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満は、悪戯に成功した時の子どもが見せる笑みを浮かべる、少女の顔を見ると、さっきまで満を包んでいた、美術魂の鎧は、氷のように溶解した。
それと同時に、忘れていた緊張と何と表現したものか分からない、あの感情が炎のように、胸の底から顔まで上がって来た。
満は、周囲の空気が、動けばパリパリと音が立ってしまう、薄皮状に固まったように感じた。
「約束、守ってくれたんだ。はい、これっ!」
硬直した満にお構いなしに、少女は、満に炭酸飲料の入った缶を突き出した。
目の前に出された缶を見て、ようやく満も口を開く。
「あ、ありがとう」
満は、苦笑に近い、ぎこちない微笑を浮かべた。
少女は、笑みを返すと、満の背後に視線を移した。
「あっ、これが本番?」
少女は膝に手をつけ、まじまじと、白黒の線の世界をみた。
「あ、うん」
満は軽く頷く。
「ねぇ、私も何か描いてみていい?」
不意に振り返り、少女が目を輝かせ言った、思いがけない言葉に、満は「えっ」と思わず声を出してしまった。しかし、すぐに表情を戻し、満は首を一度縦に振った。
「描く物、渡すよ。色鉛筆とスケッチブックくらいしか貸せないんだけど――」
それでも、良いかな、っと、満が言い切る前に、少女は感謝の言葉を挟んだ。
少女は、色鉛筆の入ったカラフルな入れ物と四角いスケッチブックを渡されると、玩具をせがんだ子どもが、それを手にした時のような喜びを顔に浮かべた。
「っやったぁー! ありがとう、満くんっ!」
隣に座り込んだ、少女の口から出た、自分の名前に躓いたように、満が顔を固めると、それに気が付いたのか、少女は、スケッチブックの表紙の右下を指差した。
「ここに、名前が書いてます」
満は、あーっ、と納得する。
「えーと……」
満が少女の名前を尋ねようとすると、少女は思い出したように、あーっ、と満と同じ言葉が声に出る。
「そーいえば、名前、まだだったっけ?」
「うん」
満が、こくりと頷く。
「私、ヒナタっていうんだ。宜しくね!」
ヒナタ。
どのような漢字であるのか、想像はできない、満が、少女の発音のままに、その名前を口にすると、ヒナタは強く頷いた。
「高校、この近くなの?」
スケッチブックを開き、色鉛筆で早速何かを描き出したヒナタが、えっ、というような顔になるのを見ると、満は言葉を加えた。
「昨日もここに来ていたから、この近くなのかな、って」
ヒナタは少し首を傾け、考えるように、うーん、と喉を震わせた。
「近く――じゃないかな。満くんは、近くのなの?」
「いや、僕も遠い方。海岸に近いところ」
海岸?! とヒナタは、手を止め、満のほうに顔を向けた。その声調のまま、ヒナタは質問を満に浴びせた。
「じゃあ、家は、この近くなの?」
「家もそっち方面」
それを聞くと、ヒナタは目をますます丸くさせた。
「えっ、じゃあワザワザここまで来てるの?! 学校帰りに!?」
「うん」
「どうしても、ここの場所、描きたかったからさ」
満が信濃川から広がる日本海をゆっくりと見渡し言う。
すると、ヒナタもそれに視線を合わせ、細波の音がする海を見つめた。
「けど、本当にここ、綺麗な場所だよね」
ヒナタが静かに、落ち着いた声調で言うと、満は視線をヒナタに戻した。
「落ち着いてるっていうか、平和っていうか」
ヒナタは再び、手を動かし始めた。
「私、最近になって、この場所を知ったの。普段は他の場所、ウロウロしてるからさー」
「他の場所って、万代とか、その辺り?」
ヒナタは再び手を止め、満の方を見る。
「あー、うん。そこもたまに行くよ。けど、駅の周辺かな。よくまわるのは。あ、向こう側の方ね」
新潟駅は左右に伸びる線路で、町を区画するような位置にある。
駅の出入り口は二つあり、一つは、その近くにある万代という町字に因んで、万代口と言われ、その反対方面にあるもう一つは、南側にあることから、南口と呼ばれている。ヒナタが言う、向こう側とは、駅の南側のことで、その近くには、飲食店やカラオケ店などがあり、高校生などで活気を見せる場所であった。
「そっか。向こうも遊べる場所多いもんね」
満が言うと、ヒナタはスケッチブックにひたすらに手を動かし、頷いた。
昨日出会った時の最初の一瞬は、その容姿から、非行少女であるかと思ったが、表情は小学生の頃の純粋さをそのまま引き継いできたように豊かであり、何に対しても新鮮な反応を見せる。
そして、スケッチブックに向かう、瞳から広がる真剣な、その表情からは、真面目な一面もうかがえた。
ヒナタの明朗な性格のせいか、満も気付けば、さっきまでとは違い、少し自然に表情をつくることができるようになっていた。
「できた!」
色鉛筆を置き、ヒナタがそれを両手で持ち叫ぶ。
「ね、ねっ。これ、どう?」
ヒナタが見せる、そのスケッチブックには、目の前の夕陽に染まる港風景が描かれていた。
カラフルな線で海や建物の形がつくり、海はオレンジ一色で塗りたぐられている。空にはカモメらしき生き物が、赤い、への字でにっこりと笑っていた。
その作品は、お世辞にも上手いとは言えない出来であったが、ヒナタの絵本に描かれるお日様のような温かさをもつ表情を崩すまいと、満は何とか褒められる点をあら探しし、絞り出して言葉に乗せた。
「良い絵だね。夕方の港らしさが良く出てる」
「っしゃぁ! でしょー!」
抽象的で曖昧な賛美であったが、ヒナタはその何十倍もの喜びを体中に表現し、ガッツポーズを取った。
「これでもヒナタ画伯は、印象派なんだから。 えっへん!」
印象派。その言葉に、満は思わずキョトンとした。
そして、どや顔を見せるヒナタを見ていると、胸の底から打ち上げ花火のように、くすぐったいような何かが首から伝わり、笑い声として爆発した。
「あっ、笑ったなぁ!」
ヒナタは少し口を膨らませるも、満は必死で笑いをこらえようとしたが、もはやその感情を抑えることはできず、「こんのぉー!」とポカポカと叩いて来るヒナタに、満は笑いながら謝った。
おかしいような、穏やかなような、温かい気持ち。
作り笑顔をせず、笑ったのは、久々のことであった。