緑青の三日月 前編 (暑中見舞い)
緑青の三日月
「あ」
それは集まった三長の誰のものだったのか。
ビオルのいつも笑っている口許が、愚か者の不用意な発言で更に片方だけつり上がる。
それはまるで、三日月みたいだった。
樹宝は大陸の心と呼ばれる存在である。
大陸の心の化身。人間からは精霊王とも呼ばれる事がある存在。一応、偉い。……はず。
しかしながらその偉い精霊王様は現在、風の精霊を束ねる長によって人間の街にある、一つの店に放り込まれていた。
いわゆる、娼館と呼ばれる店に。
「何故、私まで……」
お供(と言うかついでに巻き込まれた)は、妖を束ねる王、ナハト。
そして本日の主役、精霊王の樹宝は自分をここに連れてきて、そして帰ろうとしている風の長を信じられないという思いを込め、左右色違いの瞳で見上げていた。ちなみに正座させられて。
心境を的確に表すなら、今まさに捨てられる子犬である。
薄茶色の布の塊にしか見えないローブやマントで露出のほとんど無い風体の風の長は、数少ない露出である口許に、初対面なら確実に逃げ出す不審者ばりの笑みを浮かべていた。
「ビオルさん……?」
不審者の笑みはいつもの事なので大した問題ではない。
が、問題はフードの下にある瞳が全然笑っていない事。
「樹宝さんや」
「はいっ!」
思わず背筋を伸ばす。
「私ぃ、ずうっと言ってたよねぇ? リトさんに対する気遣いがぁ、足りないってぇ。女性の扱いをぉ、学んでおくようにぃってぇん」
静かに。しかしじわりじわりと。
これが世に言う真綿で首を絞められるというものか。
「でもぉ、いくら言っても全然聞いてくれる気がぁないようだからぁ、ちよぉっとここのぉお姉さん達にぃ、お勉強させてもらってぇ?」
風長の背後から包囲するようにずらりと並ぶ、この娼館きっての美女たち。その誰もが大変美しい。
普通の男ならすわ桃源郷か楽園かと大興奮してもおかしくないのだが、何故だろう。
正座する樹宝には魔王とその配下の魔物軍に見えた。
ぶっちゃけて言ってしまうと、マジ恐ぇ、である。
「うふふ。この人が布さんのご依頼の子かしら?」
「あらヤダ、意外とカッコいいー」
「こっちの黒髪の殿方も?」
「ごめんねぇ、仕事前の貴重な休息時間を割いてもらっちゃってぇん」
「あら良いのよ。布さんにはいつも良い薬卸してもらってるものぉ」
あはは、うふふ。
魔王とその配下はとても和やかね雰囲気で笑い合っている。
「で。なぁに逃げ出そうとしてるのかなぁん? 樹宝さんやぁ」
パチン。そんな軽い音が布の指先から鳴ったと同時。
樹宝の目の前で、出口の扉は容赦なく閉まった。
「ビオルさん……」
逃走とは成功すれば無傷だが、失敗した場合は逃げられない上にさらにダメージを受けるものだ。
「ナハトさんや」
「何だ」
「悪いんだけどぉ、樹宝さんが逃げないようにぃ、ここで見張っててくれるかなぁん?」
「だから何故、私まで」
「ナハトさんや」
「だから」
「最近、ちゃんとお家に帰ってるぅ?」
「…………」
ピタリと。ナハトの動きが止まる。
「竜妃さんがぁ、あんまりにも目に余るってぇ、この間わざわざ来たよぉ?」
前回帰宅した日を思いだそうとしているのか、ナハトの顔が段々青ざめ始めた。
「うちにはぁ、よく顔を出すけどぉ、お家の人よりぃ頻繁に顔会わせるのはどうなのかなぁん」
「だ、だがしかし、私の場合は務めで。決して遊び歩いているわけでは」
「そうだねぇ。妖関係の事を収拾つけるのはぁ、大切なお仕事、だけどねぇん?」
「…………」
「何かお土産とかぁ、今度の帰宅では持っていった方が良いんじゃあないかなぁん?」
妻の話を持ち出すとか卑怯だろこの布、と思ったとしても口に出せる雰囲気ではない。
かくして、精霊の王と妖の王は揃いも揃って『女心を学ぶ』一日限定スペシャルな授業を受けることになったのだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「それでは、授業を始めましょう」
いかにも不満そうな樹宝と何で私がという顔のナハトを前に、教師役として前に出た女性が笑顔で手を叩いた。
「「うわ!」」
途端、不満メンズの頭上にバケツをひっくり返したような水が降り注ぐ。
「てめぇ、何しやが」
「人の話を聞く態度と顔じゃないわぁ? やり直し」
うふっ、なんて。ニコニコして樹宝の様子に怯むこともなく女性は朗らかにそう言う。
「ちなみに。布さんから預かったものが幾つかあるのよぉ。態度が悪かったら、容赦なく使ってかまわないって言われているわ」
恐らく先程の水もそのアイテムの効果なのだろう。布は本気だ。
「おい。貴様の所の風長どうにかならないのか」
「うるせえ。俺がビオルさんをどうにか出来るわけねーだろ」
「自分の部下を御せないのは問題だろう!」
「ビオルさんは部下じゃねぇ!」
「はいはい。お喋りはそこまでよー? さ。聴く姿勢とって」
パンパン、と女性は両手を打ち鳴らす。
思わずまた水が降ってくるかと身構えた二人だったが、そうはならず。安堵しつつもひとまずどうにも出来ない状態に、服を風を操り乾かしつつ、樹宝は唸る。
逃げ出したい。だが現実としてそれは難しいだろう。
何よりも兄のような存在に課された課題である。拒否権はあるけど無いようなものだ。
「じゃあ、好きな女性について、どこがどんな風に好きなのか話して頂戴」
「おい」
気を取り直して向かい合った瞬間に言われた指示に、樹宝は思わず半眼で声を上げた。
「何かしら?」
「何でそんな事を言わなけりゃならねーんだよ」
いらねーだろ、と言う樹宝に、女性はフッ……と笑って片手を頬に当てた。
「だから女心がわからないって言われるのよねぇ」
「なっ」
「そちらの黒髪の殿方はどうかしら?」
樹宝を綺麗に黙殺し、女性はナハトに話を向ける。
「そうだな……竜妃は他のものを束ね、私の不在をしっかりと守ってくれている。皆からの信頼も厚く、私も安心して己が務めに出られるのも彼女のおかげだ。感謝している」
「はい、三十点」
「なにっ?」
何故だ! とナハトが声を上げるも、女性は非常に残念そうに首を横に振る。
「本当に、揃いも揃って顔しか取り柄がないのかしら……」
「「おい」」
思わず樹宝とナハトの声が被った。
「一つも言えないこちらはともかく」
「あぁ゛?」
「何故、私がその評価になる」
「あら。だってその評価、愛しい相手の好きな所でなく、部下に対するものでしょう?」
女性の言葉にナハトが目を見開く。
困った子供を見る目で、女性はおっとりと首を傾げた。
「私が訊いたのは、お相手の『好き』な所よ?」
樹宝とナハトは二人揃って今度は絶句する。
特にナハトは呆然とした体で。
「別に常に言う必要は無いけれど、やっぱり好きな相手には時折言ってほしくなるものだもの。その時にそれを聴かされたら……私なら悲しくなるわ」
ナハトの頭上に見えない重石でも落ちてきたのか、ガクッと項垂れる。
「それで。そちらの貴方はどうかしら?」
どうと言われても。
何でそんな事をと、今はもう言える雰囲気ではないとわかっているが、言いたくない。
ぐっと奥歯を噛み締めるその頬が赤く染まっている事に、本人とショックを受けているナハトは気づかなかったが、それ以外の見ていた全員がばっちり気づいて、密かに内心『あら可愛い』なんて思われていたのだが、知らないというのは幸せな事だ。
「…………良くも悪くも真っ直ぐだ。根性もある」
「…………」
ショックで沈んでいたナハトが、胡乱げな顔で樹宝を見遣る。
貴様それ本気で言ってるのか? という顔である。
「何か文句あるのか。部下評価」
「黙れ。乙女の好きな所がそれだというのか、いい加減愛想を尽かされるぞ愚か者」
「うっせぇ、てめぇが黙れ」
正直、どっちもどっちであるのだが。
こういう事は当事者達ほどわからないらしい。
教師役一番手の女性はそんな二人を見て、後ろに控えた他の講師陣と目配せすると、高く音を立てて両手を打ち鳴らした。