第十三話 ウロボロスの封印
飛空船の船室で、ヌバークが呟く。
「なにかが、おかしい。空間が安定していない」
ヌバークは自分の額につけられた封印の刻印に手をあてる。その魔法文様が発する呪力は明白に衰えていた。
「始まったな」
バクヤがにんまりと笑って、ヌバークに言った。
「ウロボロスの輪が封印を解かれたんや」
ヌバークは邪龍ウロボロスについて大体のことは知っているつもりだった。ウロボロスは、かつて女神フライアの死体ごとグーヌ神を封じていたものだ。その内側では時空間自体が安定を失い、魔法は正しく動作しなくなるという。
そしてウロボロスが封印を解かれると、魔法だけではなく因果律や物理法則自体が狂いだし、世界の安定性が消失するということを聞いていた。今、ウロボロスが解き放たれたのであれば、世界が崩壊してゆくということになる。
ヌバークは自分の魔力を試してみた。魔力とは魔法を駆動する力であり、要するに自分が契約している精霊とコミュニケーションをとる力である。
それは呪文といわれるものを通じて行う。呪文は言語ではあるが発音することは不可能であり、文字として描くことも完全な形では不可能である。それは思念の形として脳内に蓄積されるものだ。それは、言語というよりも、脳内に生き物を飼っている感覚に近い。
呪文は魔導師の思念に応じて働く疑似生命体のような存在だ。その呪文が動作することによってヌバークの意識のチャネルが切り替わる。通常の意識では感じ取ることのできないアイオーン界がリアルなものとして認識できるようになり、次元界の位相を通常の風景を見るように感じ取ることができるようになった。
ヌバークは呪文を作動させてみる。封印の魔法によって魔法は封じられてはいるが、呪文を作動させること自体は問題ない。封印の魔法とは、ようするに精霊の存在する次元界に意識の位相を転移させることを防ぐものだが、単に次元界を感じ取るだけであれば封印されていても可能である。よって、いつものように意識は切り替わってゆき、精霊の存在を身近なものとして感じ取れるようになった。
ただ、今回はそれだけでは無い。いつもなら整然として感じ取れる各次元界の位相は、暴風に呑まれた海のように混乱している。精霊は怯えているようだ。ヌバークの呼びかけに、正しく応えることができない。
「どう?」
エリウスが無邪気な顔で、ヌバークに問いかける。
「よく判らない。魔道が動作するかは試してみないと」
「それより」
エリウスは笑みを浮かべて再度問いかける。
「その魔法の封印ははずせるの?」
「やってみよう」
ヌバークはエリウスに応えると、魔道を作動させて魔法文様にアクセスしてみる。
封印の魔法とはようするに、場の性質を変化させるもので魔法としては簡易なものであった。ただ、魔法を解くことができるのが魔法をかけた術者だけに限定するようなロックがかけられている。
本来その封印魔法にはその魔法を仕掛けた術者の属性が付加された。付加される情報は時空間に電磁気的場の性質として保存され、その表象として魔法文様が生じる。
この封印魔法にはヴェリンダの属性が付与されており、本来なら他の術者から読みとれないように、隠されているものだ。
しかし、今は時空間が混乱しているため、その属性そのものが歪んできている。
ヌバークにとって封印魔法を解除するのはそう難しいことではなかった。
バクヤが感嘆の声を上げる。ヌバークの額にあった魔法文様が消えた為だ。
「よっしゃ、こっちも頼むで」
バクヤはヌバークの前に闇色の左手を差し出す。ヌバークは頷くと、闇色の腕に浮かんだ魔法文様を見つめる。こちらもあっさりと消えていった。
バクヤはにんまりと獣の笑みを浮かべる。
「これでようやく、ブラックソウルの野郎と戦うことができる。さてと」
バクヤの漆黒の左手は、一瞬鞭のようにしなやかな動きを見せた。鋭い音の後、錠前を破壊された船室の扉がゆっくりと開いてゆく。
「いこうか。ブラックソウルのやつを殺して地上へ帰るぞ」
ヌバークたちは、船室から通路へと出た。船内に人の気配が無い。ひどく無防備に感じられる。歩きだしたヌバークへ、バクヤが声をかけた。
「おい、甲板に出る通路は、こっちとちがうんか?」
「その前にすることがあるだろう」
ヌバークは無造作に船室のひとつに入り込む。出てきた時に、その手には一振りの剣が提げられていた。
ヌバークはその剣をエリウスへ渡す。それはノウトゥングであった。エリウスは美しい顔に笑みを浮かべる。
「有り難うヌバーク」
その様を見届けたバクヤ走り出した。飛空船の甲板へ向かって。その後にヌバークとバクヤも続いた。
◆ ◆ ◆
甲板へと出たバクヤたちの目の前には、壮大な光景が広がっていた。それは碧き天空に浮かぶ巨大な大地である。地表から見る空とは違う、澄んだ青さを持った空に、深緑の森林に覆われた島が浮かんでいた。それが天空城エルディスである。
甲板から次々と小型の飛行機械が飛び立ってゆく。その飛行機械は卵形で4人乗りの飛行機械であり、尖ったほうを下にして音もなく空中を移動し、天空城へと向かっていった。飛空船の兵士たちはその飛行機械によって天空城へと移動していっているようだ。
甲板の舳先には二人の人物が立ちつくし、天空城を見つめている。バクヤたちはその二人の後ろに立つ。ゆっくりと二人は振り向く。ブラックソウルとヴェリンダであった。
バクヤはブラックソウルの瞳を見た瞬間に跳躍する。いっきに間合いをつめようとしたが、闇色の水晶剣がバクヤの行く手を阻んだ。
黒い左手が水晶剣を弾く。ブラックソウルは数歩前にでる。バクヤとの距離は、後一歩踏み込めば手が届くところまで近づいていた。
バクヤはブラックソウルの瞳を見て、その意識がほとんどトランス状態といってもいいほど深い集中の中にあることを理解していた。ブラックソウルの精神は凄まじい高速で働いている。
同時にバクヤもまた、ラハン流格闘術でいうところの想の思念を呼び覚ましていた。ブラックソウルとバクヤは通常の世界から切り離された、二人だけの世界へと入り込んでゆく。その世界では全てが鮮明で、全てのものが無数の光彩を放っており、あらゆる存在が自分の心の中にあるように克明に把握できる。
バクヤは、自分の周囲を四枚の水晶剣が舞っていることを知っていた。片手で二つづつの剣を操るブラックソウルは、四枚の剣を飛翔させバクヤに斬りかかる期を窺っている。
ブラックソウルは剣の軌道を予測できないように、不思議な文様をなぞるかのごとく動かしていた。バクヤの想の意識ですら、その剣は凄まじく速く感じられる。
まるで空気が液体と化してしまったかのような高速の世界の中で、ブラックソウルの闇水晶剣は漆黒の稲妻のように飛翔していた。
バクヤはゆっくりと自分の中の気が高まるのを待つ。策を弄するつもりは全くない。
速さだけでブラックソウルに戦いを挑むつもりであった。
ラハン流格闘術には意という概念がある。体内にある全ての筋肉の力を意識によってコントロールし、爆発的に強大な力を発生させる技であった。
バクヤは意によって全身の力を蓄えていく。その力が臨界に達したとき、彼女は一本の矢となってブラックソウルに向かうつもりである。
たとえブラックソウルの剣が自分の身体を切り裂いたとしても、魔弾のように加速された自分の身体はブラックソウルに激突し、拳が相手の身体を貫くはずであった。バクヤの脳裏に、陶酔といってもいいほどの激しい高まりが生じる。力が満ちる寸前まできていた。
燃えさかる太陽が自分の身体の内に呑み込まれたように、意識が白熱する。バクヤは、自分を構成する全ての欠片までが戦闘の為に再編成されたと思う。
同時に死をもたらす闇水晶の剣が漆黒の閃光となり、バクヤへ襲いかかろうとした。全てが最後の瞬間に達したとき、いきなりそれは起こる。
暴風が巻き起こり、バクヤの身体が宙に浮いた。ブラックソウルの水晶剣も迷走し、目標を失っている。
甲板に叩きつけられたバクヤは、呻きながら身を起こす。ブラックソウルの視線は、もう自分から離れている。バクヤはブラックソウルの視線を追った。
そこに見たのは巨大な戦闘機械である。真白く輝く鎧を纏ったジェノサイダであった。その手には剣が持たれていた。
「いいところで、邪魔をしてくれたものだ、ラグエルよ」
ブラックソウルはうんざりしたように呟く。巨大なジェノサイダはブーストモードで次元界を超えて移動し、甲板上で位相を元に戻して出現したのだ。その瞬間に激しい空気の乱れがおこり、バクヤは吹き飛ばされた。
『邪魔ですって、ブラックソウル殿。とんでもない。あなたの命を救ってさしあげたつもりですよ』
ジェノサイダの放った言葉にブラックソウルは苦笑する。
「ふざけるな。魔道が作動しなくなった今こそ、おれとヴェリンダを殺すチャンスだと判断してここへ戻ってきたのだろう」
純白の鎧を付けたジェノサイダは、少し笑ったように見えた。
『なぜあなたを殺さないといけないのです?これからあなたを殺そうとしている賊を退治してあげようというのに。もっとも』
ジェノサイダの回りに、十個の光が灯った。
『破砕砲を使用したはずみに不幸な事故があって、飛空船が大破してしまうようなことは、あるかもしれませんけどね』
ラグエルの乗る純白のジェノサイダは、目まぐるしく色彩を変化させる光輪につつまれている。存在する次元界を固定せず、位相をずらし続けている為だ。無限に変化する虹につつまれた破壊天使のようなジェノサイダの姿は、この世のものを超えた美しさでバクヤを魅了する。
その苦痛と陶酔で朦朧としているバクヤの前に、ふとエリウスが現れた。エリウスの美貌は、純白のジェノサイダを目の前にして尚色褪せることなく、中原の深き闇に潜む魔として見る者の心を奪う。
エリウスは、破砕の天使に挑む小さな悪霊のようにジェノサイダの前に立ちはだかり、無造作に剣を抜いた。無敵の刃を秘めたノウトゥングを。
十発の破砕砲が放たれた。その瞬間、真冬の日差しのように冷たい輝きを放つノウトゥングの刃が、宙を舞う。
ラグエルの純白のジェノサイダは炎につつまれた。破砕砲はその砲弾を放つ寸前に、砲身を切断されその爆発はジェノサイダ自身を火に包んだ。
そして頭頂から鼠径部にかけて一直線に両断されたジェノサイダは自身の放つ炎の中へと沈んで行く。その様はあたかも天上より地獄の業火へとつきおとされてゆく、真白き天使のようであった。
やがてジェノサイダ内部に仕込まれていた弾薬に火が燃え移り、紺碧の天空に次々と派手な火焔が立ち上がる。そこから炎の破片が飛来し、飛空船にも炎が燃え移り始めた。
既に大半の兵士は飛行機械によって天空城へと移動している。無人に等しい飛空船は、次第に炎に犯されていった。
ブラックソウルは、ため息とともにエリウスへ向かって呟く。
「おまえ、あのジェノサイダが斬れたのか」
バクヤは、一瞬エリウスの瞳の中に、金色の光を見たような気がした。それはたんに、炎を写したものを見間違えただけなのかもしれない。しかし、今のエリウスには古き魔道の生き物特有の、澱んだ空気が纏ついていた。
「まあいい、おまえとはとりあえずここでお別れだ。また会おう」
ブラックソウルは、ヴェリンダのほうを見る。ヴェリンダは不安定な時空の中で苦労しながら魔法を発動させていた。ヴェリンダは激しい集中のため、トランス状態に陥っている。
「待てよ」
かろうじて立ち上がったバクヤが、ブラックソウルに声をかける。
「邪魔者は消えたやないか。続きはどうするんや」
「生き延びるのが先だろう、お互いにな」
ブラックソウルはそっけなく言い放つ。同時にヴェリンダの頭上に、巨大な魔道によって次元口が出現する。召還魔法と呼ばれるものだ。
次元口から出現したのは、半人半鳥の姿をした奇妙な生き物である。それは龍の幼生であった。ラグエルと契約関係にあった龍である。ラグエルの死と同時にその龍の幼生も死んでいたが、ヴェリンダは魔道によりその死体を操っていた。
ブラックソウルとヴェリンダは、龍の幼生の背に跨る。
「じゃあな、王子。幸運を祈る」
嘲るように言い終えると、ブラックソウルは龍の幼生と共に飛び去った。
炎につつまれた飛空船に残ったのは、バクヤ、エリウス、ヌバークの三人だけのようだ。
「結局、おれらはここで焼け死ぬ訳か?」
バクヤはうんざりしたように、エリウスに向かって言った。
「おまえの口車にのって空の上なんかに来てみりゃ、このざまやで」
「どうして?死ぬ理由なんかないよ」
バクヤは言葉を失ったが、それ以上に驚いたのはエリウスが平然と甲板の外へ向かって、歩きだしたことである。
「あほ、やめろ」
バクヤの制止と同時に、エリウスは空中に歩みだしていた。エリウスはまるで地上を歩いているように、空の上を歩いている。
呆れ顔のヌバークが、バクヤに尋ねる。
「あの王子は魔道を使えるのか?」
「いや、そんなはずは」
エリウスはきょとんとして、呼びかける。
「何しているの、早くしないと本当に焼け死ぬよ」
ヌバークはおそるおそる空中に足を踏み出す。エリウスと同じように、空を歩きだした。バクヤも間近に迫った炎に背を押されるようにして、空に歩み出す。そして、エリウスのそばまでくる。
「これは一体?」
「ただの魔繰糸術だよ。魔道であけた穴をとおして、天空城と飛空船を糸で結んだんだ。僕らは糸で編んだ網の上を歩いてる」
バクヤはおそるおそる下を見る。足下は凄くたより無い上、地上が見えないこの空の上ではとても落ち着いていられない。
「ヌバーク、風を起こせる?」
エリウスの問いに、ヌバークは頷いた。
「じゃあ、風で天空城まで飛ばしてもらおう。糸の上を歩いていたんじゃ、天空城につく前に飛空船が沈んでしまう」
ヌバークは精霊を呼び出した。同時に風が巻き起こる。バクヤは自分の身体が糸で編まれたネットに包まれるの感じた。同時にそのネットごと風に吹かれて宙に舞い上がってゆく。
不思議な浮遊感があった。鳥になった気分とでもいうのであろうか。三人は精霊の起こす風に乗って無事天空城へとついた。
そこは、地上にいるかと思わせる風景が広がっている。目の前には深い森が広がっており、そこには森へと続く道があった。背後は切り落とされたような断崖である。そしてさらに背後の空では、飛空船が炎につつまれてゆっくりと沈んでいく。
「精霊との繋がりが切れた」
ヌバークが言った。
「ここの時空の混乱は、飛空船の上より酷い。もう、魔道は使えない」
エリウスはにっこり笑って言った。
「ま、それはヴェリンダも同じことだから、条件は一緒ということだね。じゃ、行こうか」
エリウスは無造作に森の中へ向かって、歩きだす。




