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「いい? よーく、深呼吸して。んで、リラックスして”おはよう”。これだけ」


 リストバンドから助言をもらうと、(みつる)は一つ深呼吸をし、少し不安そうな声でリストバンドに小声で言った。


「大丈夫かな……」


「大丈夫だよ。昨日練習したんだし、満ならいけるよ」


 ヒナタの声に後押しされると、満は「よし」と胸を引き締め、校門に入った。


 昨夜は、ヒナタに付き合ってもらい、挨拶をする練習をした。

 (はた)から見れば、小学生のようで、恥ずかしさも感じていたが、どうしても今の自分を脱却したいという、小さな芽が満の心に伸びはじめ、満を少しずつ突き動かしていた。


 満は、ヒナタを見て、それをうらやましいと感じていた。


 人と分け隔てなく明るく接することができるヒナタ。


 その心に気付いた時、満は、自分がついている、今まで本心と偽り続けてきた嘘に向き合った。



 独りがマシ、なんていうのは嘘だ。


 本当は、周りの人にあこがれていた。


 ――友達が欲しかった。



 挨拶は友達の玄関口のようなもの。


 ヒナタの言葉は妙に説得力がある。


 確かに、今まで自分はそれすらも避けて来た。


 挨拶をする、その勇気がなかった。


 今日こそは。と思いつつも、登校途中、何度も不安がよぎった。




 もし無視されたらどうしよう。


 変な顔で見られたらどうしよう。



 今までの臆病者の自分が、顔をのぞかせ、胸のうちで脅迫するように涙交じりの声を囁いていた。


 その度に、満はその言葉をそのまま、ヒナタに言ったが、ヒナタは満の不安を取り払うような明るい声で鼓舞(こぶ)した。



 靴を履き替え、廊下に出る。


 まるで昨日に戻ったかのように、同じ場面が展開される。


 日直なのか、今日は学級日誌を手に持った安中(あんなか)さんが、向こうから歩いてきた。


 リストバンドは何も言わなかったが、”満、チャンス!”という声が心に響く。


 心臓がバクバクと脈を打つ。


 体の下から上まで何かに(しぼ)り上げられたような緊張が、胸を締め付ける。


 言えるだろうか、という不安はもうこの時考える事すらできなかった。


 無意識にプログラムされたように、スイッチは「挨拶をする」に切り替わり、緊張もこの一瞬だけはマックス状態で、満は全身カチコチになる。




「お、おはよう」



 震えた、小さい声。

 

 安中さんは、そこ声に気が付き、満を見る。

 この一瞬。満は時間が止まったかのように感じた。


「おはよう」

 安中さんの表情は柔らかいものに変わると、その返事を返した。


 この後、頭は機械が熱暴走したかのように熱くなり、真っ白になったが、気が付き、振り返ると、すでに安中さんは廊下の向こうに見えた。



 ――言えた。

 

何年ぶりに、学校の人に挨拶をすることができただろう。


 しかしそれ以上に嬉しかったのは、しっかりと挨拶を返してもらえたことだった。

 

 今までの恐れ、恐怖に思っていたことは、悪夢に過ぎなかった。


 

「やったね。」

 リストバンドから、小さいが同じく喜びを帯びた声が届く。


 満は、力強く、うん、と頷いた。


 満は、その後も、クラスメイトにすれ違うたびに挨拶をしていった。

 挨拶をするたびに、挨拶が返って来る。

 校門の時に感じていた不安と恐怖が少しずつなくなっていくにつれて、嬉しさと明るさが満の心に満ちていく。


 そう、恐れていた。


 独りのほうがマシと思っていたが、これは本心じゃないことは知っていた。


 方法が分からなかった。


 どうすれば友達ができるのか。どうすれば、人と関わることができるのか。


 いつしか、挨拶しても自分だから返してもらえないなどと、勝手な理由を決めつけていた。


 けど、それは違った。


 それに気づいた、この瞬間。日常の風景が、ヒナタと会った時のように、鮮やかに色づいていった。


 白黒であった、学校生活。


 挨拶を返してもらえた時のこみ上げて来る嬉しさ。


 ホームルームが始まる頃は、もうすっかり、うきうきとした気分になっていた。



 今までの自分とは違う自信。


 満は、小声で、「ありがとう、ヒナタ」と周りに気付かれないように言うと、「どういたしまして」という小さな声が返って来た。



   *   *   *



「今日はありがとう」


 満があの帰り道の坂で、すでに変身を解いたヒナタに言うと、ヒナタは照れ臭そうに笑った。


「別に良いよ。私は特に何にもしてないし」


 言葉に出して言わなかったが、間違いなく、ヒナタのおかげだよ、と満は思った。


 挨拶だけではなく、今日は何人かの男子生徒とも少しだけど話をすることができた。

「満って、絵上手いよな、さすが美術部って思ってたよ」と太陽に言われた時は、凄く嬉しくて、少しお互いの距離が縮まったように思えた。

 


 

 その時だった。

 視界がぼやーっと、白くなり、空と町がねじれる様に傾く。




 ……っ


 る……


 遠くから何か声が聞こえる。

 女の子の声。



 みつる……満!



 目を覚ますと、映画のスクリーンに映像が映し出されるかのように、ヒナタの顔があった。

 上を向いている。


 その事に気が付くと、満は体を起こした。


 鈍痛。

 頭の中に(おもり)が入ってるかのような、気持ち悪さに、満は額をおさえた。

 

「満……大丈夫?」

 ヒナタが心配そうな表情で声をかけた。


 満は辺りを見渡す。

 

 橋の下。

 目の前には川があり、そこからコンクリートの立体的な壁が伸びている。

 上を見ても同じグレー色が広がって、そこから影が地面へと降りていた。

 堤防沿いの橋の下にいる。


「満……大丈夫? 急に倒れたから、ビックリしちゃって。どうしたら良いか分からなくて、頭熱かったから、取り敢えず日陰に行かなきゃって」


 倒れた……?


 満が尋ねると、ヒナタはコクリと頷いた。

 満は立ち上がろうとするが、グルグルと回転イスにでも座っているかのような、めまいに襲われると、また腰を地につけた。


「満っ」

 ヒナタが倒れた満の肩を優しくつかむと、満は、手で顔を覆うようにつける。

「ごめん、ヒナタ。悪いんだけど……家まで支えてもらっても良い……かな」

 途切れ途切れに言う満に、ヒナタは何も言わず、すぐに首を縦に振ると、満の左手を持ち、支えながら起こし、歩いて満の家まで向かった。


 

 夕方、症状は軽快したが、念のため近くの診療所を訪れ、検査をしてみたが、どこにも異常は見られなかった。

「疲れがたまってるんですかね。特に異常はないので、それが原因かもしれません。もしまた同じ症状が出たら、いらしてください。」


 めまい薬を受け取り、診療所を後にし、家に着く頃には、日はすでに西に落ちかかり、月が太陽に照らされ、黄色く光始める時だった。


「特に異常なし。疲れから来てるかも、だって」

 リビングの扉を開けながらそう言うと、心配そうにリビングに座っていた、ヒナタが身体を起こし、満を見たのが目に映った。母は「まぁ、何もなくて良かったじゃない。」と洗い物を終えた、手をふきながら言う。

 

 その後は、ヒナタと共に、自室へ向かい、その日、同じ症状が再び現れる事はなかった。



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