だと言うのだから、信じられない。
「兄ちゃん……オレ様が再生の精霊だったら、もう壊さなかったらよぉ、風の城にずっといられるんかなぁ?」
見開いた瞳のまま、ケルゥはこちらを真っ直ぐに見上げているインファに、言葉を落としていた。インファは微笑んだまま首を傾げた。
「何を言っているんですか?そんなこと──」
「不可能に決まっているでしょう?」
ハッと皆桜の木を見上げた。
月の光を受けて発光しているような桜の上に、黒いワンピースの少女が浮かんでいた。彼女の瞳は赤く輝き、ケルディアスと同じ色をしていた。
「ケルディアス、あなたはわたしと同じ。壊して壊して喜ぶ、ルキルースが生んだ化け物よ。あなただけ、その運命から逃れるなんて許さない」
「セビリア……」
彼女は狂気の瞳で笑っていた。その瞳が、今はとても哀しく見える。
あの時、インに懐かなければ、リティルの手を取らなければ、あの位置に立っていたのはオレ様だったかもしれないと、ケルゥはセビリアを通して自分の姿を見ていた。
呆然とセビリアを見上げていたケルゥは、腹に衝撃を受けた。我に返って見下ろすと、インファの肘鉄を腹に受けていた。
「あなたは家族ですよ?ケルゥ、破壊だろうが再生だろうが、関係ありません。そんなことに、まだ拘っているんですか?あなたはいたいだけ風の城にいていいんです。行きますよ!ケルディアス。この兄の右腕として働いてもらいますよ!」
インファは槍を抜くと、セビリアに向かい翼を広げた。ケルゥは両腕を黒犬の腕に変えて、兄を追った。カルシエーナはとっさに、インファの髪に掴まっていた。
親父殿……わたしは、なぜ、ずっと、こんなところにいなくちゃならないの?
触れれば壊れる儚い世界。恐れられ、話しかける者もいない、こんな世界に。
唯一ケルディアスだけが、壊れずにそばにいてくれる。
けれど、ケルディアスはわたしとは違った。
風の王が、変えてしまった……
わたしは、わたしは、一人になった。
憎い人。憎くて憎くて堪らない。
壊してやりたい。その金色に輝く綺麗な存在。高貴な眼差し……
わたしの孤独を、思い知れ!
壊してやる……壊してやる……
親父殿!わたしの為に壊れてくれる?
アハハハハハハ!
全部壊して、わたしは、自由になる
万年桜の園の上空に、白い閃光が時折閃いていた。その白を侵すように黒が絡まる。
「兄ちゃん!前に出てんじゃねぇ!オレ様に任せろってぇ」
インファの細い体を、ケルゥの太く大きな犬の腕が掴んで引き戻す。
「彼女、オレにご執心ですよ?なぜですか?」
「知るかぁ!」
空を切り裂くように放たれる黒髪の槍を、ケルゥは掴んで引きちぎる。そのすべてがインファを狙っていることに、ケルゥは苛立っていた。
「いけませんね。ケルゥ、頭を冷やしてください」
「おめぇ、こんな気持ち悪ぃ攻撃されまくって、なんでそんなに冷静なんだぁ!」
「修羅場の数ですかね」
ふわりとインファの槍を放した右腕が、大きく円を描いた。ドンッと円が竜巻となってセビリアの髪を切り裂いた。体は真ん中に捉え、セビリアは無傷だ。
「すげぇ!」
「まだまだ序の口ですよ?」
襲ってきた太い髪の毛の槍を、身を捻って躱しながら、インファはリング状の雷を、輪投げのようにセビリアに目掛けて次々に投げた。当然捕まるまいとセビリアは逃げた。
「ケルゥ!」
「捕まえたぜぇ!」
インファの声でセビリアの背後を取ったケルゥは、犬の腕でセビリアの両腕を掴んでいた。すかさず彼女の正面に間合いを詰めたインファは、両手を彼女の腹にかざす。
「わたしを追い出そうというの?王でもない、そよ風の分際で?」
「何とでも言ってください。オレは王より、風の扱いは上手いですよ?」
ここにいるのがシェラだったなら。インファはそう思わずにはいられなかった。インファでは、全力でことに当たらねばならないが、シェラなら、こんな精霊一匹、体からつまみ出すくらい簡単だったろう。しかし、レイシを、城を守らなければならないと言ったシェラを、インファは頼れなかった。ここへ先に行くことを、シェラに黙って出てきてしまった。ここで負けたら、母に怒られるなと思いながら、それでもインファは、徐々にセビリアを体から引き出していた。
「がっ!」
不意に、セビリアを掴んでいたケルゥが後方へ吹き飛ばされた。彼女の髪が、巨大な鮫の口のようにケルゥを噛み砕き桜の巨木にめり込ませていた。
「っ!」
背後に意識を集中していたセビリアが、視線をインファに戻した。彼女の瞳には、暗い薄ら笑いが浮かんでいた。インファが反応するよりも早く、セビリアの髪がインファの両腕を締め上げていた。切り落とさなかったのは、彼女の傲りだろう。
「綺麗な翼ね、小鳥ちゃん」
インファの翼に、髪でできたハサミが迫った。インファはセビリアを見据え、自分を中心に風の柱を打ち立て髪を凌ぐ。
「甘いわよ」
風が解れる瞬間を狙い、セビリアの斧が振り下ろされていた。左腕が落ちそうなほど深く抉られ、体制を立て直そうとしたインファの右肩をセビリアは掴んでいた。
「綺麗な顔ねぇ、坊や」
睨むような鋭い笑みで、セビリアは間合いを詰めた。
セビリアの唇が、インファのそれにふれ──
『させない!』
インファの背中から飛びだしたカルシエーナは、セビリアの顔に飛び掛かっていた。完全に不意を突かれたセビリアは、顔に張り付いた何かを取ろうと暴れた。
『わたしの体から出て行け!』
カルシエーナの叫びが、セビリアの精神を貫いていた。体から放りだされる!
『あら、やるじゃないの。坊や』
セビリアの意識を金色の風が包んでいた。もう意識はほとんどないだろうに、カルシエーナに体を支えられたインファが、こちらに向かい風を操る様が見えていた。突風のような風に攫われ、セビリアは地面に叩き落とされていた。そこにあった、陶器の人形の中へ。
「インファ!しっかりして!」
破壊の毒が体を蝕んでいることは明らかだった。カルシエーナは地上に舞い降りると、横たえたインファの体を揺さぶった。意識が混濁しているのか、インファはボンヤリ瞳を開いていたが、それも次第に閉じていく。インファの左肩から流れる血が、緑の草の絨毯を赤く染めていた。左肩の傷は、目を背けたくなるような酷いものだった。腕が千切れなかったのが、不思議なくらいだ。
こんな傷、助からないのでは?カルシエーナは唐突にそう思った。そう思ったら、溢れてきた。カルシエーナは、心のままに泣きながらインファの胸に顔を埋めていた。
「インファ!嫌だ!嫌だ!嫌だ!」
泣いているカルシエーナの声が、インファには聞こえていた。けれども、答えてやることができなかった。
体に入った破壊の毒と戦うには、すべての力で対抗しなければならなかったからだ。破壊の毒に超回復能力のすべてを取られて、左肩から流れる血が止められない。インファは痛みに遠のく意識の中、冷静に、少しの力を切り離して止血を試みていた。
そんなこんなで、死にませんよ?とカルシエーナに言ってやることができなかった。
「そ、んなに、叫んで、やる、んじゃぁねぇ」
のっそり現れたケルゥは、時折言葉を詰まらせた。顔を上げたカルシエーナがギョッとするほど、ケルゥの状態も酷かった。体に大きな穴がいくつも開けられ、よくそんな状態で生きていられると思うほどだった。
「ケルゥ……」
「兄ちゃん、少し休ませ、てやんな。へへ、お嬢ちゃ、んやるじゃぁ、ねぇか。ちょっと、見直した、ぜぇ?」
流石にケルゥも立っていられず、両膝をついて荒く息を吐いた。ケルゥは一度息を止めると、右手を何もない空間に向けた。するとそこに、風の城への扉が開いていた。
「カルシ、エーナ、兄ちゃ、ん連れて、行け」
「ケルゥは?ケルゥはどうするの?」
「足止めする」
「そんな傷で……何ができる!」
カルシエーナはケルゥに詰め寄って、その両腕を掴んでいた。ケルゥは荒く浅く呼吸しながら、決意を秘めた瞳で笑っていた。
「初めて、なんだよなぁ。死んでもいいって、思ったのはよぉ。リティルに、ごめんって、伝えてくれなぁ」
「ケルゥ!」
ケルディアスは、視線を背後に向けた。人形の体に閉じこめられたセビリアが、体を軋ませて迫っていた。セビリアの背後には、無残に切り裂かれたカコルとニココだったぬいぐるみが、白い綿をまき散らして落ちていた。彼等はしばらく動けなくなることを承知で、セビリアをあの体に閉じ込めてくれたのだ。死ぬことはないといっても、怖かったろうにと、ケルゥの心によぎった。
体ごと振り向いたケルディアスは、全身を黒い犬の姿に化身するとセビリアに向かい走り始めた。細くしなやかな体躯。大きなドーベルマンだった。
──リティル、あと頼んだぜぇ?
人形のセビリアに飛び掛かったケルゥの体に、無数の髪の槍が迫っていた。もう、あれを避けるだけの力はこの体には残っていない。
もう一度貫かれれば、流石に回復が追いつかずにこの体は死ぬだろう。しかし、悔いはなかった。
「諦め早えーな」
上から声がして、ケルゥは背中を踏みつけられていた。気がつくと、ケルゥは地面に落ちていた。そんなに酷く踏まれた感じはしなかったが、どうやら、それだけ限界だったようだ。
「よくここまで頑張ってくれたな。あとは、オレ達に任せろよ」
切り裂かれた髪が舞い散る中、ケルゥの前に立ちはだかったのは、リティルだった。子供のような小さな体で、力もケルゥよりもかなり弱いというのに、どうしていつも大きく見えるのか、ケルゥは未だに疑問だった。
「へっ!遅せぇよぉ……リティル……」
ケルゥはホッとして、化身を解いていた。もう、しばらく動けそうになかった。
「悪い。寝過ごしたんだよ。おまえはしばらく寝てろ。あとは、王様の仕事だぜ?」
リティルの隣に、ノインが舞い降りて長剣を抜いた。
「セビリア!罪状はわかるな?けどまあ、言いたいことがあるなら聞くぜ?」
リティルは剣を抜かず、未だ腕を組んだままだった。自分よりも、遥かに強い相手を前にしてもこの態度……どこからそんな自信が湧いてくるのか、ケルゥには理解できなかった。
「あんたが、風の王?ずいぶん、小さいのねぇ。あはははは!わたしに壊されて」
「できるものなら、やってみろ。オレはしぶといぜ?おまえの大好きなインよりもな!」
リティルは両手にショートソードを抜くと、セビリアに斬りかかっていった。その後に、ノインが続く。
ケルゥの代わりに、セビリアと対決する二人の背を見送りながら、リティルの言葉が蘇っていた。
風の城に引き返した直後、ケルゥはリティルに呼び止められた。
――ケルゥ、おまえ、セビリアをどうしたい?
そんなことを聞かれるとは、思ってもみなかった。もう、有無を言わさず戦うモノだと思い込んでいたからだ。答えられないケルゥに、リティルは言った。
――おまえが殺すなっていうなら、オレはその道を探すぜ?
これがリティルなのだと思った。セビリアと聞いて、あれだけ会う精霊会う精霊、嫌悪と拒否の感情を示したのに、リティルは、リティルだけは違った。
「ひと思いにヤれやぁ」
セビリアはもう、インに手ひどくやられて死ななかったものの、体を失っている。だからこそ、新しい体を求めて人間をそそのかしたのだ。グロウタースに手を出した時点で、断罪対象だ。なのに、リティルは躊躇ってくれた。
――そっか。じゃあオレ、迷わねーよ
そんなリティルの心を、セビリアは受け取れない。優しさを受け取る心の器がないのだ。
だから、もう。
なぜなのだろう。なぜ、ケルゥは生き、彼女は死ぬのだろうか。ケルディアスとセビリアは同じ存在なのに。ケルゥは未だに、双子の姉とも、両親とも、想いは希薄だった。血のつながりのない、風一家とはこんなにも様々に、思いが生まれてくるというのに。
三人の戦いを這いつくばったまま見ていたケルゥに、スワロメイラが駆け寄ってきた。
「あんたがここまでやられるなんてねぇ」
「笑えるかぁ?」
「ちょっと、格好いいじゃないの」
「へっ!気味悪ぃ。兄ちゃんは?」
「ナシャが解毒剤を飲ませたから大丈夫。ちょっとどうなってるのってくらい、回復スピード早いわよぉ?超回復能力、欲しいわぁ」
「そういやぁ、リティルも早かったような……」
脳裏に、リティルをシャンデリアの下敷きにしたときのことが蘇っていた。首をへし折っても、すぐに復活してきたなと過って、ケルゥはインファも?と思って、まさかなと考えを振り払った。解毒されたからといって、あれだけの怪我だ。そんな簡単には――
「一箇所くらいなら、そんなに時間はかかりませんよ」
「ぎゃあ!出たぁ!」
ヒョイッと顔を覗きこまれたケルゥは、インファの姿に本気で驚いた。インファの受けた傷は、こんなに短時間で癒せるほど生易しいモノではなかったはずなのだから。
「あなたが驚くほどなら、オレの超回復能力も捨てたモノではありませんね。ケルゥ、まだ癒せないんですか?しかたありませんね。力の使い方を、教えてあげますよ」
インファはケルゥの前に膝を折ると、その背に触れた。
「いいですか、体に空いた穴がなくなることをイメージしてください。……なるほど、あなたは再生させるために壊していたんですね。そんなに、自分のことが信用できなかったんですか?」
シェラもなくした体の箇所を元通りにできるが、それは、遺伝子情報を元に、体に備わる治す力を使って作り出す。しかしケルゥの治し方は、もっと強引だった。そこにあったモノを作り出す。文字通り、再生だった。
「ああん?何言ってやがるんだぁ?」
「ほら、意識を集中してください。いきますよ?ついてきてください」
ケルゥの霊力を探ったインファは、彼の心の中心に封じられた力を見つけていた。そこへケルゥの意識を導く。
「あなたが再生の力を封じたのは、セビリアのためですか?」
「違げぇよ」
「そうですか。では、もう、自分を偽らないでくださいね。オレの授業は、これで終わりです。お疲れ様でした」
それだけ言うと、インファの体がグラリと揺れた。いつもの微笑みを浮かべるインファが、いつも通りに見えていたケルゥは、慌てて体を起こし兄の手を掴もうとしたが、その手はすり抜けた。代わりに、倒れてくるインファの体をスワロメイラが受け止めた。
「リティルに負けず劣らず強がりねぇ。特別に膝貸してあげるから、ゆっくり休みなさい」
あれだけの傷を受け、破壊の毒に全身を冒され、毒を取り除かれ傷が癒えても、体の疲労は相当なものだっただろう。それなのに、先に大怪我を負ったケルゥを案じて、インファは様子を見に来てくれたのだ。これはもう、惚れるしかないよね?とスワロメイラは、ケルゥが兄と呼びたい気持ちがわかった気がした。
そしてもう一人、彼を兄と呼びたい者が控えめに現れた。
「カルシエーナ、お兄ちゃんをよく守ったわねぇ」
インファの事を兄と言われて、多少面食らったようだった。けれども、彼女がまだ十代後半の容姿をしていることもあるが、どうにも年の少し離れた兄妹のようにしか見えなかった。背伸びの恋と言われればそれまでだが、彼女に必要なのは無条件の愛情のような気が、スワロメイラにはしていた。
「わたしは……守れたのか?」
カルシエーナは自信なさげに俯いた。
「守ったさぁ。オレ様も、兄ちゃんも生きてるだろうがぁ!」
「ケルゥ、何か雰囲気が変わった?ま、まさか、死にかけて、それで?」
ケルゥを見たカルシエーナの瞳が、罪悪感に染まる。
「ああん?てめぇ、バカにしてんじゃぁねぇ!……って、ぎゃあ!なんじゃぁこりゃぁ!」
スッと、いつの間にか近づいていたレジナリネイが、手鏡をケルゥの前につきだした。そこに映る自分の姿を間の当たりしたケルゥは、彼女の手から鏡を奪ってかぶりつくように見入った。ケルゥの漆黒だった髪が、輝くような白に変わっていたのだ。気がつけば、あれだけ穴だらけだった体も、何の痛みもなく再生されていた。こんなに早く傷が癒えることは、今までになかったことだった。
「再生の精霊・ケルディアス。おはよう」
「おはよう?おはよう……?」
ケルゥはレジナリネイの言葉に、首を捻れるだけ捻った。
「まあ、いいじゃない。まだまだ、お兄ちゃんの授業が必要ってことで。あっちは、放っとけばいいのかしらぁ?」
出番ないわぁと、スワロメイラは死闘を繰り広げる三人を、目を細めて見守っていた。
セビリアは人形の体とはいえ、強力な精霊には違いなかった。
リティルはすでに、何度も彼女の攻撃が掠っていた。ナシャが絶対怪我するだろうからと、毒が入っても中和してくれるクスリを作ってくれ、すでに飲んでいる。破壊の毒の気兼ねがいらなくても、一撃一撃の殺傷能力はかなり高い。掠っただけで、腕をもぎ取られそうだ。さすがはインの左翼を、もぎ取っただけのことはある。インは、左翼であるインスレイズとのつながりまで破壊され、グロウタースに飛んでしまった彼の鳥を追ったのだ。そして、そこで体を失ってしまった。
「くっ!防御が間に合わねーな。シェラ!頼んだぜ!」
リティルは早々にシェラに呼びかけ、治癒のゲートを開いた。インに攻撃を受けない戦い方を伝授されていても、そう簡単にモノにできるものではない。リティルの作る風の障壁は、作れども作れどもセビリアに打ち砕かれ止めきれなかった。インファがいればもう少しマシだったろうが、今回は息子の手は借りられない。
「リティル、太刀筋を見極めろ。そなたなら、見えるだろう!」
割って入ったノインの剣が、セビリアの陶器の手を受け止めた。その直後襲ってきた髪の刃を、リティルの風の刃が切り裂く。
「全部捌くのは無理だ!さすがに、反応できねーよ。一撃も食らわねーおまえのほうが、信じられねーよ!」
セビリアの背後を取るものの、生き物のように形を変える髪に阻まれて攻撃が届かない。 そもそも、破壊をねじ伏せることなどできるのだろうか。シェラの持つ、逆転の治癒のような特殊な力でも使わない限り、セビリアは止められないような気がしてきた。
「リティル!わたしに、任せて!」
「カルシー!と、ケルゥ?おまえ、その髪どうしたんだよ?」
ケルゥの肩に乗って乱入してきたカルシエーナを守りながら、リティルはツッコミも忘れなかった。
「前!前!おめぇ、ちったぁ危機感持てやぁ!わっかんねぇから、聞くなや」
気を取られたリティルの背後に迫った髪の槍を、ノインが難なく切り裂く。
「そっか、まだまだインファはおまえから離れられねーな。カルシー、どうするつもりなんだ?サポートするぜ?」
二人に背を向け、剣を構えながらリティルは言った。その隣にノインが並び、止まない髪の槍の嵐を蹴散らす。
「リティル、わたしがもし死んでも哀しまないで」
「それは、できねー相談だな。君が決めたことなら止めねーけど、オレの哀しみはオレの物だぜ?」
「それもそうだ。リティル、セビリアは止められない。破壊は世界に必要な力だから。けれどももう、彼女の心は限界だ。もう壊れてしまって、どうしようもない。ケルゥなら再生できるかもしれないが、もう、眠らせてやりたい」
カルシエーナは一度言葉を切り、一度瞳を閉じ、再び開く。
「わたしが、破壊の精霊になる。もし、彼女に負けたらごめん!」
体を取り戻したとき、セビリアの心を感じた。
導いてくれる者も、庇護してくれる者もなく、ただただ孤独だった。カルシエーナのように、一つ所に留め置かれたわけでもないのに、彼女の世界もとても狭かった。
そして、強い孤独を感じた。それは恐れの形でカルシエーナにも襲いかかってきたが、金色の風が守ってくれた。カルシエーナの心はすでに、孤独ではなかったのだ。
カルシエーナは、セビリアを可哀想だと思った。自分もしてもらったように、抱きしめてあげたくなった。そうするにはどうすればいいのか?考えたカルシエーナの結論は、彼女を破壊の精霊という存在から解放することだった。
「わかった。あいつの動きを止めてやる。カルシエーナ、頼んだぜ?ノイン、風の障壁で網、作るぞ」
リティルとノインは剣を捨てると、向かい合い両手の平を合わせた。そして互いに引っ張るように手を放すと、二人の間に風で編まれた網が生まれた。
「行くぜ!せーの!」
二人は息を合わせて、網を広げて投げ、セビリアを易々と捕らえた。こんなモノと言いたげに、風の網を引きちぎりにかかったセビリアの両脇で、リティルとノインは網を引っ張り動きを封じる。かなりの力だ。小柄なリティルでは、ちょっと気を抜けば振り回されてしまう。こらえきれずに、リティルは叫んでいた。
「うわ!この!インサー、インス!手伝ってくれ!」
リティルは、両翼に住んでいる金色の鳥達を呼び出した。クジャクの姿のインサーリーズと、フクロウの姿のインスレイズが現れ、共に網を引っ張る。
「ケルゥもありがとう」
「けっ!戻って来いよぉ?」
ケルゥは捕まったセビリアに距離を詰め、カルシエーナをその眼前に降ろした。
カルシエーナはそっと、自分に似た陶器の顔を両手で包む。ガラス玉の瞳がやっとカルシエーナを見た。
「わたしが破壊の精霊になる。だから、もう、苦しまないで」
カルシエーナはそっと瞳を閉じると、セビリアにキスをした。そのとたん、人形の体がガクガクと動き、唐突にダラリと四肢が力を失った。
──あははははは!あんたに務まるとは思えないけれど、精々頑張ってちょうだい
そんな耳障りな声が聞こえた気がした。
「ああ、わたしが頑張る。だからもう、解放されて」
顔を離したカルシエーナは、人形の体から手を放した。陶器の体は地面に落下し、粉々に壊れた。
セビリアはあっけなく、カルシエーナに力を譲渡していた。彼女はきっと、カルシエーナには務まらないとそう思ったのだ。そして、カルシエーナが壊れていく様を想像しながら、消え去った。
力を受け継いだカルシエーナにも、わかっていた。
このままでは、今度は自分が、リティル達と闘わなければならないことを。
ケルゥに人形の前に降ろしてもらったカルシエーナは、人形を見下ろしていた。
──壊したい……壊したい……
溢れてくる破壊の衝動。カルシエーナは瞳を閉じて空を仰いだ。
──ああ、リティル……インファ……ありがとう。この虚ろな器に、感情をくれて
カルシエーナは皆を振り返った。そして、精一杯微笑んで見せた。
──さようなら
カルシエーナの髪が長く伸び、無数の槍が形作られた。