第十二話 黄金の林檎
天空城に夜明けが来ようとしている。東方に黄金の光が現れ、空を紅く燃え上がらせようとしていた。
そして、ガルンの眠る棺桶の蓋がゆっくりと開く。その漆黒の液体に天使の放つ光の矢のような朝日が差し込むと同時に、立ち上がった闇である狂王ガルンが出現した。
破滅していく恒星のように凶暴に輝く瞳で、ガルンはあたりを見回す。闇色の獣のようにしなやかに天空城の庭へ降り立ったガルンは、フレヤにロキ、そしてマグナスが揃っているのを認めた。その唇を邪悪に歪め、ガルンは楽しげに語り出す。
「さて、最後の招待客であるヴェリンダもようやく間近に迫ったようだ。天使たちが歓迎のために出かけているようだが、とりあえずおれの用は済んだ。待たせたな、フレヤ。ラフレールの元へ行こうじゃないか。やつもそろそろ待ちきれず、そわそわしだすころだろうさ」
フレヤは女神の美貌に皮肉な笑みを浮かべる。
「ヴェリンダが、ここへ着くのを待たなくていいのか?」
ガルンは苦笑する。
「あんたぁ、巨人のくせにおれの都合を考えるってのか?馬鹿いえ。なんにしてもヴェリンダとはこっちの用事を済ませてから会うほうが、おれとしては都合いいんだ。さあ、いこうぜ」
ガルンは手招きして歩きだそうとする。ふと、歩みを止めた。
「いっとくけどな、おれがラフレールに会わせるのは巨人だけだ。ロキよ、あんたはここで待て」
黒衣のロキは無表情のまま言った。
「好きにするがいい、狂った魔族よ。待たせてもらうよ、ここで」
ガルンは頷くと朝日に包まれつつある天空城の庭を歩き出す。光に満たされてゆくその庭園で、邪悪な動く闇であるガルンはそこだけ切り取られて夜が残っているように見えた。
純白のマントを翻し、フレヤはガルンの後に続く。ガルンは、城の下層部へと向かう階段へ歩いて行った。
ガルンは、地下へと続く階段へ入り込む。フレヤもその後に続く。階段は奈落の底まで続いているかのように長い、螺旋階段である。
薄暗い螺旋階段を、漆黒のガルンは静かに下ってゆく。その様は、影が薄暮の世界を冥界へ向かって、静かに降りてゆく様のようだ。白衣のフレヤは死神を追う天使のように、その後に続く。
フレヤは階段を降るうちに、ある種の幻惑を感じた。それはある程度馴染み深いものになった、次元界を超える時の感覚である。その感覚は平衡感覚を失わせ、自分が向かっているのが地下なのか天上なのか判らなくさせた。
無限に続く螺旋状の階段を異世界に向かって、漂っていくような気持ちになって降ってゆく。それは、何度も繰り返し味わってきた感覚のような気がする。
時間感覚も次第に麻痺してゆき、自分がどれほど深いところまで降りてきたのか、よく判らなくなっていた。ただ、薄闇を渡る影のようなガルンを追い続けるだけである。
一つだけ間違いないのは、闇がどんどん濃くなってゆくことであった。その闇には一つの意志が潜んでいる。凶悪な破滅への意志とでも言うべきもの。
フレヤはその意志に覚えがあった。かつてアイオーン界の奥で対面したもの。つまり、ウロボロスの輪が纏う闇であった。
天空城の地下、奈落の底のように深い闇の世界は、凶暴な殺戮と憎悪の情念が暴風のように吹き荒れる世界と化している。それは今まさに終末を迎えようとする世界の様であり、全てが死滅の運命を免れないことの啓示でもあった。
フレヤは螺旋状に異世界を貫く通路をとりまく、巨大な輪の存在を感じる。ガルンは炎に引き寄せられる蛾のようにその凶悪な暗黒の輪を目指す。フレヤもその後に続き、ウロボロスの輪へ踏み込んで行った。
唐突に全ての想念が途切れる。目の前を歩んでいたはずのガルンの姿も消えていた。気がつくと、フレヤの前後にあるはずの螺旋階段も消え去っている。
フレヤは閉ざされた螺旋状の輪である、ウロボロスの内部へと入り込んでいた。
そこはしんとして、闇のみが存在する空間である。おそらくはここが世界の終わりであり、全ての死滅を内在する場所なのであろう。
フレヤは気配を感じて振り向く。赤銅色の肌に金色に輝く瞳を持った若者がいた。
魔族のように強烈な気を発しているその頑強な肉体の持ち主は、間違いなく魔導師ラフレールであった。
「再び会えるとは思わなかったな、ラフレールよ」
フレヤの呼びかけに対して、ラフレールは少し笑みを浮かべる。
「おまえを封じるのに失敗した後、私は考え続けた。私が誤ったのはなんであり、私はどうすべきであったのかということを」
フレヤは不敵な笑みを見せた。
「もう一度、私を封じ込むつもりか?それともここで、私と一戦交えるのか?」
ラフレールは穏やかといってもいい笑みを浮かべて、フレヤに応える。
「今では無い。私は、答えをえた。足りなかったのは私のほうではなく、おまえのほうだったよ、フレヤ」
フレヤは挑むような瞳でラフレールを見つめている。対するラフレールは、死そのもののような静けさを身に纏ったままだ。
「フレヤ、おまえに問う。おまえは、世界をどう見ている?というより、おまえは自身をどう思っている?自分が世界にたった一人残った巨人だと思っているのか?世界に属することを許されない特異な存在だと思うか?」
フレヤは哄笑した。
「何を問いたいのか判らないが、私は私だ。世界に真理があるのなら、この私だ。誤りがあり歪みがあるのであれば、それは世界のほうにある」
ラフレールはやさしい笑みでフレヤを見る。
「おまえは正しいよ、フレヤ。しかし、それでは人間として不全であることも確かだ。おまえを全き存在にする必要がある。でなければ、おまえを封印することができない。おまえは、おまえ自身を正しく理解しているが、おまえがおまえ自身を完全に理解できていないがゆえの正しさだ」
フレヤは苦笑する。
「何がいいたい、ラフレール」
ラフレールは静かに笑みを浮かべたまま、フレヤに語りかける。
「私は二つのものをおまえに与える。第一に、黄金の林檎との一体化。そして第二に、おまえ自身の真の記憶。第一のものは今この場で与える。第二のものは、デルファイにておまえに与える。デルファイへはガルンが案内する」
フレヤは怪訝な瞳でラフレールを見る。
「黄金の林檎を私に与えるだと?」
「そうだ。私が犯した過ちは、おまえと黄金の林檎が別々の状態で封印できると考えたことにある。まず、黄金の林檎を与える。後はガルンの導きに従って、デルファイへと行くがいい」
ラフレールは左手を突き出す。黄金の光がそこから放たれた。光はフレヤの中へ吸い込まれる。
フレヤは全身が燃え上がっているように、金色の光に包まれたのを感じた。自分が太陽と化したように強力なエネルギーがフレヤの中で渦巻き、燃えさかっている。
フレヤは思考が次第に白熱した力に呑み込まれてゆくのを感じた。意識が白熱した光の中へと呑み込まれる。それはある意味で至福の瞬間ですらあった。
◆ ◆ ◆
ミカエルは、天空城に降り立つ。立ち向かってきた天使たちは、全て撃ち落とした。ガブリエルとラファエルがその後方に降りる。ウリエルはバスターランチャーを構えたまま、上空で待機していた。
黄金のジェノサイダを覆っていた青い光は消えている。ブーストモードは解除されていた。
ミカエルはジェノサイダの視点で天空城を見回す。静かな森に囲まれた、円筒形の城が聳えるその場所は地上とそう大差が無いように思われた。
ミカエルの背後からガブリエルが声をかける。
「何かおかしいわね、この場所は」
ミカエルは頷いた。
「魔道が酷く不安定になっている。ジェノサイダのコンディションが悪化する程ではないが、通常の魔道は使えないようだな」
「天空城のせいだと思う?」
ミカエルは首を振った。
「いや、これはむしろブラックソウルが言っていた、妖精城でウロボロスの力が開放された時の状態に似ているようだが」
「気をつけたほうがいいよ、ミカエル」
連射砲を構えたラファエルが声をかける。
「もっとやばい力が潜んでる。というか、もうすぐそこに来てるぞ」
ミカエルも感じていた。とほうもなく強大なエネルギーを持つ存在が、身近に隠れていることを。
次元界を隔てて強大なエネルギーが潜在していることはそう珍しいことでは無い。
魔神といった強力な魔力を持った存在が降臨した場所は、場の性質が変質しアイオーン界のエネルギー場と繋がってしまうことがある。そうした場所は聖地となったり、禁忌の地となったりした。
しかし、今感じられるエネルギーはそうしたものとは較べものにならないほど、強力なものだ。喩えるならば、巨大な恒星がそこに潜んでいるように思える。
ガブリエルとラファエルが連射砲を構えた。エネルギーがさらに高まっている。
ミカエルが叫ぶ。
「来るぞ」
空気が透き通った静かな森の中。
そこに突然、巨大な光の柱が出現する。それは天空を貫く巨大な黄金の柱となり、あたりを光で覆った。ミカエルたちはあまりの衝撃に、一瞬視界を失う。黄金の光は突如天空に現れた光の洪水となり、天空城を覆い尽くした。
巨大な光の柱は出現した時と同様に、唐突に消失する。ミカエルが焼け付くような光の圧力に奪われた視界を、再び取り戻した時には、光の柱は既に無かった。そこに立っていたのは一人の巨人である。
輝く純白のマントで身を覆った巨人。青い瞳は晴れ渡った空のように明るく輝く。
金色の炎のような髪が、森を渡る風にゆらぐ。
巨人の身の丈は、ほぼミカエルたちのジェノサイダと同じくらいである。巨人は長大な剣を抜く。ガブリエルとラファエルは真冬の風のような殺気に撃たれ、反射的に連射砲の引き金を引いていた。
砲身から青白いプラズマ光が迸り、ガラスの破片のように微細な光の欠片が巨人の顔面めがけて放たれる。一瞬、赤い飛沫を散らせ巨人の頭部は粉砕された。純白の鎧とマントに赤い血糊がつく。
そこに立っているのは首の無い死体である。血で汚れた白い墓標だ。
「あっけないな」
ラファエルはそう呟くと、巨人の死体に向かって歩きだす。ガブリエルも連射砲の狙いはそのままにして、巨人へと歩き出した。
「待て!」
ミカエルが全身の血が凍り付くような、本能的危機感から叫んだ時には、既に遅かった。ロスヴァイゼがミカエルの意志を感じ取り、ブーストモードへと移行する。
黄金の光が巨人の死体に走ったのは、一瞬だけだった。瞬きする間も無い時間で、巨人の頭部が再生する。ブーストモードに移行したミカエルはかろうじてラファエルが斬られたことを知ることができた。
ラファエルの漆黒のジェノサイダは頭頂から鼠径部まで一直線に切り裂かれている。ブーストモードに移行しているミカエルの意識ですら、巨人の太刀筋を見ることはできなかった。中に乗っていたラファエルも見事に身体を両断されている。ジェノサイダは人間の死体のように、龍の血を放ちながら大地に墜ちた。大地にまき散らされた龍の血は、青白いプラズマの火花を走らせる。
龍騎士と意識の繋がっていた龍本体もおそらく龍騎士の死の衝撃で、死を迎えているはずだ。アイオーン界を、龍の幼生の死体は永遠に彷徨うことになるだろう。
ガブリエルは本能的な動作で連射砲を放っていた。その狙いは正確であったが、巨人の速度には全くかなわない。
ミカエルにできたのは、ブーストモードでその場を離脱することだけであった。
連射砲の射程より巨人を見失ったガブリエルも、ラファエルと全く同様に一瞬にしてその身体を縦に断ち切られる。
ミカエルは目の前が昏くなるような無力感を感じた。全く歯がたたない。巨人の強さは、この世の理から外れたものとしか思えなかった。
上空に離脱したミカエルはブーストモードを解除し、叫ぶ。
「ウリエル、バスターランチャーだ。巨人を撃て」
ウリエルは長大なバスターランチャーの照準を巨人に合わせる。巨人は無言のまま、ミカエルとウリエルを見つめていた。そのサファイアのように輝く瞳からは、なんの感情も読みとることができない。まだ、殺戮の意志を明白に放つ天使たちのほうが、その考えを読みとりやすいと言えるだろう。その巨人は、完全にこの世界から解き放たれた存在と、化していた。
バスターランチャーの砲身を何重もの虹が取り巻く。空を巨獣の咆吼のような轟音が覆う。煌めく光の破片が無数に巨人へ降り注いだ。
夜空を駆けるはずの彗星が、地上へと落下したようなものである。天空城の森は白熱する光の球に包まれた。
狂った雷雲が無数の稲妻をうち下ろすように、轟音と火花が地上を埋める。断末魔の火龍が放つ苦鳴のように、火焔が大地を舐め回した。
光と爆煙が消え去った後、大地に穿たれた巨大な縦穴が姿を顕わす。大きな戦船がまるごと一隻入ることができそうな穴だ。
その眼球を刳り抜かれた後の眼窩のような昏い穴に、巨人の死体の欠片すら見いだすことはできない。巨人の身体はおそらく熱と衝撃で分子レベルにまで分解されたはずだ。
地上を見下ろすウリエルが呟くように言った。
「何があったんだ?ガブリエルとラファエルが斬られたのか?」
ミカエルは呆然として呟き返す。
「まだ終わってない、気をつけろ」
黄金の閃光が走ったのは、ほんの一瞬のことである。光が消えた時そこには、巨人の姿が再生されていた。穴の縁に巨人は立っている。身に纏ったマントや純白の鎧も再生されていた。
「位相をずらせて、バスターランチャーをさけた?しかし、呪術的に照準を定めた以上、逃れられるはずがない。どういうことだ?」
ウリエルの言葉に、ミカエルが掠れた声で応える。
「あれは巨人では無い。巨人の姿をとった時空の歪みだ」
ミカエルは一瞬、光が奔るのを見た。それはほんの一瞬のことである。その瞬間、ミカエルは本能的にブーストモードへ移行していた。視界の片隅に、ウリエルがゆっくりと墜落してゆくのが見える。
ウリエルはその胴体を、巨大な剣に貫かれていた。貫かれた胴から青白いプラズマの火花が発せられているのが見える。ブーストモードに移行したミカエルの意識の中では、まるでウリエルがゆっくりと沼地へ沈んでゆくように感じられた。
ミカエルは全身に震えが走るのを感じる。恐怖とも絶望ともつかないどす黒い思いが、心を覆っていくのを感じた。
黄金に輝く剣を抜く。その輝きに反して、ミカエルの心は萎えていった。巨人の存在は聞いている。しかし、それがこれほどのものとは、全く予想していなかったことだ。
「りいーらぁーらぁーうぃらぁああーりぃあぁああ」
突然、ミカエル自身が忘れていた雄叫びが口をついて出た。もう、六百年もの昔、ミカエルが別の名を持つ草原を駆ける戦士であったころの戦いの雄叫びである。
ミカエルは、ブーストモードを全開にし、龍のエネルギーを最大限に使った加速で地表へ向かう。再び戦闘の雄叫びが口を裂いて出た。
「ありるぅーるぉーおらぁーあありぃあああーっうりぃぁああー」
ミカエルのジェノサイダは音の壁を超え、全身を軋ませながら速度を上げてゆく。
ミカエルの頭の中は、白熱する高揚で真っ白になった。
ジェノサイダの身体は、限界を超え炎につつまれる。広げられた両翼は、燃え尽き灰となっていった。ジェノサイダは天空より墜ちてゆく、星となる。
なぜかミカエルは遠い昔、自分が人間だったころのことを思い出す。自分の中にそんな記憶が有ったこと自体が驚きであった。草原を馬を駆って走り抜け、王国の都市を略奪していたころ。人間としての恐怖や不安、戦闘の高揚があったころ。
白い巨人めがけて降下してゆきながら、自分が戦う一人の個と化してゆくのが判る。
ミカエルは、燃え上がる意識の果てで巨人を見た。巨人は笑っている。それは、侮蔑や挑発の笑みではなく、慈母のように穏やかな笑みだった。ミカエルの意識は戦闘へのエクスタシーの中で白い闇へと呑み込まれる。
ミカエルが気がついた時には、青い空が見えた。ジェノサイダの中ではなく、生身の身体が森の中にほうりだされている。
身を起こそうとして、自分の身体が両断されていることに気付いた。下半身は、切断され見あたらない。再び、ミカエルは大地に横たわり空を見上げる。もう何も考えることができない。ただ、意識が深く昏い闇へと沈んでゆくのを待つばかりだ。
視界の端に巨人が見えた。巨人はゆっくりと、森の奥へと向かう。




