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四章 ノイン

 カコルとニココの開いた扉に飛び込んだインファは、見知った者のいる桜の園に降り立った。桜の花の香りを溶かした、涼やかな空気が優しく身を包む。

『インファ様!カコル達まで、なんで連れてきたワン?』

カコルとニココがインファの腕を逃れて、困惑していた。

「あのままあなた達を置いていけば、セビリアに八つ裂きにされていましたよ?」

『ニココ達は死なないニャン』

「そうかもしれませんが、壊される想像がつく以上、連れてくるのは当然だと思いますよ?」

インファは困ったような顔で、ウサギのぬいぐるみを抱いたまま二匹の夢魔に答えた。

『やっさしい~ワン』『ニャン』

二匹の夢魔は感動しているようだった。それを聞いて、インファはこんなことで?と笑っていた。

「インファ」

サアっと夜風が吹いて、インファの背後から桜の花びらが音もなく舞い散った。

「レジーナ、どうしたんですか?あなたが誰かを呼ぶというのは、おそらく普通のことではありませんよね?」

振り向くと、桜の巨木の前にレジナリネイがたゆたっていた。その瞳は微睡み、何の感情も読み取れなかった。

「レジーナ、脅されてる、助けて」

「はい?」

唐突な言葉に、インファの理解力がついていかない。

「イン、復活させたい、レジーナ、拒む、リティル、傷付ける。レジーナ、嫌、どうすればいい?」

インファは首を傾げて、少々混乱していた。

「あの、待ってください。インを蘇らせたい誰かがいるんですか?インの魂は父さんが持っているんですよ?それに、あなたが持っているのは、記憶だけではないんですか?」

「ドゥガリーヤの水、命と、体の元。記憶、入れる、人形、できる。人形が、リティル、殺す、イン、復活」

「簡潔な解説ありがとうございます」

それにしても、ドゥガリーヤの水とは穏やかではない。確かにそれを使えば、体と命を作り出せてしまう。そしてレジナリネイの持つ、完璧な記憶。インファは、ゾクッと体に悪寒が走った。そして、頭が考えることを拒絶した。それは輪廻の禁忌に触れる行いだった。

インがもし、蘇ってしまったら、父さんはインを――……

「レジーナ、嫌。でも、リティル、麻痺の毒、捕まった」

レジナリネイは、眠そうな瞳で俯いた。

捕まった?油断しすぎでしょう、と、インファは唇を噛んだ。しかし、ケルゥとスワロメイラも共にいたはずだ。ケルゥはともかく、スワロメイラを出し抜くとは、相手は一体誰なのだろうか。それとも何か、罠でも張られたのだろうか。こんなところで思案していても埒があかない。インファは、微睡むレジナリネイに視線を合わせた。

「父さんはどこにいるんですか?」

「リティル、ここにいる」

レジーナは眠そうな瞳を、インファの後ろに向けた。同時にインファは気配を感じて、咄嗟に槍を抜き振り返る。

 そして、彼は、頭を垂れて空中に貼り付けにされたかのように浮かぶ、父の姿を見たのだった。

『エネルフィネラ、ワン!』

カコルがインファの背後から肩に乗り、リティルと共に浮かんでいる、女の名を呼んだ。

エネルフィネラの名はインファもよく知っていた。ドゥガリーヤに、不法侵入を繰り返している精霊だ。しかし、彼女がインを蘇らせたい精霊だとは思ってもみなかった。

インはどうも、セクルースの精霊には恐れられ、ルキルースの精霊には慕われていたようだ。それが、赤き風の返り血王という、恐ろしい異名で呼ばれた所以なのかもしれないなと、インファは思った。

グロウタースの民の夢と繋がっている、ルキルースの夢魔達は、自由奔放で無邪気で残酷だ。上級以上の、レジナリネイのようなはっきりとした意思のある精霊はそんなことはなくても、ルキルースから外へ出ることはない。たまにセクルースに現れる夢魔達をルキルースの総意と思い、ルキルースの精霊達と近しかったインは、ますます誤解されてしまったのだろう。

「完全に人質ですね。エネルフィネラ、レジーナから話は聞きました。インを蘇らせたいようですが、不可能ですよ。インは十五代目風の王に討たれることを望みます。彼が、十五代目を傷付けることはありえません」

リティルの背後にいる、エネルフィネラは水色の瞳を細めて微笑んだ。

「そう。なら、このまま十五代目をセビリアのところへ持っていくわ。喜んで殺してくれるでしょうね」

「させない、イン、造る。リティル、放して」

「レジーナ、待ってください!」

インファはレジーナを押し止めた。そんな軽率なことをすればどうなるか、インファの想像力のすべてが、あまりいい結果にならないと警告していた。しかし、エネルフィネラはインファの攻撃の範囲外で、彼女を一撃で屠れなければ狩られるのはこちらだ。もうすでに、この場は彼女の手中にあった。

「リティル、好き。リティル、死ぬ、ダメ」

首を横に振るレジーナに、インファは囁いた。

「わかりました。けれどもレジーナ、何が起こっても目をそらさないでください。オレもできるかぎりのことはしますが、皆さん、インと父を侮りすぎですよ。それでも、願う以外にありません。オレも、手が出せませんし……。いいですか?あまりいい結果にはなりませんよ?」

レジナリネイは盲目的で、おそらく何が起こりうるのかわかっていない。それでも、インファは彼女の前から退いた。インファもまた、リティルを侮っていたのかもしれない。

 あのとき、インに体を貸したとき、あの圧倒的な強さを惜しいと思ってしまった。彼がいれば、父を永遠の風の王にできるかもしれないのにと、思ってしまった。

インファは、想像力が警鐘を鳴らしているのに、本気で止めようと、どうしても思えなかった。

インがいれば父さんは――ダメだと思いながら、インファは迷ってしまった。

「レジーナ、イン、造る」

それを聞いたエネルフィネラは、満足そうにレジナリネイに向かって小瓶を落とした。受け取ったレジナリネイは、瓶の蓋を開けると、中に入っていた薄黄緑色に発光しているような液体を、躊躇いなく呷った。

「……レジ……ナ」

リティルが僅かに身動きしたかと思うと、風の小さな刃が鋭く飛びレジーナの呷っている小瓶を弾き落とした。残っていた小瓶の中身が零れて飛び散った。

「もう、動けるのね」

「うっ……く……!」

リティルの腕が何かに締め付けられるように体にくっつき、全身から僅かに血が滲んだようだった。インファの背後の三匹が小さく騒いだが、インファは小声で静かに、動かないでと言い聞かせた。

「レジナリネイ、早くしないと、リティルの事バラバラにしちゃうわよ?」

空中でリティルが痛みに仰け反るのが見えた。細い糸が絡んでいるようで、糸の食い込んだ箇所に赤い筋がいくつも生まれた。

レジナリネイは首を横に振ると、空を仰いで口を大きく開けた。その口から、金色の風が吐き出された。

「レジーナを止めろよ。おまえ、死ぬぜ?」

エネルフィネラは、リティルの静かな警告をあざ笑った。

「あら、この状況で余裕ねぇ。風の王様、わたしを、どう殺すのかしら?」

ギリッと糸が、さらにリティルの体に食い込んだ。

「オレにじゃねーよ。インにだよ」

リティルは痛みに詰めていた息を吐きながら、つぶやいた。その直後だった。レジナリネイの吐き出した金色の風から、風の刃が飛んだ。狙いは違わず、エネルフィネラは首を飛ばされていた。首を失った体は空中でグラリと揺れると、幻のように霧散して消えていった。

 リティルを拘束していた糸が解けて、支えを失った体が落下する。辛うじて足から着地したものの、リティルはドッと地面に倒れた。

「レジーナ……もう、止めろ!」

辛うじて顔を上げたリティルは、レジナリネイに叫んでいた。その声にビクリと身を震わせて、レジナリネイは口を閉じた。繭のように空中に留まる金色の風は、かなりの大きさだったが、精霊一人の体を造るには足りない。すっと、インファが風の繭の前に立った。

「イン、オレの守護精霊になってください。そうすれば、生まれ変わりが成立します。蘇りでなければ、あなたは存在を許されます」

「インファ!ダメだ、インをこれ以上引き留めないでくれ!」

インファはリティルを憂いの瞳で見下ろすと、静かに首を横に振った。

「ドゥガリーヤの水を使った時点で、手遅れですよ。蘇らされてしまったインを救うには、生まれ変わらせるか、父さん、あなたが引導を渡すしかありません。あなたに、インを殺すことができますか?」

インファは、リティルにインを殺させたくなかった。ならば、これを気に生まれ変わらせて、そばにいてもらったほうがお互い幸せなのでは?と思った。しかし、風の王であるリティルは、それをやはり、よしとしないのだなと、インファは父の顔を見たとき悟った。

インファは、息子が勝手にやったことだと妥協してくれないかと、内心願っていた。今も、願い続けている。

 リティルを拘束していた糸は、レジナリネイとインファの周りにも張り巡らされていた。カコルとニココはともかく、カルシエーナの体を壊されるわけにはいかなかったインファは、完全に動きを封じられてしまっていた。エネルフィネラはわかっていない。リティルを殺しても、インが復活することなど万に一つもありえない。インはリティルの為に、再び自分を犠牲にするだけだ。そして今も、その意志は揺るがない。

 リティルが受け入れられないことを、インファの想像力は警告していた。なのに、けれども――インファは、願ってしまった。

父を――十五代目風の王を、最後の風の王とするために、インにそばにいてほしい!と。

『インファ、リティルと話をさせろ』

インの声を聞き、リティルはハッと息を飲んだ。皆の目の前で金色の風が解れる。リティルは瞳を見開いた。その目に、体の透けたインが映っていた。

 どうして、こんなことに……。近寄ってくる幽霊のようなインの姿に、リティルにはこれは悪夢だとしか思えなかった。

「イン!ダメだ……!」

リティルは辛うじて上げていた顔を伏せて、拳を握っていた。

インとは笑って別れたのに、再び彼は無理やりに連れ戻されてしまった。

蘇りという最悪な形で。

リティルはインを守れなかったと、自身に絶望すら感じていた。

 別れがどんなに辛くても、死した者とは二度と交わってはいけない。会うことができないから、命は生を尊び、死を惜しむ。それを狂わせてしまったら、世界が崩壊してしまう。

心に住まわせて時折思い出すことだけが、生者と死者とを繋ぐ細い糸でなければならない。そうやって、輪廻の輪は回っている。それを守るべき王が、このインの存在を許しては、すべての命に顔向けできない。死者を蘇らせることは、輪廻を歪めることだ。決してしてはいけない行為だ。風の王はこれまで、蘇りの邪法を行った者を処分してきた。

グロウタースでは成功することはあり得ないが、リティルも輪廻の輪を守る為、悲痛な声を聞きながらその者を斬ったことがあった。

なぜ望んではいけないのか!と叫ぶその声が、リティルの耳に今、暗く響き、憎しみと呪いで覆い被さってきていた。

「リティル、我は嬉しいのかもしれない。こうして、そなたのそばで、そなたらを守れるのだから」

インは、顔を上げられないでいるリティルの前に、膝を折った。

まただ。また、インは与えようとしている。しかし、リティルには、これは受け取ることはできなかった。インは風の王だ。蘇ってははいけないことをわかっているはずだ。それなのに、こんなインらしからぬことを言い出すのは、オレの為だ!としか、リティルには思えなかった。

「本心じゃねーだろ!おまえは風の王なんだぞ!イン……おまえの存在を冒してまで、一緒にいたいなんて思わねーよ!」

インの顔が見られない。リティルは俯いたまま激しく首を横に振った。顔を見てしまったら、もし、インが見たこともない優しい瞳をしていたら、風の王としての心を守れない。

「リティル、少しは素直になれ」

──いたいよ。イン、おまえと一緒にいたい!当たり前だろ!父さん!

心の叫びを、リティルは殺すしかなかった。口にしてしまったら、風の王・リティルは終わりだ。風の王として生きてほしいと言った、インの最後の願いを、リティルは守り、叶え続けたかった。

「オレは風の王だ。蘇りなんて、こんなこと許せるかよ!イン、おまえ本当は、オレに引導を渡されることを望んでるだろ?それが、風の王だ。それができるのが風の王なんだ!」

リティルはなんとか体を起こすと、風の中から剣を抜き、インの首に向かって鋭く突きを放っていた。

インは僅かに上を向き、迫り来る刃にその喉を差し出していた。

愛する者すらその手にかけ、輪廻の輪を護る。それができるとするなら、もうインに言える事は何もなかった。

突きつけられた切っ先を避けることもなく受け入れ、微笑みすら浮かべて瞳を閉じる、そんなインの姿をリティルはその金色の瞳に写していた。その表情はリティルを誇らしいと思っているかのようだった。リティルの視界が不意に歪む。

しかし、待てどもそれ以上動かない切っ先に、インはリティルにゆっくりと視線を戻した。歯を食いしばり、心に渦巻く本心を押し殺して、こちらを睨むリティルの頬には、涙が筋を作っていた。

こんな瞳で、泣いてくれるのか?

インにはこの”イン”という存在が、あまり大事ではなかった。奪うばかりのこの”イン”という存在はやがて、これまで奪ってきた物の重さに押しつぶされて、跡形もなくなると思っていた。存在を、こんなにも惜しまれるなど、考えたこともなかった。まして、愛されるなど、思いもよらなかった。

「リティル、我はそなたと過ごしたすべての記憶を捨てよう。リティル、友人として我をそばに置け」

──黙れ!もう、何も言わないでくれ……!

リティルがほしい言葉はそうではない。

我を殺せと、そう言ってほしかった。インが背を押してくれたなら、きっと、愛する者の血でこの手を汚せる。インの言葉なら、迷いなく従える。

「ダメだって言ってるんだよ!おまえ、オレの為に、どれだけ自分を犠牲にするつもりだよ?オレが納得するまで、自分自身を捨て続けるのかよ!これじゃあオレが……オレがおまえを八つ裂きにしてるのと同じだろ!」

──もう、傷付けたくない……。わかるだろ?オレの苦しみを、わかってくれるだろ?父さん!

リティルが風の王として、蘇ったインを生まれ変わりとして受け入れる為には、彼から沢山の物を奪わなければならなかった。それこそ、インの面影すらなくなるほどに。

それは、それはもう、インを嬲り殺しにしているのと同じだった。ならばいっそ、苦しませないように、一撃で終わらせた方がいい。わかっていた。

「我は……何も奪われてはいない。そなたは、与えてくれた。リティル、もう十分だ」

インは首に突きつけられた切っ先を躊躇いなく掴んだ。そして、そっと外す。刃はインを傷付ける事はなかった。リティルには、インに引導を渡すだけの覚悟がどうしても持てなかったのだ。それがリティルの、甘さであり優しさだった。

リティルは見守ることの上手い精霊ではあったが、まだ話の通じる相手を、斬らなければならない場面では、躊躇ってしまう。そうして今まで、心も体も傷つけてきた。

本当に、命を奪う選択しか、もう残されていないのか?それを、もうどうしようもないところまで来ていても、自問自答してしまう。

リティルは、相手を斬る覚悟を決めるのに時間がかかるのだ。

生き様を守ってやりたい。その想いが、切っ先を鈍らせる。

「リティル、インファの守護精霊となれば、蘇りではなくなる。生まれ変わりとして、我の存在を許せ」

このまま説得が長引けば、リティルの心は壊れてしまう。インにはそのことがわかっていた。急がなければならない。リティルを守る為にどうすればいいのか、インは必死に考えていた。

今まで、多くの命を奪ってきた代償がこれか?とインはこの血塗られた手を、切り落としてしまいたかった。そんなことでは足りない。足りないというのなら、天秤が釣り合うまで差し出し続けても構わなかった。

たった一つ。たった一つ、この光を守れるのなら!

「イン……!オレはおまえと一緒にいられない。許しちゃいけねーんだ!わかってるのに……どうして……どうしてなんだよ!」

敵だと見なしたエネルフィネラを、インは簡単に消し飛ばした。いざというときの躊躇わない強さは、リティルにはないものだった。インならば、ナシャの毒をすんなり避けることができただろう。傲っているわけではない。リティルは風の王にしては、優しすぎた。そして、丈夫すぎた。

「リティル、目をつぶれ。我の為に傷つくな。リティル……そなたにそなたの心のまま、生きて……生きてほしい。そなたの本心はどこにある?そなたの叫びは?我がわからないと思うのか!」

「オレの心なんて、関係ねーだろ!どんな選択が、風の王として正しいかだろ?何言ってるんだよ!違うだろ!おまえがオレに言わなけりゃならねーのは、そんな言葉じゃねーだろ!オレが間違ってるのかよ!父さん!」

リティルの瞳から、力強い光が失われていった。傷ついて、その瞳から流れた涙は血のようだった。インは、こんなにリティルを傷付けるとは思っていなかった。あっけらかんと、笑って受け入れてくれることを内心期待していた。けれども、リティルは風の王という存在を、正しすぎるくらい正しく理解してしまっていた。

グロウタースの民と、関わりを持たなければならない風の王が、情に流されて命を引き留めるようなことを繰り返せばどうなるか、リティルは戒めをきちんと心に刻んでいた。ここでインを受け入れることは、その一線を越えることだ。風の王でいられないと言ったリティルの言葉は、正しかった。

リティルが行わなければならない行動は、蘇ったインに引導を渡すことだけだった。

しかし、それをすればもうリティルは立ち直れないだろうことを、インは感じていた。

インの好きな、リティルの力強い瞳と、屈託のない笑顔が失われてしまう。それは、インにとって、この手でリティルを殺すことと同義だった。

させない。風の王の禁忌に触れてでも、リティルを守る。インの心は、すでに風の王の一線を越えていた。もう、風の王ではない。そう開き直ってもいた。

「我はどうあっても、そなたを守る。存在など惜しくない。すでに死した身だ。今更失うモノは何もない。あるのは、得られる喜びだけだ。生まれ変わる我を受け入れろ!」

なおも言い募るインに、リティルの心は揺れていた。けれども、風の王としての心も、リティルは守らなければならなかった。どんなに辛くても、どんなに苦しくても、今のインを受け入れることは、してはいけないことだった。

「父さん、ダメだ!おまえにそんなことさせられるかよ!」

──父さん!守るなんて言うな!自分を惜しくないなんて、言わないでくれよ!父さんを守りたいのは、オレなのに!

何一つ、叫びを言葉にはできなかった。

リティルは剣を再び握ると、インに飛び掛かっていた。背中から倒れたインの首に切っ先を突き立てるが、できない。どんなに力を込めても、その喉を刃が傷付ける事はなかった。

リティルの瞳から溢れる涙が、インの顔に雨となって降っていた。

──嫌だ!イン、おまえを殺したくない!殺したく――ない……!

そんな声が聞こえるようだった。

リティルの心を守りたい。光を失った瞳を見上げながら、インは決意していた。

リティルに、このまま殺されるワケにはいかない。ここで殺されれば、リティルは風の王として確かな心を手に入れられるだろう。しかし、リティルらしいその心を犠牲にしてしまう。

その心に渦巻く本心を、インのために何一つ叫べないリティルの優しさを、インはその叫びを聞かなくてもわかってしまっていた。

「イン!オレは、おまえの存在を守る!父さんを――!守ってみせる!」

インの体に馬乗りになっていたリティルが、動かない剣を両手で鋭く振り上げた。そしてそこで、刃は再び止まる。インの喉に狙いを定めたまま。

徐々に覚悟を決めつつあるリティルの瞳を見上げながら、インも覚悟を決めた。

「リティル、強くなったな。そなたはまごう事なき、風の王だ。リティル、許せ。一度だけ、そなたの優しさ、踏みにじらせてもらう。レジナリネイ!リティルを眠らせろ!」

リティルは、スッと背後に舞い降りた気配に、咄嗟に振り向こうとした。しかしそれは許されずに、華奢な両手に両目を塞がれた。瞬間に強烈な眠気が襲ってきて、リティルは目を塞いだ彼女の胸に、背中から倒れ込んでいた。

「レジーナ、すまない。リティルの、エネルフィネラにここへ連れてこられてから、今までの記憶を消せ」

リティルを眠らせたレジナリネイは、微睡んだ瞳のままこくりと頷いた。そして、深く眠らされたリティルの体を、インの上から降ろした。

「インファ、我をそなたの守護精霊として生まれ変わらせろ。これよりリティルに関する記憶のすべてを消去し、インという名を捨てる。我に新たな名をつけろ」

「わかりました。父さんからも、この出来事を消してしまうんですね」

インファはチラリと、レジナリネイに優しく横たえられる父の姿を、憂いを持って眺めていた。短い記憶を消すだけだ。レジナリネイの処置はすぐに終わり、インは彼女と入れ替わりにリティルの前に跪くと、流れた涙をそっと拭ってやった。

 心にいてやるとそう約束したのに、インはその心を守ってやることができなかった。大切な記憶を対価に生まれ変わっても、今この時の記憶を二人失っても、リティルは何かあったことに気がつくだろう。それでも、願うしかない。受け入れてくれることを。

「リティルを生かすには、これしか方法を思いつかない。風の精霊である我らは、自ら死を選べない。しかし我は、リティルに殺されるわけにはいかない。リティルの心を道連れに、逝くわけにはいかない。リティル……そなたの正しい行いを踏みにじる我を、許せ。許せ……!」

眠るリティルを見下ろすインは、膝にある拳を強く握っていた。その様子から強い決意を感じて、インファは深く頭を下げていた。

「父のために、ありがとうございます。それから、すみません」

インは苦笑すると首を横に振った。インは、インファがこの結末を望んでいたことに気がついた。ここにも、この”イン”という存在を、惜しいと思ってくれた者がいたことに、感謝するしかなかった。

「我の知識、力はセビリアと闘うためには必要となるだろう。しかし、風の王・インが必要なわけではない。リティルとの記憶と風の王・インという存在を捨てれば、ギリギリ、生まれ変わりが成立し、風の王の禁忌からも外せよう。気に病むことはない。我も忘れる」

インファは頷いた。

「ノイン。あなたは風の騎士・ノインです。これから、よろしくお願いします」

インファは雄々しいイヌワシの翼を広げた。翼から多量の羽根が抜け落ちて、インファの前に跪いたインの体を包み込んだ。レジナリネイがスッと、羽根に包まれるインに両掌を向けて瞳を閉じた。彼女の手の平に金色の光が徐々に大きくなって現れる。インから、リティルに関する記憶を抜いているのだ。

 力の大半をノインを造るために使ったインファは、立っていられないほどの疲労を感じて膝から崩れ落ちた。その背で、彼の雄々しく美しかったイヌワシの翼が、バラリとほぐれて風に消え去った。大量の霊力を惜しみなく使った為に、翼の形を保てなくなってしまったのだ。

そんなインファの肩に、ずっと背中に隠れていた三匹のぬいぐるみが、心配そうに顔を覗かせた。

「大丈夫ですよ。少し疲れただけです」

インファの上に影を落として立ち上がったノインを、インファは見上げた。

「気分はどうですか?」

「悪くない」

ノインは、風のナイフを作ると、長い金色の髪を躊躇いなく短く切ってしまった。そして、インファと瓜二つの顔に額から鼻までを覆う、仮面を作り嵌めた。

「本当に、忘れてます?」

インと同じ容姿を極力隠そうとしているように見えて、インファは思わず問うていた。

「何を?ノイ──謎という名に相応しくしたまでだ」

「そうですか。了解しました。……ケルゥ、スワロ、いつから見てました?」

群生する桜の影から、別行動していた二人が、神妙な面持ちで近づいてきた。ケルゥの脇には、見慣れない子供の姿をした精霊が抱えられていた。

「ええと、うん。ごめんなさいね、間に合わなくて。レジーナ、リティルは大丈夫?」

スワロメイラは、ノインの手前明言を避けた。スワロメイラ達が到着したのは、インがエネルフィネラを殺したそのときだった。最悪の事態を止めに来たのに、手遅れだった。

 スワロメイラは地面に寝かされたリティルの顔を覗きこむと、レジナリネイを見上げた。

「大丈夫」

レジナリネイはそう告げると、ふわりとノインの前に立った。そして、桜の花をあしらったネックレスを、ノインにそっと渡した。

「あなたの物。何か、わからなくても、魂以上に、大事な物。ずっと、大切に、持ってて」

インから抜き取った、記憶をすべて込めて作ったネックレスだが、それがなんであるのかレジナリネイは告げなかった。

ノインは、ネックレスを当然のように首にかけた。まるで、それが何なのか知っているようなそぶりで、インファは彼が本当に忘れているのか疑問に思うほどだった。

「ありがとう、レジナリネイ」

ノインの言葉に、レジナリネイは少しだけ微笑んだ。そして、微睡んだ瞳を、ケルゥに抱えられているナシャに向けた。

「これで、満足?ナシャ・ユニコーン」

レジナリネイの声からは、感情が読み取れなかった。なのに、彼女が怒っていることが皆にはわかった。

「ナシャ、これ以上、リティル、傷付けないで。リティル、悪くない、みんな、リティル、大事。彼には、本当に、本当に、大事」

レジナリネイは、ノインの為にインの名を、彼と言って伏せた。

それを感じたナシャは、こんな感情もないようなレジナリネイでさえ、思いやりがあるのにと、自分自身の醜悪さに溜息をついた。インが、十五代目の為に心を砕き、説得する姿をあれだけ見せられれば、彼がどれだけリティルを大切に思っているのか、悟らざるを得ない。それに答えるリティルの様子も痛ましすぎて、ナシャは自分の犯したことが、どんなに残酷だったかを知った。

 サアッと風が吹き、桜の巨木から花びらがフワリフワリと舞い落ちた。

「う……ん?あれ?ここは……レジーナの?」

リティルが唸って目を覚ました。なぜここにいるのかわからない様子で、キョロキョロしている。

「リティル、もう体は痺れてなぁい?」

スワロメイラが、ズイッと顔を覗き込んだ。リティルはまだ状況が把握できていない様子で、彼女の問いに戸惑っていた。

「あ、ああ。そうだったっけ?あ、エネルフィネラは?」

少しずつ、思い出しているようだが、ドゥガリーヤの温室から連れ出されてからの記憶を、どうしても思い出せずにリティルは首を捻っていた。

「ああ、それなら」

「我が倒した」

「うわ!びっくりした!へ?誰だおまえ?インファと同じ力を感じるな。インファの守護精霊か?名前は?」

ノインの声を聞いて、リティルは飛び上がるほど驚いていた。そして、彼の姿をマジマジと見て、どこかホッとしたように笑った。その表情は、誰かと一瞬間違えて、違うことがわかって安堵したように見えた。

「ノイン。先王の知識とワザを持つ、そなたらを守る騎士だ」

「インの?インファ、セビリアと何かあったな?無茶するなって言っただろ?おいおい、翼までなくして大丈夫かよ?」

先王と聞いて、リティルはセビリアに対抗するために、インファが作ったのだと思ったようだった。ノインの言葉に皆は一瞬ピリッとしたが、リティルはまるで反応せず、皆はホッと胸を撫で下ろした。

「ノイン、インファをありがとな。オレはちょっと、不甲斐なくて悪かったよ」

ノインはフッと涼やかに微笑むと、リティルに手を差し出した。リティルは躊躇いなく取って、立ち上がる。さっきまでの壊れそうなほどの激情が嘘のように穏やかだった。

「インファ、それ、カルシーか?ずいぶん可愛くなったな」

『うるさい!可愛くない!』

インファの肩に乗っていた三匹のぬいぐるみの中で、見慣れないウサギを見つけてリティルはマジマジと見つめた。見つめられたカルシエーナは、咄嗟に噛みついていた。

「ああ?なんだよ、ご機嫌ナナメかよ。ハハ、ずいぶん人間らしくなったじゃねーか。さてと、で?どんな状況なんだ?」

リティルは面々を見回した。しかし、皆の瞳がなぜか気遣うようで、リティルは首を傾げた。

「どうかしたのかよ?」

「いいえ。父さんが無事でよかったです。セビリアはカルシエーナの体を使って、このルキルースのどこかにいます。地縛霊の迷宮から追ってこなかったということは、ずいぶんこちらを侮っているのでしょうね」

「こっちは今のところ、収穫なしよ。ナシャはお姉様と手を組んでたの。破壊の毒の解毒剤、作りたくないって」

スワロメイラは、ケルゥに未だ放してもらえないナシャを、ジロリと見た。睨まれたナシャは溜息をついた。

「わかったよ。作ってあげるよ。解毒剤。ただし、リティルにお願いがあるんだ」

「何だよ?もう不意打ちはなしだぜ?」

「しないよ。だって、イン様より優しくできてるもの、オイラが本気でちょっかいかけたら、リティル死んじゃうから。しばらくオイラを風のお城に置いてよ。それで、リティルを観察させてよ」

「はあ?よくわからねーけど、城の住人に毒を使わないって約束できるなら、いいぜ?けどなあ、おまえ幽閉中だろ?勝手に出てきていいのかよ?」

「保護者がいればいいんだよ。リティルが保護者になってくれるでしょ?」

「あのなあ、オレは猛獣使いじゃねーんだぜ?おまえを幽閉したのは誰なんだよ?」

「有限の星」

「あのザル親父か。伺いを立てるまでもなく、許可降りるな。ナシャ、約束は守れよ?オレのお仕置き、結構きついからな」

有限の星は、自分がセクルースの統括であるはずなのに、しばしばリティルに押しつけてくる。信頼されているわけではなく、面倒ごとを押しつけられているだけだと、リティルは思っている。そして、リティルには彼の命令を聞かざるを得ない理由があった。

「ちょっと、リティル、あれだけされてお咎めなしなの?ちょっと、引くわよぉ」

苦言を呈するスワロメイラの隣で、ケルゥは思わず明後日の方向を見ていた。初めて会ったとき、ケルゥがリティルを半殺しにしたことを知れば、スワロメイラに軽蔑されることは必至だなと、そう思った。本当に、あの城の住人は顔色一つ変えずに、よくケルゥを受け入れてくれたと、そう思う。しかし裏を返せば、あれくらいのことは、風一家にとって取るに足らないことなのだ。それほど、過酷なのだ。

「毎回背後狙ってくる、おまえが言うのかよ?別にちょっと痺れさせられただけだからな、大したことねーよ。それに、ナシャは、インが面倒見てた奴なんだろ?敵対しねーなら、引き受けるしかねーじゃねーか。インの後はきっちり継ぎてーんだよ」

インの跡を継ぐ──リティルにとっては、当たり前で何気ない言葉だった。いつものように曇りなく笑うリティルを見た皆は、彼とは対照的に一様に視線を落とした。

彼の笑顔の裏にある決意を、目の当たりにしてしまった今、その言葉の重さに言葉は出てこなかった。

 インを、インから受け継いだ風の王でいるために、殺そうとしたリティルを、誰も止められなかった。言葉をかけることさえできなかった。インに任せるしかなかった。そのインでさえ、記憶を消すことでしかリティルを守ることができなかった。インが強行していなければ、リティルはきっと自分の心ごと、インを殺していただろう。

リティルが優しいだけの王ではないことを、皆は知ったのだった。

「さっきはごめんね。本当にオイラ、これから絶対にリティルを傷付けないからね。ごめんね……ひっく──うう……」

ナシャはいたたまれなくなって、ケルゥの腕を逃れるとリティルの腰に抱きついていた。

「大丈夫だ。あれくらい、日常茶飯事なんだぜ?インがいたら、毎回説教だ。それくらいオレ滅茶苦茶だからな、心配するなよ。はあ、ホント、インがいなくてよかったぜ」

リティルは和ませるつもりでインの名を使ったのだろうが、今のナシャにとっては逆効果だった。収拾のつかないくらい泣かせてしまい、リティルはしばらく抱っこしてやる羽目になった。

「あ、悪い。インの話は禁句だったか?おまえ、案外可愛いな。おまえがいたいだけ城にいたらいいさ」

「父さん、あまり引き受けると、風の城は動物園になりますよ?」

そう言いながらも、インファは控えめに楽しそうに笑っていた。

「はは、そしたら、母さんがなんとかしてくれるだろ?あいつは、正真正銘の猛獣使いだからな」

「あー、そんな感じね。オオタカを筆頭に、猛犬と鷲の手綱握ってるんだからねぇ」

「オレも入ってるのかよ?」「母さんには迷惑かけてませんよ」

思わず声が合ってしまった親子は、互いに顔を見合わせて吹きだした。

 父の笑顔を見ながら、本当に無事でよかったと、インファは切に思っていた。そして、自分の甘さを恥じた。

「父さん、オレはしばらく動けません。霊力を使いすぎました」

「だよな。翼なくすほどだからな。うーん、おまえがいねーと心許ないな。レジーナ、セビリアは?」

「断崖の城。ノイン、あげる」

レジナリネイは、ノインにスッと近づくと、桜の花びらが中で踊る、水晶の球が並んだブレスレットを渡した。

「今回限り、レジーナ、通信、できる。セビリア、動いたら、知らせる。風の城、戻って」

「そりゃ、ありがたいけど、どうしてノインに渡すんだよ?」

「リティル、インファ、休息、必要。ノイン、信頼できる」

「まあ、確かにな。ノイン、頼めるか?」

「了解した」

ノインはレジナリネイからブレスレットを受け取った。

「ナシャ、解毒剤、どれくらいでできそうなんだ?」

「さすがのオイラも、破壊の毒には手を出してないから、やってみないとわかんない。風の城に使っていい部屋ある?借りていい?それから、勘違いしてるみたいだけどオイラ、毒の精霊だからね?毒を知り尽くしてるから、治療法がわかるだけ。治す専門じゃないから」

「へえ?そりゃ、興味あるなぁ」

「リティルよぉ、耐性つけるために一個ずつ試すとか考えてるんじゃぁねぇよなぁ?」

「いやだ、リティル図星なのぉ?やめときなさいよ。その毒で一回死なないかぎり、耐性なんかつきゃしないわよ。宝石の精霊はね、その方法で解毒のキスが使えるんだからね」

「おまえ……苦労したんだな」

「あんたほどじゃないわよ。でも、こんな大人数で押しかけて大丈夫?」

「待機組──レイシとインリーがいるからな、鳥達も総動員してやるから、おまえらも休んでくれよ。ナシャ、手伝いがいるならオレが──」

リティルが当然のように手伝いを買って出そうになり、ナシャとインファが咎めるより早く、友人二人組が詰め寄った。

「あんたは休みなさい!」「てめぇは寝てろやぁ!」

「そ、そんなに怒ることねーだろ?ちょっと、痺れただけなんだぜ?」

二人のあまりの剣幕に、リティルは戸惑いながら完全に気圧されていた。

「とにかく!絶対にダメよ!言うこと聞かないと、シェラ姫ちゃんにあることないこと捏造して吹き込んじゃうわよ?」

「オレ様も、スワロメイラに協力すんぜぇ?てめぇは、とっとと帰って寝てやがれやぁ!」

友人組にさらに詰め寄られて、リティルは帰ったら寝ることを強要された。なぜこんなことを、約束させられなければならないのかと、リティルは頭に疑問符を、浮かべられるだけ浮かべていた。

 そんな父とその友人達を見ながら、インファはホッとしたように穏やかに笑っていた。その隣で、ノインがリティルに探るような視線を、送っているとも知らずに。

『インファ、わたしはこの姿ではルキルースから出られない。カコルとニココと、レジーナのところにいる』

インファの肩に乗っていたカルシエーナが、目の前にフワリと飛び出してきた。

「離れることになって、すみません。霊力が回復し次第戻りますから、何かあれば逃げてください」

『不安だが、なんとかしてみせる。ありがとう、インファ』

「お礼にはまだ早いですよ。すべて終わったら、笑いましょうね」

インファはウサギの頭をそっと撫でた。

『インファ、そういうことは止めろ!好きになったらどうする?』

「オレを落とすんですか?そう簡単になびきませんよ?すみません。あなたは、妹のようで可愛いんですよね」

フフフとインファは、からかうように笑った。

『残酷な人だな。わたし自身、よくわかっていない。じゃあ、この感覚はなんなの?』

「そうですね。あなたのそれは、恋愛感情ではないと思いますよ?オレに興味がある。そんな感じですね。レジーナと話してみてはどうでしょうか?違いがわかると思いますよ?」

インファはカルシエーナを両手で掴むと、レジナリネイの肩に移した。カコルとニココも、スススッとレジナリネイの周りによっていった。そして、二匹は元気に手を振った。

身内に見せるような優しい笑みで、インファは夢魔達に答えて手を軽く上げると去った。


 シェラは、インファの部屋を訪れていた。インファと話をし、そして、涸渇した霊力を回復させるためだ。

「そう。ノインはそういう経緯で目覚めたのね。インを甦らせようだなんて、考えもしなかったわ」

キチンと整えられた、シングルのベッドに座るインファの前に、背もたれのある木の椅子を置き、シェラは息子の胸の辺りに手をかざしていた。手の平には光が灯り、インファの中に流れ込んでいる。インファのなくした翼はすでに、元通り生えていた。

「父さんは酷い状態でした。レジナリネイは信頼できるので、何かの拍子に記憶が戻ることはないと思います。ですが、エネルフィネラはすぐに復活するので、揺さぶられるかもしれません。まったく彼女の真意はわかりませんが」

「わたしには、役に立てそうにないわ……」

サイドテーブルに置かれたランプの明かりの中で、俯いたシェラの影が絨毯の上に落ちていた。

「そんなこと言わないでください。母さんと一緒に闘っていたころは、安定していたと聞いていますよ?なぜ、父さんを遠ざけているんですか?」

「リティルを、遠ざけているわけではないわ。今は出番がなくなっただけよ」

「オレがいるからですか?今回のようなことには、オレでは役不足ですよ」

「もう、インの影がリティルを苦しめることはないわ。あなたとノインが一緒にいれば」

「母さん」

「困らせないで。わたしは、城を離れられないの」

「父さんよりも、大事なことなんですか?」

「インファ、レイシよ。わたしが城を離れられない理由は、レイシなのよ」

「レイシですか?なぜです?」

「あの子の、出生に関係があるの。でも、今は話せないの。風の王の副官である、あなたであっても。リティルはいろいろな精霊と関わるけれども、養子にしたのはレイシだけ。あの子には、そうせざるを得ない理由があったのよ。わたし達はもちろん、あの子を息子として愛しているわ。けれども、それだけではない理由があるの」

「レイシのことは確かに謎でした。人間のようでもあり、精霊のようでもある、不思議な気配をしているとは思っていたんですが……。母さんがわざわざ守らなければならない相手では、レイシとインリーには太刀打ちできませんね。オレでも守れるかどうか微妙です」

「インファ、あなたに背負わせてごめんなさい。リティルは大丈夫というけれど、わたしには楽観視できないの。何かが起こってからでは遅いから」

「わかりました。父さんのことは何とかします。幸い、父さんの周りには頼れる人がたくさんいますから」

インファはルキルースの面々を思い出して、フフフと笑った。

 そんなインファの様子に、シェラは少しだけ寂しく思った。リティルのそばにいたい。それは、ずっとずっと変わらない思いだった。リティルの心が傷つくのなら、尚更そばにいたい。けれども、シェラにとって子供達もかけがえなく大切だった。

リティルは行かなければならない。ならばシェラが留まり、守る以外にない。

 インファを癒し終え、シェラは息子におやすみと言ってベッドを離れた。ベッドのある窓際の部屋から、仕切りのアーチを抜ける。明るいコーヒー色の壁紙には、イヌワシの羽根が紋章化されて並んでいた。深緑の布張りの、一人用のソファーの前に置かれたテーブルには、本が積まれたままになっている。この部屋で一番存在感のある本棚には、隙間なく本が収められていて、テーブルの本は、城の図書室から持ってきたものだとわかった。

シェラは足早に部屋を横切り、ドアノブに手を掛けた。ノブを回そうとしたその手が止まる。廊下に誰かがいる気配がしたのだ。

思わず耳をすませたシェラは、緊張気味に体を強ばらせた。

廊下でしゃべっているのは、リティルとノインだったからだ。


 ノインは広い廊下の窓から、夕闇の降りた中庭を見下ろしていた。自身の記憶にある風の城には、この中庭はなかった。樹木が植えられ緑に溢れる中庭。端には五角形の屋根を持つ東屋が建てられていた。そして、中庭の奥にはガラス張りのかまぼこ形の建物。あれは温室だとリティルが言っていた。

「ノイン、何か面白い物でも見えるのかよ?」

等間隔に、四角く大きめに取られた窓と窓との間には、円柱型の見掛柱が立ち、それに取り付けられたランプが淡い光で廊下を照らしていた。リティルは落ち着いたブラウンの絨毯の、真っ直ぐに引かれた廊下を歩いてノインのそばにやってきた。

ノインはゆっくりと隣に立ったリティルを見下ろした。ずいぶん背の低い風の王だ。記憶にある歴代の王の中で、一番華奢に見えた。

「異質な場所だ」

「ハハ、そうだろうな。オレの妻の為に造った場所だからな」

「花の姫……よく、手に入れられたな」

「オレは捕まった方だぜ?あいつの殺し文句は、あなたを守りたい、だ。未だに守られてるぜ」

「そなたは、強い王だと聞いた」

こんなに華奢で、歴代の王と容姿が異なる彼に、ノインは違和感を感じていた。インファはなぜか明言は避けたが、ノインの問いに、リティルは少々特殊な出生だとだけ答えた。

その特殊な出生の為なのだろうか。リティルは、イン──風という言葉を名の中に持たない唯一の王でもあった。

彼に名を与えた者は何を思って、リティ・ル──目覚めと名付けたのだろうか。

「誰がそんなこと言ったんだよ?オレは十四代目の足下にも及ばないぜ?」

沈黙が訪れた。

 この廊下の天井には、漆喰細工で浮き彫り状に作られた大鷹が、蔓草と戯れる様がメッキを施されて連続で描かれていた。リティルはもう、夜の闇に沈んで見えないだろうに、静かに中庭を見下ろすノインのその背を見た。

彼の背には、リティルと同じオオタカの翼がある。それは、風の王の証ともいえる翼だった。

「なあ、おまえ、自分が目覚めた時のこと覚えてるか?」

「覚えていない」

「エネルフィネラをヤッたときのことは、覚えてるのにかよ?」

ノインは頷いて、見上げているリティルに視線を合わせた。嘘のないノインは、リティルのジッと見つめる金色の光の踊る瞳を、見返した。美しく力強く特殊な虹彩だなと、ノインは吸い込まれそうな気分になった。

見つめすぎてしまっただろうか。スッと、さりげなくリティルは、視線を中庭へ移してしまった。

「オレも、おまえが目覚めた時のことを覚えてねーんだ」

「そなたは、気を失っていた」

「それも微妙なんだよ。ナシャに麻痺の毒を盛られて、エネルフィネラに連れてこられたはずなんだ。体は動かなくても、意識はあったし声も聞こえてた。それが、気がついたらすべて終わってた。不自然なんだよ」

「何が言いたい?」

「オレ達の記憶は、レジーナに消されたんだよ。どうしてだと思う?」

リティルはノインを見上げた。ノインはリティルが、同じことを考えていたことを知った。

「わからない」

わかっていた答えだった。

「おまえは、インの知識を持ってるんだよな?生まれ変わりならオレの事、覚えてるか?」

「先代と関係があるのか?」

それは、精霊ではあり得ないことだった。同じ司の精霊は同じ時に同時に存在できない。先代と重なっているとしたら、先代を殺して王になったか、力を譲渡されて王になったかのどちらかしかない。あり得るとするならば、後者だろうなとノインは当然のように思った。そう思って、なぜそう思うのか自分の中に理由を探せなかった。

「オレはインに造られた。インに育てられた、息子だ」

彼の意にそぐわないことを思ったと思われたのだろうか、リティルの瞳に怒りのような熱が灯り睨まれた。そういう誤解をされてきたのだなと、ノインは察した。そして、その誤解はリティルにとって相当に嫌なものなのだと理解した。

「確かにそなたは、先代と深い関係にあったようだ。だが、我にその記憶はない」

ノインは一度言葉を切り、ややあって見上げるリティルに視線を合わせた。そんなノインの涼やかな瞳に、かすかな戸惑いが浮かんでいるのをリティルは見た。

「しかし、そなたを見ていると守りたいと感じる。我はインファの守護精霊。だのに、インファよりそなたが気になる。そなたに、生きてほしいと強く思う。不自然な感情だ。我は、そなたを知らない。けれども、自然と心地良い。風の王──リティルと呼んでも?」

「……ああ、好きに呼べよ」

リティルは、少しだけ彼に名を呼ばせることを躊躇った。しかし、その声で、名を呼んでほしいとも思った。

「では、リティル、記憶などなくても支障はない。我もそなたもここにこうしている。存在している。ならば、また時を重ねればいい。作ればいい。我はそう思う」

ノインの言葉に、リティルは彼の存在がどういうモノなのか確信した。

彼はインだ。インその者。しかし、インではない。インが蘇ったかのような彼は、どういうわけかリティルと関わりのある記憶をなくし、名を変え、インファの守護精霊として生まれ変わってここにいた。そうとしか思えなかった。

「……ノイン……」

リティルは何とかその名を呼べた。しかし、インとの違いも確かにあるのだ。

ノインの瞳には、温度がある。涼やかなその眼差しに、リティルは何とか彼をインではないと思うことができた。

「ずいぶん、優しくできている。そなたの友も息子も、皆心配していた。我はそなたの知るインではないが、そなたと共に闘うことができる。この体を持って」

ノインは静かに涙するリティルの頭に、大きな手を置いた。

「オレはまた、たぶん、インに守られたんだ……」

ノインも、自分がどういう経緯で、インファの守護精霊として生まれ変わったのか、その記憶がないと言っていた。しかし、自分の存在をキチンと理解しているようだった。

リティルは、ノインが理解していることが辛かった。ノインが、インの蘇りで生まれ変わりだという、複雑な存在になってしまった原因は、自分にあるとリティルにはわかるからだ。

「そうだとしても、そなたが気に病むことではない。我の心には、痛みはない。あるのは、喜びだけだ。それが何に対してなのか、わからないが、気分だけはいい。それが答えでは納得できないか?」

答えないリティルに、ノインはさらに続けた。

「リティル、風の王であるそなたがそんなに泣いてくれるなら、死者の手向けとして十分だ。インは幸せ者だな」

「幸せだったのは、オレの方だ。オレはインの存在まで、犠牲に──」

インが蘇ったその場に居合わせたのなら、リティルは彼を斬らなければならなかったはずだ。それが、ノインとしてここにいる。それはつまり、インはインを捨てたということだ。インにそんなことをさせたのは、たぶん――

「違う。そう言ってやるな。インがその選択をしたのは、おそらくそなたの為だが、犠牲になったわけではない。繰り返すが、我に痛みはない。あるのは、喜び、そして気分がいい。リティル、そばにいるのが、我では不足か?それが、そなたの苦悩か?」

インのほうがよかったか?とズバリ聞かれて、リティルは首を横に振った。

「そんなことねーよ。ノイン、おまえに背負わせたかもしれねーと思ったら、居ても立ってもいられなくなったんだよ。誰が何の理由でオレの、オレ達の記憶を消したのか、それを考えたらもう……インのことしか考えられなくなった。おまえに不満があるわけじゃねーんだ。父さんを……傷付けたかもしれないことが……許せなくて……」

涙を止められずに俯き、拳を握るリティルの様子に、ノインは胸に小さな痛みを感じた気がした。そして、そんなに想うことができるのか?と、情の深さに少し驚いた。

けれども、納得できるような気がした。

「リティル、そなたの心は誰にも左右されないほどに強い。インは決断するに当たって、相当苦労を強いられたことだろう。だから、もう、インを許してやれ」

許せ。その言葉が、リティルの心に重く響いた。

 インとずっと一緒にいたかった。ルキルースで夢が夢の時間をくれ、別れを、無理矢理納得したつもりだった。

ルキルースは強い思いを具現化する夢の国。インを蘇らせてしまったのは、一緒にいたいという、この諦められない心のせいのような気がしてならなかった。そして、ノインをこんな不自然な存在にしてしまったのは、風の王として正しい行いができなかったリティルを、インが守った結果のような気がした。

「イン……!父さん!守れなくて……ごめん……ごめんな……!」

ノインは、泣き崩れそうになったリティルの肩を抱き寄せて、その小さな体を支えてやった。リティルはこんなに傷ついて泣いているというのに、縋ってこなかった。ノインはリティルが泣き止むまで体を支えてやりながら、見えない中庭をずっと見下ろしていた。

 ノインの心には、インの願いのような感情が残っていた。

リティルという人物を欠片も知らないのに、その強い思いがリティルに向いていることを、間違いようもなく理解していた。

――を守りたい。何を犠牲にしても、どんなことを、しても……!

ノインは、リティルを一目見たとき、その想いの空白部分に入るその名がわかったのだ。

正直戸惑った。これだけ強い感情だ。リティルとの思い出が当然あるはずなのに、それは欠片も自分の中にはなかった。不自然だった。

なくした記憶、インその者の容姿、インの切なる願い――インは蘇り、インファはリティルに殺させない為に、霊力を最大限使って守護精霊として生まれ変わらせてくれたのだと、ノインが理解するのにそんなに時間はいらなかった。

「ノイン、オレはこの通り、不甲斐ない王だ。みんなに怒られるんだけどな。おまえも遠慮なく、叱ってくれよな」

リティルは涙を拭うと、ノインを見上げて笑った。その笑顔に、なぜかノインは胸が温かくなるのを感じた。

「それが望みならば。リティル、しばし休め」

「ああ、そうするよ。ありがとな、ノイン。付き合わせて、悪かった」

リティルはそう言うと、去って行った。

 ややあって、背後の扉が控えめに開いた。インファの部屋から控えめに顔を出したシェラは、リティルがいないことを確認するように廊下に視線を巡らせた。

「ノイン、話を聞かせたかったの?」

「偶然だ」

ノインの口元には、僅かに涼やかな笑みが浮かんでいた。

「リティルがごめんなさい。リティルは、インのことになると冷静さを欠いてしまうの。あんなことを言われては、気がついてしまうわよね?」

「構わない。この不自然な記憶では、いずれ辿りついた。それが早いか遅いかだけのことだ」

生まれ変わりは、前世の記憶をすべて持っている。その上で別の人格、別の容姿になる。それが生まれ変わりだ。それが当てはまらないことは、さすがにすぐ気がつく。

しかし、ノインには、ノインとしての感情もちゃんとあった。中途半端だが、インではない部分も確かにあった。

「……大丈夫?」

「何を心配している?」

「ええと……あなたの心よ。あなたはノインなのに、その、背負わされてしまったから」

あなたは蘇りだと明言せずに言葉を選ぶシェラの様子に、ノインは笑い出した。

「フフフ、すまない。そなたはさっきから、我を案じてばかりだな。リティルの為に、我を利用しようとは思わないのか?」

インのことを父と呼び、そしてあんなに涙したリティルの為に、ノインに心のよりどころになってと、言うこともできるはずだった。だのに、彼の妻であるシェラは、微塵もそんなことを望んではいないようだった。そればかりか、ノインがインに飲まれやしないかと案じている。

「精霊とはそういうものなの?それとも、それが花の精霊だと言いたいの?わたしはただ、あなたに存在のことで悩んでほしくないだけよ。わたしもリティルも、そういうものに翻弄されてきたから」

「シェラ、そなたもずいぶん優しくできている。我は大丈夫だ。聞いていただろう?心に嘘はない。先代の記憶は殺伐としている。だのに、記憶にないリティルに対する感情は温かい。十分なモノを初めから得ている。それに、リティルは我をインと重ねない。わかっていても、なかなかできることではないが、リティルは”ノイン”を守ろうとしてくれている」

「あなたがそういうのなら。けれども、何かあったら話して。一人で悩まないでね」

「了解した。今は我よりも、リティルのそばにいてやれ」

「そうするわ。ありがとう、ノイン」

シェラはふわりと微笑むと、リティルの行った方へ去って行った。本当に、ずいぶん優しくできているとノインは、フッと涼やかに微笑んだ。

そっと、ノインは仮面を外す。暗い窓ガラスに顔が映っていた。

「イン、そなたの代わりに、このノインが守ろう。許せよ、イン……」

ノインは仮面を元のように嵌めると、スウッと息を吸い込んだ。

──心に 風を 魂に 歌を 君といられるなら 怖いモノなど 何もない

──花の香りが この身を包む 叫べ 風に攫われぬうちに

──痛みと 涙が 君を曇らせても 歌え この旋律を 心のままに――……

初代の時代から風の城に伝わる、風の奏でる歌。記憶の中のインは、この歌を死者に贈るように寂しそうに歌っていた。この歌を今、口ずさむノインは叫ぶように力強く歌っていた。哀しみの中それでも生きると声を上げる、生きると言ってほしい者に贈るように。

 ベッドの上で体を起こしたリティルは、ノインの歌を聴いていた。

最近、涙腺が弱くて困る。さっき泣いたばかりだというのに、まだ枯れないらしい。涙を拭おうとしたリティルの体を、後ろから華奢な腕が抱きしめてきた。背中に感じる柔らかく温かい体温。胸の前で合わされた白い手に、リティルは手を重ねた。

もういい。このまましばらく泣こう。リティルは開き直った。

──叫ぼう 悠久の風の中 君と生きていけると――……

あいかわらず良い声だなと、リティルはノインの歌を聴いていた。それにしても、インの蘇りなのに、歌い方がずいぶん違う。記憶の一部がないことが影響しているのだろうか。それとも、インファの守護精霊となったことで、不完全ながら生まれ変わりが成立しているのだろうか。だとするなら、ノインという人格を守ってやれるかもしれないと、リティルは思った。

 リティルに風の奏でる歌を教えてくれたのは、インだった。彼は教えたつもりはないだろう。子守歌としてずっと、優しく守るように歌ってくれていた。リティルはなかなか歌えずに、諦めて笛を吹くようになったことを今でも覚えている。そのせいか歌には苦手意識があり、子供達は喜ぶがリティルはあまり歌わない。

「リティル、いつ気がついたの?ノインのこと」

「ノインが、インの蘇りだってことをか?割とすぐだな。オレにとってインの印象は顔より声なんだ。ずっとそばにあったあの声、間違わねーよ。どうしてこんなことになったのか、記憶を消されてるみてーだから、わからねーけど。シェラ、インファと話したか?あいつ、大丈夫だったか?」

「ええ。心配いらないわ。少し、あなたの副官としての自信をなくしていたくらいね」

「それ、結構落ち込んでねーか?あのインファだぜ?オレ、大分やらかしたな……」

リティルは前髪をくしゃくしゃと掻いた。

どうにも、インファの前だと自然体でいてしまうきらいがあった。インファを連れていく時は余裕がないときが多く、取り繕っている場合ではないことが多々ある。インファの方もよくわかっていて、的確にサポートしてくれるが故に、あまり気を配ってやれなかった。

「リティル、ノインの存在を許せないの?」

リティルは複雑な顔で、しばらく押し黙った。そして、ゆっくりと口を開いた。

「さっき、許していいのか確かめてきたんだ。あいつが、本当にインならオレは、風の王として斬らなくちゃならない。それをインも望むはずだからな」

「リティル!あの人はノインよ?インではないわ」

後ろから腹に回されたシェラの腕に、ギュッと力が入った。そんなシェラの優しさに、リティルは苦笑した。

「ああ、あいつはノインだよ。インファの守護精霊になった時点で、生まれ変わりが一応成立してるからな。今度はオレが守る番だ。ノインがインに飲まれねーように、必ず守ってやる!」

それを、インも望むはずだから。不自然なんて言わせない。ノインが自分を見失わないように、導くと、リティルは涙を払って前を向いた。

――これでいいんだよな?父さん

リティルは、心にいるインにそう語りかけた。心の中のインは、ただ静かに微笑んでいた。

「消された記憶のことは気になってるんだ。あのとき何があったのか、みんなが異様に優しいんだよ。オレ、何したんだろうな?」

「あなたが怒ると怖いことを、みんなやっと知ったのよ」

「オレ、そんなに怖いか?君を怖がらせたこと、あったか?」

「止めることが大変だから、あまり怒らないで。たぶん、わたしにしか止められないから」

「うわ、そりゃ困ったな」

「リティル、そばにいられなくて、ごめんなさい」

「まったくだぜ。オレ今回散々なんだぜ?インを知ってる君がいてくれたら、もう少しなんとかなってたかもしれねーよ」

「リティル、わたしの声は、わたしの姿が変わっても、わかる?自惚れてもいいかしら?」

「ああ?当たり前だろ?話したことなかったか?オレ、九歳の君の声に、最初の恋をしたんだぜ?年期入ってるだろ?」

「初めて聞いたわ?けれども、なら、役に立つかもしれないわ」

シェラはリティルの胸に回した腕を伸ばし、リティルの右手を取った。その手首にそっと、白い光を内包した玉でできたブレスレットを嵌めた。

「わたしの歌声を込めてあるわ。我を失いそうになったら、思い出して。わたしはずっとあなたと共にあるわ」

シェラの腕がリティルの体に絡み付く。そして、背中にすり寄られる感触がした。

くすぐったくて、愛しいその温もり……。

「ああ。オレを守ってくれよ?シェラ」

リティルはシェラの腕を解くと、覆い被さるようにして押し倒し、強く抱きしめた。


 インファは廊下を一人、中庭に向かって歩いていた。中庭のバードバスの水鏡に、シェラがルキルースへの扉を固定したのだ。

その後ろに、ケルゥが合流する。

「先に行くんかぁ?兄ちゃん」

「ええ。カルシエーナと約束していますから」

「オレ様も行くぜぇ。セビリア相手なら、ちったぁ役に立つぜぇ?」

「期待してますよ?オレでは歯が立ちませんから」

「ノイン、あいつは使えるんかぁ?」

「あなたの方が、よく知っているはずですよ?父さんと組めば、現段階では風の城で最強でしょう。セビリアは二人に任せて、オレはカルシエーナを何とかしなければなりません」

「あの体から、セビリアの精神を追い出すってかぁ?おめぇも無傷じゃいかねぇぞ?」

「腕の一本や二本は覚悟していますよ」

「そんな覚悟いらねぇ。トカゲみてぇに生えてこねぇだろう?」

「母さんに頼めば生えてくるので、問題ありません」

「うっわ!兄ちゃんの中身、リティルだったかぁ!」

「なんですか?オレの中身はオレですよ?言ったでしょう?風の精霊は精霊の中ではそんなに強くないと。超回復能力があるだけマシです」

「超回復能力か、それ、傷が治るだけなんかぁ?」

「そうですよ?解毒はできませんし、あまりバラバラにされるとくっつきません」

「んじゃぁ、オレ様の方が性能いいんだなぁ?オレ様、切り刻まれても治せるんだぜぇ」

「ケルゥ、それは超回復とはいいませんよ。それは、再生だと思いますよ?セビリアも同じ能力を持っているんですか?」

「いいや?セビリアは傷ついたら傷つきっぱなしだったぜぇ?」

「そうですか。それなら、オレにも勝算がありそうですね」

インファは、黒が揺らめくバードバスの水鏡に手をかざし、水面を掴むようにして引き上げた。ルキルースへの扉がバードバスの上に現れた。インファはケルゥの手を掴むと、扉に向かって飛んだ。


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