15
朝になると、目を覚ましたのは、アラームの音でもなく、母の甲高い声でもなく、ヒナタの元気な声だった。
目を開け、ぼんやりとした視界がはっきりとすると、ヒナタが覆いかぶさるように、満の顔を覗いていた。
「おっはよー!」
満は瞼を擦りながら、ヒナタをどけると、ヒナタは立ち上がった。
「もうすぐ朝ご飯できるよー! 今日は私も張り切って作ってみたらから、食べて感想聞かせてねー!」
ヒナタはそう言い部屋を出て行くと、満は一つ大きなあくびをした。
いつも通り制服に着替え、寝癖のついたまま、リビングへ行く。
「あんた、またギリギリに起きたね。もうちょっとゆとりを持ちなさいって」
もうすでに食べ始めていた母は、満に気が付くと手を止め、また呆れたような声調で言うが、満は適当に返事をすると、席についた。
「いただきまぁーす!」
満が来るまで待っていたヒナタは、満が席に着くと、手を合わせ、給食の時間の小学生のようにハキハキと挨拶をし、朝食に手を付けた。
「あんた、ちゃんと味わって食べなさいよ。今日はヒナタちゃんも作ってくれたんだから」
母が言うと、ヒナタも少し照れ臭そうに笑みを浮かべる。
「ね、ね。どう?」
ヒナタが尋ねると、満は「あ、うん。美味い」の一言を言った。
母の前だと、どうしても自然体でヒナタに接する事ができない。
ヒナタと話そうものなら、ニヤニヤしながら見て来る母の姿がすぐ脳裏に浮かんだ。
そんなことさせてなるものか。
朝食に満がパクつくと、再び母はため息をこぼした。
「この子ったら……」
朝食を食べ終えると、ヒナタと満は支度を済ませ、玄関へ向かった。
ヒナタは感謝と挨拶を礼儀正しく満の母に言うと、「うちなんかいつでも全然大丈夫だから、また遊びにおいでね」と優しく微笑み、ヒナタに言った。
家を後にすると、一つ目の角を曲がり、木陰で周りに人がいないことを確認すると、ヒナタはすぐに、昨夜のリストバンドへ姿を変えた。
満はそれをはめると、小声でリストバンドに話しかける。
「いいか、絶対学校で話すなよ。」
「うん、大丈夫!」
「しーっ! 声がでかい!」
もうこの瞬間から不安になる。
小説や漫画で何度か、こういう展開を目にしたことはあったが、たいていの場合、碌でもない事になりかねない。
そんな予感を感じた。
満は心配になりながらも、普段通りの振る舞いで、登校した。
夏期講習もようやく折り返しの日。
いつもなら喜ぶところだが、今日はヒナタの事で頭はいっぱいだった。
参観日の発表で子どもが変な事を言わないか心配する親もこんな気持ちなのだろうか。
学校に着くと、早速最悪の試練が満の前に訪れた。
前方から廊下を歩いて来る、黒髪の少女――。
昨夜からこればかりが不安だった。
昨日のこともあり、雪奈にヒナタがばれないかも心配であったが、学校生活で雪奈がどう迫って来るかが一番の心配だった。
あらゆるシミュレーションをしてみたが、最もあり得るのは、憮然とした態度で、ヒナタについて問い詰められることだろう。最悪の場合、結兎も来るかもしれない。
しかし、結兎の姿はない。雪奈一人だ。
どんなに責められ問われても「ヒナタは、何があっても渡さない」と言いその場を去るのが、最良のパターンだと考え、何度も頭の中でテイクを行ったが、いざ雪奈を目の前にすると、緊張と不安が胸の奥底から湧き出てきた。
雪奈がこちらに迫って来る。
そして、満の足も雪奈に近づく。
――すれ違った。
あれ……?
キョトンとした満は思わず、振り返った。
雪奈はいつものように、一瞥も向けず、怒った様子もなく、整然と廊下を歩いて行った。
拍子抜けし、途端に鎧のように覆われていた緊張がなくなり、全身の力が抜けた。
授業中も、雪奈が気になり、何度か雪奈を見たが、特に変わった様子もなく、あの綺麗な姿勢でノートに、板書を書きとめている。
最後の授業を終え、チャイムが鳴ると、雪奈はスクールバックを持ち、早々に教室を出て行った。
あれだけ昨夜ヒナタを渡すよう迫って来たにも関わらず、全く気にしない様子で、疑念を抱くほどだった。
「あいつ、何にもしてこなかったな」
満は、屋上に上がると、リストバンドに話しかける。
「私も、最初見た時は、やばっ、って思ったけど、何もしてこないのを見て、あれ? って、思ったよ。」
「諦めた……?」
「さぁ……」
満は、釈然としない顔つきで、フェンスの向こうに映る遠くの景色を見て、息をついた。
「おっ、いたいた。」
後ろから聞こえた声に振り返ると、結兎が左手をポケットに入れながら、右手で手を振っている姿があった。
「結兎さん」
満が言うと、結兎はゆっくりと満に近づき、左手から缶珈琲を取り出すと、満に差し出した。
* * *
「昨日は、雪奈が悪かったな。」
結兎は、遠くの空に見える入道雲を見ながら、言うと、満は首を振った。
「いえ……僕のほうこそ。」
「雪奈、不器用なやつだからさ。頼み方もよく知らねェんだ。」
結兎は缶珈琲を一口飲むと、少し俯き気味の満の方に視線を移した。
「雪奈から、全部聞いたんだよな。俺たちのことも、彼女のことも」
満が静かにうなずくと、結兎は静かに微笑んだ。
「知ったから、どうしようとか、そういうことは一切考えてない。満君とは、今まで通りやっていきたいと思ってるし、それは雪奈も同じだ。」
結兎は、再び町に目を移し、落ち着いた声で話し始める。
「雪奈から聞いたかもしれないが、あいつ、運が良いのか悪いのか知らないけど、生まれつき魔力強すぎて、現実の世界では、友達ができても、すぐにその子たちが頭痛ェだの、吐き気がするだので、体調崩しちゃってさ。」
結兎はまた一口缶に口を付けた。
「けど、満君に会った時、満君にはそういった症状は出なかった。だから雪奈も満君に心を開けたんだろうし、素で接することができたんだと思う。俺も満君には感謝でいっぱいだ。本当に、ありがとう」
結兎が言うと、満も照れ臭そうに笑みを浮かべた。
「あいつ、今魔法界でも試験の最中でさ。来月の中旬までに、魔法作品一つ創りあげて提出しないといけねェんだけど、上手く行ってないらしいんだ。ズルい奴だよ。俺よりも成績良いから、向こうだと飛び級で、学長からも一目を置かれてやがる。今回の試験も、周りの連中はあいつに期待しまくってるんだ。」
嫌な予感がした。
この後に来る言葉が予言されたのを感じ取ったように、満の心臓は静かに強く、鼓動した。
「満君、ダメもとでのお願いなんだけど、ヒナタを、こっちに渡してくれないか」
冷たい風が屋上に一風する。
満は、その言葉にハッとした表情で、結兎を見た。
「この試験が終われば、雪奈も晴れて卒業することができる。けど、もし魔法で作った生き物を現実世界で野放しにしてしまったとなれば、エライ事になる。退学させられる可能性もある。それだけじゃない。ヒナタがもし自分の魔力で何かしようものなら、この世界にもどんな影響が出るのか見当もつかない。満君、どうかお願いだ。ヒナタを、渡してくれないか。」
結兎は、目を瞑り、深々と頭を下げた。
本気だ。
今まで見たことがないほど、真面目な結兎の姿だった。
満は、ギュッと唇を結ぶと、弱弱しく、強い口調で言った。
「ヒナタは……魔法で悪さするような奴じゃありません。僕は、あいつを護るって決めたんです。すいません。」
そう言い、満は頭を下げると、そそくさと、逃げるように屋上を去って行った。
満が屋上の入口へ消えると、残された結兎は顔を上げ、「やっぱりダメか……」とため息をつき、珈琲を一気に飲み干した。




