68『我が家』
影空間を漂うジェラルディンは、目的の場所に現れる時、自分の失敗に気づいて溜息した。
しかし。
「あら?」
ついつい侯爵邸への転移は自室に戻ってきてしまう。
ジェラルディンが出奔するときにすべての私物、家財を持って出ていたので、何もないはずの部屋に現れたはずだった。
まず気づいたのはカーテンがわずかに開いていて、差し込む月明かりだった。
その光が照らす室内には、よく見ると家具が配置されている。
「【ライト】」
前回帰宅した時はがらんどうだった部屋が、出奔前と変わらない設えで調えられている。いや、意匠などを見ると違いがあるようだが、慣れ親しんだ設えにジェラルディンは肩の力が抜けていくのを感じた。
「お帰りなさいませ」
ジェラルディンに気配も気づかせずに近づくことが出来るのは、この邸においてはたったひとりである。
「バートリ、ただいま。
お部屋を用意しておいてくれたのね。
どうもありがとう」
「ジェラルディン様がお戻りになって下さるのです。
当然の事でございます」
「今回は数日滞在したいと思っているの。よろしくお願いします」
「かしこまりました。
すぐにタリアが参りますので、それまでは私でご容赦下さい」
「うふふ、バートリには世話をかけるわね。
あれから領地の方はどうかしら」
「下賜領とバラデュール領、双方とも変わりはございません。
農地の方は今は冬なので動きはなく、工業の方も前年度よりも実績が上がっております」
「そう、領地にも一度様子を見に行こうと思っているの。
何よりも私を直接見たら安心するでしょう」
王都での心無い出来事は収まることなく、反対に増幅されて伝わっているだろう。
ジェラルディンが健在であることを見せつけることによって、民を安心させるだけでなくさらなる忠誠を得ることだろう。
「ジェラルディン様、お帰りなさいませ」
カーテシーと共に、ジェラルディンを迎える挨拶をしたのはタリアである。
その後ろに続く侍女はティーセットを乗せたカートを押していた。
「ただ今お茶を用意致します。
どうぞ、お掛けになって下さいませ」
そこでようやく自分が、バートリと立ち話をしていたことに気づき、バートリと共に苦笑いする。
その後は以前と同じ、くつろげる我が家であった。
深夜であるにもかかわらず、邸の使用人たちはそれぞれの仕事に邁進した。
恐れ入ったのはこの時刻から入浴の準備を始めた事だ。
ジェラルディンなら湯槽に水を張り、それを湯にすることなど簡単なことだが、魔法を使うことの出来ない平民にとっては大変なことだ。
「【洗浄】で済ませるから、そんなこと」
「なりません!
拝見させていただいたところ、ジェラルディン様のお肌が若干荒れているように見受けられます。
今夜は充分に保湿してお休みになっていただきます!」
語尾が力強すぎる。
タリアのテンションは上がりに上がり、ジェラルディンすら気圧されてしまう。
「ええ、ではお願いね」
「今夜はもうこのような時間ですのでマッサージは省略しますが、お肌の手入れはお任せ下さい」
給湯室の魔導コンロが全開で湯を沸かし、優雅な曲線を描く猫足の湯槽に湯が張られていく。
ジェラルディンの愛用の香油が用意され、たっぷりと注ぎこまれた。
「さあ、ジェラルディン様、こちらにどうぞ」
タリアをはじめとした侍女たち、総勢5名。
若手の彼女たちには他家への紹介状を書いていたはずだ。
「私ども、ジェラルディン様はきっとお戻りになると確信しておりました。
王家からの、侯爵邸の管理は今まで通りにとのお達しに、侯爵邸からお暇を頂いたものは1人もおりません」
感極まって涙している侍女もいる。




