二章 ラピスラズリの精霊・スワロメイラ
スワロメイラがリティルに出会ったのは、潜在意識の湖だった。土地勘のない者は、だいたいこの湖の岸辺に出る。
金色の翼は風の精霊の証、スワロメイラはすぐに、彼がかの有名な十五代目風の王であることがわかった。グロウタース出身で婚姻関係のある精霊など、動きの少ないイシュラースでは格好の暇つぶしの材料だ。
「こんなところで、何してるのぉ?風の王様?」
スワロメイラは、十五代目風の王に興味があった。興味があったから、近づいたのだった。
十四代目と違って優しく、何より笑顔の魅力的な王だと聞いていた。あの笑顔が、あの笑顔がと噂の笑顔を見てやろうと思った。しかし、振り向いたリティルの頬には涙が伝っていた。
あの涙は何だったのだろうか。当時、それが気になって仕方がなかった。
度々ルキルースへ来るリティルは、いつも楽しそうに笑っていた。リティルに涙は似合わないと、スワロメイラも思った。恋愛という感情は、スワロメイラにはわからない。けれども、気になる男だった。ルキルースへ来る度に纏わり付くスワロメイラを、リティルは許してくれた。だから、今もつきまとっている。
連み始めてしばらく経ったある日、ルキルースへ仕事でもないのに来るリティルが、記憶の精霊を捜していることを知ってしまった。そして捜していた理由も。
ルキルースに住まう、記憶の精霊・レジナリネイ。万年桜の園で微睡む清廉の乙女。しかし、彼女に会ったリティルは何も望まなかった。ただ、眠る彼女の顔をジッと見つめていた。その横顔が寂しそうで哀しそうだったのを覚えている。
リティルが、インのことを聞こうとしていたことは、明らかだった。しかし、どうして聞かなかったのか、スワロメイラにはわからなかった。
十四代目風の王・インのことを、スワロメイラもよく知っていた。
ケルディアスと連んでいた奇特な精霊だ。彼と行動を共にするようになって、ケルゥの素行は落ち着いた。
しかし、ルキルースが平和になることに反して、十四代目風の王の悪名は高まった。
その原因を、スワロメイラは知っていたが否定することはなかった。インは気にする素振りなく、凛としていたからだ。そして、彼は恐れの矢面に立つことで何かを守っていたように思う。歴代二番目の強さを誇り、二番目に長く生きた偉大な風の王。そして、お節介で苦労人。スワロメイラの記憶ではそうだった。
彼の息子だというリティルには、違うのだろうか。
インの戦い方を知っているスワロからすると、リティルの戦いはとても自虐的に見えた。楽しそうに笑うくせに傷つくことをいとわない。しかし、死にたいのか?とも取れる戦い方なのに、必ず生還する。もう少し自分を守ればいいのにと、友人としてリティルを心配してもいた。そして、彼のそばで彼を見ている王妃は、かなりの精神力だなと尊敬してもいた。シェラの事は、よくリティルから聞いている。そのうち会えるだろうか。美しく強い、リティルの大事なお姫様に。
そのリティルの息子だというインファ。
彼はまた二人の王ともタイプが違った。
リティルのように飄々としているかと思えば、きっちりとした太刀筋で深追いは決してしない。共に闘ってリティルともインとも違う安心感があった。もしかすると、安定感は一番いいかもしれない。
リティルがここぞというとき連れて歩いているのは、そういうわけなのだなと、スワロメイラは思った。
「そろそろ教えてくれませんか?いったい、どこへ行くんですか?」
温かい切れ長の瞳のいい男。確かに、リティルの息子だとスワロメイラは思う。彼をインに似ているという輩の気が知れない。
「気が進まないけど、記憶の精霊んところよ。たぶん、侵入者の人間のこと知ってるわ。知りたいなら、リティルの過去、聞いてみれば?」
スワロメイラは走りながら、インファを振り返った。
「聞きませんよ?オレには今の父で十分ですから。……先代風の王の事、レジナリネイは知っていますよね?」
「あら、レジーナの名前も知ってた?インファちゃんは物知りねぇ。なぁに?リティルのお父さんのこと、知りたいのぉ?」
インファは少し困ったような顔をした。
「はっきり言って、どうでもいいんですが……生まれた時から似ている似ていると言われ続けているので、興味はあります」
「それは、無関心なの?興味あるの?どっちなの?ウチ的にはインファちゃん、あなたはインに似てないわ」
「初めて言われましたよ?」
本当に想定外の言葉だったようで、スワロメイラが言い終わるか言い終わらないかで、インファは言葉を発していた。
「あらそう?容姿だって、インのが二、三歳上だし?声ももっと低かったわ。あとその目!インは絶対零度だったもの!暖かい瞳のインファちゃんはどう見ても、リティルの息子よ」
リティルの瞳は夏の太陽のようだとするなら、インファの瞳は冬の暖炉の火のようだ。生き生きと存在感のあるリティルに隠れてしまいがちだが、インファの雰囲気は冷たさを温めるようにホンワカしていて、スワロメイラは心地よさを感じていた。絶対に、あの冷たい絶対零度の瞳とは、間違いようがない。
「そ、そうですか?あなたのことは、もう少し警戒した方がよさそうですね」
「ええー?なんでー?スワロちゃんは無害よ!っと、ついたわよ」
スワロメイラはやっと立ち止まった。彼女の前には、桜の木でできた扉が一枚あった。その扉は、壁にも巨木にも取り付けられていない。ただ、何もない空間にポツンと立っていた。ノブは桜の花びらを模してあり、よく見れば、表面には桜の花びらの彫り物がびっしり彫ってあった。繊細で爪でも当たろうものなら傷付けてしまいそうだった。
「レジーナはなかなか怖いわよ?あの娘の言葉に飲まれないでね?リティルに怒られたくないから」
「心得ました」
「うん、素直でよろしい!」
スワロメイラは扉を開いた。
扉の先は、月のない夜だった。だが、ボンヤリと大きな光がそこかしこにある。咲き誇る桜の花々が蛍のように光っていた。
万年桜の園。この部屋はそう呼ばれていた。
スワロメイラは扉を閉めると、サクサクと芝生のような短い草を踏みながら、一際大きな桜を目指して歩いた。小高い丘に立つ、桜の古木。淡い光に包まれた花びらがその木からハラハラと舞い散っていた。
「なんというか、怖いくらいにキレイなところですね」
「そうね。なんだか、取り殺されそうよね。レジーナは嫌いじゃないけど、ここは苦手なのよねぇ」
巨木に辿りついたスワロメイラは、巨木の中腹を見上げた。そこには、黒地に桜の花の模様の入った振り袖を着た十七、八才くらいの少女が浮かんでいた。まるで癖のない黒い髪は彼女の身長を優に超えて、ふわりと広がっていた。
「レジーナ、起きて!」
スワロメイラが声をかけると、記憶の精霊・レジナリネイは黒い瞳を開いた。微睡んだ瞳で、スワロメイラとインファを見下ろす。
「スワロメイラ……ラピスラズリの精霊。インファルシア……猛る風の名、持つ、雷帝、十五代目風の王の息子」
すうっとレジナリネイはインファの顔に顔を近づけて、マジマジと見つめてきた。
「十四代目風の王・インとの、類似は、魂の、遺伝子情報に、よるもの。イン……風の名、持つ、先代、風の王。リティル……目覚めの名、持つ、今代、風の王。言葉、交わす、救われる」
「インはもうこの世にはいませんよ?」
インファは、レジナリネイの黒い瞳から目を逸らせなかった。言葉が出たのはほぼ無意識で、奇跡に近かった。
「イン、の未練、リティル、の哀しみ、レジーナ、奇跡、起こす」
ふわりと細く華奢な手が、インファの両頬を包んだ。インファは、彼女の瞳の奥に何かを見た気がして思わずジッと見つめてしまった。吸い込まれそうだ……。
「ちょっと!レジーナ?待って待って!あなた、何?リティルとなんかあったの?何絆されてんのよ!」
スワロメイラは驚いて、インファをレジナリネイから引き離し背に庇った。インファは瞳を閉じて二、三度首を横に振った。何か魔法のような物を、かけられそうになっていたことにやっと気がついた。
「父さん……またですか?」
「何?リティルが何?」
インファを背に庇ったまま、スワロメイラは振り返らずに問う。
「父さんはなぜか、モテるんですよ。まったく相手にしないので、そのうち諦めてくれるんですが、たまに過剰に何かしようする輩がいるんです。スワロは大丈夫ですよね?」
「ウチ?友達よ!でも、何それ怖い!」
魅了の能力は主に、儚い女性型精霊が持つはずだ。例えば、花、宝石。しかし、リティルからは魅了の気配はしないのだが……。
「ウ、ウチが掛からなかったのは、宝石の精霊だからかもねー。ウチにも魅了の能力あるからねー。リティルったら、無自覚にやってんのよね?迷惑だわ!それで、リティルといつ接点持ったのよ?」
「スワロメイラ、いた。リティル、何も望まない」
「ウチ一緒にいたの?ってことは、あの時か。まあ確かに、捜してた割には何もあんたに聞かなかったわね。それで惚れたの?みんな聞くだけ聞いてさよならだものねー。初めての相手だったかー。でもねえ、だからって、インファちゃんに手出したら嫌われるわよ?」
嫌われると聞いて、レジナリネイはスススッと桜の巨木の中腹まで下がっていった。
「リティルには、花の姫様がいること知ってるわよね?すっぱり諦めなさい!勝ち目ないこと、わかるでしょう?それか、リティルに家族の話振ってみなさいよ。聞くんじゃなかったってほどしゃべるわよ?それで、幻滅したらいいわ!」
「スワロ、実は好きだったんですか?」
インファの問いに、スワロメイラはキョトンとした顔で即答した。
「ないわよ?ウチは聞くの好きよ?風一家面白いもの。だから、友達やってんのよ!」
インファは、純粋に父のことが好きなのだなと思った。リティルは単独行動も多く、インファはたまに心配な時があったが、ルキルースにはこんな友人もいる。あまり、心配はいらないのかもしれないと思えた。
「レジナリネイ、インの未練とは何ですか?あなたはオレに、何をしようとしたんですか?オレは風の王の息子で副官です。王よりも先に逝くことは許されません。オレの存在を脅かすことでなければ、場合によっては協力しますよ?」
インファはゆっくりとレジナリネイの前に進み出ていた。それを聞いたスワロメイラは慌てて、インファの腕を引き留めるように思わず掴んでいた。
「ちょっと、大丈夫?彼女、ちょっと、大分いっちゃってるかもよ?」
インファは、ちょっとなのか大分なのかと思ったが、そんな動揺するほどスワロメイラが案じてくれていることに、口にはしないが素直に感謝していた。
「父に嫌われる事は避けたいようなので、大丈夫でしょう。先代風の王の事は未だに父の鬼門です。最近はちょっとこじらせ気味なので、心配していたんです」
「あー……ケルゥとやり合うほどだもんねー。もう、何しちゃってるのかと思ったわよ。そっか、イン絡みか。しかたないわねぇ。あのとき、インのことレジーナに聞けばよかったのに……」
記憶の精霊を捜していたということは、インのことを聞く気があったということなのだろう。しかし、結局聞けなかった。父は何を聞こうとしていたのだろうかと、インファは当然の疑問を抱いた。
「イン、意識、未練、消えない。イン、いる、ここに」
レジナリネイはすっと桜の上の方を指さした。
「いるの?どういうこと?魂はリティルに明け渡してるんでしょう?その時点で、意識もインとしての記憶も消去されてるはずよ?」
「父が一人前になるまで、心に住んでいたと聞いていますが、消えずにいるんですか?」
「インの遺伝子情報、持つ、インファ、仮初めの、意識、宿せる。体貸して」
「本当に貸すだけ?それって、乗っ取られるってことでしょう?インファちゃん、こんなこと承諾していいの?」
「大丈夫ですよ。潔くて強かった先代の王の未練、興味ありますよ?」
ケロッとしているインファに、スワロメイラは蹌踉めいた。
「あんたやっぱり、リティルの息子だわ。インだったら、決してこんなこと承諾したりしないわよ」
呆れたように溜息をついたスワロメイラの言葉に、インファは笑った。
「父は危なっかしいですからね。危ういことを自覚してもらうためには、これくらいしないとダメでしょう。父に衝撃を与えるくらい、オレは愛されてますから効き目ありますよ」
「うん、インファちゃんがいないとリティルはダメかも。あなたを生んだ、花の姫様はホント偉大ね」
インファは素直に喜ぶには精神年齢が高い。故に、照れたような困ったような複雑な笑みを浮かべた。
「さあ、先代の王よ、オレの体を使ってください。そして、父をあなたの呪縛から解放してください」
インファは内心、恐怖は感じていた。別の意識が入ってきて、インファルシアとしての意識が徐々になくなっていく。しかし、そばに現れる温かい意識に安心してしまう。これは抗えない。父もこんな気持ちでインと共にいたのだろうか、できないはずの父と同じ体験ができることを、インファは少しワクワクしていた。
リティル達は、ルキルースに侵入した人間と遭遇していた。
人間にしては、かなりの身体能力を持つ一七才くらいの少女だった。巨木が規則正しく柱のように立ち並ぶ森は背の低い草に覆われていて、茂みや足を取られるような下生えはない。けれども入り組んだ根っこが行く手を阻む。
彼女はその根をピョンピョンと身軽に飛び越えていた。
「純粋に人間ってわけでもねーんだな」
リティルは飛びながら剣を両手に構えた。少女の鴉の濡れ羽色の髪が伸び、鎌のような姿になったかと思うと、幻夢蝶達を切り裂いていた。幻夢蝶に至近距離で手を出せば、幻夢の霧を吸い込んでしまう。少女は徐々に追い詰められていた。
リティルは空中で体制を整えると、右手の剣を振るう。剣の軌跡に大きな金色の風の刃が生まれて飛んだ。大半の幻夢蝶を消し飛ばすと、間髪入れずに、ケルゥが少女に肉迫した幻夢蝶を犬の腕で薙ぎ倒した。
「人間!知ってること、話してもらおうかぁ?」
黒い膝上の簡素なワンピース姿の少女は、突然の大男の出現で、その威圧感がもの凄かったのだろう、髪でできた鎌をケルゥに向けた。
「いちいち脅してんじゃねーよ!ごめん、こいつはこういう奴なんだ。君を傷付けるつもりはねーから、話を聞かせてくれねーか?」
リティルは、上から覆い被さるように少女に迫ったケルゥの後頭部を拳で殴った。猛獣を一撃で大人しくさせた小柄な青年に、少女は呆気にとられて戦意を消失していた。鎌の形に緊張していた黒髪がスルリと解けて、髪の長さが肩の辺りで落ち着いた。
「オレは、風の王だ。君はいったい誰なんだ?」
少女は紫色の瞳に暗い覚悟を宿していた。
「わたしは、カルシエーナ・カディナッソス。青い焔で造られた兵器だ」
兵器……その言葉に、リティルの心はざわついた。かつての自分の存在理由を思い出して、一瞬ドキリとした。インがリティルの事を惜しいと思ってくれなければ、リティルは純粋な兵器として闘いそして散るはずだった。インが守ってくれたから、リティルは今ここにいるのだ。心にインの気配がにじり寄る。
「兵器ぃ?おめぇ、その運命が嫌でここへ逃げ込んだのかぁ?」
リティルの動揺に気がつかないケルゥの声に、ハッと我に返る。
「運命を全うするため、皆に目覚めてもらわなければならない」
信じて疑わない瞳だった。表情は真逆だが、この感情をリティルは知っていた。
いけない。心が過去に戻る。グロウタースで、インと二人三脚でいたころに。あの安心感を思い出してしまう……。
十五代目風の王として君臨し、父親となったリティルの心が、十四代目風の王の息子として、庇護されていた頃に戻されてしまう──。
「目覚めさせてぶっ壊すってかぁ?どうするよ?風の王様。……リティル?」
思い詰めた顔で押し黙ったリティルを、ケルゥは訝しんだが何を思っているのか察することはできなかった。
「ケルゥ、インファを捜してくれ。あいつがいねーと、今回はヤバイかもしれねーんだ」
インファ。インファを思うと、インの影を振り払える。どんなに大きな影でも、息子の、インファの光には敵わない。この存在を父と呼んでくれ、そばで闘ってくれる彼の存在はリティルにとって、今を感じる事のできる大事な要素だった。
インファの存在は、未来を指し示す確かな光だった。リティルを過去へ戻す優しい闇を切り裂く、強烈な光だ。
「そうは言ってもよぉ、どこにいるんだかなぁ。おめぇも知ってるだろう?ここは互いに干渉できねぇ部屋でできてる。同じ部屋にいなけりゃ、気配すらわからねぇ」
「取り込み中の所申し訳ないが、わたしはそろそろ行こうと思うのだが……」
カルシエーナはウズウズと、控えめに声をかけてきた。
「行かせねぇよ?お嬢ちゃん、おめぇはオレ様達と行くんだよぉ」
ケルゥは二人の手首を掴むと、どこへ行くのかズンズンと歩き始めた。
「リティル、おめぇ一旦風の城に帰れ。そんで、頭冷やしてこいよぉ」
「ダメだ。インファをここへ置いていけねーよ」
「あのインファ様なら大丈夫だろう?おめぇ、やっぱおかしいぜ?リティルよぉ、おめぇにとって、インファってなんなんだぁ?」
「ブレーキだよ。あいつがいれば、オレはオレでいられるんだよ。特に、インが絡むとダメなんだ。そういう事案はだいたいわかるからな、インファを連れていくんだよ。カルシエーナ、ちゃんと話聞くから、今はオレ達に付き合ってくれよ」
あまり余裕のなさそうな童顔な青年は、それでもこちらを気遣ってくれている。カルシエーナにもそれくらいのことはわかった。
「わたしは迷子だ。行き先がわかるまで、あなた達といよう」
リティルはありがとうと言って笑った。その笑顔が温かく、カルシエーナは無いはずの感情を感じた気がした。
「あなた達の名前を聞いてもいいだろうか?」
「破壊の精霊・ケルディアス。ケルゥって呼べよ」
「オレはリティル。風の王だ。よろしくな、カルシー」
生まれて初めてあだ名をつけられて、カルシエーナは瞳を瞬いた。その赤黒い血のような色の瞳には、あきらかに感情が浮かんでいた。その瞳を見たリティルは、彼女に兵器になる以外の道を示すことができる可能性を見た。今回は長くなりそうだなと、リティルは前を向いた。
突然、ケルゥが立ち止まった。そして、ゆっくりと辺りを見回す。どうしたのかと問う前に、リティルも気がついた。いつの間にか、幻夢蝶達に囲まれていた。彼女達はここルキルースの警備兵的な存在だ。侵入者を排除しようと襲ってくるが、刺激しなければ精霊を襲うことはない。話のできる存在ではないために、ぶつかるなら闘うしかなかった。
「お嬢ちゃん、おめぇこの世界にとっていけねぇ者みてぇだなぁ?」
「わたしはすべてを破壊する者。精霊の世界も、わたしを敵と見なしたようだ」
「破壊する者か。おまえと一緒じゃねーか、ケルゥ」
「へへ、その破壊の力、オレ様とどっちが強えぇか勝負してやらぁ!」
「見ててやろうか?」
「リティル、サボんじゃねぇ。おめぇもやるんだよ!」
「じゃあ、オレの圧勝じゃねーか」
そう言うとリティルは、手の平を鋭く幻夢蝶の群れに向けた。リティルの手から放たれた金色の風の固まりが、尾を引いて幻夢蝶を元の霧へと返していく。リティルはたったこれだけで、幻夢蝶の群れを一掃してしまった。
「ほらな」
「狡りぃぞ!インと同じことしてんじゃねぇ!」
ケルゥはしまったと口を噤んだが、もう出してしまった名を、なかったことにはできなかった。さっき、インが絡むと不安定になると言われたところだったというのに、ケルゥはリティルを窺った。リティルは驚いた顔をしていたが、次の瞬間には笑っていた。とても嬉しそうに。
「そっか、インも同じことしたのか。インも同じだったのかもな。おまえをからかってやりたいって、思ってたのかもな」
意地悪そうにリティルは笑っていた。
「こんのヤロウ!次は絶対勝つからなぁ」
猛獣と戯れるリティルを見つめて、カルシエーナは胸が高鳴るのを感じていた。
圧倒的な力を、あの小柄な青年は片手一本で振るった。破壊する者だと心得ているカルシエーナでさえ、あれだけの力を眉一つ動かさずには扱える自信がなかった。
壊してやりたい……あの笑顔を粉々に──ハッと我に返った。そして、カルシエーナは暗い瞳にすべての感情を押し殺した。
破壊の精霊であるケルディアスはともかく、リティルとは早く離れた方がいいかもしれないと、カルシエーナは思った。あんなことを思ったのは初めてで、動揺していた。ふと、カルシエーナは大樹の影に扉が立っているのを見つけた。なんだろう。こんなところに、よく倒れずに立っているものだなと何気なく近づいた。
それは鉄の扉で、赤いペンキが血飛沫のように塗りつけられていた。ドアノブはコウモリを模していて、どこかおどろおどろしかった。
「カルシー!扉を開けるな!」
声を聞いたときには遅かった。ドアノブに手をかけていたカルシエーナは、導かれるようにして扉を引き開けていた。開かれた扉に体が吸い込まれる?ケルゥが掴んでくれなかったら、扉の中に放りだされていただろう。
ケルゥは二人を小脇に抱えて、赤黒い空に照らされた地面に降り立った。
顔を上げると、目の前には古びた洋館が建っていた。
ねえ、カコル、お客さんが来たニャンよ?
そうワンね、ニココ、ちゃんとお持て成ししないとワンね
ウフフ、ウフフ、最っ高の恐怖でね……
洋館を前にして、リティルはあからさまに嫌そうな顔をしていた。
「すまない。余計なことをしてしまったようだ」
「いいんだ。オレ達も最初に教えておかなかったしな」
リティルは許してくれたが、かなり迷惑をかけてしまったことは、カルシエーナにもわかった。
「ケルゥ、やっぱり迷宮を抜けるしかねーよな」
「正攻法ならなぁ。嫌なら、ぶっ壊してやろうかぁ?」
「壊すなよ。カコルとニココが可哀相だろ?」
「そんな甘っちょろいこと言っていやがるから、あのワンニャンがつけ上がるだぜぇ?おめぇは、お人好しすぎるんだよ!」
ケルゥはさっさと館に向かって足を進めた。リティルは溜息をつきながら、その後に続く。館へ伸びる細い道の両脇には、墓標が雑然と立ち並んでいた。かなりの年月が経っているのか、風化し崩れた物や傾いた物もあった。
「ここはいったい?」
「ここは地縛霊の迷宮だ。夢工房っていってな、夢を作る精霊達がいる工房の一つなんだ。ここの職人精霊は、恐怖の夢を作ってるんだよ。あんまり怖い想像するなよ?全部、現実になっちまうからな」
行こうと、リティルは重い足取りでカルシエーナを促した。
ギイイイイと軋む音を立てて、古びた重い木の扉は開かれた。中は、古びた木造の玄関ホールだった。赤い絨毯が真っ直ぐに奥の部屋へ続き、両脇に二階へと続く階段が備え付けられている。そのすべてが、蝋燭の明かりでボンヤリと照らされていた。見上げるとゆっくりと豪華なシャンデリアが揺れていた。
──落ちてきそうだな
カルシエーナは危なげに揺れるそれを見て、うっかりそう思ってしまった。
「ケルゥ!」
リティルは前を行くケルゥに警戒の声を投げ、天井に向かって風を放っていた。ネットのように広がった金色の風が、落ちてきたシャンデリアを辛うじて受け止めていた。つきだした右手を、支えるように添えられた左手が震えている。
「重っ!早く逃げろよ、ケルゥ!」
リティルはケルゥが逃げたのを確認して、風を解放した。ガシャンッとけたたましい音を立てて、シャンデリアはホールに落下していた。相当重かったのだろう。リティルはガクリと膝をつき、肩で息をしていた。
「お嬢ちゃんよぉ……」
ユラリと殺気だったケルゥが、壊れたシャンデリアを踏み越えてやってこようとしていた。
「怒るなよ。ちゃんと助けてやっただろ?これ見よがしに揺れてるんだ、そう思ってもしかたねーだろ?何ならケルゥ、仕返しに落っことしてもよかったんだぜ?」
リティルは当然のようにカルシエーナを庇った。そして意地悪く冗談を言うリティルの笑顔に、引き下がるしかなかった。
「けっ!出てこい!カコリーワン、ニコリーニャン!」
ケルゥの声で、リティル達とケルゥの間にポンポンッと何かが弾けて二体のぬいぐるみが姿を現した。左右で違うボタンの目をした、黄色い猫のぬいぐるみと、ピンクの犬のぬいぐるみだ。
「なんだ、ケルゥ、と、リティル様あああ!」「きゃあー!リティル様ニャーン!」
ケルゥに対する態度はぞんざいだったのに、リティルだと見ると二匹はワッと纏わり付いてきた。
「カコル、ニココ、元気だな。今日は遊びに来たんじゃねーんだ。スワロメイラを見なかったか?」
二体を抱っこしてやりながら、リティルはカルシエーナの知らない名を尋ねた。
「知らないワン。知りたいなら、レジーナに聞いたらいいワン」
「それがいいニャン。今日はスペシャルなゲストもいるニャンし、お二人様ご案~内、ニャン」
二匹はスルリとリティルの腕から逃れると、カルシエーナを捕まえて出てきた時と同じように、ポンッと破裂して消えてしまった。
「ケルゥ、壊すの禁止ワン。壊したら、お姫様の命はないワンよ?」
「うふふふふ。あははははは。頑張って辿りついてニャン!お姫様の恐怖は何色か、ニャン」
玄関ホールに二匹の精霊の声が響いた。リティルとケルゥは声を見上げ、盛大に溜息をついたのだった。
「しかたねーな、行くか」
「けっ!」
ギイイッと、ホールの奥の扉が開いた。二人の精霊は、気が進まないまま扉を潜ったのだった。
カコルとニココに拉致されたカルシエーナは、手厚いお持て成しを受けていた。
銀色の燭台に照らされた、白いクロスを引いた丸いテーブルの上には、ケーキやクッキーなどのお菓子が、所狭しと並べられていた。ニココがカルシエーナに、花柄の可愛らしいカップに紅茶を注いでくれた。警戒したが、立ち上る紅茶の優しい香りに、カルシエーナは促されるままに一口口に含んだ。
「美味しい……」
ふわりと花のような甘い香りがする。
「当然ワン!だって、シェラが調合してくれた紅茶なんだからワン」
カコルはえっへんと胸を張った。
「シェラ?」
「リティル様の奥方様だニャン。とぉっても優しくて、綺麗なお姫様なんだニャン。シェラに手を出すと、リティル様に怒られるから絶対に驚かしちゃいけないのニャン」
婚姻関係にある精霊が珍しいことを、カルシエーナも知っていた。彼の妻は一体どんな精霊なのだろうかと、興味が湧いた。と同時に、またあの衝動が襲ってくる。
──壊したい……その幸せごと
カルシエーナは小さく首を振ると、気を取り直すように、何でもいいから二人の口から出た名を尋ねる。
「イン、というのは?」
「先代の風の王様だワン。リティル様のお父さん?なんだワン」
お父さんという言葉の意味を、カコルはわからない様子だった。
「強くて怖くて、冷たい王様だったニャン」
その印象は意外だった。リティルはとても先代の王を慕っている様子だったのに、いったいどんな王だったのだろうか。
「ウニャ?あっ!これはよくないニャン!」
「なんだワン?ワンワン!いけないワン!」
突然、二匹が騒ぎ出し、すっとカルシエーナに向き合った。さっきまでの友好的な様子とはまるで違った。
「おまえは、一体何なのニャン?」「おまえは、一体何なのワン?」
二人の底冷えするような声に、カルシエーナは戸惑うしかなかった。
扉を潜ったリティルとケルゥは、等間隔に蝋燭の灯る何もない廊下を永遠歩いていた。
「やっぱり壊そうぜぇ?お嬢ちゃんは破壊する者なんだろう?そんな奴の悪夢なんて、えげつないぜぇ、きっとよぉ」
「あいつの人となりがよくわかるじゃねーか」
「見ようっていうのかぁ?おめぇは本当にお人好しだなぁ」
「そんなオレに付き合ってるおまえも、相当お人好しだぜ?」
リティルはかなり背の高いケルゥを見上げると、からかうように笑った。そんな切り返しを受けると思っていなかったケルゥは、くすぐったくなってプイッとそっぽを向いた。
「お、何か出てきたぜ?」
廊下の先が開けている。そこには、たくさんの燭台に火が灯され、十字架のような物が真ん中に立っていた。
「あれは……お、おい、リティル!おめぇは見るなぁ!」
ケルゥは慌ててリティルの前に立ちはだかった。が、遮るよりも前にリティルはそれを見てしまっていた。
たしか、こういう演出は御法度のはずだ。カコルとニココは悪夢を作るが、人の心を殺すような悪夢は作らない。彼等にも彼等なりのルールがあるのだ。
カコルとニココは、その人の大事な人の死は作らない。
「シェラ……」
十字架に吊され、固く目を閉じたシェラの口元から一筋の血が流れていた。彼女の纏う白いドレスを穢す、鮮血。シェラの顔は蒼白で、しかし穏やかだった。
リティルはケルゥの影から歩み出ると、十字架の回りにある燭台を蹴散らしながらその下まで行き、シェラを見上げた。
「ケルゥ、オレを誰だと思ってるんだよ?百戦錬磨の風の王だぜ?こんなちゃちな恐怖で、オレが動揺すると思ったのかよ?」
リティルは風を操り、十字架を粉砕するとふわりと浮かぶシェラを抱きしめた。
「オレ達は、イシュラースへ帰ったときから、こんな未来を覚悟してるんだよ。シェラはそれを承知で、オレを選んでくれたんだ。明日がないかもしれねーことを、オレ達はわかってるんだよ。それにな、精霊は死んだら消滅するんだぜ?体がある時点で、生きてるってことじゃねーか。なあ?」
ピクリとシェラは瞳を開き、微笑んだ。そして、愛しそうにリティルの首にその細い腕を回した。その幻が闇となって消えていった。
「ドッキリにもならねーな。カルシー、君は何者なんだよ?見せてみろよ」
「リティル……オレ様のほうが怖かったぜぇ」
シェラは怒ると怖いが、ケルゥは信頼していた。もしもケルゥが我を忘れたとしたら、彼女は本気で止めてくれると思うからだ。リティルには刺せないトドメを、シェラはきっと刺してくれる。
「おいおい、しっかりしろよな?おまえの恐怖も、いっそのこと晒してみたらどうなんだよ?一緒に見てやるぜ?」
普段どおりに笑うリティルを見ながら、ケルゥは聞かずにはいられなかった。
「リティルよぉ、おめぇの恐怖は何なんだ?」
「オレ?オレなんて、恐怖だらけだぜ?」
リティルはあっけらかんと答えた。当たり前だろ?と当然のように。
「嘘つけ!だったら、今のも精神的に結構くるだろうがぁ!」
シェラが……あんな……。いつでも、大事にしているというのに……。憤ってくれるケルゥに、リティルは困ったように笑うしかなかった。こんなに心配されては、落ち込むわけにはいかないじゃないかと、リティルは思った。
「言っただろ?もう今更なんだよ。死体でも最後にシェラに逢えるなら、悪夢じゃねーじゃねーか」
まったく気にした様子もなく、リティルは普段通りに笑っているように、ケルゥには見えた。
シェラが傷つく――無限の癒やしを持つシェラはきっと、リティルを思って大丈夫と言って笑うのだろう。痛みになどまったく慣れていないのに。彼女にそう言われてしまったら、リティルが傷ついた顔をするわけにはいかない。彼女の強がりを汲んで、笑っていなければ申し訳ない。シェラが傷を負うとしたら、それは命を狩る使命を持った風の王のせいだからだ。
そうだ。これは悪夢じゃない。リティルの想像した悪夢は、こんなに綺麗で生易しい物ではない。リティルがこの場所で恐怖を思い描いても、何も起こらない。だから、カコルとニココはリティルには恐怖がないと思っている。
恐怖のない心など、あり得ないというのに、あの二人は無邪気にそう思っているのだ。
ずっと一人だったケルゥもわからないようだ。
いつでも恐怖している。だからリティルは、傷つくことをいとわない。
周りにいる誰かが消えてなくなるくらいなら、皆より丈夫な作りをしているリティルが矢面に立ち、傷つき守ったほうがいい。
リティルの恐怖は、誰もいなくなることだった。大事な誰かを、失うことだった。
「やっぱり出てきたか。イン」
リティルは先の広間に、背の高い彫像のように美しい、冷たい瞳の精霊を見つけた。彼の持つ長剣から、ポタポタと血が滴っていた。彼の周りには、何者かわからないたくさんの死体が転がっていた。この光景にしたって、リティルには今更だった。風の王は闘う王だ。その道筋には死体の山が築かれる。それは、リティルの後ろも同じだった。こんな幻で、リティルの心は打ちのめされたりしない。少しばかり、傷つくだけだ。
「カルシーはオレに興味があるみてーだな。けど、想像力が乏しいな。オレに境遇が似てるみてーだけど、ずっと一人だったのか?カコル、ニココ!もういいだろ?お嬢さんを返してくれよ」
『嫌だワン』
『この娘は危険だニャン。リティル様を壊す気だニャン!』
『そんなこと、させないワン』
さすがに、カルシエーナがリティルに興味があることを気がついてしまったらしい。
「そんなこと、百も承知なんだぜ?カコル、ニココ、おまえらを壊されるほうがオレには痛いんだ!いい子だから、カルシエーナを返してくれよ」
カコルとニココは大人しく姿を現した。ぬいぐるみの顔では表情は読めないが、おそらく渋々なのだろう。カルシエーナも無傷だったが、どこか動揺しているようだった。
「カルシエーナ、オレはそう簡単には壊せないぜ?肉体も、精神もな。何があったのか、話してくれねーか?」
カルシエーナはコクリと頷くと、生い立ちを話し始めた。
カルシエーナは、赤子の時に融合の儀式を受けた。
融合された精霊の名は、セビリア。
セビリアはわたしに体をくれたなら、この大陸の争いを止めてあげると言ったという。
そして人間は、禁断の秘術に手を染めた。
「セビリア、なのワン?離れてワン、リティル様!」
「ダメダメ!やっぱりダメニャン!」
「…………」
カコルとニココのティールームで話を聞いていた一行は、セビリアの名を聞いてどよめいた。カコルとニココは慌てた様子で席を立ち、リティルを守るように抱きついた。ケルゥでさえリティルを守れるようにと言いたげに、椅子を寄せるしまつだった。
「セビリアって、ケルゥの双子の?」
「よりにもよってあいつかぁ。リティル、この件から手ぇ引け。セビリアに関わったら、いくらおめぇでも──」
「できねー相談だな」
リティルはさも当然のように言った。
「オレは風の王だ。風の王の役目は、生きとし生けるものを見守り、生き様を見届けること。オレはカルシエーナに関わった。オレには、見届ける義務があるんだよ」
「リティル!聞けよぉ!セビリアはインが死ぬ切っ掛けを作った奴だぜぇ?」
「なら、インの遺した仕事、オレがきっちり片付けねーとな」
「リティル、いいのかぁ?おめぇ、死ぬぜぇ?」
真顔で見つめてくるケルゥとは対照的に、リティルは笑い出した。
「死なねーよ。カルシエーナ、君はどうしたいんだ?このまま精霊達が恐れるセビリアに取り込まれるか、抗うか」
「わたしは……わからない。聞かれたこともなかった。ただ、破壊する者だと言われて、役目を全うしなければと……」
「オレ様としては、セビリアが出てくる前におめぇを殺したいぜぇ」
「やれといいたいところだが、わたしは抵抗するだろう。どんなに疎まれようとも、死は怖い」
「なら、抗うんだな?行こうぜ、カルシエーナ。抗う方法を探すんだ」
リティルは席を立ち、カコルとニココの制止を聞かずにカルシエーナに手を差し出した。カルシエーナは躊躇わずに、リティルの手を取った。ケルゥは触るなと言いたげに、二人の手を放させるとカルシエーナを睨んだ。
「けっ!お嬢ちゃん、妙なそぶりしやがったら、その首刎ねてやるからなぁ!」
「それでもわたしは、抵抗する」
無表情を装うカルシエーナと、憎しみを剥き出しにしたケルゥはしばし睨み合った。その間で、リティルはただ腕を組んで、笑っていた。
カコルとニココは、そんなリティルを心配そうに見つめていた。
「ケルゥ、ごめんな」
「はん!おめぇは本当にバカ野郎だよ!何でも引き受けちまいやがって。そんなに救って、どうしようってんだよぉ!」
怒りの瞳を向けられて、リティルは困ったように笑った。
「救ってるなんて、そんな傲慢じゃねーよ。オレはただ、自分らしく生きてほしいだけなんだ。例えそれが、誰かに否定されてもな」
そう言ったリティルの瞳は、どこか哀しげだった。そして、誰かに左右されないで、選んでほしいと言った。
ケルゥは、ささやかに祈るように願うリティルの様子に、底なしの優しさを感じて怒りが鎮火させられていた。そして、いったいどれだけ傷ついてきたのかと、リティルが心配になった。
リティルは自分の心がさほど強くないことを知っていた。それを見透かしているシェラに甘えることもできずにいる。強がって強がって、ここまで来てしまった。
シェラはずっと、待ってくれている。リティルが心を開いてくれることを。
あなたを独り占めできるからと言って、体を開くシェラの本心を、リティルは知っていた。開きたいのは体ではない。本当は泣いているリティルの心を開かせたいのだ。
シェラは情事の最中、何度も何度も名を呼ぶ。そして、代わりに泣く。絡まるように抱きしめてくれる腕が、癒やそうとしてくれているようで、切なかった。
オレは何も与えてやれない。ただ、君から奪うだけだ。そう思ってしまったら、もうこれ以上シェラに近づけなかった。一番守りたい相手に、リティルは守られている事実を不甲斐なく感じていた。
強くなりたいのに、強くなれない。インはどうして、孤高のまま強くいられたのだろうか。一人になりたくないリティルには、インの強さがどこからきていたのか、わからなかった。
「レジーナに会いに行こう」
ここルキルースで迷ったら、レジナリネイに会いに行くしかない。
一度だけ尋ね、その時は何も聞けなかった。あのとき、インの何を聞いたらいいのか、リティルはわからなくなってしまったのだ。
インはもういない。過去を聞いても彼を捜してしまう心と決別できない。無意味だ。そう思ったら、何も聞けなくなった。
どうしてインを捜しているのか、リティルにはよくわからなかった。ただ、会いたかった。ちゃんと別れを言えないままに、別れた父に会いたかった。
時に未練を断ち切り、魂を始まりの場所へ送り届ける風の王が、望んではいけない心を持ってしまったリティルは、その心を否定し続けながら今、何とか踏みとどまっていた。
子供達がいなければ、リティルはとっくに崩壊していただろう。
子供達をくれた、シェラには感謝してもしきれない。リティルを今へ縛り、未来へ目を向けさせる鎖。子供達がいれば、こんな心のままでも進んでいける。
ここに確かに生きていたインの影に、囚われたままでも――……
カコルとニココは、記憶の精霊・レジナリネイの部屋である、万年桜の園への扉を開いてくれた。夢工房の精霊達は、自在に部屋への扉を開く能力を持っているのだった。
万年桜の園に足を踏み入れると、知った気配がした。
インファとスワロメイラだ。彼女達はリティル達の行き先を尋ねるために、レジナリネイを頼ったのだということに思い当たった。
インファの気配を感じて、リティルはホッとした。彼の顔を見れば、自分を取り戻せる。傷ついたシェラと血まみれの剣を持ったインの幻は、リティルの心を疲弊させていた。インファに、しっかりしてくださいと喝を入れてもらいたい。
「インファ!よかった、ここにいたのかよ?」
こちらに背を向けたインファの雰囲気が、どこか違うような気がした。振り向いた彼の瞳を見たとき、リティルは驚愕で意識を失いそうになるほどの衝撃を受けた。
「インファ……インファルシア!おい、何してるんだよ!」
ケルゥとカルシエーナは、リティルの動揺の理由がわからずに、ただただ驚いてその場に立ち止まっていた。
そしてケルゥは、思わぬ者の名を聞いた。
「イン……!どうして、おまえが……インファの中にいるんだよ!」
冷たい金色の瞳が、リティルを真っ直ぐに見つめていた。インファの、父親譲りの温かな瞳ではない。彼の瞳を間違うはずがない。絶対零度の冷たい眼差しを、間違うはずがない。
インは答える代わりに、右手を下へ向かって一振りし長剣を出現させた。そして、切っ先をリティルにスッと突きつけた。
来いと言われているのだ。リティルは奥歯をギリッと噛みしめると、対のショートソードを、両手に集めた風の中から抜いて斬りかかった。
インが切っ先から撃つ、風の玉をかいくぐりながら近づいたリティルは、躊躇いなく切り結んだ。こんな風に、インと向き合うのは初めてだった。
インの剣は、優雅な剛の剣だった。一撃一撃が重い。素早く軽いリティルの剣は、簡単に弾き返された。ゆっくりした動きに見えるのに、簡単に捌かれてしまう。これほど差があるなんて!と、リティルは歯を食いしばった。
さすが、初代に次ぐ歴代二番目の強さを誇った風の王だ。
「インファ!目を覚ませ!」
今、インとインファどちらかを選べと言われたら、迷いなくインファを選ぶ。副官としてそばにいるのは、インファでなくてはダメなのだ。
その為なら、その為ならインを──!
「インファルシアは、この体を我に明け渡した」
信じられない言葉を、インは口にした。冷たく表情のない瞳。二人の真意がどこにあるのか、リティルには読むことができなかった。リティルは初めて、インを怖いと思った。
しかし、ここで臆しているわけにはいかない。リティルは自分を奮い立たせて、叫んだ。
「嘘だ!あいつが、そんなことするはずがねーんだ!インファは、オレの息子は!そんなに簡単に、自分自身を諦めたりしねーよ!」
インの剣に弾かれた大地を滑り止まったリティルは、再び斬りかかる。
「あいつは、オレよりちゃんと!」
そうだ。あいつは貪欲だ。誰よりも自分の価値をわかってる。命を無駄遣いするなんて、絶対にしない。これには、きっと理由がある。
──あいつはオレより!
「ちゃんと、生きてるんだ!」「正しく、生きている」
え?──同じ言葉をインが口にしたことで、リティルの切っ先が一瞬鈍る。
インの瞳が、スッと細くなりリティルを鋭く射抜いた。ハッと息を飲んだリティルは、長剣を捨てたインの右手に左手首を掴まれていた。
しまったと思った時にはすでに遅く、インの左手の平がリティルの体に押し当てられていた。ドンッと体を衝撃が突き抜けて、リティルの翼に細い亀裂のように風が走ったかと思うと翼が弾け飛んでいた。グラリと空中で力を失ったリティルの体を抱き留めたインは、視線だけで風を操り、姿を掻き消した。
事情を知るスワロメイラとレジナリネイは、その光景をただただ見守っていた。
イン……どうして、インファを……
疑問しか浮かばなかった。二人がこんなことをするはずがないと思っても、現にインファはインに体を乗っ取られていた。何があったのか、理解が追いつかなかった。
リティルは、やっと目を覚ました。風を叩きつけられ、一瞬心臓を止められていた。そうして、意識を奪われたのだ。
風にそんな使い方があったのかと、思わずにはいられなかった。
「リティル、相手を傷付けたくなくば、相手の意識を奪う術を知れ」
目を覚ましたとたんに説教が降ってきた。枝垂れ桜の根元に胡座をかいたインは、険しい顔をしていた。今のが試験だとしたら、間違いなく落ちているだろう。
「うるせーよ。インファは無事なんだろうな?」
リティルは消し飛ばされた翼を、気合いで復活させた。
「我を招き入れたのは、インファルシアだ」
何度聞いても信じられない。インファは自分を大事にしている。自分に何かあれば、皆が哀しむからだ。自虐的で心配ばかりかけているリティルとは違って、大人なのだ。
「あいつが?何があったんだよ?インファは冷静で頭がいい。自分が乗っ取られるかもしれねー危険を冒してまでどうして?」
「そなたを心配していた。我を捜すな、リティル」
インの瞳が、哀しそうな色を帯びた。捜していたことを指摘され、リティルは何も言えずに俯いた。リティルは矛盾に苦しんでいた。インを追ってはいけないという心と、追いかけて超えたいという心。会えない、会いたいと軽く口にしながら、どちらの心も否定していた。
「っ!」
そんなリティルを、インは抱きしめた。小柄なリティルは、ちょうどインの胡座をかいた足の上に子供のように乗せられてしまっていた。後ろから抱きしめられたリティルは、驚きのあまり硬直していた。インはずっとリティルの心にいて、触れ合うことはできない存在だった。そのインに触れられて、リティルは取り繕えなくなっていた。リティルの瞳から不意に涙が流れ落ちた。
「父──さん……!」
溢れた涙は止めどなく流れ、もう、抗うことができなかった。抱きしめてくれるインに触れたかった。けれども、できなかった。インはリティルが触れてこないことをわかっているかのように、抱きしめる腕を放さなかった。
──会いたかった!
不可能な夢が叶って、リティルはただ泣いていた。子供のように。
「風の王の職務は、そなたには重荷か?」
ずっとそばにあった声が、耳元で低く優しく語りかけてくる。年月を重ねても、容姿の変わらない精霊の精神年齢は、ずっとそのままだ。リティルは、インと別れた時のままの心だった。だからこそ、過去に戻らないように必死に前を向いていたというのに、台無しだ。
「そんなことねーよ。ただ、たまに無性に泣きたくなるんだ。オレがもっと強かったら、違ってたんじゃねーかって」
「そなたは十分強い。それは欲だ。泣きたいのなら、姫のもとで泣け。姫はずっと待っている。もう待たせるな。受け入れろ」
「今更、どう甘えろっていうんだよ?ただでさえ、不安にさせてるっていうのに、これ以上負担掛けられねーよ」
「他人行儀な。姫の不安は、そなたが隠しているが故だ。そなたがそんなでは、インファルシアは自分を犠牲にするしかない。今回のように」
振り向こうとするリティルを、インは手に力を込めて拒んだ。
「体を悪戯に傷つけるな。迷うなら、相手の意識を奪え。先に奪われたのでは、守るモノも守れない。リティル、風の障壁を使いこなせ。魔法は発想力だと教えたはずだ」
「防御系は特に苦手なんだよ。知ってるだろ?」
「そなたならすぐに使いこなせる。導こう」
インの手がリティルの手の甲に重ねられた。リティルの手の平に、風が固く編み上げられるのを感じる。こんなこともできるのかと、思わずにはいられなかった。
リティルは魔法は苦手だ。インファやインリーの方が風を操るのが上手いくらいだった。基本的な能力はリティルの方が数倍上だったが、後数年で魔法を使った手合わせでは、インファに勝つことは難しくなるだろうと、薄々感じていた。
「イン、どうしてここにいたんだよ?オレが不甲斐なくて、逝けなかったのかよ?」
「その通りだが、違う」
「どっちだよ。……そうか、セビリアのことか?」
「必ず、邂逅すると思っていた。そして、そなたに背負わせることも。リティル、破壊の力は強大だ。心してかかれ。守るモノも増えただろう?我からすれば、インファもまだ子供だ」
「わかってるさ。インファは心得てるよ。問題はオレの方だ。おまえの姿を聞く度に、追いつけないって思うんだ。オレには、イン、おまえは大きすぎるよ」
「我と正反対の道を行くそなたが、我の何を比べる?言ったはずだ、そなたは強い。我は弱き故に、孤高となり恐怖を振りまいた。笑うそなたに絆されたのは、我も同じだった。明日笑うために、今は泣け。我は再び逝かねばならない。そばにはもういられない。リティル、歩みを止めてくれるな」
別れをほのめかされて、リティルは恐ろしいほどの不安を感じてしまった。インを引き留めたい。しかし、それを口にしてはいけないと、僅かな理性がブレーキをかける。
「イン……おまえはどうやって耐えてたんだよ?怖いんだ。オレが間違ったら、誰かの道筋が消えちまう。生きられたかもしれねー命が、指の間からこぼれ落ちるのが、耐えられねーんだ」
「そなたは、別の道があることを示しているにすぎない。もっとも風らしい干渉のしかただ。選択を見守り、尊重する。我々にできるのはそれだけだ。他者が見て間違いに思える行いも、その本人には正解だ。そのことを、そなたはもう知っているだろう?それでも辛いというのなら、やはり姫を頼れ」
風の涙は恥じることではないと、インは言った。
そうなのだ。風が死者の為に流す涙は、葬送の涙といって、死せる魂にとって最大の手向けだった。
風の王になって、リティルは涙脆くなった。それは、輪廻の輪を見守る風である為だ。
風の王妃であるシェラは、当然そのことを知っている。だのに泣かないリティルのそばに、今彼女はどんな心でいるのだろうか。
「シェラの前で一度でも泣いたら、オレ、毎回泣くぜ?それって、どうなんだろうな?」
「姫はどんなそなたも、迷わず受け入れる。姫はそなたの最大の守りだ。しっかり掴んでおけ。リティル、我に囚われるな。そなたの苦痛にしかならないのであれば、これほど哀しいことはない」
「苦痛なんかじゃねーよ!おまえはいつだって、オレの目標なんだ。今回だって、手も足も出なかったじゃねーか。オレだってあの頃よりは成長してるんだぜ?それを、簡単に打ち砕いてくれたよな。さすがに凹むぜ。まだこんなに差があるのか……。オレ、これでも無敵の風の王って呼ばれてるんだぜ?」
「そなたは強い、すでに我よりも。それにはカラクリがある。十四代目風の王・インの戦い方を伝授しよう。再び剣を取れ、リティル」
やっとインはリティルを解放した。リティルは涙を拭うと、先に立ち上がった。そして、やっとまともに彼と向き合うことができた。
こうやって見ると、インファはインに瓜二つだなと思った。けれども、今まで瓜二つだと思ったことはなかった。リティルは、インファを、インと咄嗟にでも見間違えたことなどなかった。それほど、インとインファは瞳の温度と雰囲気が違うのだ。
リティルは二人が似ていることを否定したことはなかった。インファには、偉大な王と容姿が似ていることを誇れと言った。今のインファがどう思っているのかわからないが、息子は温かい雰囲気を凍らせてはいない。自分を見失うことはなかったのだと、思っている。そう信じたかった。インを知らないインファが、その容姿の為に傷ついてきたとしても。
インファの中にいるインを見つめながら、リティルの心に闇が舞い降りた。
インとインファ、リティルの過去と未来。今、どちらかを選べと言われたら──
桜の根元を離れ、二人は剣を構えて向かい合った。
「我を長く生かしたカラクリは、これだ」
インがリティルに向けて指さした。その指先から細い金糸のような風が放たれて、リティルの体に纏わり付いた。こんなモノをつけられていたとは、まるで気がつかなかった。インには超回復能力も、治癒の力を持った仲間もいなかった。それなのに、初代を除く、風の王史上最も長く生き、もっとも闘った王だった。リティルの攻撃がことごとく弾かれたように、インは相手の攻撃を一撃も受けないという驚異的な戦い方で、切り抜けてきたのだ。
「風の糸。そなたの反応速度なら、容易に使いこなせる。リティル、糸の端を指先に固定しろ」
リティルは風の糸の端を探して、言われた通りに固定する。インは糸を体に巻き付けていた。リティルにも、どういうカラクリなのか何となく理解できた。
「目を閉じて、意識を集中しろ。行くぞ」
なるほど、この糸の使い方はやはりそうかと、リティルは思った。目を閉じていても、インの動きがわかる。糸をもっと相手に絡めれば、その表情までもが見えるようだった。けれども、と、リティルは瞳を開くとインに斬りかかる。自分が攻め込むとよく見えない。インは上手く相手から攻撃させて合わせていたが、リティルは攻め込みたい派だった。
「糸をもう一つの感覚器官として使え。そなたの反応できる範囲に糸を巡らせ、触れるモノを感じればいい」
「答えをそんなに簡単に教えていいのかよ?」
「インファが目を覚ました。この体を返さねばならない」
インはそっと自分の胸に手を当てた。壊れ物を扱うようなそんな手つきだった。
「そっか……わざわざ、ありがとな父さん。最後にもうちょっと遊んでくれよ。おまえの勝手で、眠っていいからさ」
インは少し考えるような素振りをしたが、リティルに視線を戻して同意した。インファと何事か、言葉を交わしたのだろう。
リティルは見せたかったのだ。インファにインの姿を。
未だにインではないと、否定しなければならないインファに、わかってほしかった。
インがいたから、おまえの父は、今こうして生きているのだということを。
インがいたから、インファは、生まれることができたのだということを。
本気で切り結びながら、二人の王は楽しそうな笑みを口元に浮かべていた。
もう、二度とない夢の時間だ。リティルはインのすべてを焼き付けるように、剣を合わせた。風の糸はなかなか扱いが難しかった。それでも徐々に会得していく息子に、インは満足そうに付き合っていた。
──インファルシア、そなたの父の心を長らく縛り、すまなかった
『いいえ。あなたがいかに偉大か、今この瞬間わかりましたよ。背中を追いかける気持ち、オレには痛いほどわかりますから』
インの中からリティルの姿を見ていたインファは、自分が父に稽古をつけてもらっている光景を思い出していた。まだまだ大きくて遠い父が、あんなに子供のように向かってくる姿に、インに尊敬の念を感じていた。
今までインファは、インのことを考えないようにしていた。興味を持ってしまえば、自分がどうなるのか怖くもあったからだ。
風の城には、歴代王の肖像画がある。飾られているその部屋は入り組んだ城の最も奥にあって、リティルはそこからインの肖像画を外してしまった。それは、似ている似ていると言われてしまうインファを思ってのことだろうが、その絵がどこにあるのか知っている。そして見たことがあった。
鏡を持って見比べなくても、インファには自分がインと瓜二つであることがわかった。インを忘れられないでいる父が、どうして一度もこの体をインと呼ばないのか、疑問に思うほどだった。
肖像画を見てしまってから、インファはインによけいに興味を持てなくなった。
──もう二度と、我は振り返らない。リティルも、振り返ることはないだろう
『それは違いますよ?父は振り返ることをよしとせず、その為に苦しんだんです。あなたはもういないかもしれませんが、その背中はずっと父の中にあります。追えばよかったんですよ。オレ達に遠慮しないで!オレは、オレ達は、父の枷になるためにいるのではありません!共に飛ぶために、オレは!いるんです……そう、思っています』
インファは父が、子供達の父でいようとするあまりに、自分を顧みられなくなっていたことを知り、悲しかった。副官として支えているつもりだったが、やはり父には守られているのだとわかってしまった。
──我を疎ましく思わないか?
『なぜです?父を産みだし、オレ達にくれたあなたを、なぜ蔑ろにできますか?オレはあなたに似なければよかったと、心底思いますよ。オレが似てしまったばかりに、父はあなたのことを何でもないようなことのように、扱わざるを得なかった。オレの為に、大切なあなたのことを捨てざるを得なかったんです。父を追い詰めてしまったのは、未熟なオレですよ』
──インファ、苦しみをすまなかった
『いいんです。父が拗れなければ、オレはあなたに会うことはできませんでしたから。それにしても強いですね。こんな話をしながら、よく戦えますね。父が擦りもしないなんて、ありえませんよ』
リティルの攻撃は、相変わらずインに擦りもしない。赤き風の返り血王と呼ばれたインは、その身を自身の血で穢すことは決してなかったという。
──長らくケルディアスと共にいた。奴はうるさい
『あなたとケルゥが一緒にいたこと、未だに信じられませんよ。イン、もしよければオレの中に、このままいても構わないんですよ?』
──魅力的な申し出だが止めておく。そなたを導くのはリティルだ。そして、リティルに我はもう必要ない
『あなたがいれば心強いんですが、そうですか。でも、父の中にすでにあなたはいますね。父に別れを言ってください。あなたの代わりに、しっかり風の王を支えてみせますよ』
──リティルは良い息子を持った。ありがとう、雷帝・インファ
インの瞳に、見たこともない優しさが浮かぶのをリティルは見た。もう、別れが近いのだとリティルは涙をグッと堪える。ここで別れを告げれば、もう二度とインとは会えないだろう。未練を断ち切り、インは永劫の眠りに沈む。インが未練を持ち、ここで待っていてくれたことさえも、彼の性格を思えばありえないことだった。潔いインにこんなことをさせてしまうほど、彼に愛されていたことをリティルは知った。
そして、心配させてしまった。不甲斐ない息子だなと、今更ながら思う。
「リティル、我はそなたが望むかぎり、そなたの心にいる。その意味がわかるか?」
「ああ。オレはずっとおまえと共にあるぜ!もう、背を向けたりしない!イン……ゆっくり眠ってくれよな。迷子になってごめんな!それから」
リティルは一度瞳を閉じると、再び開いた。
その顔に、晴れやかな笑みを浮かべ宣言するように叫んだ。語彙のないリティルには、この言葉しか思い浮かばなかった。
「愛してるぜ!父さん」
春の嵐のような暖かな一陣の風が、インの心を吹き抜けていった。
眩しい。インはリティルの笑顔をそう思った。そして、再び抱きしめたい衝動を堪えた。ここで抱きしめてしまったら、リティルを放したくなくなってしまう。そんなことを思わせるリティルの存在が、インには未だに不思議だった。そして、かけがえのない存在だった。もう、見守ることさえできない。インの願いはただ、生き抜いてくれること。
もう、渡せるモノはすべて渡したのに、なぜだろう?離れがたい……。
「そなたを生み出せて、我は本望だ。リティル……我が息子よ、さらばだ」
貰った感情を受け止めきれないと言いたげに、逃げるように閉じたインの瞳から、涙が一筋流れた。
そして、インファの体がグラリと揺れた。リティルは倒れてくる体を受け止める。
「う……父さん?もう、いいんですか?」
小さく唸って、インファはすぐに目を覚ました。離れようとするインファを、リティルは拒んだ。ああ、そうか涙を見せたくないのだとインファは察し、しばらく体を預けることにした。
「無茶しやがって。オレがインを選んでたらどうするつもりだったんだよ?」
「父さんは、そんなことしませんよ。オレは、父さんに愛されてますからね」
冗談めかして言い放つ彼は、紛れもなくインファだ。
精霊は成長も衰退もない種族だ。インファは息子だが、精神年齢はリティルよりも上だった。故に精霊の親子の関係は複雑だ。インファとは父子であったり、王と副官であったり、何でも言い合える年の近い友人のようでもあった。
「言ってろよ。けど、まあ、そうだな。オレには、インファ、おまえしか選べねーよ」
インファはくすぐったそうに、短く笑った。
「父さん、父さんは笑っていてください。笑っている父さんは、最強ですから。そして、泣きたくなったら母さんに慰めてもらってくださいよ?」
「おまえ、いつから起きてたんだよ?インと同じ事言ってるぜ?そうはいってもなぁ、母さんにあんまり負担掛けたくねーだろ?」
「ダメですよ。泣くなら母さんの所にしてください。また勘違いする輩が出ると、いけませんから」
「ああ?勘違いってなんだよ?わかったよ、おまえには迷惑かけちまったからな、帰ったらシェラに甘えるよ」
やっとリティルはインファを解放した。リティルの顔には、もう暗い影はなくなっていた。
「父さん、帰ったら稽古つけてください。見ていて羨ましくてうずうずしましたよ」
「ハハ、まだおまえには負けないぜ?インには、逃げ切られちまったけどな。……ありがとなインファ。また不甲斐ないとこ見せちまったな」
「いいえ、いつものことですから。オレこそ、軽率なことをしてすみません。そして、オレ達の父でいてくれて、ありがとうございます」
インファの言葉に、リティルは照れたような笑みを浮かべた。
「父さん、先代の王のこと、ちゃんと聞かせてくださいよ?それから、肖像画、元に戻してください。独り占めにしたいかもしれないですけどね」
インファは、インの肖像画がどこにあるのか知っている。それは、風の王夫妻の寝室だ。それはカーテンの影にあって、昼間は束ねられたカーテンに隠れるようにしてあった。夜はリティルがいてもいなくても、何人も入ることは禁じられている。子供達の目に触れることのないようにしてあったのだ。
「独り占め?なんだ、知ってたのかよ?肖像画のこと。おまえがいいって言うなら、ちゃんと飾るよ。そろそろオレ達の絵も描くか?」
「もうこれ以上兄弟が増えないなら、描いてもいいんじゃないですか?」
「はは、増えねーよ。翼は一対しかねーからな」
からかうようなインファの言葉に、リティルは乾いた笑いを上げた。
インファから、レジナリネイの桜にインの思念がいたこと聞いたリティルは、彼女に感謝しなければならないなと思った。
インとの別れは辛いが、きちんと向き合えたことで、リティルは大きな父の影から逃げなくてもよくなった。インはここにいる。一緒にいるんだと力強く思えるようになった。
もう、去るその背を追えずに、打ちひしがれなくていいのだ。その悪夢にうなされなくてすむ。
城に戻ったら、シェラに話そうとリティルは決めた。
永遠に舞い散る桜の花びらが、深く深く夢の底へ誘うようで、リティルはまだどこか、夢を見ているような気分だった。
しかし、それを見たとき、意識は冷や水を浴びせられたように覚醒していた。
レジナリネイの桜前では、スワロメイラとケルディアスが一触即発の状態だったのだ。
声は聞こえないが、スワロメイラとケルゥは言い争いをしているようだ。一体どんな状態なのか、あのカルシエーナを嫌がっていたケルゥが彼女を小脇に抱えて、どうやら守っているようだった。
「スワロメイラ!」
スワロメイラが両手にチャクラムを抜き、こともあろうかケルディアスに斬りかかっていった。リティルは翼をはためかせると、鋭く飛ぶ。ケルゥは敵対するモノには、条件反射で攻撃をしてしまう。宝石の精霊であるスワロメイラでは、かすっただけで壊されてしまうだろう。
オレの目の前で、命を奪わせない!
リティルは、ケルディアスの振り上げられた黒犬の腕の前に、その背を投げ出した。
リティルに圧勝したインを見送ったスワロメイラは、ケルゥにやっと視線を合わせた。
スワロメイラは、今までケルディアスと関わったことはなかった。けれども、よく知っている。インと連んでいた彼を、遠巻きに観察していたからだ。
ケルゥは、インと連んでいた頃より、さらに雰囲気が落ち着いたなと思った。そして、もっとも変わったのは纏う霊力だ。ケルゥは両手に破壊の霊力を纏って、触れるモノ触れるモノ壊して回っていたのに、それがいつの間になくなっていた。それどころか、インファやリティルに気安く触れ、二人も全く恐れずに触れられていた。
スワロメイラでさえ近寄りがたかったケルディアスが、風の城に監禁されたと聞いたのはいつだったか……そして今、目の前にいる彼は躾けられた飼い犬になっていた。
ルキルースの猛犬を躾けたのは、リティルなのだろうか、インファなのだろうか。どっちなのかわからないが、今のケルディアスとはまともに話せそうだ。
「あ、ケルゥいたの?」
気がつかなかったわと、スワロメイラはからかうように、ケルゥに声をかけてやる。
「スワロてめぇ!ワザとオレ様達を落っことしやがったなぁ?」
ケルゥの剣幕にも、スワロメイラは涼しい顔だった。しかし、聞き捨てならないと、きちんと反論した。
「人聞きの悪いこと言わないで!ウチらを遠ざけたのは、あなたでしょう?」
スワロメイラとケルゥは睨み合ったが、それは長くは続かなかった。
「で、ありゃぁインだよな?どういうこった?」
スワロメイラは微睡むレジナリネイと目配せすると、顛末を伝えた。
「インが未練だぁ?ありえねぇ!……いや、リティルが相手じゃ、あり得るんかぁ?まったく常識の通じねぇ野郎だなぁ。あの孤高の赤き風の返り血王が絆される、その息子かぁ。なんかよぉ、羨ましいよなぁ」
「そうね。精霊同士でも、あんなに想い合えるものなのね。絆、か……。インファちゃんも、思い切ったわ。風一家恐ろしいわよ?」
「そんなん今更だぜぇ?けどなぁ、あの城でぶっちぎりなのはよぉ、シェラだ。母ちゃんの怖さは半端ねぇ」
城を守るシェラは、文字通り最後の砦だとケルゥは言った。
「あらあら、魔犬まで手懐けちゃうなんて、やるわね、お姫様」
ますます会ってみたいと、スワロメイラは楽しそうに笑った。
「なあスワロ、おめぇ、インのこと知ってっかぁ?」
「イン?共闘したことあるわよ。孤高で潔くて、真面目な苦労人よねぇ。リティルがお父さんだって言うから、最初驚いたわよ。あのインといて、あんな笑顔の素敵な息子が育つものなの?って。まあ?リティルと接すると似てなくもないけど」
「ホントかぁ?似てる所なんてあるかぁ?」
「二人とも結構荒っぽいわよ。ほら、インは赤き風の返り血王で、リティルは台風大王でしょう」
「似てるか?静と動って感じじゃねぇか。台風大王……あいつそんな風に呼ばれてるんか」
「そうそう、核心ついてて笑えるわあ。あと、破天荒っていうならインもじゃない。あんたを手懐けたのはインが最初よ。みんな、リティルが最初だと思ってるけど。前代未聞なのは、二人とも同じなのよ」
「十四代目風の王・イン、融合の秘術、使い、復活しなかった、最初の精霊。リティル、融合の秘術で、生まれた、最初の精霊」
「融合の秘術か。あの邪法……確かに、三つ目の人格が体を支配してるなんて、信じられねぇ」
「体の提供者は死んじゃってたらしいから、インが新たな器に名前をつけて、呼び覚ました人格ってことになるわね。融合の秘術は、精霊が復活する為に使う邪法なのに、インは息子を造るために使ったのねぇ。どんな気持ちだったのかしらねぇ。リティルが心配で、インファちゃんを乗っ取らないといいけど」
「おめぇ、そんなにインと仲良しだったかぁ?」
ケルゥは、インと連んでいたころ、彼がスワロメイラと接点を持っていたのを、見たことがなかった。ケルゥはあのころ、語ることが恥ずかしいくらいインにベッタリだった。それなのに、スワロメイラはインを深く知っているようで、ケルゥは気になった。
気になる?ケルゥは今まで、自分と関わりのないことには、とんと興味がなかったのに、今、霧が晴れたかのように、周りが見えていることが不思議だった。そして、今、とても楽しかった。
「仲良しだったわよぉ?なんちゃって、あんた達が来る前に、本人とレジーナから聞いたのよ。あの冷静沈着なインが、ソワソワしてたわよぉ?会いたかったのは、二人とも同じだったのよ。あんな展開になるなんて、驚きの再会だったわけだけど、ちゃんと話せてるかしらねぇ」
やっと会えたのに、リティルは喜ぶどころか、インファを思って怒り狂っていた。その怒りを当然と受け止めて、刃を突きつけるインもインだ。普段無茶苦茶に見えて、実は冷静に闘っているリティルの剣は、今日はいつになく感情的だった。それを受け止めるインは、相変わらずの無表情で当時の強さを見せつけるように振るっていた。やはり、リティルであってもインに擦りもしないのかと、スワロメイラは思った。
圧倒的な強さで、リティルを蹂躙して飛び去ったイン。
彼に傷を負わせたのは、ケルゥの姉であるセビリアだけだ。それがもとで、インは代替わりを余儀なくされた。スワロメイラは、セビリアさえいなければインは……そう思って、それではリティルに出会えなかったのかと思い直す。
リティルの涙を知っているスワロメイラは、あんなに会いたがっていたインと、すぐに離れなければならない彼を想って、切なくなった。
セビリア……嫌な女。
スワロメイラは、実は、インの相棒として行動していた時期があった。
しかし、インがケルゥと連むようになってすぐ、彼に距離を置かれてしまった。ケルゥといるとセビリアに狙われる。インは、スワロメイラに危害が加わらないように遠ざけたのだ。素直ではないスワロメイラは、偽らずに、距離を置く理由を語ってくれたインに、清々すると言い放ってしまった。まさか、もう二度と会えなくなるなんて思わずに。
「で、その娘が捜してた人間?」
スワロメイラは、ケルゥの後ろにあった気配にやっと反応して覗きこんだ。
「カルシエーナ……人間とも精霊ともつかぬ者。融合の秘術、セビリアの魂を内包する」
レジナリネイが虚ろな声で分析を語る。それを聞いたスワロメイラの雰囲気がザワリと変わった。
「セビリアですって……!ケルゥ、なんでそんなのと一緒にいるのよ!こっちへ寄越しなさいよ!殺してやるわ」
無表情を装って、けれども、抑えきれずに、リティルに会いたい気持ちを滲ませていたインの、その様子がスワロメイラの脳裏に蘇った。
インは、セビリアに殺されたようなものだ。その息子のリティルまでもが、あの女の餌食になるの?風の王に生きていてほしい!そのささやかな願いをまた壊される!スワロメイラは、カッと一気に頭に血が上るのを感じた。
「待て待て。お嬢ちゃんの命は、リティルが預かってんだ。渡せねぇなぁ」
ケルゥは体を斜に構え、カルシエーナを庇った。
「リティルが?そんなのハイそうですかなんて、言えるわけないじゃない!余計にダメよ!リティルを破壊させるもんですか!ケルゥ、あんたわかってるでしょう?」
「わかってるわかってる。スワロ、リティルは本気なんだよなぁ。そしたらオレ様は、その願いを叶えてやりゃにゃぁならねぇのよぉ」
「どうしちゃったのよ?ケルゥ……あんたもリティルの魔法にかかってるの?達悪いったらありゃしない!だったら、強行するまでよ!」
スワロメイラはチャクラムを両手に構えた。そして、ケルゥが咄嗟に後ろに押しやった、少女に目掛けて走る。
「スワロメイラ!」
「!」
どこからかリティルがこの名を呼ぶ声が聞こえて、スワロメイラは一瞬躊躇してしまった。気がつけば、ケルゥの犬に変化した腕が迫っていた。その腕を瞳に映して硬直した体を、眩しい金色が包む。
パキンッパキンッと何かが割れる音がして、僅かに金色の羽根が舞い散った。
「……間に合った……インファ、ありがとな!」
インファは上空で、リティルに向けて両手をかざしていた。風の障壁をリティルの前に作り出し守ったのだ。リティルも苦手ながらインに教わった通りに障壁を作っていたが、破壊の精霊の渾身の一撃を前に砕け散り、インファの障壁が辛うじて食い止めてくれた。
「リティル!ぎゃああ、おめぇ大丈夫かぁ?」
リティルだと見るや、ケルゥが血相を変えて飛んできた。
「大丈夫だ。インの手厚い指導のおかげだな。ちょっと、掠っただ──け?」
グラリとリティルの視界が揺れた。これは、何か毒のようなものに冒されたときに似ていた。
しかし、いつの間に?
「破壊の毒が回り始めてるわ!バカ!ウチは壊れたって何度でも甦る不死身の精霊なのよ?それなのに、庇ったりして!リティルしっかりして、お姫様を呼んで!」
リティルの容態を確かめたスワロメイラは、金切り声に近い声でわめいた。
そうだった。ケルゥの犬の爪には毒があったのだ。少しでも掠ると、毒が急激に体に回ってしまう。そして、ケルゥにはそれを解毒することはできなかった。スワロメイラに、解毒の方法を持っておきなさいよと、言われていたところだった。
「ダメだ、シェラには、解毒できねーんだ。オレなら、頑張れば一日で──」
「そんなこと言ってる場合?いい?ケルゥの毒は細胞を壊すわ、だからあなたの超回復能力とお姫様の癒やしの力で、相殺できるかもしれないわけ。そしたら、早く毒を中和できるでしょう?早く、呼びなさいよ!」
うずくまるリティルの背をさすりながら、スワロメイラは叫んだ。しかし、リティルは首を横に振った。なぜ?と問う彼女に答えたのは、インファだった。
「継続的な苦痛は、ゲートで繋がった母にも伝わってしまうんです。しかし、父さん、母さんを頼った方がいいと思いますよ?」
リティルの顔は苦痛に歪み、汗が滴り落ちるほどだった。相当に辛いのは見てわかる。
「ケルゥ、あの娘はどこ?どこへ行ったの?」
カルシエーナがいなくなったことを、スワロメイラは気がついてしまった。リティルがこんなときに、逃げ出すなんて、なんて迷惑な娘なのだろうか。スワロメイラが、追おうか留まろうか迷っていると、リティルが顔を上げた。
「イン──ファ、カルシエーナ、黒いワンピースの女の子を追ってくれ。う、くっ──ケルディアス、雷帝と一緒に、行け。あいつは──一人に、するな……!」
「父さん、副官として今の王を置いては行けません」
インファはうずくまるリティルの前に跪き、苦言を呈した。
「セビリアに……は、一人じゃ、勝てねー……インファ、頼んだ──ぜ」
リティルは顔を上げていることすらできなくなり、体をくの字に折って額を大地につけた。それでも、手探りでインファを捜し、息子の腕を震える手で強く摘んだ。
もう顔を上げられないのに、それでも瞳だけ見上げてくる。苦痛に苦しみながら、それでも輝きを失わない瞳に、インファは結局は引き下がるしかない。いつでもそうなのだ。全く困った父だなと思う。
「はあ……わかりました。仰せのままに。ケルゥ、行きましょう。スワロ、父さんをお願いします」
インファは溜息をつき立ち上がると、オロオロするばかりのケルゥを促した。
診たところ体に入った毒は少量だ。父なら、母の手を借りなくても半日ほどで何とかするだろうと、インファは判断した。ここにいても、インファには何もすることがない。
ならば、行くしかない。
「カルシエーナ、断崖の城、扉開いた。ガーネット、散りばめた、石榴の実の扉、あっちへ、インファ」
レジナリネイがスッと指さし道を指し示してくれた。インファは彼女に頷くと、ケルゥの背を押して飛び立った。
リティルの背をさすりながら、残されたスワロメイラは唇を噛んだ。
宝石の精霊は、壊されてもすぐに蘇る。またスワロメイラは同じ存在として、壊れる前記憶を持って復活するのだ。それを知っているはずなのに、リティルは躊躇いもせず庇いに来た。彼はそういう男だ。今回は、傷を負わないように手を打っていたが、インに再会する前なら、その身でケルディアスの爪を受けていたことだろう。そう思うとゾッとした。
助けなければ。この無茶な友人を、早く苦痛から解放してあげたい。けれども、この頑固者は、無限の癒やしを持つ奥方を頼ろうとはしない。こんなときなのに、ちょっとくらいの苦痛が、彼女に行くことを嫌がって強がっている。本当に世話の焼ける男だ。
「リティル、お姫様を頼る以外にもう一つ手があるわ」
そういうとスワロメイラは、リティルを仰向けに転がした。息が上がり、頭も朦朧としているようだった。そんなリティルの顔にそっとスワロメイラは顔を近づけた。
「ウチとキスするのよ。宝石の精霊の唾液には、ルキルースの毒を消す力があるわ」
つぅっと、スワロメイラはリティルの頬を指でなぞった。ピクンとリティルは無意識に反応して、僅かに仰け反った。
「苦しいでしょう?破壊の毒は、長ーく獲物を痛めつけるわ。どうする?ウチとキスする?」
リティルは声なく首を横に振った。
「じゃあ、お姫様を呼びなさい。そうしないなら、その唇奪っちゃうわよ?今のあなたをねじ伏せるくらい、ウチにもできるんだからね」
馬乗りになったスワロメイラは、リティルの両手を押さえ込んだ。そして、顔を近づける。
「うう──シェラ……」
苦痛に緊張していたリティルの体から、力が抜けた。そして、詰めていた息が吐き出され、息苦しそうに浅く息をつく。その体が、ボンヤリと白い光に包まれた。シェラが癒やしの力を送ってくれているようだ。
はあと息を吐き、スワロメイラはリティルの上から降りた。
「まったくもう。お父さんじゃなくても、ほっとけないわよ」
リティルの傍らに座り込んだスワロメイラのそばに、レジナリネイがスウッと近づいてきた。彼女の微睡んだ瞳が、心配そうにリティルを見つめていた。
あらあら、感情なんてないようなこの娘が一丁前に他人を心配するなんて、と、スワロメイラは苦笑した。リティルと関わると、皆感情豊かになるなぁと、スワロメイラはレジナリネイを見つめていた。そして、それはウチも同じか、と、未だ苦しむリティルを見下ろして、温かく苦笑した。
「ねえ、レジーナ、リティルのお姫様のこと知ってる?」
もう待つ以外になくなったスワロメイラは、暇つぶしにレジナリネイに尋ねた。
「花の姫、シェラ・アクアマリン。精霊の力を譲渡され、精霊になった、元人間。神樹の精霊・ナーガニアは、精霊的母親。関係は良好。十五代目風の王の妻、風の王と、何者にも切れない、絆で、結ばれている」
「元人間?切れない絆?いろいろ気になるプロフィールね。ねえ、今、どんな状態?」
「破壊の毒、影響大きい、同じ苦しみ。けれども、嬉しい?リティルに、頼られたこと、ないから」
レジナリネイはよくわからないというように、言葉を口にする。
「頼ってるよ。けど、シェラはそうは思わねーんだよな」
リティルの息は荒く、動けない様子だったが頭ははっきりとしたらしい。
「今、嬉しいから、逃げない。リティル、闘ってるから、一緒に」
「健気ー!やだ、もっと教えて」
スワロメイラはキャッキャしながら、レジナリネイに先を促す。
「リティル、頑張って、ゲート、閉じないで。わたしは、大丈夫、だから」
「レジーナ……もう実況はいいからな?」
どんな拷問だよ?と、リティルは力なく笑った。
「いいじゃない。何よぉ、頼ってあげてないのぉ?あんたはしょっちゅう怪我してるくせに。お姫様は無限の癒しなんでしょう?最っ高のパートナーじゃないの」
「リティル、自虐的?だから」
「それねぇ、マゾっていうのよ」
「うるせーよ。すぐ治るからな、無頓着になっちまったんだよ。インにも怒られたよ。レジーナ、インのことありがとな。桜の中に匿ってくれてたんだろ?」
急に水を向けられて、レジナリネイはフルリと身を震わせた。
「あー、ダメだわ。ありがとうも初めてだった?」
「ああ?何の話してるんだよ?」
「レジーナ、役に、たった?」
レジナリネイは微睡んだ瞳で、リティルの顔を覗きこんだ。
「ああ、君のおかげで絶対に会えない奴に会えたんだ。ありがとな」
「リティル、インファちゃんが苦労するから、それ以上レジーナを刺激しないで」
スワロメイラは、ゆっくりとリティルの顔に間合いを詰めそうなレジナリネイを、慌てた様子で引き離した。唇を奪われそうになっていたというのに、気がついていない様子のリティルは、怪訝な瞳で見返すだけだった。
「おまえ、さっきから何言ってるんだよ?……スワロ、破壊の毒に解毒剤はねーのか?」
「ケルゥに、解毒の方法作っておきなさいって、言ってたところよ。なんでとか抜かすから、呆れたわよ。あなたを傷付けて、やっと必要性をわかったんじゃない?ということで、ないわよ。解毒の方法」
「おまえは、作れねのーか?ある意味解毒剤だろ?」
「何よ?ある意味解毒剤って。うーん、わたしには無理ね。でも待って、ナシャなら作れるかも」
「ナシャ?聞いたことねーな」
「そりゃそうよ。だって、ドゥガリーヤに幽閉されてるもの」
ドゥガリーヤは世界の最下層にある混沌の世界だった。すべてはドゥガリーヤに塵となって落ち、新たに生まれる。すべての源ともいえる場所だった。風の王が見守る、生命の生き死にを表す輪廻の輪の始まりと終わりに位置する場所だ。
「ナシャ・ユニコーン。あらゆる状態異常を、回復する。探究心、暴走、精霊、解剖した、罪、現在、ドゥガリーヤに、幽閉中」
「なんか、やばそうな奴だな」
「いうほどやばくないわ。ウチのお茶友達よ」
「おまえ、変な知り合い多くないか?それより、ドゥガリーヤに行ってたのかよ?」
そんな報告は上がっていなかったはずだけどなと、リティルは顔には出さずに思った。
ドゥガリーヤへの門は特殊で、風の王の監視下にある。それ故に、風の領域に住まう精霊獣である剣狼達と、風が、その門に近づいた者のことを報告してくるようになっていた。
「あなたが王になってからはないわよ。風の王が不在の間、ゲートはある意味無法地帯だったから、遊びに行ってたのよ」
「ナーガニアがいるだろ?どうして、そんなことになるんだよ?」
「ナーガニアは人見知りなの。風の王嫌いっていうのも、嫌よ嫌よも好きのうちよぉ。インとそんなに険悪だったわけでもないし。そんなこんなで、結構どこにでも開いてたわ」
「ゲートが開きまくりって、考えただけでも目眩がするぜ。そのうち火消しに回らねーと、いけなくなりそうだぜ。で、そいつならできそうなのか?」
「たぶんね。セビリア対策よね?」
「ああ。オレは怪我には強いけど、毒には弱いんだよ。前より耐性あるけどな。あんな、ちょっと掠っただけで全身に回るような毒、もう、くらうわけにはいかねーからな」
よっと、と、リティルは体を起こした。もう、破壊の毒は中和できたらしい。シェラに手伝ってもらったといっても、異例の速さだ。おそらく本当に、リティル一人でも対処できたのだろう。ゲートを開けば心配させると思って、頼れないリティルの気持ちが何となくわかったような気がした。
自虐的だとからかったが、インのように、傷を負わずに戦い続けることは普通できない。リティルは死なない術は心得て動いている。戦い続ける運命から逃れられないリティルには、ある程度は仕方のない事だった。
「行くしかないわね、ドゥガリーヤ。その前に、ケルゥに毒のサンプル貰ってこないとね。行けそう?リティル」
「ああ、迷惑かけたな。もう、大丈夫だ」
立ち上がったリティルは、体を確かめるように伸びをした。
「そう、よかった。ねえ、リティル、心臓に悪いから防御も考えてよね?」
俯いたスワロメイラの、ズボンを握った両手が微かに震えていた。本気で心配してくれたのだ。リティルは困ったような嬉しいような顔で、頬を掻いた。
「スワロメイラ、心配かけちまって悪かったよ。そうだよな、考えてこれだからな。インに怒られて教えてもらってなかったら、死んでたな。反省してるって、城に戻ったら、シェラにも怒られるさ」
「ちゃんと反省してよ?レジーナ、インファちゃん達はまだ断崖の城にいるの?」
「インファ、カルシエーナ、捕らえた。断崖の城、留まる。今なら、間に合う」
「もう捕まえたのかよ?さすがだな、インファ。じゃあな、レジーナ、ありがとな!」
リティルはオオタカに化身すると、スワロメイラを背に乗せて空に舞い上がった。
この部屋から出ることのできないレジナリネイは、その姿を眩しそうに見つめていた。そして、一つ大きな欠伸をすると、すっと瞳を閉じた。
彼女の体がふわりと宙に浮き、長い長い髪が空気を染めるかのように広がった。