三章 幽閉されたナシャ・ユニコーン
インファとケルゥは、満月の光が鋭く差し込む城内にいた。
断崖の城。窓の外を見ると、確かに崖の上に立っていることがわかる。空には、大きな満月が輝いていた。
「インファ、この城はなぁ、幻夢帝・ガルビークの寝所なんだ。オレ様はここで、インと一緒にセビリアと殺し合ったのさぁ」
風の城の廊下も広いと思っていたが、この城の廊下も負けず劣らず広かった。天井には、平たい帯や革紐が交差したり、織り交ぜられたような文様が四角い額縁のように彫刻されていた。その額縁の中には、ルキルースの様々な部屋の絵が描かれていた。
光源は、両側の広い窓から差し込む満月の光だけで、その絵をじっくり鑑賞するには暗い。
「姉弟喧嘩は今に始まったことではなかったんでしょう?なぜ、先代が共に闘う羽目になったんですか?」
藍色の絨毯が真っ直ぐに伸びる廊下を、ケルゥに合わせて歩きながらインファは尋ねた。
「それはなぁ、ガルビークがオレ様達の父親で、セビリアはその父親を殺そうとしたからだ。それで、インが戦う羽目になっちまったんだぁ」
幻夢帝・ガルビーク。精霊史が始まったときに生まれた、精霊王と対を成す夜の王。
彼はあることを境に、自ら夢に囚われてずっと眠ったままだ。
幻夢帝と精霊王は、消滅が許されない精霊達だった。彼等が消滅しては、夜と昼間がなくなってしまう。一瞬でもいなくなることの許されない、替えのきかない精霊だった。
「あなたの父親は、ガルビークだったんですか?それでは母親は、大地母神・ユグラテティシア」
ユグラテティシアは、現在の大地の王の先代だった。そして、彼女はもういない。
「よく知ってるじゃぁねぇか。親父が昼間の精霊なんか娶らなけりゃ、こんなことにゃならなかったんだ。二人で破壊と再生って言われてもなぁ。どっちも、破壊だってぇの」
インファにとっては途方もない昔に生きていた精霊の話であるのに、その名を知っているとはさすがだなと、ケルゥは思った。
イシュラースの汚点のような出来事の末、この城でガルビークは眠っている。その物語をインファが知らないのは、ケルゥにとってせめてもの救いだった。互いを必要とし、助け合って生きている風の城の皆と、ケルゥの散り散りになった家族とでは、語るのも惨めだった。ケルゥの家族の話を知ったとしても、何も変わらないだろう風の城のことを思うと、余計に辛い。
「それは、誰が言ったんですか?」
「ああん?どっちも破壊だ」
「そうではなく、破壊と再生だと言ったのは、誰ですか?」
「母親だ。そんなこと聞いて、なんなんだぁ?」
「異なる精霊だったなら、同時に存在しても普通のことだと思っただけです」
「再生の要素が、オレ様のどこにあんだよ?インも似たようなこと言いやがって、精霊が自分のことわからねぇはずがねぇだろうがぁ」
再生の要素を持つのが、セビリアでもいいはずなのに、ケルゥは自分にはないと言い切った。それほどセビリアはケルゥから見ても、再生の力とはほど遠かったのだろう。
「オレやインリーは、自分が何者なのかはっきりわかりません。オレ達は風の王の為にいると言われればそうなんですが、単独で、世界の何を担っているのかわからないんです。オレは、インと瓜二つです。父が一度でもオレをインと呼んでいたなら、オレはインの依り代なのだと思ったはずです。父は一度も間違えませんでしたけどね」
インファが父に、兄弟がもう増えないならと冗談を言ったとき、父は謎めいた答えを返してきた。
翼は一対しかない。と。
たぶん何とはなしに答えたのだろうが、それこそが存在理由のような気がした。きっと、生粋の精霊であるリティルは、当たり前のように理解しているのだろう。そして、息子と娘が理解していないことを気がついていないのだ。
風の王の両翼の化身である鳥達。死の翼・インスレイズと生の翼・インサーリーズ、それがインファとインリーなのだ。あとは、どちらが死を担い、どちらが生を担うのかという問題だけだった。
「純血二世は、世界に望まれて目覚める精霊とは、何かが違うのかもしれません。あなたはどちらだと思いますか?オレは、死の翼なのか生の翼なのか」
「そりゃぁおめぇ、生の翼だろう?」
ケルゥはどっちだと言われれば、当然そうだと言いたげに言い切った。その言葉は、インファにとって想定外だった。
「なぜですか?オレは王と共に命を奪う存在ですよ?迷う魂を狩るインスレイズと同じだと思いませんか?それでも、オレが生の翼なんですか?」
「リティルの受け売りだぜぇ?あいつが言ってたんだ。生きるって事は奪うことだってなぁ。対する死は自分を与えることなんだってよぉ。その理論でいったら、おめぇは生の翼ってことになるじゃぁねぇか?」
「……そうでしょうか」
納得できずに考え込むインファの姿が、ケルゥには意外に映った。ケルゥから見れば、インファは、悩むことなどないのではないかと錯覚するほど、物知りで自信に溢れていたからだ。
「雷帝様は悩みたいお年頃かぁ?そのまんま、雷の精霊だと思ってりゃいいじゃぁねぇか。父親から大気、母親から光で、雷だってなぁ。それだと、風の踊り子ってインリーは何の精霊なんだかなぁ。もうよぉ、リティルに聞いてみりゃぁいいじゃぁねぇか。あいつなら、知ってるんだろう?」
「あなたも、母親の言葉を信じなかったではないですか?」
「どうしたんだぁ?インと何かあったんかぁ?オレ様んとこと違って、おめぇらは仲いいじゃぁねぇか。リティルの事、信じてるんだろう?オレ様は、おめぇら家族が羨ましいぜぇ」
本当に、羨ましい。風の城にいた一ヶ月、ケルゥは庇護されていると感じた。目覚めた時からあの城にいたのなら、ケルゥは恐れられることなく、リティルやインファのように頼られる精霊となっていたのだろうか。別に頼られたいわけではないが、ここまで迷うことはなかっただろうと思う。今でも、インファが匙を投げずにいてくれたことが、信じられない。なぜ彼は、厳しく優しくそばにいてくれたのだろうか。
「ケルゥ、あなたもとっくに家族ですよ?」
家族――ほしいが得られないと思っていた言葉だった。
ケルゥよりも遙かに弱い精霊であるのに、インファの瞳に睨まれると、なぜか逆らえなかった。リティルに怪我させたように、何度かインファにも攻撃してしまったが、彼に攻撃が通ったことはなかった。
――オレを壊したいですか?では、その殺気隠してください。そこまであからさまでは、逃げてくださいと言っているようなものですよ?
インファにそう言われたとき、ケルゥは世界を遠ざけていたのは自分自身だったのだと、唐突に理解した。しかし、今更、どう歩み寄っていいのかわからなかった。そんなケルゥに、インファは近づいてきた。思わず後ずさってしまったケルゥに、インファは困ったように笑った。
――そんなに怖がらないでください。なるほど、父が引き受けたわけですね。放っておけませんよ。あなたのような、未熟者。何ですか?反論したいですか?でしたら、オレに攻撃、当ててみるんですね
インファの挑発とも取れる態度に、ケルゥは牙を剥いたが、直後、ゴムのような風の縄に縛られて床に転がされた。
――ケルゥ、足掻いてもらいますよ?そして探しましょうか。あなたの、本当の姿を
そう言ってインファは、冷たさを溶かすように温かく笑った。
「そういうことは、迷いなく言えるんだなぁ。ありがとうよ、兄貴」
本当の姿――見つけられたのかどうかはわからない。けれども、あのとき、リティルとインファに負けてよかったと思う自分がいた。
「……オレが兄ですか?あなたと比べたら、瞬きするほどの時しか生きていませんよ?」
「インリーとレイシは、オレ様より上なのか下なのかわかんねぇけどなぁ、おめぇは間違いなく兄貴だよ」
ケルゥは照れたように鼻を掻いた。
「リティルを父親とは思えねぇけど、シェラは母親だよなぁ。許されるなら、もっと一緒にいてぇなぁ。なあ兄ちゃん、あの女、どうやって捕まえたらいいかなぁ?」
ケルゥの視線の先に、リティルの言っていた黒いワンピースの少女がいた。あんな、人間にしか見えない娘の中に、ケルディアスの片割れがいる。
彼女と闘うわけにはいかない。もしも彼女がケルゥを攻撃するようなことになれば、殺してしまうか、最悪セビリアが甦るかもしれない。
「任せてください。こういうのは得意ですよ」
インファはやっと、いつもの自信ありげで冷静な顔に戻っていた。
「じゃあ、任せるぜぇ。兄ちゃん」
インファは、兄と呼ばれることを受け入れてくれたようだった。ここにいてくださいと断って、インファは軽く踏み切った。背に生える鷲の翼はリティルより大きくて力強かった。
カルシエーナは、城の中で迷っていた。ここがどこなのかまったくわからない。そして、自分がどうすればいいのかもわからないままだった。
リティル以外の出会う精霊達に、ことごとく拒絶され、そんなことは慣れているはずなのに哀しかった。
ケルゥの攻撃を、代わりに受けて苦しむリティルを見ていたら、彼と離れなければと強く思ってしまった。リティルは追ってくるだろうか。カルシエーナは、自分が追って来てほしいのか、追って来てほしくないのかそれすらもわからなくなっていた。
動かない空気の、死んでいるかのように静まりかえった城に、微かな風が吹いた。
カルシエーナは無意識に振り向いていた。
「!」
そして、リティルと同じ金色の翼を持つ男がこちらに迫ってきているのを見た。中身が違うようなことをリティルが言っていた気がするが、解決したのだろうか。
カルシエーナは、生まれて初めて恐怖を感じていた。
来るな!と心が叫び、インファに向けて槍のような鋭い髪を何本も伸ばしていた。
飛びながら槍を構えたインファは、器用に槍を回して髪を易々と切り裂き、カルシエーナに向かって金色の強風を放った。あまりの風に、カルシエーナは顔を庇って目を閉じるしかなかった。
「これ以上手を煩わせないでください。風の王の命により、あなたを拘束します」
顔を上げると、カルシエーナは金色の風で編まれた檻の中に捕らえられていた。美しい容姿の男は、リティルに似た温かな眼差しで敵意なく微笑んでいた。
「あなたは、リティルの血縁?」
「はい。息子のインファです。父を待つ間、あなたのことを聞かせてくれませんか?」
話せばこの男の瞳も、敵意に染まるのだろうか。黙っていると、彼の背後にケルゥがのっそりと立った。
「カルシー、兄ちゃんに話せよぉ。こいつは、悪いようにはしねぇよ」
兄?ということは、ケルゥもリティルの息子?カルシエーナは少々混乱しながら、インファにポツリポツリと、短い身の上を話し始めたのだった。
「なるほど、それは大変でしたね。父が気にかけるわけです。あなたがあなたでいるためには、乗っ取ろうとする意識と闘うしかありません。カルシエーナ、セビリアが目覚める兆候のようなものを感じましたか?」
「リティルと接すると、破壊の意志のようなものを感じた」
「オレに対してはどうですか?」
「……わからない」
「父限定といういうことは、またですか!父さん!」
もはやお決まりのパターンとかしている。しかし、今回は父に固執してくれてよかったかもしれないと、インファは前向きに捉えることにした。
「あなたは、父を壊したいんですか?」
「そんなことは!リティルは、初めて味方になってくれた人だ。壊したいわけがない」
「それを聞いて安心しました。オレも遠慮なく、力を振るえます。カルシエーナ、今からあなたを封印します。ケルゥ、父さんと一緒に風の城へ戻ってください。そして、剣狼の女王・フツノミタマに事情を話してください。力になってくれるはずです」
「兄ちゃん?おい、何する気なんだぁ?」
「時間稼ぎにしかなりませんが、このままではどうすることもできません。全身全霊で封印しますから、手を考えてきてください。カルシエーナ、いいですね?」
「わたしに、決定権はない。インファ、あなたを信じる」
「いい子ですね。では、ケルゥ、兄はしばらく離れますけど、くれぐれも取り乱して父さんの手を煩わせないでくださいね。言いつけが守れなかったら、お仕置きですよ?」
冗談を言いながら、微笑みを浮かべたインファの体が、金色の風となって消えていく。インファのいつもどおりの微笑みに、ケルゥはインファの強行を止めることはできなかった。インファやリティルの決定に、ケルゥには抗えるほどの策は出せないということもある。
インファの姿が消え風が離れると、トパーズ色の結晶がカルシエーナを内包して立っていた。これを見て、リティルは平静を保てるのだろうか。取り乱すリティルを、説得などできるのだろうかと、ケルゥは途方に暮れていた。
どれくらい時間が経ったのだろうか。インファの封印結晶の前で座り込んでいたケルゥは、背後に気配を感じて顔を上げた。
「インファ?」
「リティル……あ、あのよぉ……」
リティルは一目で、このトパーズ色の結晶がインファであることがわかったようだった。もっと取り乱すかと思っていた。しかし、リティルは苦笑するだけで、大きな感情の変化はなかった。まるで、想定の範囲内だと言わんばかりだった。
リティルは結晶体に触れた。
「カルシーを一人にするなって言ったけどな、べったりくっつけとは言ってねーよ。ハハ、わかったわかった、小言はおまえが戻ってからな。ああ、わかってる、父さんに任せとけ。インファ、しばらく頼んだぜ。あと、絶対に無理するなよ?あとは、まあ、いつも通りな」
リティルは結晶体と会話するように独り言を言うと、そっと離れた。
「インファちゃん、大丈夫なの?」
「ああ、心配いらねーよ。むしろ、こっちのほうが大変だぜ?スワロメイラ、手伝ってくれねーか?」
「仕方ないから、手伝ってあげるわよ。クスリも作らなきゃだし。お城に戻るの?」
「ああ、とりあえずな。ケルゥ、しょげてる場合かよ!インファは大丈夫だ。ほら、行くぜ!」
ポンッと頭を叩かれて、ケルゥはのっそり起き上がった。ケルゥは自分の方が遥かに長く生きているというのに、風の親子に何一つ勝てないなと思った。
結晶体から十分距離を取ると、スワロメイラはセクルースへの扉を開いた。セクルースとルキルースは隣り合う世界だ。ルキルースに住む精霊は、自由にセクルースへの扉を開くことができるのだった。
風の城を知らないスワロメイラの代わりに、ケルゥが座標を示し、一行は風の城に帰ってきた。
風の城の応接間に入ったリティルは、ソファーで寝ているシェラを見つけた。
「シェラ?」
こんなところで無防備に寝ている姿を初めて見たリティルは、驚いて駆け寄った。破壊の毒の苦痛の影響かもしれないと、頭をよぎったのだ。
「シェラ?シェラ!」
リティルは横向きに眠るシェラの肩を掴んで揺さぶった。
「ん……リティル……?」
シェラがまだ夢の中のような瞳で、ぼんやりとこちらを見た。目を開いたシェラにホッとしたリティルは、伸ばされた手に頭を捕らえられるのを避けられなかった。シェラはリティルの頭を引き寄せて、そっとキスをした。そして、すぐに力を失って寝息を立て始めた。その顔は幸せそうに微笑んでいた。
唇を奪われたリティルは、その場にヘナヘナと座り込んだ。シェラと、数え切れないほど口づけを交わしてきたというのに、その顔は真っ赤だった。
「な、なんだよ……寝ぼけて……」
「やーん、何々?不意打ちのキスはやっぱり照れちゃう?キャハ!美味しいわあ」
ばっちり見ていたスワロメイラが、色めき立って大喜びしている。
「そうだった……おまえいたんだった……」
リティルは不覚を取ったとばかりに、ガクリと片手で額を覆った。
『おお、主、お早いお帰りじゃな。おや?インファはどうしたのかえ?一緒ではなかったのかえ?』
燃える暖炉のそばに寝そべっていた白い大狼が、顔を上げてリティルを見ていた。リティルと契約を結ぶ精霊獣、剣狼の女王であるフツノミタマだった。彼女は普段、風の領域にある剣狼の谷にいるが、風の城に異変があるとすぐに駆けつけてくれる。今回は、シェラの異変を察知してきてくれていたようだ。一度態勢を整えたくて、城へ戻ってきたが正解だったようだ。
「インファはセビリアを封印中だよ。フツ、融合の秘術で、融合した精霊の意識を分離する方法、知らねーか?」
フツノミタマは、シェラの前に膝を折っているリティルに近寄ってきた。
『融合の秘術とな?ヌシを生み出したあれじゃな。ヌシとインのように、融合した精霊が目覚めてそばにおるのなら可能じゃよ?ただし、精霊の抵抗に抗えるだけの、精神力が必要じゃがな』
主とインのような関係は、稀じゃとフツノミタマは言った。
融合の秘術がどういうものか、今のリティルは知っていた。リティルは、インがどうしてその秘術で自分を癒やさなかったのか、疑問に思わないでもなかった。しかし、インはリティルを育て、消滅する道を選んだ。この体を支配するのがインだったなら、闇の王など敵ではなかったと思う。リティルでは心中するしかない相手でも、インなら、秘術で超回復能力を手に入れたインなら、難なく討伐できたと思う。それなのに、最後までリティルの存在を守る為に尽力し、そして逝ってしまった。この心を、息子と呼びながら。
「精神力か、うーん、それはオレにはどうしようもねーな。それで?どうやるんだ?」
『うむ。インファが居ぬ今、これはヌシよりシェラの方が適任じゃと思うがのう』
リティルはグッスリ眠っているシェラをチラリと見た。
「魔法はインファの方が上手いからな。けど、シェラを連れていくのはなあ……」
『頑なじゃからのう。説得は難しかろうのう。しかし、その後の方が問題じゃぞ?分離したセビリアを滅しなければ、また誰かが犠牲となろう』
「まあ、それはオレがやるさ。ケルゥは……あの通り不抜けちまってるしな。シェラ……大丈夫だったか?ケルゥの爪が掠っちまって、破壊の毒にやられたんだ。シェラにも、苦痛がいってただろ?」
『痛みには慣れておらぬが、精神力は無駄にあるからのう。ヌシが閉じるまで、本当に頑張っておった。その後はずっと眠っておるわ。主、すぐに発つのかのう?』
「シェラが起きるまでいてやりてーけど、インファが心配だしな。これからドゥガリーヤに行かねーといけねーんだ」
『ドゥガリーヤ?ならばなおさら、シェラを待たぬか?きちんと挨拶ぐらいして行かぬか!どれだけシェラが、健気に支えておったと思うておるのじゃ!』
それは知っている。レジナリネイが実況してくれたからだ。フツノミタマにそう叱られて、リティルは口を噤むしかなかった。しかし、インファがセビリアのそばにいる。急がなければ、インファの身に危険が――
「リティル、あなたも寝てきなさい。ルキルースにいて気がついてないでしょうけど、何日も寝てないのよ?ほーら、あなたはだんだん眠くなる~」
スワロメイラが、リティルの目の前で、指をゆっくりくるくる回した。何をバカなことをと訝しんでいたリティルは、直後強烈な睡魔を感じた。
「ほうら見なさい。さあさ、お姫様連れて早く行った行った!」
スワロメイラは眠気に襲われているリティルに、フフンと得意げな笑みを浮かべて急き立てた。
「フツ……」
閉じそうになる目を開き、リティルはフツノミタマに視線を合わせた。
『インリーもおるのじゃ。客人は滞りなく持て成そうぞ?案ずるな。城のことは我らに任せよ』
素直に頷いたリティルは、シェラを抱き上げて部屋を後にした。
リティルを見送って、フツノミタマはニッコリ微笑むスワロメイラに視線を合わせた。宝石の精霊が何の目的でリティルと連んでいるのかと、疑わしげな瞳を向ける。
宝石の精霊は、幻惑の暗殺者と呼ばれ、不吉な噂のつきまとう精霊達だ。
「剣狼の女王様が、どういう風の吹き回しよ?大義、理想、正義ってもの、嫌いなんじゃなかったっけぇ?」
フツノミタマに金色の風が集まった。その風が解れる頃、背の高い、灰色の狼の耳と尾を持つ、荒々しい雰囲気の女性が立っていた。顔にかかっていた灰色の長い髪を、人のそれよりも獣に近い鋭い爪の生えた手で、おもむろに掻き上げながら、フツノミタマは赤い瞳でスワロメイラを睨んだ。
「そんなもの、リティルはわらわに掲げておらぬ。主は、ただシェラを守るためだけにわらわを欲した。ゆえに、契約しておるのじゃ。ラピスラズリ、ヌシこそ何故リティルと共におるのじゃ?」
「へえ、お姫様のためかぁ。格好いいわねぇリティルは。勘違いしないで、フツノミタマ。ウチは純粋にリティルが好きなだけよ。利用しようとか、引っかき回そうとか、そういうんじゃないから。ルキルースにいるときくらい、力になってあげようと思ってたけど、ドゥガリーヤまで行くことになるなんてねぇ」
ため息交じりに苦笑するスワロメイラを観察しながら、フツノミタマは嘘はなさそうだと判断した。もっとも、今イシュラースに目立った動きはない。彼女達が仕えていたガルビークは、未だ夢の中だ。フツノミタマは最後の警戒心だけは残し、表面上警戒は解いた。
「破滅のセビリアとドゥガリーヤと、何の関係があるのじゃ?」
「セビリアのこと知ってるのぉ?リティルが毒に当たりたくないっていうから、解毒剤を作りに行くのよ。お姫様は状態異常の回復はできないんでしょう?」
「シェラにあるのは、無限の癒しだけじゃからのう。状態異常……ナシャか」
「伊達に生きてないわね、女王。話が通じて嬉しいわぁ。ねえ、この城にケルゥを何とかできる人、誰かいない?」
スワロメイラは、足下に座り込んで動かないケルゥをチラリと見た。
「魔犬はどうしたのじゃ?いつにも増して、しおらしいのう」
フツノミタマは、リティルがケルゥを引き受けてすぐ、風の城に駆けつけた。そしてリティルを問い詰めた。こんな手に余る相手を引き受けて、何を考えているのかと。
リティルはただ、ケルゥがインの親友だと言ったからと答えた。イン絡みかと、フツノミタマは諦めるしかなかった。リティルがインの影に囚われながら、必死に風の王を全うしようとしていることを、痛いほどわかっていたからだ。それからフツノミタマは、谷にいる剣狼達を総動員して、魔物討伐をサポートした。ケルゥが来て二週間ほどは、本当に気が気ではなかった。よくインファも文句も言わず付き合うなと、呆れたくらいだった。
「いつも、しおらしいの?ルキルースの狂犬が?風の城、すっごいわね。インファちゃんが封印結晶になったのが、相当堪えちゃったみたいでねぇ。リティルはもの凄く普通だったけど、こんな戦い方いつもしてるの?」
「インファがそこまでするのは稀じゃが、近いことはあるかのう。あやつは自分の立ち位置を、十二分に理解しておるからのう」
不意に城の奥へ続く扉が開き、ワゴンにお茶の用意をしたインリーが入ってきた。
「ごめんなさい、お待たせしちゃって。わたしはインリーです。風の踊り子やってます」
「おお、インリー待っておったぞよ」
インリーはテキパキと、立ったままのスワロメイラにソファーを勧め、お茶の用意を調えた。
「あなたがインリーちゃん?お父さんから話を聞いてたのよぉ。カワユイわねぇ」
「ありがとう!あの、お兄ちゃん……兄は?」
インリーは満面の笑みで、可愛いと言われたことを素直に喜び、そしてインファの事を控えめに切りだした。
「怖い精霊を封印中なの。リティルが大丈夫っていうから、大丈夫なんでしょうけど、心配よね?ごめんなさいねぇ。お姉さん、あなたを安心させてあげられないわ」
容姿的には、インリーより年下に見えるスワロメイラは、冗談めかしてそう言った。
インリーは慌てて手を首を横に振った。
「いいえ!そんなつもりじゃないの。兄も結構無茶するから……。あの、ケルゥはどうしたんですか?」
インリーも存在感のある黒い固まりに気がついて、スワロメイラに尋ねた。
「お兄ちゃんのことで、自己嫌悪してるんじゃないかしらぁ?インリーちゃん、何とかなるかしら?」
インリーは自信なさげだったが、それでもソファーを立つとうずくまっている大男に近づいた。
「ケルゥ?大丈夫?」
インリーがそっと肩に触れると、ケルゥは彼女の華奢で白い腕を掴んだ。
「インリー、おめぇの兄貴、なんであんなに思いっきりがいいんだぁ?会って数分の奴を、なんであんなに信用できるんだぁ?」
インリーはケルゥの硬い髪の毛をそっと撫でた。
「お兄ちゃんはお父さんの副官だもの。お父さんが信じるなら信じるんだよ?ねえ、ケルゥ、ケルゥはこれからどうしたいの?ここで待ってる?戦えないならそれでもいいんだよ?」
「リティルと行ってくる。兄ちゃん……インファを放っておけねぇ」
インリーはケルゥがインファを兄と呼ぶのを聞き逃さず、少し驚いたもののすぐに微笑んだ。どうやらインリーは、ケルゥがインファを兄と呼びたいことを、知っていたようだ。
「ケルゥ、お兄ちゃんをそうやって呼べたんだね。頑張ったね。お兄ちゃん、冷静に見えるけど中身お父さんと一緒だから、一緒にお仕事行くとすごく疲れると思うの。本当に、頑張ったね」
「兄ちゃん、リティルのブレーキじゃねぇのかよぉ!」
ケルゥは話が違うと言いたげに、顔を上げた。そんなケルゥに、インリーは困ったように首を傾げて微笑んだ。
「知らなかったの?あの二人が揃うと、金色の天変地異っていう名前で呼ばれるんだよ?」
「風一家、半端ねぇ。台風に天変地異かぁ。オレ様より大惨事じゃぁねぇか」
ケルゥはどこまでいっても、破壊の精霊破壊の精霊と言われて、異名などつかなかった。それほど風は、皆から一目置かれているのだろう。しかし、そんなぞんざいな異名で呼ばれているというのに、リティルは精霊達から好かれていた。あの笑顔かーと、ケルゥは思わざるを得なかった。
「ちなみに、インファちゃん単体だと何かついてるの?」
「お兄ちゃん単体だと?麗しの風……かな?」
「単体だと見かけ通りに大人しいのねえ、あの子」
「大人しくないよ!みんな、お兄ちゃんの甘い微笑みで、丸め込まれてるだけなんだから!似たもの親子なの、お兄ちゃんとお父さんは」
「聞けば聞くほど、恐ろしいわねぇ。風一家。お母さんはどんな人?」
「お母さん?とっても優しいけど、怒ると怖いの。お父さんをいつも心配してて、なんだか可哀相……。わたしも、お父さんとお仕事いけないけど、理由が違うもの」
「理由が違うの?」
「うん。お母さんは十分、お父さんの隣にいられる。けど、お父さんが嫌がるの。わたしはまだ未熟だから。スワロメイラはお父さんの気持ち、わかるの?」
「そうねえ、格好つけたいのよぉ、リティルは」
スワロメイラはニヤニヤと楽しそうに笑った。
恰好がつけられるだけの力があるリティルだから、それができるのだとケルゥは思った。そして、そんな父の隣にいるだけの力のあるインファも同じだ。
インファは、風はそんなに強くないと言った。その通りなのだ。
なのに、過酷な運命を課せられている。十四代目で代替わりに終止符が打たれるのではと、精霊達は囁きあった。インの力を恐れながら、皆インに期待していたのだ。
風の王より命を賜り、魂を導く二羽の鳥。彼等は風の王が不在でも力を行使できる。初代がそのように創り出し、輪廻の輪を途切れさせないように守らせている。
風の王がいなくても、風の王の両翼がいれば世界は滞りなく続いていける。なのに、初代の犯した罪を背負い風の王は生まれ続ける。
人に心がある限り、魔物が生まれ世界を壊す。風の王の死闘は止まらない。
シェラは二度の寝返りの後、目を覚ました。
そして、隣にリティルがいることに気がついて、声を上げそうなほど驚いた。叫びを上げないように口を手で覆い、ぐっすり眠る夫の横顔を凝視していた。髪も解かずに寝てしまうなんて、よほど眠かったのだなと思いながら、シェラはそっとリボンを解いた。
インリーが羨ましがる、金糸のような髪。インファの髪も父親譲りで、とても綺麗だ。
疲れているのね。シェラは触れずに寝顔を観察しながら、そう思った。
──心に 風を 魂に 歌を 君といられるなら 怖いモノなど 何もない──
シェラは風の奏でる歌を口ずさんでいた。子守歌のように優しく。
──君が守ると言ってくれるから わたしは隣で生きよう──
シェラは口を噤んだ。眠っていると思っていたリティルが、歌を口ずさんだからだ。瞳を開き、リティルはシェラを見た。続きを歌うリティルは笑って、シェラに歌えと促した。
──心に 風を 魂に 歌を 不可能じゃない 繋いだ手を 放さずにいこう──
二人の声が重なる。リティルは普段歌わない。王の歌声はシェラでさえあまり聞けない、貴重な歌だった。
リティルの腕がシェラを包んでいた。
「またすぐに、行かないといけねーんだ」
「そう、なら、これは夢ね」
シェラの諦めたようなつぶやきに、リティルは苦笑した。
「シェラ、君を絶対に守るから、一緒に行かねーか?」
「どうしたの?何かあったの?」
「インファが封印結晶を使ったんだ。そんなこんなでインファが動けねーから、君の力を借りてーんだ」
「ますますわからないわ。結晶を解くだけなら、あなたにもできるでしょう?足手纏いになることがわかっているのだから、行けないわ」
「普段の君はこうなんだよな。絶対についてこねーんだよな。融合の秘術で融合した精霊の意識を、体から追い出してほしいんだよ。フツが君が適任だっていうんだよ」
「融合の秘術?インがあなたを造った、あの魔法?インはもう、いないでしょう?」
「オレにかけるんじゃねーんだ。カルシエーナっていう女の子だ」
リティルはシェラから手を放すと、詳しく話した。
「インが消滅する、切っ掛けを作った精霊……」
シェラは怯えたように両手をギュッと握った。その手に、リティルは手を重ねた。
「一緒にいてくれねーか?インを殺した精霊とやるのは、流石に怖いんだよ」
「……嘘つき。あなたはそんなもの恐れないわ。何を隠しているの?」
「ホントだぜ?君に、守ってほしいだけなんだ」
「そうやって、いつもはぐらかすのね。リティル、わたしはいつまで待てばいいの?いつまで待てば、教えてくれるの?もう、待っているだけは嫌だわ!」
シェラはリティルの唇をそっと拒んで、怨めしげに睨んだ。
リティルはハアと息を吐き、ベッドに仰向けに身を横たえてこちらを見上げているシェラを見下ろした。
リティルは帰ったらシェラに話そうと思っていた。だが、弱さを晒すことに躊躇した。しかし、今日のシェラは許してくれそうになかった。
「わかったよ、シェラ。でも……嫌いにならないでくれよ?」
「なぜ、そう思うの?どうかしているわ、リティル。まだ、わたしの言葉が足りないの?」
リティルは首を横に振った。けれども、なかなか話し始めない。シェラは流れる沈黙の中、リティルの顔をずっと見つめていた。
「……インに、会ったんだ。インファが、会わせてくれた。やっと、別れが言えた。また、たくさんオレに残してくれた……これでもう、二度と、会えない……別れを言ったのに……オレはまだ、あいつに会いたいんだ……!どうすればいいんだ?気持ちが消えねーんだ!オレは風の王なのに、あいつの手を掴みたかった!逝くなって、ホントは言いたかったんだ!でも、言えなかった……インを――選べなかった!」
シェラはずっと待っていた。リティルが胸の内を語ってくれることを。
夫の頬を伝う、透明な雫。やっと晒してくれた、弱さだと勘違いしているモノ。
涙は弱さではない。痛みや苦しみを洗い流してくれるものだ。心を正常に戻してくれる。涙はクスリだ。リティルは強い。強くとも、いつも笑ったままではいられない。
泣いてもいいのだということを、シェラは気がついてほしかった。
風の王であり、父であることに拘るあまり、リティルは涙を恥だと思い込んでしまった。その頑なな心を、シェラは今まで解き放つことができなかった。
「シェラ……!君は無限の癒やしだろ?オレの哀しみを癒してくれよ。オレの心を、守って──くれよ……!」
シェラはリティルの頭を胸に押し抱いた。
シェラは、リティルがインを捜していることを知っていた。
インが別れを言えないまま別れるしかなかったことを、理解している。インも本当は逝きたくなかったことも、最後の瞬間に見た、無表情だった彼の瞳に宿った優しさと涙が証明していた。インの最後の姿を、シェラはリティルに言えなかった。魂を葬送する役目を担う風の王が、二人とも未練で引き合ってしまったら何が起こるのか、シェラには怖かった。インは、リティルの知っている潔さで去ったのだと信じさせていた方が、リティルを守れるような気がした。
亡くす哀しみを、シェラも知っている。母を失った哀しみを、当時子供だったシェラもどうにか折り合いをつけて乗り越えた。そうやって、皆乗り越える。
だが、リティルは乗り越えるには、多くを失いすぎていたのかもしれない。
ルキルースへ仕事でもないのに足を運ぶリティルを、ずっと心配していた。
リティルがルキルースへ度々行っていることを教えてくれたのは、夢でアクセスしてきたカコルとニココだった。リティルが惚気るから、気になって会いに来たと言われ、とても驚いた。カコルとニココが会いに来たことを伝えると、リティルはバツが悪そうな顔で笑った。たぶん、リティルはルキルースへ行っていることを、隠しておきたかったのだろうと察した。何の為に?と思ったが、シェラはリティルが隠していた事実に、怖くて理由を聞けなかった。
ルキルースは夢の世界。あの国では、強い想いが具現化する。リティルのインに対する想いが、もしも具現化してしまったら……。シェラの憂いは、リティルがそこまで愚かではなかったために徒労に終わったが、その代わりにインファを連れ歩くことが多くなった。
無意識か自覚があったのか、自身の精神が危ういバランスにあることを感じていたのだろう。本来ならば、その位置にはシェラがいなければならない場所だった。しかし、いつしかリティルはシェラを風の使命から遠ざけるようになってしまった。それは、シェラが母親になったからという理由が大きかった。そしてシェラも、そばにいられない理由ができてしまっていた。
インに容姿が瓜二つのインファ。けれどもシェラも、インファをインと見間違えることはなかった。不思議なほど、インファはインに似ていないのだ。
インに似ていないインファが、リティルの心を守っていた。
リティルが心をさらけ出してくれなければ、シェラにはどうすることもできない。
やっと泣いてくれたリティルを抱きしめながら、インの偉大さを感じずにはいられなかった。またインはリティルを守ってくれたのだ。
「ええ。わたしが癒すわ。だから、聞かせて?あなたの哀しみ、苦しみのすべてを」
「シェラ、それを聞いて幻滅するなよ?」
「しないわ。何年一緒にいると思っているの?悔しいわ。あなたの心をこじ開けることができたのは、やっぱりインなのね」
「うーん、インには色々説教されたけどな、あいつに言われたからっていうより、インファ?あいつ、オレのせいで何か困ってたらしいんだよな。シェラ、何かしらねーか?」
「何も聞いていないわ。みんな、わたしには隠すから……」
「へ?そ、そんなことねーよ。オレはほら、強がりすぎて今更、なあ?」
「どれだけ強がっていたの?どれだけ一人で泣いていたの?わたしの気も知らないで。リティルなんて、もうしらないわ!」
シェラはドンッとリティルを突き飛ばすと、布団を被って背を向けてしまった。
「拗ねるなよ!ごめん。これからはもっと、頼るようにするから!そういえば、もう大丈夫なのか?フツが、ずっと寝てるって……」
「あんな痛み、大したことないわ!どんなに苦しくてもいいの!わたしには、無限の癒やししかないのよ?それをあなたに頼ってもらえなかったらわたしはなぜここにいるの?あなたの支えにもなれないで、ここにいる価値なんてないわ!」
「ああああ、ごめんって!支えてくれてるさ。価値がないなんていうなよ。シェラ、何年オレと一緒にいるんだよ?オレが素直じゃねーのは、今に始まった事じゃねーだろ?」
シェラはやっと布団から顔を出した。その顔はまだ怒っていた。
「格好つけてばかり!わたしには、癒す機会すら与えてくれないで、ずっと怖かったわ。あなたの心がわたしから離れてしまいそうで……」
「シェラ、ありえねーよ。オレが君を裏切るなんて、あるわけねーだろ?」
「どこで泣いていたの?」
「へ?」
「誰の、ところで泣いていたの?」
シェラの瞳が怖い。答え次第では、息の根を止められそうだ。
「誰って……?誰もいなかったぜ?」
浮気か?オレ、浮気を疑われてるのか?と、リティルは驚愕だった。シェラの探るような瞳が突き刺さる。
なぜそんなことを疑われたのかと思いながら、そりゃそうだと合点がいった。ルキルースに仕事でもないのに行っていたことを、シェラに言いづらくて言えなかった。それを、カコルとニココにバラされ、シェラは問いただしてこなかったが、きっと問いたかっただろう。シェラに知られてしまった後も、リティルは、インの影を追ってしまっていることを言えず、うやむやのままここまで来てしまった。シェラの信頼を裏切ったのだ、疑われてもしかたがない。
「……そう?」
「ホントだって!そんな奴がいたら、こんなに拗れてねーよ……。シェラ、オレは君から奪うだけだ。奪ってばかりで、何も返せない。だからせめて、君の前では笑ってたかったんだ。ごめんな。君には全部見透かされてたんだな」
ルキルースの闇は、一人泣くにはいい場所だった。スワロメイラには、見られてしまったが……けれども、一度だけだ。見られたのは、一度だけだ。と思わず心の中で反芻してしまった。
「今更よ……。それに、あなたはたくさん与えてくれているわ。奪うだけでは決してないのよ?わたしはこんなに幸せなのに……リティル、どうすれば伝わるの?」
ずっと不安だったはずなのに、シェラは変わらず優しい言葉をくれた。皆が、この命を惜しいと思ってくれていることを、十分感じている。だからこそ、リティルは風の王を全うしなければと誓っていた。気負いすぎて、インファやシェラに心配をかけてしまった。
「伝わってるさ。君がオレを愛してくれてること、わかってる。オレの気持ちが、君に敵わないこともな。だからせめて、君に、頼られてたかったんだ」
「みんな、あなたの笑顔に救われているわ。これ以上どう頼ったらいいの?わたしの力は、求めてもらわなければ渡すことができないわ。だからお願い、わたしを求めて。苦手なことはわかっているの。それでもお願い」
リティルは迫ると退いてしまう。それを知っているシェラは、強く問いただすことができなかった。忙しく飛び回るリティルがそばにいることは少なく、時を重ねて臆病になっていたシェラは、リティルの心を掴んでこじ開ける事ができなかった。
「ねえリティル、素直に答えて。これからもずっと、わたしと一緒にいてくれる?繋いだ手を放さずにいてくれる?」
シェラが手を差し出した。
リティルはその手を取った。躊躇いなく当然に。
「当たり前だろ?不可能なんかじゃねーよ、オレは無茶苦茶な風の王だからな。精霊史上、最後の風の王になってやるぜ」
シェラは嬉しそうに微笑んで、頷いた。
そうだ、生き抜いてやる。殺しても死なない無敵の風の王、そう言われ続ける王になる。
命をくれたインに報いるために、この命を愛してくれるシェラの、家族の為に、そして、何より自分のために。
インファに封印をかけられて、強制的に眠りに落ちたカルシエーナは夢を見ていた。
夢は記憶の集合体。インファは目の前に映し出されている光景を、遠慮なく見つめていた。
彼女の記憶はいつも同じ風景だった。丸い石造りの部屋と、窓から見える景色がカルシエーナのすべてだった。
──あなたは、この争いを終わらせることのできる者です。
繰り返される言葉と、恐怖する四つの瞳。こんな毎日だったというのに、彼女の心は育っている方だなとインファは思った。
父と同じ方法で生まれた者。
インファは、リティルがどのようにして育ったのかを知らない。それでも確かにわかることがあった。
インはリティルを息子として愛し、手塩にかけて育てたということだ。二人のやり取りを見て思った。離れがたい、強い信頼と絆があった。インファには、父がインを選ばなかったことが不思議なくらいだった。
しかし、カルシエーナには何もない。こんな何もない状態で、果たして彼女は生きたいと思うのだろうか。
カルシエーナがリティルに感じている思いは、恋や愛ではない。捨てられた子猫が拾ってくれた者に懐くのに似ている。そんな生まれたての思いでは、初めから乗っ取ろうとしている意志には到底敵わない。
インファはカルシエーナの夢に触れた。
「仕方ありませんね。ケルゥ、あなたの一ヶ月間を借りますよ?」
夢は記憶を集め、あり得ない光景を作り出す。
「カルシエーナ、何をしているんですか?行きますよ?」
カルシエーナは、見慣れない城の中に立ち尽くしていた。そんなこちらの様子を訝しがりながら、先ほど出会ったばかりのインファが先を促す。
「どこへ?」
「特訓ですよ。今日こそ、卵を割らずに受けてください」
インファは何を言っているんだと言いたげに、困ったような顔をすると、幼い子供に与えるような優しい笑みを浮かべてガラスの扉を開いた。途端に、まばゆい光が包んでカルシエーナは目を細めた。
目を開けてみるとそこは、光と緑に溢れた中庭だった。ずっと奥には温室があるようだ。
「カルシー!早く早く!」
満面の笑みでこちらに手を振ってくる、長い三つ編みの少女はインリーだ。インリー?カルシエーナは、わたしは彼女を知っているだろうか?と、疑問を感じた。しかし、すぐにそれも消えていく。
「お嬢ちゃん、やっと来やがったかぁ!オレ様、負けねぇからなぁ」
競争心剥き出しのケルゥがのっそり現れて、暑苦しく絡んでくる。
「まあまあ、ケルゥはオレ達と張り合ってよ。カルシーはまだ日が浅いんだからさ」
茶色い短い髪の物腰の柔らかな青年は、レイシだ。猛犬を恐れもしないで、その大きな背を押して、中庭の広い芝生の中程まで先に行ってしまう。
「さてインリー、今日の昼食夕食のメニューはどうしますか?」
「うーんと、お昼はオムライスかな?中に卵ピラフ入れてー、コンソメ味の溶き卵スープ?おやつは卵たっぷりパンケーキ!夜は、特大オムレツとカルボナーラスパゲッティ卵多め!」
「うんざりですね。では、今日も卵地獄にならないように頑張ってください!」
「「「イエッサー!」」」
カルシエーナを除く三人は、インファの言葉に声を揃えた。
インファは大量の卵の入った籠の前に立ち。皆は彼から二、三メートル離れたところに大きな寸胴の鍋を囲んで立った。
「インリー!」
インファは大きく弧を描くように卵を投げた。名を呼ばれたインリーが取りに走るが、受けた卵は彼女の手の中で割れて、中身が飛び散った。
「あーん、べたべたー!お兄ちゃん、もう一回お手本見せてー!」
割れた卵を寸胴の中に入れながら、インリーは兄に叫んだ。
「なんだインファ、コツ教えてやってねーのかよ?」
「自分で考えることも大切ですよ?」
インファのそばにリティルがいつの間にか立っていた。リティルに促され、インファが兄弟達の方へふわりと飛んできた。
「いつでもどうぞ、父さん」
どうやら手本を見せてくれるらしい。妹達は目を輝かせて見守っていた。が、リティルの方を見たレイシが、あっと小さな声を上げて青ざめた。見れば、なるほど、リティルも簡単にはコツとやらを見せる気はないらしいことが、カルシエーナにはわかった。
「行くぞ!」
リティルは十個ほどの卵を風を使って浮かせると、インファに連続で投げつけた。弧を描くなどという生易しいものではない。剛速球だった。インファをそれらすべてを片手で一つずつ受け止めて、風を使って空中に置いていった。
「あれ全部受けるのかよ、さすがだなインファ。おーい!見えた奴いるかー?」
「無理でしょう?何、全力でやってくれてるんですか?これでは、オレが楽しいだけですよ!」
妹達はポカンとしていた。おそらくわかったことといえば、兄たちと自分達とのレベルの差だけだろう。
「あ、楽しかったのかよ?インファ、だったらちょっと付き合えよ。しばらく、兄貴を父さんに貸してくれよな?」
えーっと不満の声を上げながら、それでも妹達は父の言葉に従った。それはそれで、楽しげに。何をするのかとカルシエーナは二人の様子を窺っていた。その肩をポンッとレイシが叩く。
「カルシー、もう少し下がった方がいいよ。あの二人、遊びも全力だからさ」
そう言われて振り返ると、ケルゥとインリーは木の下に避難するように座り込んでいた。そこへレイシと小走りに合流する。遮る物のない中庭に、降り注ぐ太陽の温もりが、梢に遮られ優しい木漏れ日となって落ちていた。
槍を構えたインファと、両手にショートソードを抜いたリティルが闘い始めていた。笑い声でも聞こえそうなほど、楽しそうなのが見てわかる。
インファの槍を大きく後ろに飛んで避けたリティルの周りに、パリパリと音を立てて白い閃光が生まれた。電撃が迸る瞬間に攻撃範囲外へ、リティルは一気に飛び抜ける。
「逃がしませんよ!今日こそ、捉えますからね!」
地上で叫んだインファは、空中のリティルに向かい次々に雷を生み出していく。追尾してくる白い雷を、リティルはギリギリを見切って躱す。
「ハハ!やってみろよ、その前に勝負決めてやるぜ!」
空中でリティルは、インファに向けて切っ先を突きつけた。風の玉が弾丸となって襲う中、インファはやっと翼を広げ、空中のリティルに槍を突きつけた。
中庭が壊れないかと思われるほどの轟音で、風と雷は鬩ぎ合った。
「楽しそうね」
つぶやくような声だったというのに、遠慮なくぶつかり合っていた親子はハッと動きを止めた。リティルの刃を槍の柄で受けて切り結んでいた二人は、同時に地上を見下ろした。
そこには、笑うシェラがいた。周りに風の玉や雷の閃光が入り乱れているというのに、シェラは動じることなく戦場のただ中で微笑んでいた。
「ごめんなさい。リティルにお客様よ」
「なんだよ、間の悪い客だな。インファ、決着はまた今度な」
「はい」
リティルが剣を収めると、あれだけ荒々しかった風が優しくなり、金色の羽根となり舞い散った。その羽根に合わせるように、雷は白い小鳥達となり飛び立った。リティルとインファは自分達の魔法に手を加えて、無害なものに変えたのだ。兄妹達が喜ぶ姿を尻目に、リティルは応接間に戻っていった。
インファも槍を収めると、地上に舞い降りてそんな父の背中に一礼した。地上に帰ってきたインファに、カルシエーナは蹌踉めきながら近づいていた。
「悔しいですね……あの人、汗一つかかないんですよ。今回もオレの負けですね」
インファは詰め襟のホックを外すと、暑いといわんばかりにパタパタと手で扇いだ。そんなインファに、シェラは持っていたタオルを渡してやる。
「なぜ、あれだけの力でぶつかり合って、殺し合いにならない?」
「それは、それだけ父とオレとの間に差があるということですよ。オレはいつでも、父を槍で貫く気でやってますから」
インファはケロッとした顔で、物騒なことを言った。
「あら、リティルもかなり本気よ?カルシエーナそれはね、二人がお互いのことを認めて想い合っているからよ。大好きな人を、傷付けたり、殺したりしたいと思わないでしょう?」
カルシエーナは優しい眼差しのシェラから、視線を外して俯いた。
「わからない……」
「おーい!インファ、続きやろうぜぇ!」
ケルゥの声がして、インファは彼に応えると行ってしまった。
残されたカルシエーナの手を、シェラはそっと取った。
「無理にわかろうとしなくていいの。この城には、あなたに壊されてしまうような弱い人はいないわ。もっと自由に振る舞っていいのよ?」
「自由に……?」
カルシエーナは聞き慣れない言葉に困惑していた。それを見てとったシェラは、そっと手を引いた。
「大変!お客様にお茶を淹れなければならないわ。カルシエーナ、手伝ってくれる?」
「は、はい……」
カルシエーナはシェラに促されるまま、中庭を後にした。
気がつくと、カルシエーナは一人暗い廊下に立っていた。
ここは?確か、シェラと応接間に引き返したはずなのに。
誰かが言い争っている声がする。カルシエーナのよく知る荒い声だった。しかし、知っている、相手を攻撃するような酷い言葉は聞こえない。むしろ、お互いを気遣うように優しいように感じた。
「ケルゥ、諦めるなよ!ここで逃げたら、二度とオレ達とは一緒にいられねーんだぜ?それでいいのかよ!」
「もういい!オレ様は所詮、壊すしか能のねぇ猛犬だぁ!」
うずくまるケルゥの肩を掴んで、叱責しているのはリティルだった。ケルゥはそんなリティルを勢いよく手で払っていた。跳ね上げられたリティルの腕が、あり得ない方へ曲がる。
「っ……!」
骨を砕かれてダラリと力を失った右腕を押さえて、リティルが小さく呻いた。それを聞いて、弾かれたように顔を上げたケルゥは、自分がやったことだというのに泣きそうな顔で、言葉なくリティルを見ていた。
「はは、なんだよ?怪我させたおまえのほうが痛そうにしやがって。ケルゥ、おまえは破壊の精霊だ。そこからは逃れられねーんだよ。風だって結構乱暴者なんだぜ?風の本質は風化なんだからな。オレ達が触れるモノすべてを風化させねーのは、させねーように触る術を、当たり前のように身に付けてるからだ。ただそれだけのことなんだぜ?」
ケルゥは自分の体を抱いて、首を横に振った。まるで、オレはおまえ達とは違うと言いたげに。リティルは困ったように微笑み、折られた右腕に意識を集中する。超回復能力を総動員して傷を癒していく。
「ルキルースは壊れてもすぐに再生するからな、その環境がおまえをこんな風にしただけだ。おまえ、ここに居たいって、思ってくれてるんだろ?だったら、いられるように頑張れよ!インリーだって、目が覚めたときおまえがいなかったら、哀しむぜ?」
インリーを引き合いに出され、ケルゥはたまらず自分の大きな両手を見つめた。その手がガクガクと震えていた。
「リティル……インリーの脇腹に穴開けた感触、まだ残ってんだよぉ!あ、あ、あんなに血がぁ!血がぁあああ!」
大男の赤い瞳から涙が溢れていた。
ケルゥに攻撃されると思っていなかったのだろう。驚いたインリーの顔と、弾け飛ぶ赤い血。見慣れた赤が、ケルゥを硬直させた。もしもあの時、意識を失って倒れるインリーを抱き留めていたら、たぶん彼女は助からなかった。触れてはいけない!と、体を硬直させてケルゥはインリーを守ったのだ。
リティルは癒したばかりの右手で、ケルゥの肩に再び触れた。
「大丈夫だ。オレの娘は、それくらいで動じるほど柔じゃねーよ。なあ?インリー」
インリーの名を聞いて、ケルゥが弾かれたように顔を上げた。そこには、インファに横抱きに抱き上げられたインリーがいた。傷は癒してもらったようだが、貧血のためか顔色はいつにも増して白かった。
「イ、インリー……」
ケルゥは怯えたようにインリーから視線をそらしていた。
「よかった……」
ホッとしたような声が、ケルゥの上に降ってきた。視線を躊躇いがちに上げると、脇腹を押さえて、疲れたような顔で、微笑みを浮かべるインリーが見下ろしていた。
「ケルゥは優しいから、どこかに行っちゃうかと思った。居なくならないで。この怪我は、ケルゥがまだ上手く触れないのに油断した、わたしのせいだもん。ケルゥのせいじゃないよ?」
優しいと言われたケルゥは、威嚇するようにその顔を黒犬に変えた。
「オレ様の本質は破壊だ!もう、近づくんじゃねぇ!」
傷つけたくないと、思ったこともないのに思った。離れてほしかった。近くにいたら、いつか、いつか殺してしまうと、そう思って怖かった。
「ケルゥが破壊の精霊だって事知ってるよ?わたし、もっともっと防御魔法上手くなるから、遠慮なく触ってね!ちゃんと触れるようになるまで、わたしが触ってあげるよ?」
インリーは、覆い被さるケルゥの恐ろしい黒犬の顔を両手で包んだ。その真っ直ぐで恐れのない笑顔に、どうしていいのかわからなくなって、ケルゥはインリーの足下に崩れ落ちていた。その両手は震えて、大理石の床に深い爪痕が刻まれた。
「なんで……オレ様を恐れねぇんだ?」
「だって、怖くないもの。ケルゥは、体の大きな子犬なの。猛犬はちゃんと、躾けないとね。だからほら、ケルゥ泣かないで。驚かせて、ごめんね?」
インリーは触れられないケルゥの代わりに、その首に縋るように抱きついた。
「インリー……すまねぇ……痛かっただろう?」
「ウフフ、痛かった。思わず気を失っちゃうくらいには。でもね、大丈夫だよ?わたし、生きてるもの。ね?悪いことしたと思うなら、お兄ちゃんの特訓頑張って!」
特訓と聞いて、ケルゥの涙は引っ込んでいた。そして、恐る恐る視線を上げる。
「さて、妹を傷付けた悪い猛犬には、特別メニューを用意していますよ?やりますよね?やらないという選択は、ありませんよね?」
口元に笑みを浮かべているが、その目は笑っていない。腕を組んで仁王立ちのインファに、ケルゥは気圧されていた。その光景を見ながらリティルは、手加減してやれよ?と言って笑っていた。
三人が行ってしまうと、リティルが、立ち尽くすカルシエーナに視線を向けた。
「なぜ、インリーはケルゥを拒絶しない?大怪我をさせられたのに」
「ケルゥはワザとやったわけじゃねーし、ホントに完全にインリーの不注意だからな。あいつを後ろから驚かすとか、気許しすぎだろ?そこがインリーのいい所なんだけどなぁ」
リティルは困った顔で、横の髪を掻き上げながら小さく笑った。
「オレ達はケルゥのことをわかってて一緒にいるんだ。こんなことくらいで、あいつを捨てたりしねーよ。カルシー、君の事もな」
リティルの手が、ポンッとカルシエーナの頭に置かれた。
「わたしは……わからない!わたしは……わたしは、破壊しなければ!」
「なら、オレを壊してみますか?」
頭を振って、リティルの手を拒もうとしたカルシエーナの背後に、インファの気配が立った。ギクリとして振り返ると、真っ暗な空間に淡く輝くようなインファが浮かんでいた。
インファの瞳は薄く微笑んでいた。
「ケルディアスはすでに、破壊に手を染めています。破壊することの味もよく知っています。先代風の王と出会っていなければ、命の尊さを学ぶこともなかったでしょう。しかし、あなたはどうですか?ケルゥを子供だとするなら、あなたは赤子ですよ?経験も、思考も、すべてが足りていません」
「わたしは赤子などではない!わたしには、使命が──」
「使命?それを行うことの意味を、本当にわかっていますか?あなたは不当な扱いを受けてきたというのに、恨みすら抱いていない。ケルゥやオレ達なら、当然のように怒りや恨みを抱きますよ?破壊しなければというのなら、オレを破壊してみてください。迷いがないというのなら、簡単なことでしょう?」
インファは無防備に両手を広げた。カルシエーナはギリッと奥歯を噛むと、インファの体に髪を突き立てた。ズブリと肉を断つ不快な感触が体中を駆け巡る。ケホッとインファは咳き込み、その口から血が流れた。カルシエーナはそれ以上動けなかった。
「……どうしました?せめて、首くらい掻き切ってくれなければ、殺しの疑似体験もできませんよ?知らないのなら、教えましょうか?こうするんですよ!」
インファは詰め襟のホックを外すと、首をさらけ出した。そして、刺さったカルシエーナの髪の毛を掴んで引き抜くと、その首へ宛がった。少しの躊躇いもなく。
そして──
「……!」
カルシエーナは頽れていた。髪は力を失い、傷付ける事などできない状態に戻っていた。インファの傷はすうっとなくなっていった。疑似体験と言ったが、ここにいるインファは精神体で、もしも死ぬような傷を受ければ死んでしまう。インファにはわかっていたのだ。カルシエーナが、死の一線を越えられないことを。
「一線を越えることは、相応の覚悟が必要です。あなたには、それを行う覚悟も、理由もありません。空っぽなんですよ。早く自分の心と向き合ってください。逃げている時間はもうありませんよ?あなたの本能からくる死への恐怖だけでは、初めから予定通りで襲ってくる精霊の意識に勝てませんよ?それとも、生きるつもりはありませんか?」
「わからない。わからないわからない!」
カルシエーナは首を激しく振り、顔を覆った。
「オレは毒舌ですから、優しいことは言えません。ですが、少し落ち着きましょうか?」
「え?」
カルシエーナは、インファに抱きしめられていた。温もりを知らないカルシエーナは混乱し、インファを突き放そうとしたが細身な男の腕にすら敵わなかった。宥めるように背中を撫でられ、心臓が落ち着かなくなる。
「イ、インファ……あ、あの……」
「こんなことをされて、心が動きますか?」
「からかうな!」
「はい。からかっていますよ?心配いりませんよ、もとよりオレに他意はありませんし。そもそも、風は誰にも心を奪われませんから」
「しかし、リティルには……」
「母が押しまくったそうですよ?気がついたら捕まっていたと、よく惚気ています」
「信じられない……シェラがリティルを?」
「人は見かけによりませんね。風の王はいつ死ぬかわからない、危うい存在です。その父を選び共に生きようとそばにいる母には、相応の覚悟があるんです。父はその想いに報いるため、決して死なない覚悟を持って闘っています。そしてケルゥは、風の城にいたいが為に、すべてを壊してしまう手を克服しましたよ。あなたは、風の城にいて何も感じませんでしたか?」
カルシエーナは背伸びをすると、インファの背に腕を回し、彼の肩にそっとすり寄った。まるで感じた温もりを探すように。
「温かかった。木漏れ日が優しかった。皆楽しそうで、そうだ、インリーに会いたい……」
「では、会いに行きましょう。その為に、生きてください。生きる理由など、大層なモノでなくていいんですよ」
インファの胸で、カルシエーナは素直に頷いた。
インファはそのまま抱きしめてやりながら、見えない空を見上げた。
付け焼き刃でも、なんとかここまで漕ぎ着けた。あとは、なるようになるしかない。インファができることは、ここまでしかないのだから。
十五代目風の王の傍らにあり、当時戦姫として知られていた花の姫の姿を、子供達は知らない。子を身籠もるまでの数ヶ月、シェラはリティルと共に行動していた。
荒っぽい風の王をよく助け、寄り添うように闘う姿は、精霊達の心をも掴んだ。そしていつしか、花の姫には手を出してはならないと言われるようになる。
十五代目風の王を無敵にしているのが、他ならない花の姫だと皆気がついたのだ。風の王から引き離してはならない、奪ってはならないと思う者が多かった結果だった。
精霊達は風の王の代替わりを、よしとはしていない。むしろ、終わってほしいと願っている。しかし、だからといって、共に戦おうとする者は極々僅かだった。無理もない。皆、自分の存在が消えてなくなることが、怖いのだ。だから、見て見ぬふりをしている。
リティルの戦い方は、インと比べるとスマートではない。けれども、リティルが精霊達から恐れられずに慕われているのは、その魔性の笑顔もあるが、花の姫の功績が大きかったのだ。
そんな花の姫は、今では風の城で王の帰りを待っている。
「お姫様、本当にお留守番でいいのぉ?」
「ええ、あなたのような人が一緒に行ってくれるのなら、わたしがわざわざ行かなくてもいいわ」
「あらら、ウチ、信用されてるのねぇ。リティルの事、誘惑しちゃうかもしれないわよ?いいのぉ?」
「誘惑する気があるのなら、もうとっくにしているわ。もっとも、リティルはそう簡単になびく人ではないから」
そう言いながらも、シェラはリティルの事をジッと睨んでいた。睨まれたリティルは苦笑いを浮かべるしかなかった。
「はは、シェラ……睨むくらいなら一緒に来いよ。どうして、そんなに頑ななんだよ?」
リティルにそう言われたシェラは、ゆっくりと夫の首に抱きついた。見送ろうと待機していた子供達も、スワロメイラもいるというのに、シェラがこんな行動に出ることは珍しかった。どうしたのかと言いかけたリティルに、シェラは耳元に囁いた。
「一緒に行きたいわ。けれども、わたしは城を守らなければならないの。あなた達が安心して帰ってこられるように、城を守ることがわたしの今の努めよ。今はレイシもいるの。あなたやインファがいなくて、わたしまで城を離れてはあの子を守れないわ。だからリティル、わたしを困らせないで」
リティルはギュッと強くシェラを抱きしめた。
「そんなこと、考えてたのか?ごめんな、気がついてやれなくて。君はホントに、オレには勿体ない妃だよ。でもなあ、たまにはデートしような?」
シェラは顔を上げた。そして微笑んだ。シェラの強がりな微笑みに、リティルはいつも通りの力強い笑みで答える。
「ええ。楽しみにしているわ。いってらっしゃい、リティル」
「いってくるな。シェラ」
リティルはシェラの体から手を放すと、名残惜しそうにその手を掴み、そして、ゆっくりと、放した。
未だカルシエーナの心に居座っていたインファは、ゾクッと背筋に冷たい物が走るのを感じた。
いよいよセビリアが動き出すらしい。このままカルシエーナの心に長居すれば、自分の身にも危険が及ぶとわかっていた。しかし、今ここで彼女を一人にすれば、簡単に取り込まれてしまうだろうこともわかっていた。
「インファ?」
「カルシエーナ、断っておきますが、オレは風の王より弱いのであまり頼りになりません。これから先は、あなたが闘うしかありませんができますか?」
案の定、カルシエーナは不安そうな顔をした。リティルから無茶するなと言われているが、父が戻るまで持ち堪えるにはインファが矢面に立つしかなかった。
『あらぁ、誰かと思えば……インにそっくりな風の坊やね』
「イン本人だとは思わないんですね?」
インファはカルシエーナを背に庇うと、セビリアと対峙した。凄まじい圧力だ。差がありすぎるが、彼女はこちらを侮っている。それに、目覚めたばかりで意識の形すら上手く保てない様子だ。これなら、眠らせて封印を継続できるかもしれないと、インファは隙をうかがった。
『インは強くて強くて、壊しがいのある男だった。坊やより、数倍強かった。小鳥ちゃん、それで守っているつもり?可愛いわね』
「インはもういませんよ?今はその息子が風の王です」
『あら死んじゃったの?残念。今度こそ、壊してあげようと思っていたのに。まあ、いいわ。息子なんてものがいるのなら、その子の翼を両方もらうことにするわ。この前は奪いそびれちゃって。今度こそ、その綺麗な翼、もらうわ』
攻撃は見えなかった。何か殺気のようなものを感じて、咄嗟に風の障壁を張ったが砕かれていた。インファの右翼から羽根が散った。
「インファ!逃げて!」
「そうしたいのは山々なんですが、できませんね」
とはいったものの、このままでは手も足も出ないままに殺されるなと、インファは悟っていた。こんなことなら、カルシエーナの心に長居せず、さっさと眠らせてしまえばよかったなと少し後悔した。
『インの息子とやらをおびき寄せる、餌になってもらうわ。逃がしてあげない』
「そんなこと!」
セビリアの挑発に乗ってしまうカルシエーナを後ろに引き戻し、インファは久しぶりに困っていた。リティルは売られた喧嘩は買ってしまう。無礼と無謀の固まりなのだ。なんとかして逃げなければならないが、セビリアと一心同体のカルシエーナを見殺しにすることになる。インファはチラリと、背に庇ったカルシエーナを見た。
彼女の精神だけを連れ出すことができれば……しかし、そんな都合のいいこと、できるわけがない。
しかたない。一か八か、どちらの精神が上回るか、仕掛けてみようと覚悟を決めたときだった。
「なんだ、オレに会いたかったのかよ?」
不意に聞こえた声に、二人は同時にあり得ないと思った。あれからさほど時間は経っていない。リティルが戻ってくるのは早すぎる。しかも、こんな絶妙なタイミングで。
見知った気配が二人の頭上を飛び越えた。リティルはそのまま、セビリアの気配に斬りかかった。
「父さん!」
あまりに策のない行動に、あとを追いかけそうになったインファの腕を、小さな四つの手が掴んだ。
四つ?カルシエーナを掴んでいる手とは逆の腕に、確かに掴まれた感触を感じた。
『今のうちに逃げるワン』
『お嬢ちゃんは、これに入るニャン』
夢魔?インファは可愛らしい猫と犬のぬいぐるみが、腕を掴んでいるのを見た。
『カコル達ある人に頼まれたのワン』
『話は後!最恐リティル様も長くは保たないニャン』
「わかりました。ですが、オレが行くとなると、封印を解かなければいけませんがいいですか?」
『よくわからないけど、来てくれないと困るのワン。お嬢ちゃんはカコルが一緒に行くワン』
『インファ様はニココと一緒に行くニャン』
二匹の夢魔はせーの!とかけ声をかけると、ポンッと色とりどりの紙吹雪を残してカルシエーナの心から消えた。
インファは急に戻った体の重さに、思わず片膝を付いた。封印結晶が解け、インファは体を取り戻していた。その肩に先ほど会った猫のぬいぐるみが触れてくる。
『インファ様、行くニャン!』
どこへと問う間もなく、ニココは扉を開きインファを連れ込んだ。
ルキルースは一瞬で景色が変わる。景色だけでなく、世界の法則まで変わってしまう。このめまぐるしさには、未だ慣れない。
「ここは?」
断崖の城よりもさらに仄暗く、無機質で何もない。そして、なぜか想像力をかき立てられるような……。
『ようこそ、恐怖の夢工房・地縛霊の迷宮へ。ニャン』
クルリと猫のぬいぐるみが空中を泳ぐ。ニココの行く先には、肘掛けのついた豪華な椅子が置かれていた。その椅子に、綺麗な陶器の肌を持つ少女の人形が座っていた。長い黒髪に、黒のワンピース、どこかカルシエーナに似ていた。
その人形の瞳がカタンッとインファを見上げた。
「こんなこともできるんですか?この国は」
カルシエーナの心の中で、カコルがこれに入れと言っていた”これ”とは、この人形のことだったとのだとインファは察した。
『ルキルースは夢の世界だワン。心だけが体を置き去りにしてフワフワ出ちゃうことだって、あるのワン』
インファは椅子に腰掛ける人形の前に膝を折って、その顔を見上げた。
「気分はどうですか?」
『意識は正常だが、体が動かしづらい』
インファは人形の手を取り持ち上げた。関節は滑らかに動くが、かなりの重量を感じた。
「重そうですね。陶器製ですか?ええと、夢魔のお二人さん、あなた方のようなぬいぐるみはありませんか?」
夢魔。という呼び名は、ルキルースの中級以下の人型を取れない精霊達を指す言い方だ。ちなみに、セクルースの中級以下の人型を取れない精霊達は妖精と呼ばれていた。
『カコルだワン』
『ニココよニャン。その体、お気に召さなかったニャン?』
「いいえ。ただ、抱きしめるには向かないと思ったんです。こんな風に」
インファはカコルとニココをふわりと抱きしめた。
『ズキュンだワン!』『キュンキュンだニャン!すぐ別のを用意するニャン』
二匹はハートをまき散らしながらポンッと音を立てて、慌ただしく姿を消してしまった。
『……インファ、それは計算?』
「ご想像にお任せします。ここが夢工房ですか。恐怖以外の想像も具現化するんでしょうか?」
『わからない。前に来たときは、恐怖だけを拾っていた気がする。リティルには、悪いことを……』
「父さんはここで具現化するような恐怖を、恐怖だとは思いませんよ。しかしそうですか……表面上だけでも具現化できますかね?彼に、微塵も恐怖は感じていないんですが……」
インファは何事か試しているようだったが、上手くいかないらしい。インファもリティルと同じく、怖いモノなどないのだろうかとカルシエーナは瞳だけを動かして、彼を観察していた。
何かを思案し、僅かに虚空を睨むその切れ長の瞳、女性と見間違うことのあり得ない、男性寄りの中性的な容姿。背の高さも申し分なく、とても魅力的な人だなとカルシエーナは改めて思った。そんなことを思っていたときだった。
「何ですか?カルシエーナ。オレの顔に見とれてます?」
インファが急にカルシエーナの方に視線を戻し、からかうように微笑んだ。そういうつもりではなかったが、綺麗な人だなと思っていた矢先だったカルシエーナは、カッと顔が熱くなるのを感じた。そして、人形の体でよかったと、ドキドキした。
『違う!あなたも、恐怖を感じないのかと思って……』
「父にも、オレにだって恐怖くらいありますよ?なければ、戦えません」
『あった方が戦えないのでは?』
「恐怖は、大事なものを守るために必要な感情なんです。そう教えてくれたのは、父でしたね。オレは少し欠けていまして、幼い頃恐怖をあまり感じない子供だったんです。父はそんなオレをかなり心配していましたね」
父と飛びたい!その心が先行して、インファは切っ先を震わせ惑わせる、恐怖という感情を嫌悪した。そして、心の奥底に封じてしまった。大きなモノに立ち向かうには、邪魔な感情だと短絡的に思ってしまったのだ。そうして、殺すことに躊躇いのなくなってしまったインファに、リティルは殺さずの戒めをかけた。戒めをかけてくれたのは、リティルのかつての仲間である賢者だった。彼等は、インファの恐怖を取り戻す為に、最後まで付き合ってくれた。
――インファ!恐怖は身を守る為に必要な感情なんだ。自分だけじゃねー、周りにいる大事な人も守れる感情なんだ!おまえはオレに死んでほしいか?そばにいてほしいか?消えてなくなることを怖いと思うから、守ろうと思えるんだよ!
リティルに封じ込めた恐怖を解き放たれしばらく、槍が握れなくなったことを覚えている。そんなインファに、リティルはそれでいいんだと言って、ホッとした顔で笑っていた。
『今は?』
「ありますよ?正常ですよ。聞きたいんですか?」
インファの瞳が、スウッと冷えていくのをカルシエーナは見た。しかし、口元には相変わらず笑みが浮かんでいる。彼はもしかして、かなり得体の知れない男なのかもしれないと、カルシエーナは思わずにはいられなかった。
ふと、誰かの泣く声が聞こえてきた。その声は数人だが、とても哀しみに打ちひしがれていた。一体どこから?カルシエーナは瞳だけを動かして、辺りを見回した。
「オレの恐怖は、哀しみです。哀しみは、刃を鈍らせますから、闘わなければならないオレ達にとっては、支配されてはいけない感情なんです。もし、オレの為に家族が哀しめば、誰かが命を落とすかもしれません。それが、恐いんですよ」
『インファ、なぜ、さっきは逃げなかったの?カコルとニココが来てくれなければ、あなたはどうなっていたか』
死んではいけないと思っているのなら、なぜ、あの場からすぐに逃げなかったのか、カルシエーナにはインファの行動が不可解だった。皆に哀しみを与えない為にと心に刻んでいるのなら、わたしのことなど置いて、逃げるべきだったのでは?とカルシエーナは思った。
「そうですね。父の言いつけにも背きましたしね。けれども、今こうして生きているんですから、いいんですよ」
インファはあのとき、導きを必要としているカルシエーナを手放せなかった。見捨てることができなかったのだ。どうにも、城にいるレイシとインリーと重なって、守らなければと思ってしまった。
『あなたのことが、よくわからない』
カルシエーナは瞳を伏せた。そんな彼女の様子を見ながら、インファは小さく優しく微笑んだ。そして、いつかオレが逃げなかった理由が、わかるといいですねと言った。
ポンポンッと不意に何かが弾ける音がして、カコルとニココが帰ってきた。手にはふんわりしたドレスを着た、白いウサギのぬいぐるみがあった。
『お待たせワン』
『これでどうかニャン?』
「いいですね。ありがとうございます。では、カルシエーナこちらにどうぞ」
『……あまり、抱きしめないでほしい……』
「では、肩にでも乗っていてください。フフフ、オレの事、もしかして意識してますか?」
陶器の美しい人形の首が、ガシャンと音を立てて力を失った。そして代わりに、ウサギのぬいぐるみが命を得て、可笑しそうに笑うインファの前に飛びだした。
『あなたは女の敵だ!』
「敵に回してませんよ。過度な接触は避けてますから。オレは、高嶺の花ですからね」
ニッコリ笑うインファは、自分の魅力をよくわかっているようで、無自覚なリティルとどっちがタチが悪いのか、カルシエーナにはわからなかった。
『高嶺の花なインファ様に、メロメロだワン』
『リティル様とは違った魅力だニャン』
そういえばと、インファは思った。彼等とは面識はないのに、カコルとニココはインファの名を知っている。そして、彼等はリティルの名を知っている。とすると、彼等は風の王の関係者なのだろうか。
「お二人は、父の──風の王の友達なんですか?」
『そうだワン!インファ様のお噂はかねがねワン』
『そうそう、忘れるところだったニャン!ニココ達レジーナに頼まれてインファ様達を招いたんだったニャン。レジーナのところへ行ってあげてほしいニャン』
「レジーナがあなた方に、オレ達を助けろと依頼したんですか?」
『ううん。カコル達、連れてきてほしいって言われただけワン』
『セビリアと対決中なんて、驚きすぎて、中身が出ちゃうかと思ったニャン』
『バラバラにされちゃうかと思ったワン』
「そこまで危険を承知で、助けてくれたんですか?あなた方とオレは、面識がありませんよね?なぜですか?」
インファはなぜ、このか弱い夢魔達が助けてくれたのか疑問だった。レジナリネイに頼まれたというが、助けろと言われたわけではなかったらしい。それなのに、彼等が当然のように行動したような気がして、インファには不思議だった。
風の王が手を出すなと言っていることは知っているが、今まで、セクルースで戦ってきて、傷ついたとしても、手を差し伸べてくれる者などいなかったというのに。
『だって、インファ様は、リティル様の大切な息子?なんだニャン?だったら、ニココ達にも大事だニャン』
ぬいぐるみの顔から表情は読み取れない。けれども、素直な気持ちが伝わってきた。インファは、リティルがルキルースへ度々来ていることを知っていた。イン絡みだと思っていたが、彼等と交流する目的もあったのだろうなと思うと、思わず笑みがこぼれた。
そしてインファは、素直な二人に、素直にありがとうと礼を言った。
しばらくホンワカした雰囲気に包まれて二匹と笑っていたが、不意に嫌な風が流れてきた。ビクリと、二匹が鋭く反応した。
『大変だワン!セビリアが迫ってるワンよ!早く、行くワン』
カコルとニココは扉を開いた。そして、二人を促す。
『ワン?』『ニャン?』
インファは二人の夢魔とカルシエーナを両腕に当然のように抱くと、扉に飛び込んだ。
閉じて消えた扉の前に、黒いワンピースの残虐な笑みを浮かべたカルシエーナが立った。
「あーら、逃げられちゃった。ウフフフフ。いいわ。じゃあ、待っててあげる。精々足掻いてちょうだい」
アハハハハと響く声で笑いながら、セビリアは館の中を歩き去った。その背後には、骸骨がごろごろと壁からこぼれ落ち、廊下を埋め尽くしていった。
ドゥガリーヤへ至る門は、神樹の精霊の開くゲートとは異なっていた。
グロウタース、イシュラース、ドゥガリーヤの三つの世界に神樹は同じ姿で存在している。神樹は三つの世界を貫き立ち、すべての力を循環させる機能を持っていた。
ドゥガリーヤは神樹の根に位置し、彼の地で生まれる力を根が吸い上げ、幹であるイシュラースで精霊達が様々な色に力を染め上げて、枝葉であるグロウタースへ放出している。
ドゥガリーヤへの門は、ずっと太古から風の領域にあった。
剣狼の谷を超えた先、風の祭壇にその門はあった。
黄土色の岩肌に、切っ先を天へ向けて両手で恭しく剣を持った、女性と男性が門の両脇に掘られていた。風の祭壇と呼ばれている割に、この二人には翼がなかった。両開きの石の門には、大鷹と虎、鯨、燃えるトカゲが彫刻されていた。四大元素を司る王たちの、化身した姿だった。
「あら、あれは……」
リティルはオオタカの姿に化身し、ケルゥとスワロメイラを乗せて風の祭壇に舞い降りた。誰も居ないはずのその場所には、先客がいた。
赤い袴を着た、透き通るような水色の髪の女だった。
「こんなところで、何をしてるの?お姉様」
長いポニーテールを揺らして、隙のない切れ長の瞳の女は振り返った。
お姉様と言いながら、スワロメイラの声には明らかにトゲがあった。
「スワロメイラ。あなたこそ」
「こっちは、ちゃんと正式よ。なあに?モグリ?風の王様に怒られるわよ?」
女はリティルに視線を向けた。無遠慮にあからさまに、探られているのがわかった。
「宝石三姉妹の長女・エネルフィネラだな?なんだよ、ラジュールの差し金か?」
リティルは、エネルフィネラと彼女の母である宝石の精霊・ラジュールには、面識はない。けれども噂は聞いていた。ルキルースの精霊であるラジュールは、精霊王の定めたことなどお構いなしに、ドゥガリーヤへの侵入を繰り返していると。精霊王は風の王に静観せよと言い、関わるなと釘を刺さした。リティル自身も、ゲートもドゥガリーヤへの門も通る権限を持っているだけで、私物ではない故、剣狼達や鳥達から情報は上がってくるが、見て見ぬ振りをしていた。
「ここで、ことを荒立てるつもりはないわ。見逃して、王様」
「見逃すも何も、オレ達風に危害が及ばねーなら、咎めねーよ」
「あらあら、王様が優しくてよかったわねぇ。さっさと失せなさいよ!お姉様」
スワロメイラは明らかに不機嫌だった。
「言われなくても。ごきげんよう、リティル様」
挑発するような微笑みを浮かべてリティルを一瞥すると、エネルフィネラはルキルースへの扉を開いてさっさと姿を消してしまった。
「何だったんだ?オレ、ジロジロ見られてたぜ?」
「あいつには気を付けてね。ラジュールの言いなりだから、絶対に気を許しちゃダメよ!」
「ラジュールは、ドゥガリーヤで何やってるんだ?」
「知らないわ」
「知らねぇって、おめぇ、おめぇのことでもあんじゃぁねぇのかぁ?」
「ウチはできが悪いから、とっくに捨てられてるの。跳ねっ返りだし言うこと聞かないから。ああ、インに会ったのって、その頃だったわね。赤き風の返り血王がどんな男か知りたくて、戦いを吹っ掛けたの」
懐かしいわねと、スワロメイラはフフフと笑った。
「おめぇ、死ぬつもりだったんかぁ?その名で呼ばれてるインの噂、知らねぇでそんなことしねぇだろう?」
呆れた顔で、ケルゥはスワロメイラに問うた。スワロメイラは、フフフと笑ったままペロリと舌を出した。
「噂?」
「精霊も化け物も、危害を加えてくる奴にゃぁ容赦ねぇ死神だってなぁ」
「はあ?インがそんなこと――」
敵だと見なせば容赦はないだろうが、そんな乱暴なことを?とリティルは信じられないとつぶやいた。そんな様子を見て、ケルゥはニヤニヤしながら、噂だ!と言って、リティルの背中をドンッと叩いた。蹌踉めいたリティルの肩を捕まえて支えてやりながら、スワロメイラが苦笑した。まるで、インのこと、知ってるでしょう?と言いたげに。
「噂は噂ね。インはそんなことしなかったわよ。むしろ諭されちゃって、毒気抜かれたったらないわよ。共闘したことあるって、言ったでしょう?無理矢理連れ回されてたのよ。捨てた命なら、我が使ってやるとか何とか言ってねぇ。寝首掻こうにもあの強さでしょう?もう、迷惑ったらなかったわよ」
ほら、行きましょう?とスワロメイラは、この話はもうおしまいとばかりに先を促した。
石の仰々しい門の先は、長い長い階段だった。地の底へ向かって階段が螺旋を描いて降りている。松明を取り付ける丸い金具には、金色の風が渦巻く宝石が取り付けられていて、淡い光を放っていた。
混沌の大釜・ドゥガリーヤ。何層にも分かれた、塔のような姿をしている。だが、その姿を外から見ることはできない。最下層には、すべての源である根源がある。すべては、その最下層から生まれ、死して、朽ち果てて、最下層に戻るのだ。
「スワロ、ナシャはどこにいるんだ?」
「前と変わってなければ、一層目にいると思うけど……。ここは剥き出しの魔力でしょう?その魔力を使っていろいろ作り出せるのよ。ここに部屋がいっぱいあるのは、いろんな精霊が、ここでいろいろやってたっていう証拠なのよ。ええと、ここだったかしら?」
螺旋階段の途中の壁に、扉があった。
扉を開くと、中は温室のようだった。古今東西の植物が鉢に植えられたり、地植えされたりしていた。太陽光のような光に満たされ、幽閉などという暗いイメージの言葉が、似つかわしくない空間だった。
「ナシャ!スワロメイラよ!いる?」
スワロメイラは、温室の奥に向かって声をかけた。するとすぐに反応があった。ガサガサガサと音がして、ヒョコッと明るい緑色の頭が覗いた。
「スワロ?わあ!スワロだー!」
茂みから飛び出してきたのは、額に捻れた太短い角の生えた、六歳くらいの少年だった。尻には、白い馬の尾が生えている。少年は満面の笑みでスワロメイラに抱きついてきた。
「久しぶりね、元気だった?」
「うん!スワロ、やっと来てくれた。やっと、オイラのモノになってくれる気になったんだね?」
微笑ましいなあと思って見ていたリティルは、ん?と耳を疑った。二人の見ている前で、スワロメイラが押し倒された。
「え?きゃあ!ちょっと!ええ?いや!」
じゃれていると言えばそれまでだが、スワロメイラは本気で嫌がっている様子だった。
「おい、そういうことは二人っきりの時にするものだぜ?」
リティルは、ナシャの首根っこを掴むとスワロメイラから引き離した。腰が抜けているのか動けないスワロメイラに、ケルゥが手を貸してやると、彼女は怯えたようにその大きな手に縋った。その様子に、ケルゥでさえおや?と思った。
「あとなあ、無理強いはよくないぜ?スワロ、大丈夫かよ?」
うるさいと言わんばかりに、ナシャはリティルの手を逃れた。しょうがないなと頭を掻きながら、リティルはスワロメイラを覗きこんだ。
「ありがとう……リティル」
スワロメイラはホッとした顔をして、しおらしくリティルに礼を言った。その手が震えているのを、リティルは気がついた。
「その金色の翼、知ってるぞ。風の王だな?オイラのスワロメイラと、どういう関係?」
「ちょっと、ナシャ!いつからウチとそんな関係になったわけ?何があったのよ?」
「いつって、つれないなぁ。オイラ達、約束した仲じゃないか」
「約束……?な、何言ってるの?」
スワロメイラは混乱していた。ナシャは、弟のように可愛く、この温室で植物の世話をしたりお茶を飲んだりして楽しく遊んでいた。好奇心旺盛で、たまに善悪の区別がつかないときがあるが、子供の精神年齢故だった。
目の前にいる彼は一体誰だろう。こんなナシャをスワロメイラは知らない。
「そうか、風の王、おまえだな?オイラのスワロメイラの心を奪ったのは!」
「ええ?ちょっと、リティルは関係ないわよ!」
足が言うことを聞かない。腕を組んでこちらに背を向けているリティルの顔は、スワロメイラからは見えない。こんなことを聞かされて、あげく恋敵にされて、彼は一体どんな心持ちでいるのだろうか。スワロメイラは、リティルの心に恐れを抱いた。
「なあ、おまえ、スワロメイラとオレが、そういう関係だったらどうするんだよ?」
リティルの声が、聞いたこともないくらい低い。スワロメイラはビクッと身を震わせた。嫌だ……そんなつもりじゃない……。スワロメイラは、リティルに嫌われることを恐れていた。
「そんなの決まってる!おまえを殺して、取り戻してやる!」
「完全にやられてるな。しょうがねーな。来いよ。相手になってやるぜ?」
こちらに背を向けたリティルは、大きなため息と共に肩を落とした。
「リティル!ま、待って!」
リティルはたぶん怒っている。無理もない。彼には愛する王妃がいるのだ。こんなこと迷惑極まりない。
ケルゥは三人の様子を傍観していたが、あまりスワロメイラが取り乱すので首を傾げた。こんなよくわからないヤツ、リティルに任せておけばいいと思うのだが、スワロメイラはなぜかリティルに関わらせたくないように見えた。
「スワロ、どうしたよぉ?らしくないぜぇ?」
「ウチらしいって、何?」
スワロメイラは、気遣ってくれたケルゥをジロリと睨んでしまった。まるで余裕がなさそうだなと、ケルゥはさすがに察した。そして、こういうとき、リティルならどうするかな?と考えた。
「なんでぇ、おめぇトラウマでもあるんか?今のうちに落ちついとけよぉ。リティルが、時間稼いでくれっからよぉ」
ポンポンッと、ケルゥの大きな手がスワロの頭を軽く叩いた。ケルゥらしからぬ行動に、スワロメイラは一気に冷静になる。
「なあに、それリティルの真似ぇ?らしくないのよ!」
「へん!てめぇもなぁ。あのガキもらしくねぇんだろぉ?」
「ええ。完全におかしいわ。一体誰に……あー、エネルね?何の真似かしら?」
スワロメイラは、ドゥガリーヤの門の前で遭遇した、エネルフィネラのことを思い出していた。
「お、リティルの方も決着ついたぜぇ?」
見ると、リティルの拳を腹に受けて、ナシャが頽れるところだった。ケルゥは、スワロメイラから手を離すとのっそりリティルと合流した。
「相手が子供の姿だと、やりづらいよな。とりあえず眠らせたけど、これで魔法解けるのか?」
リティルは昏倒したナシャを、地面に寝かせた。
「スワロ、オレがさっき言ったこと、忘れろよな。おまえは、ずっと友達だからな」
顔を上げたリティルが、そう言って笑った。その笑顔を見て、スワロメイラも当たり前よと言って笑った。
妻子があり愛妻家のリティルは、スワロメイラにとって安全で心地良い存在だった。
ラジュールに捨てられ、存在理由を失ったスワロメイラを救ったのは、インだった。風の王の協力者として生きればいいと言って、インは存在理由をくれたのだ。
スワロメイラがリティルに近づいたのは、必然だった。代替わりしてしまったが、尽くしてもいいと思える相手なら協力者になろうと思って近づいたのだ。気まぐれだった。別に、この生に未練はないのだから、消滅したってよかった。
出会った時、泣いていたリティル。その涙のワケに、インが関係していることを知り、スワロメイラはリティルの友人になろうと思った。勝手なことだが、リティルとの出会いは、インがくれたモノだとそう思うことにしたのだ。
インのことで悩んでいる風だったリティルに、スワロメイラはインと関係があることを言えなかった。今後、思い出話ができるだろうか。
あまりインの前では素直になれなかったが、彼は確かに友人だった。インファの中に蘇ったインと会えて、スワロメイラも嬉しかったのだった。スワロメイラがリティルの友達だと打ち明けたとき、インは僅かに表情を動かした。
――そなた、リティルとも関係しているのか?リティルは、笑っているか?
思わず腹を抱えて笑った。インが、この無表情なインが、リティルの笑顔が失われていないか心配しているー!と、もう可笑しくて可笑しくしょうがなかった。魔性の笑顔は健在だと教えてやると、インはまた僅かに表情を崩した。
――魔性?リティルは、笑顔を武器にしているのか?
もう、笑い死ぬかと思った。真面目な声で、変なことを根掘り葉掘り聞かないでほしい。会えるわよ?と言ったら、インは、僅かに、笑った。今でも信じられない。あのインが笑うなんて。
スワロメイラは、ナシャの様子を確かめているリティルを見た。
インは孤高だった。僅かしか関わらないことで、自分自身を守っていたインに、リティルは温かさを与えてくれた。インはきっと、リティルに救われていた。スワロメイラは、リティルにインの友人として、ありがとうと言いたかった。
冷たい瞳でいなければならなかったインに、笑顔をくれて――
スワロメイラは、ナシャが身動きしたのを見て、やっと現実に心が帰ってきた。
「う……ん……誰……?」
「目、覚めたか?何か覚えてるか?」
呻いてナシャが目を開けた。リティルの顔をボンヤリ見ていたが、次第にその緑色の瞳が正気に返る。
「金色のオオタカの翼……風の王?でも……イン様じゃない……」
「十五代目風の王だ。そのインの息子だよ」
「イン様の……?それって」
ナシャの瞳はあまりに穏やかで敵意なく、リティルはまるで反応することができなかった。
「それって、イン様を殺したってことだよね?」
ナシャは隠し持っていた注射器を、リティルに突き立てていた。そして中身を容赦なく注射して、突き飛ばした。
「リティル!ナシャ、なんてことするのよ!なんで?なんで、リティルがインを殺して王になったと思うのよ?息子だって、言ってるのに!」
突き飛ばされたリティルを支えながら、スワロメイラは怒りの声を上げた。
「あーオレ様も間違えたわ」
「あんたは黙ってなさいよ。とにかく誤解よ。インがリティルを造ったのよ。殺したりしてないわよ!インがどれだけ、リティルを大切にしてたか、何も知らないくせに!」
スワロメイラに怒られて、ナシャはタジタジとしながら後ずさった。逃げるな!とスワロメイラがナシャを追おうとすると、その肩をリティルが掴んだ。
「スワロ……悪い、やられたぜ。体が痺れる……」
「リティル、待ってなさいよ?解毒剤ぶんどってきてあげるわよ」
リティルは頷くと、力なく目を閉じた。鼓動もかなり弱まっていた。麻痺が、心臓にまで及んでいるのだ。スワロメイラは、リティルを横たえた。
なぜ、リティルがこんな目に?
イン……孤高だと思っていたが、あれで慕う精霊も多かったのかと思った。しかも、問題のある精霊ばかり……。
「あんのヤロウ!」
リティルが毒を盛られたことを知り、ケルゥが一瞬で殺気だった。
「ケルゥ!殺しちゃダメよ!解毒剤!解毒剤を取り上げなくちゃならないんだからね!」
逃げたナシャを追って、ケルゥが怒り狂って駆けだした。その背中に声を投げながら、スワロメイラも後を追った。今のケルゥに任せておけなかった。ナシャを殺されてしまったら、解毒剤が作れなくなってしまう。スワロメイラは、リティルのそばを離れざるを得なかった。
誰も居なくなったその場所に、待っていたかのように気配が現れた。
リティルは気配を感じたが、瞳すら開けなかった。誰かの手が、動かない体を起こして支えてきた。ような気がする。もう体には何の感覚もなかった。
「お人好しな王様。もう少し、警戒すべきだったわね」
この声は、エネルフィネラだ。
「あなたには、人質になってもらうわ。あのレジーナが、あなたに心を奪われるなんてねぇ。この機会、逃す手はないのよ」
レジーナ?人質?レジナリネイは、尋ねられた記憶を語るだけの精霊だ。尋ねれば、彼女は惜しみなく与えてくれる。そのレジナリネイに、脅してまで言うことを聞かせる意味を、リティルは見いだせなかった。
そして、レジーナが心を奪われていると言われたリティルは、何言ってるんだ?と思わずにはいられなかった。レジナリネイには二回しか会っていなく、言葉を交わしたのは一度だけだ。常に眠そうだったが、破壊の毒に冒されたリティルを、ずっと心配してくれていた。ずいぶん優しい精霊だなと、リティルは思った。そういえば、スワロメイラが挙動不審だったなとも思ったが、どうしてこうルキルースの精霊は短絡的なんだ?と侮っていた。
ナシャは、長いことこの場所に幽閉されていた。
ある精霊を好奇心に負けて、生きたまま解剖してしまったからだ。その精霊が万が一死んでいたら、ナシャは罰を受けてもうこの世にはいなかっただろう。
しかし、ナシャは幽閉されるだけで済んだ。それは、その精霊が致命傷を負う前に、助け出されたからだ。
それは月の綺麗な晩だった。
ナシャが殺しかけたのは中級精霊の、可愛らしい少女の姿をした大地の精霊だった。
気がついたら、その身をメスで切り裂いていた。柔らかい、肉を断つ感触にゾクゾクしたのを覚えている。喉を潰しておいてよかった。悲鳴は心地良くないから。
「残忍な」
軽蔑するような声が降り、獲物を一瞬でさらわれていた。ナシャは満月を見上げた。
大きな満月の中に、風の王・インは圧倒的な存在感でただそこにあった。
どこまでも冷ややかで、犯しがたい高貴な金色の瞳を今でも覚えている。
「同じ痛みを知れ」
少女につけたのと同じ、腹を縦に裂く傷をつけられてナシャは倒れた。
「……殺さないの?」
大の字に倒れながら、ナシャは冷たく見下ろすインに尋ねた。
「必要がない」
ナシャにとってインは、簡単にこちらの存在を踏みにじることのできる、圧倒的な存在だった。
その後、ドゥガリーヤに幽閉されたナシャのもとへ、インはたびたび訪れて、善悪を教えてくれた。残忍な衝動を持つナシャは、何度かインにメスを向けたが、その刃が届くことはなかった。いつしかナシャは、インに懐くようになっていた。今まで、こんなに構ってくれた人はいなかったからだ。
あんな圧倒的な強さを持っていたインが、死んだと聞いて。魂を奪われて殺されたと聞いて、信じられなかった。エネルフィネラに告げられ、実際に十五代目風の王をその目にするまで、ナシャは信じられなかった。
「イン様……本当に死んじゃったんだ……」
ナシャは木の下にうずくまっていた。十五代目がインを殺していてもいなくても、もうナシャにはどうでもよかった。インがもうこの世にいない。その事実に打ちのめされていた。
泣き出したナシャを、二つの気配が囲んだ。
怒りの殺気をまき散らしながら近づいてきたのだ、ナシャは二人にとっくに気がついていた。けれど、もう逃げる気はなかった。
「ナシャ、なんで泣いてるのよ?」
ナシャは顔を上げずに首を横に振った。
「てめぇ、顔上げやがれ!よくも、リティルに毒盛ってくれやがったなぁ!」
ケルゥの怒りを受けても、ナシャは顔を上げなかった。
「オイラを殺すの?」
「ああん?オレ様的には壊してやりてぇ!けどなぁ、リティルに怒られるからやらねぇ!」
「大事なんだね?リティルが」
「おうよ!解毒剤、よこしやがれぇ!」
ナシャは、涙に濡れた顔をあげると、子供らしい笑みを浮かべた。
「無駄だよ。今頃、リティルはいないから」
「どういうこと?」
「今頃リティルは、ルキルースだよ。あの毒は、放っておいても抜けるよ。スワロメイラ、ごめんね。オイラ、君達の為には働かないよ。もう、どうでもいいんだ。イン様が――いないなら」
ナシャは諦めたような顔で、スワロメイラを見上げた。そして、またその頬を涙が伝った。
「インの奴、この現状知ったらどんな反応したんかなぁ?」
ケルゥは、ナシャのインを想う涙に、毒気を抜かれてしまったらしい。
「さあ?でも、きっと無表情じゃいられないわね」
フフフとスワロメイラは、どんな顔をしたのか見たかったなと思った。
「おめぇの姉貴、何考えてんだぁ?とにかくレジーナんとこ行こうぜぇ?」
ケルゥは、リティルを拉致したのは、エネルフィネラだと決めつけた。スワロメイラも薄々そう思っている。思っているが、なぜこんなことをしたのかまるでわからなかった。故に、得たいがしれなくて落ち着かなかった。
「リティルは解毒できないから、早く行きましょう。ナシャ、あんたも来なさいよ。諦めた顔しちゃって、リティルに会えばあなたもわかるわよ!」
スワロメイラは、グイッとナシャの腕を引き上げた。
「リティル、リティルって、何なのさ。イン様が復活したら、リティルなんて」
ナシャはムッとして、思わず口走っていた。
それを聞いた二人の気配が、ザワリと変わった。
「インが復活だぁ?おめぇら、何考えてやがる?」
「ドゥガリーヤの水とレジーナの記憶があれば、イン様を復活できるんだって、エネルフィネラが。同じ司の精霊は同じ時に存在できないよね?闘って勝つのは、イン様だよ」
ナシャも、エネルフィネラが言ったようなことが、本当にできるとは思っていなかった。
エネルフィネラは突然やってきて、インの仇を取りたくないか?インを復活させる手伝いをしないか?と持ちかけてきた。承諾した覚えはなかったが、気がついたら、十五代目が目の前にいた。驚いた。そして、インがもうこの世にいないと思うと、十五代目が憎くて憎くてたまらなくなった。気がついたら、エネルフィネラに言われた通りのことを、実行してしまっていた。
「違げぇよ。勝つのはリティルだ」
「そうね。勝つのはリティルだわ。ケルゥ、急ぐわよ!そんな哀しいこと、させられないわよ!」
当然のようにリティルが勝つと言ってのける二人が、ナシャには信じられなかった。それを問う気力もないまま、ナシャはケルゥに抱えられて、風の領域まで連れ出されたのだった。