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出会ってから一週間少しほど経った、ある日の夕方。いつもより早く港に到着してしまった満が、先にキャンバスに筆を走らせていた時のこと。ヒナタは、緑色の紙袋の入ったビニール袋を抱いて現われた。
「それは?」
満が尋ねると、ヒナタは、ビリビリと中の紙袋を破き、棒状のパンのようなものを一つ取り出し、満に差し出した。
「ぽっぽ焼き。ふるまち、ってとこ辺りを、ぶらぶらしてたら売ってた」
焼きたての甘く、芳ばしい匂いが満の食欲にそっと触れた。
「ありがとう、いただきます」
そう言うと満は、一口、口へ運んだ。
柔らかい食感が舌を伝わると、熱と共に甘みが舌全体へゆっくりと広がった。
「うん、うまい」
「でしょ、でしょ! これ前から気になってたんだけど、今日ようやく勇気を振り絞って買ったんだぁ。そしたら、やっぱりすごく美味しくてさ。30本も買っちゃった」
ヒナタも一つ取り出し、パクりと、口へ入れる。
満が食べ終えるのを見ると、ヒナタは袋の入口を向け、満に差し出した。
満は、軽くお礼を告げると、もう一本取り出す。
「ねぇ、満って、この町、詳しい?」
出会ってから一週間ほど経つが、いつしかヒナタの呼び方が「満くん」から「満」へと変わっていたことに、満は気が付いた。満も最初は「ヒナタさん」と呼んでいたが、いつの間にか「ヒナタ」へと、その呼び方は変化していた。
満は、うーん、と腕を組む。
「生まれも育ちも新潟県の新潟市だけど、そんな詳しいって言えるほどじゃないかも……」
「新潟県の新潟市育ちなら、ベテランじゃん!」
「ベテランって……」
「明日土曜日だし、どっか連れて行ってよ」
えっ。
満はまたあの間抜けな表情になった。
「ね、ね。良いでしょ?」
ヒナタが駄々をこねると、満は悩ましそうな表情へと顔色を変えた。
土曜日。
午前中は講習があるけど、午後なら空いてるかな。
頭の中で満は呟くと、その言葉をそのままヒナタへと告げた。
「じゃあ、午後、午後行こう! 時間は……一時半頃で大丈夫?」
ヒナタが左腕につけた、腕時計を見て聞くと、満は首を縦に振った。
「わかった。じゃあ、場所は……どうしよう? 駅にする?」
「よし、駅ね。じゃあ、駅のこっち万代口、一時半に集合で。決まりー!」
* * *
そういったやり取りがあったのは、昨日の夕方のことであり、数学の教師が、黒板に暗号のような文字を次々と殴り書く姿を見ている、満には、少し遠い過去のように思われていた。
降水確率0%。熱中症注意の朝の天気予報は、見事に的中し、講習が終わる三十分前の教室内は、凄まじい熱気に包まれていた。節電のためか、粘るように教室にクーラーはまだ入らない。窓から吹いてくる、生温い風も、扇風機を間近で感じるように十分に涼しく感じられた。
(今日も部活休むって書かないと)
満はふと思い出すと、ルーズリーフを1枚取り出し、いつものように横に文字を書く。
最近部活を休みがちだが、雪奈は一向に理由すら訪ねてこない。
少しは気にかけてくれても良いと思うが――。
ふと、斜め向かいの席にいる雪奈を見たが、この暑さの中、雪奈は顔色一つ変えず、模範ともいえる、きちっとした姿勢でノートを写している。
汗一つ書いていないように見えるその姿を見て、お前は化け物か! と満はツッコミを入れたくなるほどであった。
来週になったら、一回顔を出そう。
満は、雪奈宛のメッセージの最後に「。」をつけた。
講習が終わると、満は、スクールバックのみを持ち、バス停へ向かった。
バスに乗ると、古町から礎町までを繋ぐ柾谷小路を通り、萬代橋を渡り、そしてそこから駅まで直結する東大通を通り、駅前へ向かった。
休日ということもあり、昼間の新潟駅前は、人通りが多い。
以前、午前放課になった際、訪れた事があったが、平日の駅前は閑散としており、休日のそれとは大きく異なる姿をみせる。
夏休みの小学生グループが、アイスを持ちながら歩く姿や、大学生くらいの男女が手をつなぎ、楽しそうに会話をしている姿が視界に映る。
午後一時。腕時計は、待ち合わせ時間の三十分前を示していた。
(まだ時間があるな……)
満は、三十分ほどの時間を、地下にある書店でつぶすことに決めると、駅の中に入り、地下へ伸びる階段を下りた。
足を踏み入れると、最初に目についたのは資格試験や受験参考書という文字であった。
高校生活もこの夏で半分終わる。入学する前は、また三年の学校生活か、と思っていたが、今の満には、今まで過ごした一年ちょっとの時間が、一週間くらいの時間に感じられた。残り同じ時間を過ごせば、晴れて卒業となるが、受験という人生の壁が再び待ち構えていると思うと、億劫な気持ちになる。
そろそろ少しは始めて置いたほうが良いか、という声に反して、いや、まだ二年生の夏だから、という漫画に出て来るような悪魔の囁きも聞こえた。
満は、参考書をパラパラとめくるが、すぐにそれを棚の空所に戻し、そのコーナーを後にした。
約束の五分前は、特急列車に乗って来たかのように、思いのほか、あっという間に訪れた。
満は、再び階段を上がり、駅の構外に出ると、閉じ込められていた熱風が一気に噴射したように満を襲った。
満は、邪魔にならないよう、建物の壁の近くに立つと、左右に往来していく人々を見渡した。ちらほらと、誰かを待っているように立ち止まった人影が見られるが、ヒナタの姿はまだ見当たらない。
満は、少し息をつき、視線を目の前に戻す。
(そういえばヒナタの私服って見た事ないな……)
目の前を通り過ぎる人の中で、夏らしい涼しげな恰好をした、同じくらいの歳の少女が、視界のスクリーンに右から左に消えていくのを見ると、満はヒナタの私服姿を漠然と思い浮かべた。
(あいつ、普段どんな服を着ているんだろう……)
満の頭にふと浮かんだ、その疑問は、左から聞こえた、自分の名前を呼ぶ声とともに、払拭されるも、全くの別解であった。
走ってきたのか、息を切らし、悪びれた様子で謝るヒナタは、いつもと同じ制服を着ていた。
すっかり忘れていたが、ヒナタも自分と同じ高校生。きっと、講習後だったのだろう。満は、少しばかり妙な期待を膨らませていたが、それが空気の抜けた風船のようにしぼむと、謝るヒナタに「僕も来たばっかだったから、大丈夫だよ」と声をかけた。




