社畜は今日も帰れない
人の疎らに残るフロアで、私はパソコンに顰め面を向けていた。
職場で大きなトラブルがあって、もう何日も家に帰れていない。周りを見回すと、同じ部署の人間は同じように疲れきった顔をしている。私のとなりに座る菅野も、空のたばこの箱を握りつぶしながら眉間にしわを寄せていた。
「下の奴らはいいよな」
菅野は普段は質のいいスーツを着込んだ男だ。仕事もできるし顔も悪くはない。そんな菅野すら連日続く 死の行軍に、皺の寄ったシャツを着ていた。
下のフロアからはざわざわとした声が聞こえる。私の部署は38階建ビルの最上階に位置している。3フロアに渡って自社のテナントが入っているが、こんなに憔悴している私たちくらいで他の部署の人たちは繁盛期を過ぎたこの時期は残業をする必要はない。
時計を見るとちょうど定時を過ぎた辺りだ。それでも私たちはまだ帰れないんだろうな、とため息を吐いた。
「お疲れ様でーす」
買い出し班が戻ってくる。買い出しと言っても、2フロア下のビル内コンビニに足を伸ばすだけでこのビルから出ることはない。このビルにカンヅメの状況がずっと続いている。
幸い――と言っていいのか疑問だが――うちの会社は繁盛期には社内泊が普通だ。このフロアはシャワー室、仮眠室が完備しているため、生活に困ることはなかった。
「もう碌なもんなかったですよ」
そういいながら買い出し班の斎藤が机の上に魚の缶詰やスナック菓子などを並べる。コンビニの仕入れがあったのは随分前らしいので、このところのデスマーチで商品棚はすっかり空になっていたそうだ。
斎藤は、今年入社したばかりの新入社員だ。仕事どころか部署の場所すら覚えきれていない彼には、もっぱら雑用や体力仕事に従事してもらっている。
「オレたち、いつ帰れるんすかねぇ」
「いつって……そりゃこの一大プロジェクトが終わったら、だろ」
「プロジェクトじゃなくてトラブルの間違いでしょ」
残業している部署のメンバーに声をかけて、給湯室で炊いた白米と一緒に食料を配る。するとどうしてか、今朝見たときよりも人数が減っている。
「藤高さんはどうした?」
菅野もそれに気づいたのだろう、フロア全体見回した。
「あ、藤高のおっさんならさっき下で見ましたよ。なんかもうすっげー顔色してぶつぶつ独り言言ってたんで、そっとしておきました」
「また脱落者か……」
長く続く 死の行軍に、嫌気がさして姿を消す社員だっている。そんな人は引き止めてもどうしようもならないし、私たちの声が届くこともなかった。
「ねぇちょっと、聞いてよ」
買い出し班の一人だった恵理子が、春雨のスープカップをフォークでぐちゃぐちゃにかき回しながらオフィスチェアの車輪を転がして近づいてくる。同期の恵理子はおしゃれに敏感でいつもきれいに髪を巻いていたが、この状況では彼女の髪もクリップでひとつに束ねられているだけだ。
「さっき下で湊さん見たんだけどさ!」
「港さんって、営業課の恵理子がちょっといいなって言ってた人?」
「そう、その湊さんが、下のトイレでうーうー唸ってたのよ……正直、幻滅したわ」
「まあ、そんな姿見ちゃったらね」
恵理子の話を適当に聞き流しながら、焼き鳥の缶詰をおかずに白米を食べる。あまりおいしくない食事に、駅前のイタリアンが食べたいなあ、と独り言ちた。
□
「おい、お前クマ酷いぞ」
早朝、最低限の化粧を済ませた私に菅野が自分の目の下を触りながらそういった。確かに仮眠室のベッドは固いし、他の人だってすぐ隣で寝ている。普通の神経では熟睡できる状況ではない。そういう菅野だって、顔色は良くはなさそうだ。
「もう少し寝てたらどうだ?」
「大丈夫。それに、ビル内の電気設備管理システム触れるの私だけだし」
私は以前の部署――といっても今の部署の隣なのだが――で自社内の電気、空調、セキュリティなどを管理する仕事をしていた。本来ならば管理会社の仕事の一つなのだが、うちの会社は就業時間が変則的だったり、泊まり込む人間もいるので管理会社から自社フロアにのみ管理権限を委託されていたのだ。
管理システムの扱いを覚えるのは容易ではないが、こういった際に好きにいじれるのは特権のひとつだった。
「今の時間なら誰もいないから寝ろよ」
「……寝れる訳ないじゃない、こんな状況で」
菅野は難しい顔をしているが、今回ばかりが私の方が正論だった。
「プロジェクトメンバーも、もう8人しかいないのよ。最初は20人以上いたのに」
「だからって、お前が無理してもしょうがないだろ」
「私だけじゃない、みんな無理してるわ」
菅野だってそうでしょ。私の言葉に菅野はむっつりと黙り込む。
「たった8人でも、成功させたいのよ。だから無理をするの」
「……わかった。だけど今日の掃除は休んでくれ」
「人数が減ったら大変になるだけじゃない」
「じゃあ、少しでも休んでくれ。お前の不調は、メンバー全員の枷になるぞ」
菅野の真剣な言葉に私は渋々頷いた。それにパソコンを覗き込んだところで、今日すべきことは3フロア分の監視カメラのチェックくらいしかない。昼の掃除の時間に備えて、少し休むとしよう。
2時間ほど仮眠をとって、滑り止めのついた室内履きに履き替える。この靴も、随分と汚れてしまっていた。
動けるメンバー5人で周囲を警戒しながら下のフロアへ降りると、むわっとした臭気と共にぬるい空気がまとわりついてくる。トラブルの後からは節電のため下のフロアの冷房を切っていたが、夏の上層階がこんなにも暑くなることを最近初めて知った。
「やっぱり、腐敗が進んでいるな」
「そろそろ動けない奴もいるっぽいっすよ」
「うまくいけば数週間後には外に出られるかもな。今が夏だったことが幸いした」
手慣れた様子で先頭を進むのは、買い出し班としてこのフロアを一番よく把握している斎藤だ。仕事でのミスは多い青年だったが、このフロアでは彼が一番頼りになる人物だった。
「今日の掃除箇所は西側だったか?」
「うん、階段のところに集まってる。防火扉があるとはいえちょっと心配だから、散らさないと」
私たちの力では問題を解決することはできないが、問題が一か所に集中しないように分散させる程度のことはできた。いや、違う。何人も被害が出たけど、できるようになったのだ。
通路の先から声が聞こえる。それぞれ変質者対策のさすまたや、鉄製の椅子の足など、鈍器になりそうなものを構えた。ずるずると、何かが這いずるような音や、水音がだんだんと近づいてくる。
私たちはお互いに目配せをして、腐敗が進み人の形すら保っていない同僚たちがいる方へと歩き出した。