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「おっ、いたいた」
美術室の扉が開く音に、二人は扉の方に視線を向けた。
外の雨に濡れたのか、白いタオルを頭にかけ、胸元までびっしょりと濡れた、結兎の姿がそこにあった。
「いやぁ、まいった、まいった。グラウンド場で仲間と野球してたら、急に降ってきやがってさ。ゲリラ豪雨きついわー」
白いタオルで、ゴシゴシと頭を擦りながら、結兎は、満のイーゼルを覗き込んだ。
「おっ、すげー進んでるじゃん」
「まだまだです。仕上げまで、もう一週間くらいはかかりそうです」
「それより、大丈夫ですか。ずぶ濡れじゃないですか」
満が言うと、すぐ横から雪奈の声が飛んできた。
「良いのよ。バカは風邪ひかないから」
結兎はそれを聞くと、呆れたような笑みを浮かべた。
「雪奈、それはないだろう。相変わらず、ツンデレだな」
「ツンデレじゃない。これが素よ」
「満君に感謝しないとな。お前、変わりもんだから、少ない友達大事にしろよ」
からかう様に結兎が言うと、雪奈は不機嫌を口に込めたように言葉を吐き出した。
「うるっさい!」
「おーい、結兎、教室でポーカーやるってさぁ」
美術室の扉から数名の男子生徒の一人が声をかけると、結兎は「おう」と軽く返事をした。
「雪奈の事、宜しくな」
「えっ、あっ、はい!」
すれ違いに、結兎が満の耳に囁く様に言うと、満は立ち上がり、返事をした。
「それじゃあな!」
結兎は爽快に言うと、男子たちと共に去り、廊下を駆けて行く足音が遠のいていった。
「まったく、バカ兄。」
雪奈が口を膨らませて、ため息気味に言うと、満は、苦笑を浮かべた。
夜のように町を暗く染めた雨雲は、思いのほかすぐに無くなり、朱色の淡い太い光が、雲の隙間から何本か差し込んだ。
満が学校から出る頃には、先程の雨が嘘のように思わせるほどに、空は紅に染め上げられていた。満は、バスに乗ると、すぐにターゲットの場所へ向かった。以前から、絵に描きたいと思っていた風景のある場所は、休日、自転車で町を巡っていた時に偶然に行きついた場所であった。
萬代橋を渡り、川沿いの歩道へ降り、信濃川に沿って行くと、海に開けた場所に行きつく。その港の雰囲気は、一目した満の美術魂をわしづかみにした。
港漁師たちの乗船場でもあるその場所は、船があちらこちらにあるような場所ではなく、むしろ停泊している船は少ない。
少し浮き出た立体的な四角い石版を敷き詰めつくりあげられた、その海沿いの道は、散歩道やランニングコースに利用している人のほうが多い。
また、昔銀行であった、西洋風の建造物が今では博物館として利用されていることもあり、公共的な空間として、穏やかな雰囲気をその港は醸し出していた。
港は満の帰宅路からかなり延長したところににあったが、その平穏な雰囲気は、満の描きたいという衝動を駆り立て、満をその場に向かわせるのに十分なものであった。
雨上がりの夕陽に照らされたあの場所は、どのような姿を見せるのであろう。
この絶好の機会を逃すまいと、空が蒼く夜に染まる前に、満は足を急がせた。
その港は、満の予想を上回る姿を見せていた。海は夕陽に照らされ、星々が集まったように白い光が揺れ、手前の建物の影が川に入り込むことで、見事なコントラストが、そこにはあった。空も、高く延びているのが分かるまでに奥行きを持ち、ちぎれた綿雲が、いくつか浮かんでいた。
満はしばらくそれに見惚れるように、眺めていたが、すぐにハッとすると、スケッチブックと色鉛筆を取り出し、その場に座り、その光景を簡単に描写し始めた。
同じ風景には二度とお目にかかる事は出来ない。
心に風景をよく焼き付け、スケッチをもとに、明日にでもすぐに、キャンバスに描こう。そう思うと、満は、大雑把に川、建物、海、船などの輪郭を、白いざらざらとしたスケッチブックに鉛筆で描くと、ササッと、色鉛筆で色を塗った。
描いている間は無心になる。瞳に映っている風景の中に自分自身も溶け込まれ、まるで透明な空気となり、周りを見渡しているように、没頭する。
気が付いた時には、東の空から紺色が広がり、満の真上で紅と混ざり合っていた。腕時計を見ると、長針は、円盤の上を少し右に過ぎ、短針は六の字を指していた。夕風が心地よく一風し、頬を撫ぜる。
「うわぁー、上手い!!」
満は、その影が背後から地面ごと自身を覆うとともに飛んできた、明るい称賛の声に反射的に振り向こうとする。
しかし、すぐ左を向くと、少女の輪郭がスケッチブックを覗き込み、花のようなスーッとした甘い匂いが鼻に飛び込んで来た。
金髪の癖っ毛交じりの長い髪が、風で靡く。
白っぽく見えるが、薄らとピンクで染められたブラウスに、ベージュ色のタータンチェックのスカート。それと同じ色のサマーカーディガンを腰に巻き付けている。紺色のソックスに、茶色いローファー靴。
その姿から、その少女が高校生であることは一目で分かった。
少女は、手を背中で組み、スケッチブックに見入っていた。
「ね、ね。これ、一人で描いたの?? 凄い、そっくり!」
少女は、スケッチブックに描かれた風景と、目の前に広がる港の光景を見比べながら、隠しきれない驚きを声色に乗せた。
「あ、うん」
唐突に現れた少女に戸惑いながらも、満は、頷いたが、その視線は横に逸れていた。
雪奈のように慣れてしまえば問題はないのだが、元々から人とあまり関わらない満にとっては異性と、それも見知らぬ人から称賛されるというものは、照れ臭い感じもあったが、どんな反応をして良いものか分からない、という困惑が胸の中をうずまいていた。
「もうちょっと、よく見せてもらっても良い?」
少女がしゃがみ込み言うと、満は、少し抵抗はあったものの、スケッチブックを少女に手渡した。
「ありがとっ!」
――か、可愛い!
スケッチブックを受け取った、夕陽に照らされた顔に浮かべた、笑顔を見て、満は思わずそう思ってしまった。弾けたような元気さの中には、陽だまりのような優しい温かみがある、笑顔――例えるなら、向日葵の花のような笑顔だった。
少女は、風が摩った、夕陽の光に照らされ輝く、金髪を軽く耳元で整え、スケッチブックに描かれた絵を見つめた。明るい茶色の瞳が、ゆっくりと上下左右に動く。
一体どこの高校の子だろう。
見慣れない制服からは、見当もつかなかった。
満は、隣で少女の横顔を見つめながら、考えていると、少女が不意に振り向き、満は驚きすぐに目を逸らした。
一瞬、目が合ってしまった気がする。
頬が少し熱を帯びているのを感じた。少女は、気にしたような仕草や表情をすることもなく、「はい」とスケッチブックを差し出した。
「いやー、もう何と言うか、凄いとしか言いようがないよ! 隅々まで、よく描かれてて……。もうなんて言えばいいんだろう。うーん、凄い!」
腕を組みながら少女は、うん、うん、と唸り何度も頷く。
「ありがとう。けど、これ、まだ下描きなんだ」
少女は、薄茶色の瞳を丸くし、一瞬静止した。
「えっ、えっ?? これ、下描きなの?!!?」
満の顔と、スケッチブックを交互に繰り返し見る少女に、満は苦笑を浮かべた。
「綺麗な景色だったから本当は直接キャンバスに描きたかったんだけど、時間も時間だし、夕焼け空も変わっちゃうからさ」
満がそう言うと、少女は、にんまりと、口を、逆への字にした。
「じゃあさ、今度本物見せてよ。わたし、また来るからさ!」
「え」
「よし、わたしもそろそろ時間だから、今日はもう帰っちゃうね」
戸惑う満に、少女は立ち上がると、一方的に別れを告げ、港道を駆けて行った。
「絶対、絶対また来てよ!」
少女は遠くから振り返り、満に手を振り叫ぶと、そのまま夕闇の中に消えて行った。