13
雪奈が描いた……絵――?
混乱の中、その言葉だけが光線のように頭の中を駆け抜ける。
雪奈は頷いた。
「その子と一緒にいたのなら、思い当たる節はあるはずよ。油絵具で描いたのだから、少量の水であれば大丈夫だけれど、長時間それに当たったり、一度に大量の水に浸かれば、その子や使い魔たちは溶けてなくなってしまう。だから、雨の日とかは避けていたんじゃないかしら。」
その通りだった。
今までヒナタが水をひたすらに拒んでいた。
だから、小雨の時も現れない。
すると、手元に生温い何かが当たるのを満は感じた。
見ればそれは、ヒナタの手の上に落ち、垂れるように満の手へ流れていた。
視線を上に向けると、それはヒナタの目からは、静かにその雫が頬を伝い流れていた。
そこにあったのは、今までそっと、そして必死に隠し続けていた秘密事を、クラスの誰かに暴露された時に突き付けられる残酷な衝撃を受けた少女のように、虚ろな目で力のない表情であった。
「どういう……ことだ?」
満は、雪奈とヒナタを交互に見ながら尋ねると、雪奈は静かに口を開いた。
「私は魔法界でも美術魔法を専攻している。だから、私は自分の描いた絵に魔力を注いで、生命を宿す事ができる。けど、さっきも言ったように、私の魔力は私でも驚くくらいに強すぎる。だから、知らずのうちに、描いた絵に意図しないうちに命が宿ってしまうこともあるのよ。気付いた時にはかなり焦ったわ。以前、私の家にあるアトリエが改築される時、美術室に絵画を置かせてもらったことがあったでしょう」
二か月前、確かに雪奈はそういう理由で、家にあった自作品を美術室に一時期置いていたことがあった。
どれもこれも印象深い、美しい絵画ばかりだったため、満はよく覚えていた。
「あの時、魔法界に提出するものは、全部魔法界の学校に置いたのだけれども、あの時運んだ中に、その子を描いた作品があったのよ。まさか、魔力が宿ってるとは思いもしなかったわ。美術室から家に絵を持ち帰って、絵画からその子が抜けているのに気が付いた時は、もう焦って、使い魔たち《この子たち》を使って、必死に探したわ。」
「じゃあ、あの時夜にみた巨大な化物も――」
雪奈は、肩を少し落とし、息をついた。
「あれも、見えていたのね……。えぇ、そうよ。あれも私の使い魔の一つ。水竜の使い魔達に探させても、影も掴めないものだったから、気が進まなかったけど、あの子を使ったのも私よ。」
雪奈は、再び顔をあげる。
「満、悪いのだけれども、その子を返してもらえないかしら。その子にも、私と同じ魔力が宿ってしまっている。この世界にも、どんな影響を与えてしまうか分からない」
「渡したら……ヒナタはどうなる?」
満は、凛とした態度をする雪奈に問い詰めると、雪奈は声調を変えずに応答する。
「強制的に絵画の中に引き戻すわ。不意にも私が魔力を移してしまっているものだから、その魔力も返してもらう」
「魔力を取ったら……ヒナタはどうなる?」
「ただの絵に戻るわ」
ただの絵に戻る。
その言葉は、恐ろしく冷たく、刃物のように満の心を突き刺した。
耳に伝わったそれは、その文字面よりも、重く、そして氷のように冷ややかで、冷酷なものとして、胸の底に響いた。
戸惑う中、それが、ヒナタの死を指していることを、満はすぐに理解した。
楽しくお喋りをすることも、手をつないだ時の温かさも、そして彼女という存在も、何もない、絵の具という素材で描かれただけの存在になる。
恐怖とは違う、何か熱いものが広がる。
ヒナタがいなくなる。
満は、手をギュッと、強く握りしめた。
「さぁ、満。これは魔法界の者の問題よ。その子を渡して。」
雪奈は、問い詰めるも、満は答えない。
「満――」
雪奈が声に重みを乗せて言った時だった。
「来い!」
満は、ヒナタの手を引っ張ると、雪奈に背を向け駆け出した。
ヒナタも、満の突然のその行動に、眉を上げるも、満の強引な腕に、磁石のようにひきつけられ、駆け出した。
「満っ!」
後ろから雪奈の叫ぶ声が聞こえたが、満は振り向くことはせず、公園の門を走り抜ける。
「追って!」
雪奈が命令をすると、二匹の竜は首を上げ、勢いよく、宙を泳ぎ、二人の後を追った。
暗い路地に入る。人通りは少ない。
「満、何でっ」
「そんなことは後だ!」
魔法界がどうのとか、影響がどうのとか、そんなことはどうでも良かった。
ヒナタがいなくなるかならないか――ただ、それだけが問題だった。
消させるものか――
満は、ただヒナタを連れ走る事に専念するしかなかった。
首を後ろに向けると、赤い瞳をギラギラと光らせ、水竜たちが追ってくる。
奴らを何とか撒かないと。
満は、急に建物の間道へ進路を変える。人一人がようやく突き抜けられるような細い道だ。
満達は、その道を抜け、大通りに出ると、人混みの中を駆けた。
水竜たちは、その勢いのせいで、間道を一瞬追い越すも、すぐに戻り、その細い道へ入る。
人と人との隙間を駆け、再び路地に入る。
再び通りに突き抜ける場所に出ると、満とヒナタは後ろを振り返った。
水竜たちは、ようやくその路地の入口に立ち、満達をその赤い眼で捉えると、再び追って来た。
「っしつこい奴らだな!!」
満は、再びヒナタの手を握り、駆け出す。
細い道やサラリーマンの入り浸る居酒屋街を走るも、水竜たちは、どこまでも満達の後を追って来た。
体力ももう限界に近付き、段々と、走るスピードが落ちて来る。
「あいつら、何か弱点とか無いのかよ……!」
息を切らし、満が叫ぶように言うと、ヒナタは、えーと、えーと、と考え、閃いたように叫んだ。
「水っ! 水に弱いはずだよ!」
「水だな!」
頭の中で、水という単語に関連するものをフル回転させ、はじき出す。
水、水、水――。
明石東公園。
確かあそこには、公園児童プールがあったはず。
走ってすぐの所にある、場所。
行ける――!
満は、すぐに明石東公園へ向かって走った。
公園に入ると、プール前の小さな小屋のような建物が、暗闇の中にあるのが見える。
後ろから迫りくる水竜に、迷っている暇はなかった。
立ち入り禁止の文字がある、柵を上り中へ入ると、公園の外灯の光で照らされた、プールへ出た。
「よし、入るぞ」
と、満がヒナタの手を引っ張るも、今までスムーズに引かれたその手は、抵抗するように動かなかった。
「わ、私、水の中は……」
そういえば、こいつも水が苦手だった――!
すっかり忘れていた。
公園の入り口の方へ目を向けると、先程の二匹の竜がようやく到着し、二人に気が付くと、向かって宙を駆けて来る。
「くっそう!」
「えっ、ちょっ、満?!」
満は、全ての残った体力をかけて、ヒナタを膝から持ち上げ、背中を担ぐと、ゆっくりとプールへ入った。
満の腰下ほどに水が浸る。
腕の貧弱な筋肉が、ぴくぴくしているも、満はヒナタをプールに落とすまいと、必死に持ち、水中を歩いた。
プールの中央付近まで来ると、水竜たちがプールの手前に見える。
ヒナタの言う通り、水に弱いのか、二匹の水竜はプールの水面を駆けてくることはなく、悔しそうに唸り、満達をプールサイドから見つめていた。
諦めたのか、一匹の竜が引き返し、もう一匹がそれに続き、二匹の竜は公園の入り口から夜の闇へ消えて行った。
水竜たちが完全にいなくなるのを見届けると、満は、水中をゆっくり歩き、プールサイドまで行くと、ヒナタを床につけ、そのまま力尽きたように倒れ込んだ。
もう一歩も走れそうにない。
地面に顔をつけると、体全身に重力がかかったように、今までの疲労が一気に満を襲った。
* * *
「満、大丈夫?」
静かな夜のプールサイドで、膝を抱えて座る満に、ヒナタは横から声をかけた。
「あぁ、大丈夫だよ」
満が心配をかけないように、微笑言うと、ヒナタも一瞬笑みを返すが、すぐにシュンとした表情へ変わった。
「ゴメンね。迷惑……かけちゃって。」
「ううん。」
「お姉ちゃんが言っていた事……本当なんだ」
お姉ちゃん。
それが雪奈のことを指している事に、満はすぐに分かった。
雪奈は下を向き、思い返すように言う。
「生まれたときは、目の前にお姉ちゃんがいて、完成した私をみて、とても嬉しそうだった。その時、私はずっと話しかけてたんだ。描いてくれて、ありがとうって。だけど、その時は私の声はお姉ちゃんにはまだ届かなかった。ある時、お姉ちゃんは私と他の絵を持って、別の場所へ連れて行ってくれたの。そこで、満を知ったんだよ。」
「僕を?」
「うん。」
「イーゼルに向かって、何か描いてたの、見てたから。」
満は、いつもの美術室にいる自分を、他人から見るように思い浮かべると、あぁ、と声を出した。
「満やお姉ちゃんたちが、あんまりにも楽しそうにしているから、私も外に出てみたいなぁ、って思う様になったの。それに、一人で美術室にいる時の満、すっごく寂しそうにみえてたから、私が話し相手になれればな、って」
ヒナタがそう言うと、満は苦笑した。
「見てたのか。」
「うん、ずっと」
少しの恥ずかしさが満の頬を染めた。
「学校から家に着いた時、どうしても満のことが忘れられなくて、外の世界に行って見たいと強く思ったとき、気が付いたら、外に出てたの。その時、すぐに満に会いに行こうって、家を飛び出して来ちゃった。」
「うおっ」
顔を隠すように、抱き着いてきたヒナタに、満は態勢を少し崩した。
しかし、すぐにうずめたヒナタから、詰まった声が聞えてきた。
「ゴメン、本当にごめんね。余計なことだったかもしれない。けど、どうしても満に喜んでほしく、笑顔になってほしくて。けど結局迷惑になっちゃったよね。人間じゃないって知って、私なんか嫌いになっちゃったよね。本当に、ごめん。ごめんなさい」
満の背中のワイシャツを、ギュッと握りしめるのが分かった。
ふと見えた横顔には、涙でぐしゃぐしゃになった、少女の顔があった。
こんなに女の子が泣く姿を見たのは初めてのことだった。
こういうとき、どうすることが一番良いのかは分からない。
嗚咽を漏らすヒナタの頭を、満は優しく撫でた。
初めてみた彼女の涙に、咄嗟に、それしかすることができなかった。
「別に、迷惑なんて思ってないよ。」
泣くヒナタに、満は静かに言う。
「僕の方こそ、ゴメン。その……ヒナタがいなくなるの、嫌だったから、勝手に連れて来ちゃって。」
満が、頬を軽く掻きながら、照れ臭そうに言うと、ヒナタは、泣きくしゃになった顔を、手で拭った。
「ううん、ありがとう」
満も、ゆっくりと微笑んだ。
腕で涙を拭うヒナタに、胸ポケットに入れていたハンカチを渡した。
「さてと、これからどうするか。」
次の問題はこれだった。
「そういえば、今まで雨の日とかは、どこでどう過ごしてたんだ?」
「雨の当たらない場所にずっといたよ。橋の下とか、トンネルの中とか。」
「ずっと?」
「うん。夜も降っている時は本当につらかった。誰もいないし、暗くて怖かった」
想像するだけで、それは共感できた。
雨の日の夜は、妙な不気味さがある。
子どもの頃、祖父母の家に遊びに行った時、雨の夜、一人で暗い部屋に寝るのは、とても怖かったことをよく覚えている。
ちょっとした、物音でも、敏感になって、ビクビクとしてしまうほどだった。
公園の時計を見ると、午後九時を指していた。
「取り敢えず、今日の所はうちに来る?」
「えっ」
「父さんは出張で今夜いないから、そこの部屋しか空いてないんだけど、それでも良ければ。母さんには俺から何とか言ってみる」
「良いの?」
「あぁ。」
「ありがとう!」
ヒナタは目にまた涙が溢れると、勢いよく、満に抱き着いた。
「ちょっ、ヒナタ」
ヒナタは嬉しさに満ちた表情で、満にまた抱き着き、懐いて来る犬のように迫るヒナタに、満は圧倒された。
最後まで毎度読んで下さり、ありがとうございます^^
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