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連続したテスト祭りの日々が明けると同時に、太陽も久々に顔を見せ、快晴となった。ヒナタと最後に会ってから一週間も経っていないが、港で元気なヒナタの声を聞くと、一カ月振りほどの時間が空いたような感覚を感じた。
二人は港でキャンバスとスケッチブックに向かう、あの平穏な時間が再び訪れたことを身に染みて感じた。
満は、展覧会に出品する絵に色とりどりの色を染み込ませ、その景観を彩っていった。
ヒナタのスケッチブックに描く絵は、相変わらず進歩がなかったが、出来上がると満足げに、満に見せた。
「ねぇ、一つ聞いても良い?」
満はヒナタの声に手を止める。
ヒナタは、折りたたんだ何かを取り出すと、それを開き、規則的に皺のついた紙を満に見せ言った。
「ここにある、すいぞくかん、って何?」
それは、夏休みを過ごすであろう、人たちに向けた、水族館の広告であった。
イルカが水面に浮かんだ黒い三日月のように飛ぶ写真や、幻想的な水槽がうつった写真が載せられていた。
可愛らしいキャラクターから出る吹き出しにはアクセスマップが示されている。
「うーん、いっぱい魚が見れるところだよ。ほら、この写真みたいに」
満は、チラシに写っている、魚たちが泳ぐ水槽を指差した。
「え? え? これって海に潜ってるの? 溺れないの??」
ヒナタが、マジックを見た時のような信じられないという顔で、喫驚すると、満もヒナタに質問を返した。
「本当に、水族館知らないの? テレビとかネットとかで見たことない?」
ヒナタは目を丸くしたまま、コクリと頷いた。
まさか水族館を知らない高校生がいたとは――。
ヒナタ以上に満は内心驚いてしまった。例えるならどのような状況であろう。
富士山を知らない日本人。スマートフォンが分からない高校生。クレヨンを知らない幼稚園児。そんなところであろうか。
「明日あたり、もしだったら、午後行って見る?」
満が提案すると、ヒナタは一瞬、ぱぁーと、いつものように喜ぶ表情を見せたが、それはすぐに雲に隠れた。
「で、でも……水の中にあるんだよね? 濡れちゃうんだよね?」
「大丈夫だよ。海とかに直接入るってわけでもないからさ。イルカショーとかも、後ろの方で見ていれば、服とかもそんなに濡れないよ。」
それを聞くと、ヒナタの表情の雲が一気に晴れた。
「じゃあ、行こ! うわぁ~、超楽しみっ!」
ヒナタは立ち上がり、チラシを胸に抱きしめた。
次の日。
講習を終え、駅付近で再び待ち合わせをすると、バスで海岸近くにある水族館へ向かった。
潮の香りが漂う、海辺の道を歩いていると、ヒナタは隣に広がる海を見て、水族館に着くまでの間、始終はしゃいでいた。
もう中学生と小学生はこの時期夏休みにすでに突入していた。その為、館内は自由研究の為に来ているのか、クリップボードに何かを書き込む中学生や親子で水槽を眺める家族の姿が四方八方にあった。
受付を済ませ、二人は奥へ足を踏み入れると、ヒナタは最初に目に飛び込んで来た小型の水槽に駆け寄った。
「うっはぁ~、きれい!」
遠くから見ると、珊瑚のような複雑な形の岩々に見えていた、それは、水槽に近づくと、ゆらゆらと揺れる海洋植物群としてはっきりと視界に現われた。青白い、海面より少し沈んだ場所に届く日光のような光に照らされながらも、その色鮮やかな姿は二人を魅せた。良く見ると、その隙間隙間に横にゆっくりと、そして突然とその速度を上げ動くものが見られる。月の光に照らされた真夜中の深海のような紫色をした魚やクマノミたちが、かくれんぼをしているかのように、現われては隠れ、また現われては植物の林の中に溶け込む。
ヒナタは引きつけられる様に水槽ガラスに顔を近づけ、魚たちを目で追った。
「可っ愛い~」
「あ、ねね、あそこにもオレンジっぽいのいるよ。私あれが一番好き」
満もヒナタが指で示したところを見ると、ピンク色の植物の影にじっとしているクマノミを見つけた。
大水槽の中を見て歩いていると、ペンギンたちのいる島の前に辿りついた。
一島の人目につかない崖の下に築かれた静かな海岸のような場所で、よちよちと歩行するペンギンたちの姿を発見すると、ヒナタは、ガラス板で作られた柵に手をつけた。
「っひゃあ~、何あれ、超可愛い! みつる、みつる、あれってペンギン!? 絵本でしか見たことがなかったけど、数万倍キュートなんだね!」
「ほら、あそこ見て。泳いでるやついるよ」
「お、どれどれ」
満の示した方向をヒナタは山を見渡すように片手を額につけ探す。
一羽のペンギンが、水面上を滑るように泳ぐのを目にすると、ヒナタは再び歓喜の声をあげる。
ヒナタはそこにいる生き物、生き物を目にするたびに、子どものように無邪気にその興奮を表現した。目を輝かせ、次から次へと水槽を駆け巡る。海面の中にいるような空間である水中トンネルでは、上や横を過ぎる魚たちの大群に驚きながらも、それに手を振り、それをよく観察した。蒼の空間に静かに動く巨大な魚。海中に浮かぶ花のように舞うクラゲ。背景音に合わせ、その旋律を表現するように移動する魚の群れ。
ヒナタと満は、その一つ一つに目を向け、感動していた。
満は、元気なヒナタに引きまわされるような感じになっていたが、満更でもなかった。
思い返せば、誰かと水族館に来るなど、高校生になってから夢にも思ったことはなかった。
人との関わりをできるだけ断ってきた満は、素のままに生き生きとするヒナタを見て、ふと以前の自分を遠くから見るように思い返した。
ヒナタと出会ってから、何かが変わったことは間違いなかった。いや、まだ変わり始めている途中といったほうが正しいのかもしれない。
根本的に何が変化しつつあるのか、満にとっては分からなかったが、ヒナタと出会ってから、出会う前の自分とは違い、自然にいられるようになった。
雪奈とも打ち解けない、真に孤独に近しい頃は、一日一日が白黒で空だった。
キャンバスに描いた風景が色を持っていない、何かを欠いた――虚ろのようなもの。
それを感じていた日々とは、全く別のものであった。
雪奈と結兎と過ごしている時間も、色は持っていたが、ヒナタと過ごしている時間は、より鮮やかで、一つ一つの色が明確で、それぞれが混じり合い、溶け込み、温もりのようなものを帯びながら、心に沁み込んでいった。
人と関わる事を煩わしいとまで感じていた満の心は、ヒナタと過ごすうちに、その喜びを感じるようになっていた。
途中、二人はソフトクリームを買い、食べると、最後にイルカショーを見た。
余程濡れる事が嫌なのか、ヒナタは怯えるようにショーが始まる前のプールを見ていたので、満は、水しぶきの届かないであろう、奥の席へヒナタを案内した。
イルカショーが始まると、その恐怖を忘れたように、ヒナタは見入っていた。
イルカがジャンプし、空中の輪を潜ると、盛大に拍手を送った。
満もヒナタにつられるように、大きく拍手した。
* * *
「あ~、楽しかった!」
館を出ると、ヒナタは腕をうーんと上に伸ばす。
「どうだった、初めての水族館は?」
満が聞くと、ヒナタは強く首を縦に振った。
「最高だった! また一緒に来ようね!」
満とヒナタは、水族館で見たペンギンやイルカのことを思い出すように話しながらバス停までの歩道を歩く。
「バスまで時間あるから、せっかくここまで来たし、海、見ていく?」
満が腕時計を見て思い立ったように言うと、ヒナタは少し困った顔を見せた。
「あー、う~ん、ごめん。海はちょっと……。私、水、苦手だからさ」
「そっかぁ。」
満が少し残念そうに言うと、ヒナタは少し考え、満に声をかけた。
「見るだけ。見るだけなら、だいじょぶ!」
「よし、じゃあ少し見て行こ!」
満がそう言うと、二人は横断歩道を渡り、巨大な岩でできた緩やかな坂を下りた。
隣の海岸は海水浴場であり、二人が降り立った砂浜は、その端にできた小さな海岸だった。
二人に他に、一人の男性が黒い仕事用バックを肩から下げ、カモメたちに餌をやっていた。
白い砂浜には、どこから流れ着いたのであろう、化石のような流木があちこちに置かれている。
ヒナタと満は、しばらくの間、波打ち際から離れた場所で海を見つめ、二人の時間を過ごした。
満がふと見た、ヒナタの海を見つめるその目は、何かに憧れるように、何かに怯えているように、そしてどこか寂しそうに、夕陽の下にあるオレンジ色に染まる水平線を、じっと見つめていた。