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雪奈も結兎も、あれ以来、ヒナタの事について何これと言ってくることはなかった。
雪奈は、相変わらず、周りの人が見えていないかのように振る舞っているが、結兎は満に今までと変わらず友好的に接してきた。
あのシビアな一面も、あの時だけで、満を見つけては嬉しそうに手を振り、構ってくる。
ヒナタのことはかなり深刻な話であったはずだが、有栖兄妹は、何食わぬ様子で、日常の中にいた。
諦めたのか、それとも、裏で自己解決に至ったのか。
満とヒナタも、二人の様子に、もやもやとした疑念を抱いていたが、その警戒心は日に日に薄れて行った。
「ねぇ、満。満はクラスで仲の良い人いないの?」
八月に入り、蝉の鳴き声もいよいよ騒音になる頃、夏期講習を終えた帰り道で、リストバンドがふと質問を投げかけた。
「いやさ、教室で他の人見てると、休み時間とか一緒にお喋りしたり、放課後の話とかしてるのに、満、いつも本読んでるからさ~」
ヒナタは素朴な疑問を呟くように言う。
満は困った表情で、うーん、と唸ると、そのまま口を閉ざしてしまった。
あまり触れられたくない質問であった。
今までヒナタと接する中、思えば学校生活のことを語る事はあったが、実際に見られるのは、初めてのことだった。
話すときも、できるだけ自分の学校生活については多く話さないようにしていた。
満自身、独りであることとは長い付き合いで、古くからの知り合いのようなものだったため、苦になることはなかった。
しかし、それは、他者に話す事となると話は別になる。
世間一般では、独りでいる事、いわゆる”ぼっち”という存在は、間違いなく負の産物である。人々は、独りでいるものに、良い印象を持つことは少ない。
その目は、まるで捨てられた子犬でも見ているかのように、憐れみを帯びており、しかし自身には何もすることはないと、その犬を見過ごすように、関わる事に消極的である。
“ぼっち”に慣れることはあっても、それを心地よいと感じたことは一度たりともなかった。
その証拠に、人と関わる事を苦手するが、孤立をなんとか回避しようと、中学の時は、自分と似たような同級生とグループをつくり、教室で住人のいる島に住むことができた。
しかし、それもあまり良いものではなかった。
海の上に、大量の土をそれぞれ適当に積み上げ、築いたその島は、とても脆く、卒業すると同時に、再会するどころか、口をきくことすらもなかった。
あの時欠けていたものは、絆、あるいは友情というような、強固たる人との線だったのだろう。
高校に入ってからは、苦手意識が勇気を踏みつぶし、こちらから人と話しかける事は一切せず、自分の世界に入り浸っていた。
誰かに気兼ねすることもなく一人の時間の中で生き、ただ教室という島からは切り離されない程度に関係を保ちつつといった、綱渡りをしているかのようなこれまでを過ごしてきた。
慣れとは本当に恐ろしい。
中学の時あれだけ避けていた独りも、決していい気分ではないが、落ち着きのようなものを感じるようになっていた。
平穏。
しかし、クラスメイトが話しかけて来た時は、隕石が襲来したかのようにその平穏は脅かされる。心音が太鼓を叩くように体中に響き、声があたふたと詰まる。
そんな自分が、よく雪奈やヒナタとよく接してきたものだ。
満は、遠い過去を回想するように、呆然と放課後の坂道を歩いていた。
「誰かと一緒に帰ったりとか、どこか遊びに行ったりとか、興味ないの?」
その声に我に返ると、満は首を振った。
「いや、そういう訳じゃないけど……。何というか、独りのほうが楽なんだよ」
「楽?」
満は、首元を掻きながら、困ったような顔をする。
「人に気兼ねしないで済む、というか。変な緊張を感じないで良いというか……平和なんだよ」
ヒナタは、ふーんと、満の言葉を聞捨てるように、鼻を鳴らした。
「私には、満が周りをうらやましく思っているように見えたけどなぁ~」
リストバンドは、皮肉ったように、呟いた。
「僕が?」
ヒナタが頷いた気がした。
「私、ここのところ、ずっと満のそばにいるけど、満の顔、何かいつも寂しそうだよ? 私といる時とは別人みたいに。たまに仲良く男の子たちが話してるのに視線を向ける時も、どことなく、あぁ、俺もあの中に入れたらなぁ、って、顔してた」
急に恥ずかしさが込み上げ、夏の暑さに溶け込み、満の顔は真っ赤になった。
「そ、そ、そんなことはない!」
「友達をつくるなんて、すっごく簡単なことなのに。おっはよー! ね、ね、今何話してたの? 的な感じで後は話にのっていれば、自然に仲良くなってるもんだよ?」
「お前みたいに明るい性格なら、そうかもね。」
満は深くため息をついた。
「明日からやってみる? 名付けて、”満、お友達、大っさくせ~ん!”
「勝手に決めないでよ!」
あまりに大きな声でいったものだから、周囲の視線を感じた満は、申し訳なさそうに口を噤んだ。
ヒナタはたまに変身を解くと、満の家にお泊りという名目で、家にお邪魔した。
その度に、満の母は喜んだが、満は悩ましげに頭を抱えた。
その夜、ヒナタは満の部屋に、母から借りたのか、小型の折り畳み式の机を広げると何かをノートに書き始めた。
自信満々の表情でクスクスとたまに笑みを溢しながら、ペンを動かすヒナタに、満は不安を感じていた。
こいつ、また碌でもないことを考えているな。
嫌な予感は翌日の朝、登校する時に的中した。
ヒナタはいつものようにリストバンドに変身する前に、一冊のオレンジ色のノートを「はい、これ」と手渡した。
その表紙に書かれた文字が、これから起こるであろう不幸を予言するものであった。
満専用 THEフレンド攻略本!
今日で俺、死ぬのか。
重たい石が肩の上からのしかかったように、体が急に重くなる。
「学校行くまでの間、バスの中とかで中身絶対読むこと! 今日は目標十人ね」
「じゅっ、十人!?」
一瞬、目が飛び出したかと思った。
「うん。大丈夫だよ。いざとなったら、私がフォローするからさっ」
あぁ、もう不安でしかない。
今日学校休んでしまおうか……。
この際、休みなしの者が手にする勲章である皆勤賞は逃しても構わない。それほどのものであった。
ノートには、一ページごとに、でかでかと見出しが先頭についていた。
一. 挨拶はコミュニケーションのきほん! 自分から元気よくすべし
二. 人と話すときは、笑顔を忘れずに
三. 賑やかな話題のうなる場所に、自分から飛び込むべし
……
こういったものが、永遠と続いており、とても全て登校時間で覚えきれるものではなかった。
どうせ、ヒナタのことだ。これを読んでいる自分を見て、ニヤニヤとしてるんだろうな。
満は、そう思いながらリストバンドを見つめた。
学校に着き、内履きに履き替え、教室に向かう途中、向こうから一人の女子生徒が歩いてくるのが見える。
眼鏡をかけた、落ち着いた雰囲気の女子。
安中早香。
文学女子の典型ともいえる、典型的な容姿である彼女は、密かに一部の男子の人気を集めていた。眼鏡をしている地味さからは、一見すると分からないが、それを外せば、童顔の可愛らしい顔立ちをしていることは間違いなかった。
「満、満! チャンスだよ。クラスの人を見かけたら、自分から挨拶!」
小さいが、急かすような声がリストバンドから聞こえる。
挨拶。本当にするのか。
いやいや、今まで話したことがないのに、いきなり挨拶なんて。
仮に自分が安中さんだとして、無口な男子がある朝いきなり挨拶なんてしてきたら、どう思う?!
驚きと恐怖でしかない。
と、言う間に彼女とすれ違い、何事もなく通り過ぎると、リストバンドから怒涛の声が満にふりかかる。
「ちょっと! 何でしないのよ!」
「できる訳ないだろう! あんまり話したこともないんだから!」と、満も小声でリストバンドに怒鳴る。
教室に入り、窓際にある自分の席に着き、荷物を置くと、リストバンドからまた小声が聞こえた。
「満、あそこ。黒板の前あたり!」
満は目を向けると、男子の三人組が楽しそうに何かで盛り上がっているのが目に入った。
太陽たちだ。
西村太陽は、クラスでも目立つ男子であった。
授業で先生に当てられた時は「なんで俺なん!?」とか平気で発言し、教師と彼の漫才が始まると、クラスの皆をことあるごとに笑わせていた。
スポーツマンでもあり、人当たりも良い。
男子の中でも話しかけやすい男子だった。
何度かグループ活動で一緒になった時も、満のことを気にしてか、積極的に話の輪にいれようと、話題を振ってくることもあり、満自身も彼には好印象を持っていた。
「ほら、満! 作戦その三、面白そうな話題がある場所には自分から飛び込め!」
いやいや、確かその三は、賑やかな話題のうなる場所に、自分から飛び込むべし、だっただろう!
っと、ツッコむ暇もなく、今度はリストバンドが無理やり満を引っ張り、誰かに腕を掴まれ引っ張られるように、満は太陽たちの目の前に行った。
太陽たちは満に気が付くと、話を中断し、視線が満に集まる。
「えっ、そのっ、あの、えーと……」
満の頭の中はもう混乱どころではなく混沌だった。
目が四方八方キョロキョロと動き、呂律が回らない。
そんな慌てふためいた満に、キョトンとするも、太陽はすぐに話をふってきた。
「俺達放課後、最近駅前にできたカフェ行くんだけど、満も行かね?」
直球。
いきなりホームランが狙える球が来た。
漫画や小説の主人公であれば、必ずこのチャンスを逃さないだろう。
いや、中学生や小学生、平凡な大人でもこれは絶対に打つはずだ。
「ご、ごめん。今日放課後、用事があるからっ!」
ストラィーク! という声が教室中に響いたような気がした。
満は逃げるように、その場を早歩きで去り、教室を後にすると、角を曲がり、階段の踊り場で足を止めた。
「このバカっ!! なんで断っちゃうのよ!!」
ごもっともな感想が、リストバンドから、今まで踏み込みに踏み込んでいた、じれったさのバネをはじいたように、飛んできた。
「しっ、仕方ないだろう。人から何か誘われるなんて、慣れてないんだから!」
「あぁ、もう。私を助けてくれた時の勇気はどこに行っちゃったのよ。」
ヒナタはため息をつくように言った。
「良い? 人から何か誘われた時は、焦らない、逃げない、断らない、の三拍子。分かった?」
無理難題。どんな数学の問題よりも難しいわ。
そう言おうともしたが、「分かったよ。」と観念したように満は返事をした。




