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少し面倒な話になるとも思ったが、意外にも、事はすんなりと進んだ。
ヒナタと共に帰って来た満を見て、少し驚いた様子であったが、詳しく事情を尋ねられることもなく、「今夜、ヒナタうちに泊めても良いかな」の一言で、すぐに受け入れられた。
厄介に思われるどころか、「へぇ、あんたこんな可愛い友達がいたんだね~」とニヤニヤし、ヒナタは歓迎された。
先に風呂を上がった満はリビングで夕飯の支度をする母の横で牛乳をゴクゴクと飲んでいた。
「お風呂、ありがとうございました」
リビングに入って来たヒナタは、帰りに購入した夏用の涼しげな寝間着を身に付けていた。
満は一瞬、見慣れない姿のヒナタに気を取られたが、すぐに手に持っていた雑誌に視線を戻した。
というか、こいつ。風呂は許容範囲なのか……
「あ、私も手伝います」
「あら、良いのに。じゃあ、頼もうかしら。」
満の母は、ヒナタに簡単に指示をすると、ヒナタはテキパキと動き始める。
ヒナタに向ける優しい目と一変し、睨むような視線が満を襲った。
「ヒナタちゃんは、こんなに良い子なのに。うちのバカ息子ときたら……」
額に手をつけ、これ見よがしにため息をつき言うと、満は不機嫌そうに雑誌をめくった。
夕食を終えると、満は自室へ戻った。
明日の講習に提出する宿題がまだ終わっていない。
暗い部屋の電気をつけ、机に向かう。
ガチャ、と部屋の扉が開く音が聞こえると、シャーペンを持った手を止め、満は振り返った。
「ちょ、お前っ」
ヒナタは、ひょいと扉から顔をのぞかせ、慌てた満の顔を見ると、にんまりとし、「オッ邪魔しまーす」と元気よく部屋に侵入してきた。
「バカっ、お前の部屋は隣、隣」
満が慌てて指で部屋の壁を指差し言うも、ヒナタはお構いなしに、満の畳んである布団の上に腰を下ろした。
「だって、一人じゃ、つまんないんだもん。それに、満の部屋って、どんな感じなのかなぁーって」
「普通だよ、普通!」
ヒナタは、何かに気が付いたような顔をすると、立ち上がり、目の前にあった本棚をのぞく。
ちょ、ちょ、ちょっ……
「へぇ~、満って、こういう本読むんだぁ」
ヒナタは、青色の空にハート型の雲が映った本を取り出し、ニヤリとして、満にみせた。
そ、それは――!!
満はバッと、立ち上がり、ヒナタからそれを取り返そうとするも、ヒナタは巧みに満の手を避け、題名とあらすじを読み始める。
「『僕は君とみた空を忘れない』。ある冴えない高校生、星野聡は、転校してきた光莉に恋心をひそかに寄せていた。移動教室のある夜、告白を決意した聡は」
「だぁー! だぁー! だぁー!!」
もう恥ずかしさが全開になり、顔を赤くした満は、ヒナタの言葉を遮るように叫んだ。
ようやく、本に手が届き、ヒナタから本を奪い取ると、守るように胸に抱え、ぜぇ、ぜぇと息をついた。
「他にどんな本があるのかなぁー?」とヒナタは悪戯な笑みを浮かべ言うと、満は怒鳴るように言った。
「も、もう見るな!!」
二人は落ち着くと、満は椅子に座り、ヒナタにふと尋ねた。
「ヒナタって、水に弱いん……だよね?」
「え? うん。」
「どこまでがOKラインなの?」
ヒナタは首を傾げる。
「いやさ、お風呂は大丈夫そうだからさ」
「あぁ。」
ヒナタは、理解したように声を漏らす。
「どこまでが大丈夫かって、口で言うのは難しいかな。感覚みたいなものだから。基本お風呂もタオル濡らして、体擦って、軽いシャワーで流すくらいだから。このシャワーのかける量の調整が、すっごく大変」
「普段は、その、お風呂とか、どこでどうしてたの?」
「せんとーって所に行ってた。流石に、雨の日とかはダメだったけどね。長時間雨に当たったりとか、お風呂みたいに大量の水の中に入ったりしなければ、結構大丈夫かな。あ、傘とかもちょっと心配。足元濡れまくるから」
そういうことか。
「あっ、けど、私だって少量の水は生きるのに必要なんだよ。乾くと、肌とかもカピカピになるから」
確かに絵具も長時間放置しておくと、水分が蒸発して、乾いた土の塊のようになる。
最低限の水分は必要ということか。
「結構、大変だな」
満は、飾らずに思ったことをそのまま述べた。
「そーだよ。まぁ、それ以外は普通なんだけどね」
ヒナタは苦笑を浮かべる。
こうしてみると、少し人間とは違った部分はあるものの、とてもヒナタが絵画から生まれた存在なんて思えなかった。
周囲の人と同じで、感情があり、五感があり、手に触れれば柔らかく、そして温かみのある感触が伝わる。
雪奈がいうような脅威のようなものは、ヒナタの性格からも微塵も感じる事はなかった。
「明日から、どうする? このままうちにいるなら、母さんに頼んでおくし」
満が言うと、ヒナタはしばらく考えるように黙ったが、静かに首を横に振った。
「迷惑になっちゃうから、また別の所に移動するよ。追手が来たりしたら、満にも、満のお母さんにも迷惑かけちゃうし」
少し寂しげな声だった。
「ヒナタは、自分から絵に戻ることって、できるの?」
「えっ?」
「いやさ、もし自在に絵に戻ったり、出たりすることができるなら、僕のスケッチブックの中にいたら、どうかなって。このまま外にいるよりは、安全だと思うし。」
ダメもとの思いつきだった。
あっさりと却下されることを、言いながら満は予想していたが、ヒナタは意外にも、うーんと、顎に人差し指を当て、真面目に考える仕草をみせた。
すると、ヒナタは何か閃いたように、ハッとした。
「私が、満の何かに変身するっていうのは?」
「え、変身できるの?」
思わぬ可能性だった。
ヒナタは、うん、と頷いた。
「一応、魔力もあるから、魔法も使えるんだ。絵の中にいた頃、お姉ちゃんが練習してるのを見て覚えちゃった。って、これしか使えないから自慢、できないんだけどね」
ヒナタは頭に手を当て、苦笑いしながら言った。
「じゃあ、やってみるよ。」
ヒナタは立ち上がると、胸に手を当て、小さな声で何かを呟いた。
「うわっ」
太陽のような眩しい光が部屋を包むと、満は手で目を塞ぐ。
目を、そーっと開けると、目の前にいたヒナタの姿が消えていた。
満は左右に首を振ると、「満、こっち、こっち」というヒナタの声が、床のほうから聞こえた。
床には、ぽとんと、ヒナタのスカートと同じ、ベージュ色のタータンチェックのリストバンドが落ちていた。
それは誰かがさっきまではめていたように、妙に温かい。
「ヒナタ……?」
満が名前を呼ぶと「えへへ、どう?」という、くぐもった様なヒナタの声がリストバントから聞こえた。
「これなら、はめてても違和感ないし、満の側に居られるから」
これが女の子だと思うと、若干抵抗があったが、まぁ良し、としよう。
満は、翌日の登校からヒナタを腕にはめて生活するという、何とも不思議な生活が始まった。




