第十六話 アイオーン界
エリウスは水の中を通り抜けた。一瞬奇妙な幻惑を感じたが、あっという間に水を抜け、自分が虚空に放り出されたことを知る。
南の海を思わせる、青さに満ちた空間であった。上も下も果てしない青い空が広がっており、自分が壮大な虚空に浮いているような気がする。
しかし、間違いなくエリウスは落下していた。自分がこのまま落下していくとどうなるのかは判らなかったが、ただ落下しているだけでは目的地へ辿り着けない気がする。
とりあえず、エリウスは糸を放ってみた。魔繰糸術は作動したが、糸を絡める先が無い。とにかく、手当たり次第糸を放ち、ひっかかるものを探す。
突然、糸が何かに絡みつき、落下が止まった。大きく振り子の運動が起こり、エリウスは青い虚空の中をぶらぶらと揺れ、やがて止まる。
「黄金の光なんてないじゃん」
一言愚痴を漏らすと、エリウスは糸を手繰って昇ってゆく。やがて頭上に金色の光が現れた。その光の中に糸は続いているようだ。
「あれかあ」
エリウスはため息をもらす。
それは巨大な樹の根であった。複雑に絡み合い、雲のように不定形なそれは、黄金の光を放ちながら青い虚空に浮いている。
「あれに触ればいいのかな」
◆ ◆ ◆
ロキは城の螺旋階段を降りて行き、最も深い地下に辿り着いた。そこは薄暗い空洞になっている。足下には、神秘的な青白い輝きを放つ湖がある。
ロキは湖をのぞき込む。表面は青白い光を放っているが、その奥は濃紺の闇に包まれていた。そして濃紺の闇の中を銀色の光が走っている。それは深い青色の宇宙を、無数の流星が飛び交っているように見えた。
ロキは黒い衣服を脱ぎ捨て、均整のとれた彫像を思わせる裸体を顕わにする。その美しいといってもいい裸体に、無数の線が走った。ロキの全身は深紅の格子に覆われる。そして、ロキの身体は細かな断片に分解されてゆく。ロキは幾百もの小さな立方体に分割された。その微細な立方体たちは空中を浮遊し、湖の中へと入って行った。
湖は青白く輝く表面に微かな波紋を起こし、小さな立方体たちを受け入れて行く。
立方体は、深い紺色の湖の底へと沈んでいった。
分解されたロキの入り込んだ湖の奥深く、紺碧の空間の中で銀色の光によって幾何学模様が構築されていく。それは明白にあるパターンを持ち、幾何学的な巨大図形を造り上げていった。
湖はやがて銀色の光に満たされる。
エリウスは青い虚空の中を、黄金色に輝く樹の根に近づいてゆく。それは、近づいてみると、青い海に浮かぶ一つの島に思えるほど巨大であった。
それは複雑に絡み合う巨大な臓物のようでもあり、壮大な迷路のようでもある。
エリウスは上下の感覚が薄れてきている為、巨大な金色の雲の中へ落ちていくような気にもなった。
エリウスは、やがて樹の根のすぐそばにつく。指輪をした左手でその根に触れようとした。
「待て、王子」
突然、声をかけられ驚いてエリウスは振り向く。そこにいたのは、ロキである。
「えっとお、ロキさん。なんかずれてるけど?」
虚空に浮かぶロキの裸体には格子が走っており、ときおりその格子の線で分解しそうになる。ロキはいつもの無表情で言った。
「気にするな。それよりその樹の根にふれてはいけない。それは、分解されたベリアルの死体だ。そこに触れると、おまえもベリアルに取り込まれる」
「えーっ」
エリウスは慌てて手を引っ込める。
「そんなのあらかじめ言っておいてよ」
「私とて万能では無い。アイオーン界でもベリアルがフレヤを取り込んでいるとは思わなかった」
エリウスは、ちょっと不機嫌な顔になる。
「じゃあどうするのさ。打つ手無し?」
「斬れ」
ロキは無造作に言った。
「おまえの無敵の剣、ノウトゥングでベリアルの死体を斬るんだ」
「そんなむちゃな」
呆れ顔で抗議するエリウスを、ロキが遮る。
「心配するな、中のフレヤが傷つくことは無い。やれ」
エリウスはふーんとうなると、ノウトゥングを抜いた。刀身が半ばで断ち切られたその剣を、エリウスは無造作に振る。
凍りつくような真冬の光を放つ刃が、青い虚空を切り裂く。黄金の光を放つ樹の根は、ため息をつくように少し揺らいだ。
ごっ、と音をたてて樹の根は二つに割れた。その中心に、白く輝くフレヤがいる。
真白き姿に戻ったフレヤは、生まれたばかりの赤子のように、身体を丸めて虚空を漂っていた。眠っているように、瞳は閉ざされている。
ロキの身体が、一瞬震えた。その裸体は格子の線で分解し、微細な無数の立方体となる。そしてその立方体は、エリウスの耳の穴からエリウスの脳へと入り込んでゆく。
『行け、王子』
エリウスの頭の中で、ロキの声がした。エリウスは青い虚空の中を、真白き巨人フレヤめがけて鳥のように飛翔する。
ロキが頭の中に入ることによって、エリウスはアイオーン界を自在に飛ぶことができるようになっていた。風のように早く飛翔するエリウスの両脇で、切断された樹の根が再び閉じようと動き始める。
エリウスは巨大な壁が両側から迫ってくるように感じた。エリウスはもう少しでフレヤの所に辿り着きそうだ。しかし、両側から迫る樹の根もぎりぎりのところまで来ていた。切断された樹の根は、無数の腕が伸ばされるようにエリウスへと迫ってくる。
エリウスの身体に樹の根が触れる寸前に、エリウスの指輪がフレヤに触った。エリウスは、自分の頭の中からフレヤの中へとロキが移動するのを感じた。
ざわざわとした感触。
それは、無数の音の断片が散りばめられたような。
そして光と色彩が分解され浮遊しているような。
全てが偏在し、全てが生起してゆき、全てが変化していく。
いたるところに、ざわめきがある。
あらゆるところに、光の切れ端がある。
判る。
その向こうが。
全ての断片の彼方。
全てのノイズはあたかもそれが全てであるように見え、しかし、その向こうがある。
全てが生起してくる何ものか。
判る。
それは、限りなき暗黒のようにも思え、凄まじい太陽の光のようにも思える。
真夜中の暗黒を覆う太陽。
いや、無限の暗闇と同化した、無限の光。
それは、断片と化した音や光の向こうに垣間見える。
じりじりとした、思念が焼けこげるような感触。
突き動かされるような感触。
深い、深い泥沼の奥底より、巨大ななにものかが浮上してくるような。
ざわざわと。
ざわざわとした。
その無数のノイズの彼方。
何かがある。
触れようとして触れられない。
しかし、歴然とした。
暗黒。
あるいは果てしなき輝き。
あるいは無限の死滅。
そして果てしなき生成。
向こう側へ。
行こう。




