10
数日、夏の空が広がる晴天が続いたが、再び薄暗い雲が町の空を覆っていた。
雨自体はそんなに酷くないものの、気分屋で、降っては止みの繰り返しだった。
満が、校門から学校を去る時には、再び雲が立ち込め、雨脚が降り注いでいた。
その天気は、満の心を映し出しているかのように、不機嫌で不安定な、そんなものだった。
あんな風に責めるつもりはなかった。
その日は朝から立て続けに不機嫌にさせる事が起こった。
携帯のアラームアプリの不具合で、遅刻をし、午前中の夏期講習では宿題を忘れ公開処刑をくらわされ、おまけに急な雨と来たものだから、憮然としてしまうのも仕方がなかった。
雨音の中、悔いのような感情が、胸の奥底に重みを帯び、居座った。
ヒナタが濡れる事を非常に嫌うことは知っていた。
雨が降っている時は、必ず現れないことも。
だが、それにも関わらず、満はヒナタを怒り、責めてしまった。
出かける約束をしていたのだが、天気予報が外れ、ちょうど待ち合わせの時間に小雨が降った。
このくらいの雨であれば、来るだろう。
傘を差せば凌げるほどの、優しい雨。
しかし、現実は容赦なかった。
約束の時間を二時間も待ったが、弱弱しく雨は降れど、ヒナタはその場に来ることはなかった。
ヒナタの連絡先を聞いて置けば良かったと最初は思ったが、この程度の雨でも来ない、ヒナタに、満の腹はグツグツと静かに煮えていた。
約束の時間に訪れないことよりも、約束より自身が濡れない事を優先したことが、なおさら、満の青筋を立てた。
ヒナタがようやく来たのは、雨がもう店じまいをし、茜色の空が広がり始めた頃だった。
冠を曲げてしまった満に、ヒナタは会うなり、すぐに謝罪をしたが、その謝罪に含まれていた言葉が、満の癇癪玉を爆発させた。
「ほんとーに、ごめん! 雨が降ってきちゃって、早く行かないと、って急いでたんだけど、中々止まなくて……」
――雨が降ってきちゃって。
「傘はなかったの?」
自分でも驚くほどに、落ち着いた恐い声だった。
「傘は……ちょっと」
ヒナタは目を逸らし言う。
「そんなに濡れるのが嫌なの?」
ヒナタは、静かにコクリと頷いた。
「約束破ってまで、自分のことを優先するん……だね。」
ヒナタは、怒りの滲んだ満の言葉を聞くと、ブンブンと横に首を振った。
「違うの、そうじゃないの。」
「じゃあ、何なの? 水アレルギーとかなの?」
「アレルギーとかじゃ……ないけど……」
目のやり場に困っているように視線をそらし、小さな声で言うヒナタに、ついに満は風船を爆発させたように、せきをとばした。
「じゃあ一体何なんだよ!! ただ単に濡れるのが嫌なんだろ!? アレルギーとか、そんなんじゃないなら、この程度の雨、来ようと思えば来れただろ!? いい加減にしろよ!!」
――やってしまった。
朝からのむしゃくしゃを、全て乗せてしまった。
直後、怒りの蜃気楼の中に、後悔の冷たい風が吹いた。
「本当に……ごめん……。」
線香花火が落ちるように、しゅんとした声だった。
ヒナタと満は、二人の時間だけが一瞬止まったように、静止した。
――ここで許して謝ろう。
それは、「謝ればよかった」という言葉に変わった。
「満っ……」
その声が後ろから聞こえた時には、満はすでにヒナタに背を向けて、歩きはじめていた。
――今ならまだ間に合う。
しかし、意固地になったもう一人の自分は、その足を止めようとしない。
結局後ろに振り返ることもなく、満は、その場を去っていった。
* * *
雨は次の日も、また次の日も振り続けた。
黒板の前から、熱弁する声が聞こえるが、満は、窓から流れ落ちる雨粒を見つめていた。
「最近、元気ないわね。」
美術室でイーゼルに向かう雪奈が、満に声をかける。
その声にハッとする。
いつの間にか、講習は終わり、美術室まで来ていた。
返事のない満に、雪奈は息をつき、再びイーゼルに視線を戻した。
「まぁ、何があったのかは分からないけど、私にできることがあれば、相談に乗るわよ。」
「ありがとう。けど、大丈夫。」
本当は大丈夫なんかじゃない――。
しかし、こう返す他に、言葉が浮かんでこなかった。
この状態を学校にまで持ち込むのは、いけないことだと思ってはいた。
こういった感情は、雪奈との間にも、蟠りの様な壁を築いてしまう。
なるべく、学校では普段通りに過ごそうと、満は努力した。
心に戻って来た、寂しさのような何かが渦巻くことを必死に隠し、振る舞った。
「……そう。」
勘の良い雪奈が、満のそれに気が付かないはずがなかった。しかし、満のことを気遣った上での判断なのか、雪奈はそれ以上それについて言及してくることはなかった。
夕方になると、雨は止み、夜には星空に町は包まれた。
夜のとばりの中、蛙の鳴き声、水が落ちる音、車が近くに来て遠くへ去る音が静かに響く。
青白い柔らかい月の光が、窓から差し込み、寝入る満を照らしていた。
目を覚ましたのは、二時を少し過ぎた頃であった。
満は、何かに起こされたかのように、瞼を開き、目を擦り、上半身を起こした。
まだ、昼間に感じていた、騒めく何かが静かに胸の底で満を煽っていた。
またあの後悔の念が、ヒナタの見せた寂し気な顔とともに、脳裏に浮かぶ。
ため息をつき、満は窓の外に視線を向けた。
満はその息を止めた。
――止められてしまった。いや、奪われてしまったのだ。
四角いビルの黒い影の中、そこに、巨大なそれは、歩く様に動いていた。
山羊のような角が、後頭部から突き出し、渦を巻いている。
人型なのか、よく分からないが、確かにそれには腕のようなものもついている。
それを前につき、下半身を引きずるように町中を進む、山のようなそれに、満は言葉を失った。
目を思いっきり擦り、瞼を見開きしたが、確かにそれは、はっきりと視界にうつっている。
月光に照らされ、その体はシャボン玉のように表面と複数の赤い瞳を輝かせている。よくみれば、巨大な牙のような口元も見える。
窓越しに広がるその光景に、満は、思わず、腰を抜かした。
その化け物は、何かを探しているように、周りを見渡し始めた。
赤い瞳が八つほど、光っている。
気付かれたのか、その化け物と思わず目が合ってしまった――。
満はすぐに、窓から見えないように体をうずくめた。
焦燥と恐怖が立ち込める。
満は、思い切りに瞼を結んだ。
暗い視界の中。
近づいてくる足音もしない。
満は、窓枠に汗濡れた手をかけ、ゆっくりと、窓の外を覗いた。
蒼い星空の広がる、静寂に包まれた町――。
満は、膝をたて、首を振り、辺りを見渡すも、怪物の影すらもそこにはなかった。




