第十四話 神々の約定
天空城の森は、太古の静けさを纏っている。その神々が地上にいた古き世界の気配を漂わす森の中を、無言で巨人が歩いてゆく。フレヤであった。
真白き巨人は森の最深部へと入り込んでゆく。そこには、ひときわ大きな木が聳えている。それ自体が小さな山を形成しているような巨木であった。
もし、その木をトラウスの神官が見たとしたら、それがまぎれもなくユグドラシルと同じ性質を持つ木であることを知り、驚くだろう。トラウスの象徴ともいえる聖樹ユグドラシルは、黄金の林檎の力を吸収し封印することができる樹木であった。
フレヤは、おそらく自らを封印する力を持つ木の根元に来たことになる。その表情からは相変わらず何も読みとることができず、夢見る者のように慈母の笑みを口元へ貼り付けていた。
巨木の根元で影が蠢く。そこは昼間でも昏く、影が澱んだ場所である。その影の中でもより濃厚で凶悪な気配を纏った闇が立ち上がってきた。その闇の中に墜ちた凶星のような、二つの光が灯る。
闇は影の中から歩み出してきた。輝く黄金の瞳を持つ魔族の狂王ガルンである。ガルンは木漏れ日の中にその姿を晒す。フレヤは歩みを止め、ガルンを見つめていた。
ガルンは満足げな笑みを見せる。
「やはりここへきたか、フレヤ。おまえが自由になる為にはこの樹を破壊する必要がある。ユグドラシルの投影ともいえるこの樹こそ、今のおまえをコントロールしうる唯一の存在だからな」
ガルンの言葉にフレヤは反応を見せることなく、ただ薄く微笑むのみであった。
魔族の狂王は、邪悪な笑みを深める。
「剣を抜いてみるがいい、巨人。おれとこの樹を、破壊してみせろ」
フレヤの動きは人間の把握できる速度を超えていた。それでもガルンは魔族であり、神速の領域であっても把握できる能力がある。そのガルンですら、フレヤの剣は一瞬の閃光にしか見えなかった。
ごおっ、と風が鳴る。フレヤの動きによって小規模な竜巻が発生していた。樹の枝がゆれ、軋み音が響く。
ガルンはフレヤの剣によって、樹の幹に磔にされていた。剣の突き立てられた樹の幹には、巨大な亀裂が走っている。
風が去っていった。静寂が戻る。ガルンは串刺しにされた状態でフレヤを見上げた。その姿は人の形態をとってはいたが、巨人は既に人と呼べる存在では無くなっている。凶暴なまでに大きな力が動きだそうとしているのを、感じた。
それは、突然起こる。フレヤの瞳が一瞬黄金に輝いた。同時に、剣が凄まじい超振動をおこす。
樹が悲鳴をあげた。全ての枝が小刻みに震え、幹は振動のため無数の亀裂を走らせてゆく。
それは、大きな獣がのたうつ様を思わせた。地面も揺れ、根が大蛇のように地上を這い回る。
ガルンの身体は、振動のため人間の形態を保つことができなくなっていた。その姿は次第に球形へと変化してゆく。そして剣の放つ超振動が極限にまで高まった時、ガルンの変化した漆黒の球体が炸裂した。
ガルンの身体を形成していたメタルギミックスライムは、黒い霧状の存在となり宙に浮く。それは生きて、意志を持った闇である。その生きた闇は、フレヤへ襲いかかった。
フレヤの真白き身体が、切り取られた闇夜のようなガルンの霧に覆われる。超振動は止まった。
静寂が戻る。そして、フレヤを覆った闇が収束してゆく。
闇は、巨人の形態を取った。立ち上がった巨大な闇と化したフレヤはゆっくりと、剣を納める。
純白であった鎧もマントも、深き冥界の闇のような黒い色に染められていた。そしてその肌も、魔族と同様の闇色と化している。
瞳が光を放つ。それは、ガルンとおなじ黄金の瞳であった。その奥にはガルンの持つ、凶暴な思念が潜んでいる。そして、黄金の炎のような金髪が闇の中から浮き出てきた。
フレヤの顔から慈母の笑みが消えた。替わりにガルンが浮かべていた、破壊に飢えた獣の笑みが現れる。
◆ ◆ ◆
深い海の底が持つ静寂に満たされた、天空城の空中庭園。その麻薬を吸引したものが見る幻覚のように鮮やかな色彩の花々で満たされた空間に、老賢者の静けさを纏った少年の姿を持つ魔導師マグナスが佇んでいる。そして、その傍らには冥界の使者のような黒衣のロキが立っていた。
二人の見下ろしているのは、水鏡である。その水鏡には、星無き夜空を纏ったように漆黒の姿となったフレヤが写っていた。暗黒の宇宙を僕としたような姿の巨人は、水鏡のなから凶暴な笑みを投げかけている。
マグナスは、ふと空を見上げた。その瞳が紺碧の空の中に見いだしたのは、龍の幼生である。既に死体と化した龍の幼生は、魔族の女王であるヴェリンダの魔力によって操られていた。
ブラックソウルとヴェリンダを背に乗せた龍の幼生は、悠然とマグナスの前へと舞い降りる。マグナスは微かに笑みを浮かべてその様を見ていた。
狼の笑みを浮かべ、ブラックソウルはマグナスの前に立つ。ブラックソウルはどこか楽しげに黒い目を光らせながら、一礼をした。
「お招きにより参上させてもらったよ、マグナス殿。もっとも」
ブラックソウルは黒曜石の輝きをもつ瞳に、嘲りの色を浮かべて水鏡をのぞき込んだ。
「我らを招いた本人は、ここにいないようだ」
マグナスは老いた者が持つ静寂を纏ったまま、水鏡を示す。
「ご心配なく、今ガルンが挨拶にまいります」
水鏡は黒い墨をたらしたように、闇に閉ざされてゆく。そしてその闇は、水鏡の中から立ち上がった。
黒い水の柱は、闇水晶の彫像のようにきらきらとした輝きを放ちながら、魔族の姿を形どり始める。最後に、地上へ墜ちた星のような金色の光が二つ灯り、ガルンの姿が完成した。
『待ち侘びたぞ、ヴェリンダ。しかしいいタイミングでおれのもとへ来た』
ガルンの姿をとった闇色の水は、泡立つ音のような声で語りかけてくる。ヴェリンダは、闇色の美貌に薄く笑みを浮かべ応えた。
「そのようだな」
『今、おれの手中に死せる女神の娘というべき巨人がおり、また、死せる女神の心臓である黄金の林檎がある』
ガルンの両の瞳は、狂気の夜を支配する月が放つ光を宿しはじめた。
『おれとともに来い、ヴェリンダ。そうすればおまえの弟ヴァルラを解き放つ。そして、アルケミアはヴァルラにくれてやる。おれとおまえは人間どもの住む中原を支配しよう』
ヴェリンダは、表情を変えない。ガルンは吠えるように言葉を続ける。
『なんならおまえのお気に入りのその人間を、王にしてやってもいい。おれたちで、中原を人間どもの血で紅く染めよう。大地に血の海を造ろう。死体の山を築こう。幾万もの怒り、幾万もの絶望、幾万もの呪詛で大地を満たそう。恐怖と狂気による戦いを、地上に満ち溢れさそう』
ヴェリンダは、薄く笑ったまま言った。
「神々の約定に背くというのか」
『そうだ。古にヌース神とグーヌ神がとりきめた、人間の手で黄金の林檎を天上へ返させるという約定。それはおれの手に黄金の林檎がある以上、無意味だ』
ガルンの姿をした漆黒の彫像は、水でできた拳をつきだす。漆黒の滴がしたたり落ちた。
『かつてはラフレールの裏切りによって、おれの夢は潰えた。しかし、ラフレールは再びおれの味方だ。もうおれを阻止するものはない。人間を、あの白い家畜どもを踏みにじり、もう一度ヌース神とその僕である天使どもと戦う』
ヴェリンダは冷静に言った。
「ヌース神に滅ぼされるのが、おまえの望みか?」
『馬鹿をいえ』
ガルンの瞳は狂おしく光る。
『おれは巨人を手にいれた。黄金の林檎と一体化した巨人。その力をもってすればヌース神であっても滅ぼすことができる。おれにはそれが判る』
ヴェリンダは嘲るようにいった。
「いずれにせよ、おまえのもとへ行くつもりは無い」
『なぜだ』
ガルンは狂ったように叫ぶ。
『なぜおまえは家畜とともに生きる。おまえとて魔族だ。狂乱と破壊、絶望と死を愛する魔族のはずだ。なぜおまえは』
ヴェリンダは静かに答える。
「私の望み、いや、私とブラックソウルの為そうとしていることを、教えてやろう」
ヴェリンダは、厳かといってもいい口調で語り始める。
「ヌース神を滅ぼしたとしても、その父であるサトス神がいる。双子の神であるヌース神とグーヌ神を産んだ女神であり、この宇宙の外から侵入してきた存在であるフライア神を殺した死の神、サトス。そしてさらにサトス神の父である宇宙神マクスル。そのマクスルは絶対者クラッグスの投影にすぎない。いいか、ヌース神は宇宙の最下層の神だ。この我らの世界は、宇宙の最も深く昏い地の底に造られた牢獄なのだ。上位階層は、ヌース神やグーヌ神とは較べものにならないような強大で、果てしない存在が支配している」
ガルンはヴェリンダの言おうとしていることに気がついたらしく、凍り付いたように動きを止めている。
「我々の次元界とは比較にならない強大で果てしのない上位世界。そこにはより高度な知生体が存在し、我らの想像を超えた高度で完成された文明が存在するともいう。おそらく我々にとって人間が家畜であるように、上位世界の存在からすれば我々もまた家畜同然なのだろう。そんなことが許せるか、ガルン?」
『そんな、しかし、』
ガルンは言いよどむ。ヴェリンダは冷静に言葉を続ける。
「私の望みは上位世界の最上位に存在し、この宇宙そのものといってもいい絶対者クラッグスを滅ぼすことにある」
ガルンは苦しげに言った。
『こ、この宇宙を滅ぼすというのか?』
ヴェリンダは嘲るような笑みを浮かべたまま言った。
「そうだ。私とブラックソウルの望みはこの宇宙を破壊し尽くし、その向こう側、つまりフライア神が存在していたであろう、宇宙の外へゆくことだ」
ガルンは呻くような声をあげる。
『できる訳がない、そんなことが』
「できるさ」
ブラックソウルは楽しそうに、割ってはいる。
「あんただって、いや、あんたこそ本当はよく判っているはずだ。黄金の林檎の力を使えば、それができるということを」
ガルンは沈黙した。ブラックソウルはとても楽しげに微笑む。
「さあ、もうあんたにはその黄金の林檎は不要のものだろう。ヴェリンダとの愛の王国が造れないのなら、あんたは存在する意味すらない。おれに黄金の林檎を渡せ」
ガルンは静かに言った。
『おれのせいなのか、ヴェリンダ』
「さあな」
ヴェリンダは薄く笑みを浮かべて応える。
「しかしもし、父を殺され全ての魔法が作動しない世界デルファイに幽閉された状況でなければ、ブラックソウルに宇宙の外へゆくという望みを聞かされたとしても相手にはしなかったろうよ。そういう意味ではおまえに感謝してもいいぞ、『狂王』ガルン」
ガルンはひどく落ち着いた声で言った。
『おまえを殺す、ヴェリンダ』
ガルンは悽愴な気配を漂わせながら、言葉を続ける。
『おまえに宇宙を破壊させるつもりはない、ヴェリンダ。おれがおまえを殺す』
ガルンの姿をしていた黒い水は、突然崩れ落ちる。
「困ったことになりましたね」
マグナスが、笑みを浮かべながら言った。ブラックソウルが苦笑する。
「やけに楽しそうだな、マグナス殿」
「そうですか?とにかくあなた方や、ガルン殿に黄金の林檎をまかせられないことがよく判りました。黄金の林檎は私が手に入れます」
マグナスの背中に、巨大で白い羽が出現した。マグナスの身体を憑坐として、魔神ベリアルが降臨しようとしている。マグナスは、とても楽しそうに笑っていた。
「なるほど」
ブラックソウルは納得したように頷く。
「あんたは死ぬ気だね、マグナス殿」
マグナスの身体は変貌してゆく。マグナスの笑みは恍惚とした喜びに溢れていた。
「私はね、ブラックソウル殿」
マグナスの身長は倍以上に伸びて行く。身につけていた衣服は破れ、身体が顕わになった。その上半身は天使の羽を備えたものであるが、下半身は獣の獣毛に覆われており、足には蹄がある。
「奇形としてこの世に生まれてきたのです。私はしゃべることも歩くこともできない存在でした。その奇形である私は、神託によってベリアル神への生け贄に選ばれたのです」
マグナスは、天使の上半身と獣の下半身を持つ魔神ベリアルへ変貌した。
「全部で十三人の子供が生け贄として捧げられました。私以外の十二人はベリアル神によって魂を貪り喰われました。そしてベリアル神は私の魂をも喰らうために、私の中へ入り込んだのですが、そこで予想外のことがおきました。ベリアル神は私の身体に捕らわれてしまったのです。それは、私が奇形であったことと関係したようです。そもそも私が奇形で生まれた原因が、ベリアル神を罠にかけるために私の母親へ魔道がしかけられたことに、あるようなのですが」
マグナスは輝くような天使の美貌でブラックソウルを見下ろし、語り続ける。
「それは、私にとっても、ベリアル神にとってもつらいことでした。人々はベリアル神を私の肉体ごと破壊しようとし、何度も私を殺そうとしました。しかし、神の憑坐である私は切り刻まれても、焼き尽くされても死ぬことができませんでした。私は殺され続ける運命から逃れるため魔道を学び、いつか大魔導師と呼ばれるようになったのですが、私の望みは常に一つだけでした」
マグナスは美しい天使の笑みを見せる。
「私は死んで開放されたいのです」
マグナス=ベリアルは翼を広げ、空へと舞い上がった。そして、森を目指す。
「やれやれだな、ロキ殿」
一人残った黒衣のロキに向かって、ブラックソウルは語りかける。
「どいつもこいつも勝手なことしやがって、というところですかね、あんたとしては」
「マグナスは、ガルンに殺されることを望んでいる。ガルンがうまくフレヤと黄金の林檎をコントロールできれば問題ないが」
ロキはいつものように感情を感じさせない声で続けた。
「そうでなければ、少しやっかいだぞブラックソウル」




