悪役令嬢ではありません
遥か昔、この地は原初の獣人たちしか生息しない、自然溢れる地であった。
そこに、のちに【御使いの方々】と呼ばれる方々が降り立ったのだ。
その方々は神々の姿を写したと言われるほど美しく、気品にあふれていた。
【御使いの方々】は自らの世話をさせるために、醜い獣人を自分たちに似せて作り直した。
それがこの世界の原初の伝説である。
バラデュール侯爵の長女ジェラルディンは、時の王太子アルバートの婚約者である15才。同い年のアルバートと共に王立高等学院の2年生である。
家族は父侯爵に継母、そして異母妹の4人なのだが、御多分に漏れず複雑な家庭環境に置かれていた。
そもそもの始まりは先代の当主と当時の国王との口約束からだった。
それは侯爵家の嫡子の元に王女を降嫁させる事で、この異例の婚約はかなりの話題となった。
当時、他の高位貴族には王女に見合う年頃の男子がおらず、他国に嫁がせる事を厭うた王の、妥協に妥協を重ねた縁組だったのだ。
この縁組が不幸だったのは、当時嫡子……今の侯爵に恋人がいた事だった。それも身分の低い平民の恋人である。
父侯爵に無理矢理仲を裂かれ、王女殿下の婚約者となったのだが、これがそもそもの始まりだった。
社交シーズンの始まりを告げる、王宮に次ぐ格式を持つ大公家の舞踏会に、この夜珍しくバラデュール侯爵家全員が揃って参加していた。
そして、ジェラルディンにとっては公式の場では必ずエスコートするべき王太子の姿が見えない事が懸念の材料だった。
一家がエントランスから豪華絢爛な舞踏室に向かうと、彼方此方から囁く声が聞こえてくる。
ジェラルディンはわざわざ皮肉の声を聞きたくなかったので無心を貫いていたが、実はこの囁きは彼女の事を言っているだけではなかった。
むしろ彼女と言うより、それ以外の家族への非難の声だったのだが、普段からなるべく雑音を拾わないようにしていたジェラルディンは気づくことはなかった。
「アデレイド」
嫌と言うほど聞き覚えのある声が、異母妹の名を呼んだ。
学院でもその様子は聞き及んでいたが、やはり “ そう言う事 ”のようだ。
「アルバート様」
嬉しそうに頬を染めるアデレイドを、父侯爵と継母は微笑ましく見ている。
「さあ、こちらに」
アルバートの差し出した手に、その手を重ねたのは婚約者であるジェラルディンではなく異母妹のアデレイドだった。
そして舞踏室の中心に向かう2人を、ジェラルディンは複雑な思いで見つめていた。
「皆の者、今宵は私から報告がある!
私、王太子アルバートはバラデュール侯爵長女ジェラルディンとの婚約を破棄し、改めて次女アデレイドと婚約する事を宣言する!」
2人の傍らにはいつの間にか移動していた父侯爵と継母がいて、笑顔で拍手している。
それは侯爵がこの件を了解していると言う事で、当事者であるジェラルディンは置き去りだ。
舞踏会に集っていた貴族たちからは騒めきが広がっていた。
『もう帰っていいかしら』
取り残された形のジェラルディンは冷めたものだ。
元より王太子に対して愛情などない。
完全な政略結婚なわけで、本心ではこれ幸いとほくそ笑んでいる。
そっと舞踏室を抜け出したジェラルディンは、馬車に乗って侯爵邸に戻る。
そして着替えもそこそこに執事を従え、執務室に向かった。
「私は本を収納するわ。
バートリは書類を纏めておいて。
それから私付きの侍女をお願い」
話しながらも、ジェラルディンは自らの空間魔法【収納】に本を収めていく。
書類に関しても、どうせ父侯爵は目を通しもしないのだ。
侯爵領の領地経営は、そのほとんどをジェラルディンの差配で行なっていて、補佐をしているバートリはすべてを把握していた。
「姫様、やはり考え直していただけないのでしょうか?」
バートリは悲しそうだ。
「これ以上、私がここにいては余計なトラブルに巻き込まれかねないわ。
あなたもこの先の事、考えているのでしょう?」
ジェラルディンは机の引き出しから分厚く膨らんだ書類袋を取り出した。
「ここにあなたを含めた使用人全員の推薦状が入っています。
退職希望者に渡してあげて下さい」
「姫様……」
バートリはジェラルディンの事を、2人きりの時だけ『姫様』と呼ぶ。
それはジェラルディンの母が現国王の実妹だと言うことに他ならない。
「さあ、もう時間がないわ。
私は図書室に行くから、あとはお願いね」
深々と頭を下げたバートリに頷き返して、ジェラルディンは小走りに退室していった。