17
夏期講習中の時間は、短く慌ただしく、流れた。
事あるごとに、リストバンドからは叱咤が飛び、ああだ、こうだとしているうちに、二人は、また帰りの坂道を下っていた。
ヒナタは途中でしびれを切らしたのか、辺りに人がいない隙に変身を解き、満の前にその姿を再び現した。
「もう、全く」と呆れ顔にため息をつかれるのだろう、と満は思ったが、その言葉は意外なもので、「今日はダメだったけど、明日また頑張ろう。チャンスなんていくらでもあるからさー」と前向きな顔つきでヒナタは言った。
流石に満も、申し訳なさを感じ、「うん」と静かに頷いた。
その夜も、ヒナタは満の家に泊った。
「なんで、そんなに楽しそうに過ごせるの?」
夕食を終え、自室でひたすらに動かしていたシャーペンを止め、満は振り返り言うと、布団に寝そべりながら本を読んでいたヒナタは、「へ?」と顔を間抜けに上げた。
「いや、お前、いつどこにいても、楽しそうにしているからさ。」
言葉足らずに少し感じた満は、口を紡いだ。
「何と言うか、その……生き生きしてるっていうか、無邪気っていうか、さ。」
「うーん、なんて言えば良いんだろ……」
ヒナタは腕を組み、胡坐をかく。
「満って、誰か好きな画家さんっている?」
ヒナタが尋ねると、満も上を向き少し考えた。
「モネ、かな。『睡蓮』とか太鼓橋の描かれた風景画とか。凄く綺麗で柔らかい絵でさ。一回見たことがあるんだけど、一つ一つのタッチが緩やかだけど、慎重で。とっても、素敵な絵だった」
「綺麗な風景画っていいよね。私も色々お姉ちゃんの家で見てきたんだけど、たまに、あぁ、こんな素敵な場所があるんだぁ、一度行って見たいなぁ、って思ったことはない?」
満は強く頷いた。
「あるある。モデルになったモネの庭とか一度は見てみたいって、今でも思うなぁ」
「その場所にもしも行ったら、満はきっと凄い感動すると思うの。見慣れたモネさんにとっては、普通のお庭かもしれないけど、満はきっと、その庭の池、植物、それが組み合わさってできる風景、一つ一つをしっかりと見ると思うんだ。」
満は、ハハッ、と笑うと「確かに、そうかもね。」と頷いた。
「満に、私が楽しそうに見えているのは、そういうことなんじゃないかなって思う。」
ヒナタは、何かを思い返すように満を見た。
「私、絵の中にいた時から、外の世界に憧れてたの。お姉ちゃんの家でも、庭が良く見えて、色々な植物が咲いていて、空が見えて、外からは男の子や女の子が話す声も聞こえて来た。凄く、楽しそうな声で。絵の中にいると、とっても退屈だったの。周りは暗くて、映るのは固定された視界だけで。外に出れたら、どんなに素晴らしい世界があるんだろうって、そう思ってた。出てみたら、思っていた通りだった。一つ一つが、とっても綺麗で、新しくて、それを実際に見る事が、触れることができて、嬉しくて。ついつい燥いじゃう。多分、それだからじゃないかな。」
満は、ハッとした。
てっきり、ヒナタは元々から明るい性格だから、そう振る舞うことができるのだ、と思っていた。
性格ゆえに、誰にでも愛想よくできるし、仲良くやっていくことができる。今までそういう人たちを何人か見てきたが、あれも生まれつきの性格によるものだと、勝手に決めつけていた。
先天的な――変えられない能力のようなもの。そう思っていた。
ヒナタの言葉を聞いて、殻にこもっていた何かが、その一部を割ったように心の中に柔らかく広がった。
ヒナタは、決して明るい性格だから、楽しく過ごすことができているのではない。
絵の外の世界に憧れていた分、そこに足を踏み入れた時の感動は計り知れないものだったであろう。
見慣れた風景の一つ一つの何もかもが新鮮に見え、心でそれを感じ、一瞬一瞬を大切にして過ごしている。
そんな風に漠然と感じた。
「何となく、分かった気がするよ」
満が言うと、ヒナタも表情を和らげた。
「さっ、明日からも、頑張るぞー!」
ヒナタが腕を伸ばして言うと、満は、ガタっと椅子を揺らした。
「え、またやるの!?」
「当たり前でしょう! 満に足りないのは、まず話しかける勇気ね。そこから何とかしないと……」
ヒナタが思考モードに入ると、満は深くため息をついた。
* * *
夜の闇に包まれた静かな畔。中央区にある鳥屋野潟という大きな湖の草の生い茂る場所で、雪奈は辺りに人がいないのを確認すると、静かに水面に向かって、呪文を詠唱し始める。
結兎も黒ローブに身を包みながら、腕を組み、それを見守るように見つめていた。
雪奈は、静かに消えるような声で詠唱を終えると、二、三歩、後退する。
すると、湖の中から、ブクブクと、泡が一個、また一個と弾けて消えると、それはおびただしいほどの数になり、丸い黒い影のようなものが浮かび上がると同時に、ザバァと、音を立て、それは現われた。
黒い羽根で装飾された紫色の衣装。つば先の長い巨大な三角屋根のような帽子。深く刻まれた皺が木の模様のようにあり、巨大な石のような鼻のついた、老婆は、湖の上に浮かび上がると、目の前にいる有栖兄妹を、見つめた。
「学長先生」
雪奈がその老婆に言うと、老婆はニヤリと絵本に出て来る魔女のような笑みを浮かべた。
「雪奈、久しいねェ。元気だったかい」
雪奈が「はい」と静かに言うと、老婆はその後ろにいる結兎に視線を向け、同じ笑みを浮かべた。
「結兎もご苦労さん。雪奈はそう手のかからない子だから、暇であったろうに。」
「いいえ、相変わらず、不器用なやつで」
結兎が苦笑して言うと、老婆は再び雪奈に視線を戻した。
「雪奈。制作のほうはどうだい。順調に進んでるかい?」
老婆が尋ねると、雪奈は少し俯いた。
唇をギュッと結ぶと、決心したように顔を上げた。
「あの、学長先生。実は――」
「心配はいりません。順調に進んでいます。」
結兎が雪奈の声を遮るようにいうと、雪奈は結兎の方を見た。
厳しい瞳だった。
雪奈は、口に出かかっていたものを止めると、「はい、大丈夫です」という言葉に差し替えた。
老婆は、ん~? と少し不思議そうな顔をしたが、まぁ良し、というように微笑む。
「雪奈。お前は優秀な生徒だが、焦る心配はない。自分の納得のいく魔法作品を完成させ、私にぜひ見せておくれ」
雪奈は、静かにうなずくと、「はい」と返事をした。
「結兎、ではまたしばらく雪奈の見守り役を頼んだよ。大丈夫だとは思うが、提出期限に間に合うように」
「お任せください。」
老婆は、結兎の頼もしい、凛とした返事を聞くと、帽子のつばを触り、軽く会釈をすると、湖の中に再び消えて行った。
老婆がいなくなるまで二人は頭を下げていたが、老婆の気配が完全になくなると、結兎はすぐに雪奈に駆け寄り、雪奈の肩を思い切りにつかんだ。
「一体何を考えているんだ!」
雪奈は結兎に対し「だって……」と何かを言おうとするも、結兎は聞く耳持たずに雪奈に怒りの滲ませた声をつきつけた。
「もしここで、魔法のかかった絵が絵画から抜け出し野放しになっていると言って見ろ。それこそ大惨事だぞ! 魔法生物が術者の手を離れて行動しているとなれば、それを不注意にも許してしまった、雪奈、お前にも責任追及がかかるんだぞ。そうなったら、お前は学校を退学させられかねない。お前は、母さんの夢を潰すつもりか!」
「そんなこと、分かってるわよ!」
結兎に向かって、雪奈は声を張り上げ言う。
しかし、その声はすぐに、弱弱しいものへ変わった。
「けど……けど、私だって」
「俺は、満君と関係を壊さず保ち続けてる。何とか、あの絵のいる場所をつかめないかと、行動してる。だがお前は、何もしていないだろう。」
雪奈はただ俯くだけで、それ以上何も言わなかった。
「期限ギリギリまで待つ。もしそれでも見つからなかったら、力ずくで聞き出すしかない。分かったな。」
結兎は、ギュッと手でローブを握るのみの雪奈に、吐き捨てるように言うと、夜の闇の中に消えて行った。




