第九話 フライア神の神殿
そこは、フライア神の祭儀場であった。深紅の絨毯が敷き詰められたその部屋は、微かな月明かりによって照らし出されている。その際奥には高く聳えるフライア神の神像が安置されていた。その姿は巨人族のフレヤに似ているとバクヤは思う。
フライア神の祭儀場は流麗な彫刻によって飾られており、蒼い月明かりの中でそこは異世界の宮殿のように神秘的で豪華な空間に思える。フライア神の神像の前には重厚な祭壇がおかれ、その向こうに円形の祭儀場が広がっていた。
壁や天井は草木や動物たちのレリーフが刻まれており、バクヤは人工的に創り出されたエルフたちの城のようだと思う。ただ、月明かりの中のこの祭儀場はとても静かで、あの生命力と色彩に満ちた世界とは随分違うようにも思える。
ヌバークは真っ直ぐ進み、祭儀場の中央に立つ。
「ここだ。ここに力が集まってきているのが判る」
「とりあえず、隠れたほうがいいと思うよ」
寝ぼけているかのようにのんびりとした口調で、エリウスが言った。
「この神殿に魔族がきているのなら、僕らと同じようにここにくるはずだ」
「ちょっと待て」
バクヤは、ようやく頭を働かしはじめていた。
「今このサフィアスに魔族がいるとすれば、そいつは」
バクヤの言葉をエリウスが遮る。
「当然、ヴェリンダだろうね。ブラックソウルの妻の」
「ということは、ブラックソウルの野郎も」
「間違いなく、ここにくるはずだよ。ここで起こることを確かめに」
バクヤの目の光を見たエリウスは慌てて言った。
「とりあえずさあ、何が起こるのか確かめようよ。今ブラックソウルと戦ったとしてもヴェリンダの魔力にかなうわけないんだしさ」
「あたりまえやろ」
バクヤはどこか不敵な笑みを見せ、エリウスを不安にさせる。
「とりあえず、祭壇の後ろにでも隠れとくか」
バクヤたちが隠れてしばらくして、祭儀場の扉が開かれる。バクヤは息を呑んだ。
先頭に立って入ってきたのはフードつきのマントを身に纏った人物である。その者が纏う凶暴なまでの気配と瘴気は、まぎれもなくヴェリンダのものであった。
そしてその後ろには狼の笑みを浮かべた黒髪の男、ブラックソウルが続く。さらにその後には、五人の龍騎士たちとその従者である女たちがいた。
ヴェリンダが静かに言う。
「私は来たぞ、狂気に犯されしガルンよ。地上に姿を顕わすがいい」
深紅の絨毯に覆われた祭儀場の中央。そこに影が立ち上がる。その朧気に霞む闇の固まりは次第に濃さを増していった。その不定形の暗黒に、二つの輝く光点が宿る。それは、明白な意志を持ってヴェリンダへ向けられた。
「よお、久しいな、ヴェリンダ。家畜の妻になりさがったそうじゃあねぇか。まあ、おれのせいもあるんだろうけどな」
「相変わらずのようだな、ガルン」
ヴェリンダは闇の語った言葉に、感情を排除した口調で応える。
「おまえにあるのは嫉妬の感情か?魔族の王にまでなった男が惨めなものだ」
闇は金色の瞳を輝かして苦笑する。
「まあそういうなって。おまえはおれが憎い。そうだろう。おまえの父親を殺し、おまえをデルファイへ幽閉し魔力を一時的に奪った。おれはこれ以上無いくらいの屈辱をおまえに与えた。そのあげく今ではおまえは、家畜の花嫁だ」
闇は笑っていた。ヴェリンダは無言のまま、闇の言葉を聞き続ける。
「おれは今、アイオーン界からこの次元界へ戻ってきている。これはチャンスだろうヴェリンダ。おまえの屈辱をはらす、最大のチャンスだ。おれを憎め。そしておれだけを見つめろ。おれを殺せ。おれを切り刻め。おれだけを求め続けろ。それこそおれの唯一の望みだ」
ヴェリンダは暫く沈黙していた。そして静かな声でガルンに語りかける。
「残念ながら、私はおまえにさして興味は無いのだよ。ただ、黄金の林檎を求めている。天空城にそれがあるのか?」
闇は呻き声をあげるように蠢いた。そしてヴェリンダの問いに応える。
「おまえが望むのであれば」
「ならば道を示すがいい、狂いし者ガルンよ。用はそれだけだ」
闇は急速に薄れてゆく。形を無くし渦を巻きながら上空へと消えていった。そして二つ残った金色の光は、二筋の矢となり天空の彼方へと消えてゆく。
「今の光の筋の方角だ。ガルンは我々のために道を残した」
ヴェリンダは後ろに立つブラックソウルに声をかける。ブラックソウルは頷いた。
「ようやく天空城へ旅立てる訳だな。ただその前に、片づけることがあるようだ」
ブラックソウルは祭壇を見据えていた。
「王子、エリウス王子。隠れん坊遊びはそろそろ終わりにしないか?」
エリウスは立ち上がると、あっさりブラックソウルの前へ出る。
「おひさ、ブラックソウル」
エリウスはにこにこと機嫌よく笑いながら、歩み出る。手にはしっかりとノウトゥングが提げられていた。無造作のように見えるが、左手にはいつでも剣を抜き打てるように静かな緊張を漂わせている。
「なんか、後ろにいっぱいいるけど?」
龍騎士へ視線を投げるエリウスに、獣の笑みを浮かべたブラックソウルが応える。
「気にするな。それより残りの二人も呼んでやれよ、王子」
エリウスはむくれ顔になる。
「僕は王子じゃないよ」
「なぜ?」
「トラウスはあんたたちが滅ぼしただろ。だから僕も王子を辞めたの」
ブラックソウルはげらげら笑う。
「残念だが、王子。おれが王子になれないのと同様に、おまえは王子を辞めれない。
おまえが王子を辞めるには、ヌース神を滅ぼす必要があると思うな。おまえが王子であるのはトラウスのせいというより、神々の約定のせいだからな。諦めることだ」
エリウスはつまらなそうに、言った。
「不自由だね」
「そういうものさ」
エリウスは後ろに声をかける。
「バクヤ、ヌバーク、出ておいでよ」
無言のままバクヤが歩み出す。その表情は落ち着いて見えるが、瞳の奥には抜き身の刃を思わせる殺気があった。そしてその後ろには、ヌバークが立っている。
「おお、バクヤ・コーネリウスか。わざわざこんなところまで、おれを殺しにきてくれたのか。光栄だね。それとその黒い嬢ちゃんは誰だい?」
ヌバークは、ブラックソウルを全く無視して一歩前へ出る。その瞳に写っているのは、ヴェリンダの姿だけであった。
「ヴェリンダ様」
ヌバークは跪く。
「ヴェリンダ様でしょう。私はアルケミアの司祭、ヌバークと申します。助け手を求めてここまで来ました。ヴェリンダ様、我らの王、ヴァルラ様を救うため、ご助力いただけませんか」
「黒き肌の僕よ」
フードに隠されたヴェリンダの黄金の瞳は、凍てついた夜空に輝く星々のように冷たい光を宿し、ヌバークを見る。
「おまえたちのことは、可愛く思っている、僕よ。しかし、今はおまえの願いを聞くつもりはない」
ヌバークは強い光を瞳にこめ、叫ぶように言った。
「あなたの弟君であられるヴァルラ様が、デルファイに閉じこめられているというのにですか」
ヴェリンダは短い沈黙の後、応える。
「ガルンの仕業ということか」
「ええ」
「いずれにせよ」
ヴェリンダは冷たい声で語りかける。
「私が手を貸すつもりは無い。私は今、黄金の林檎へと続く道の途中にいる。それがどういうことか、おまえにも判るだろう黒き肌の僕」
ヌバークは黙ってヴェリンダを見つめ続ける。ブラックソウルはせせら笑いながら、ヌバークに語りかけた。
「おれたちは、黄金の林檎を得るためガルンに会いに行く。そういうことだよ、嬢ちゃん」
「貴様が」
初めてヌバークはブラックソウルを見た。その琥珀色に輝く瞳には嫌悪と憎しみが混在した、狂乱の炎が潜んでいる。
「貴様が白き肌の家畜の分際で、ヴェリンダ様の夫となった下郎か」
あはははは、とブラックソウルが笑う。
「そうだよ、嬢ちゃん。君の崇拝するヴェリンダの夫さ。君はおれにも礼をとるべきだったね。ま、固いことを言う気はないが」
ヌバークの回りで、魔道の力が揺らめく。そのあまりの凶悪さは、龍の吐く息を思わせ、バクヤは思わず息を詰めてヴェリンダを見た。しかし、ヴェリンダは冷笑を浮かべたまま、静観するつもりらしい。
魔導師というものは、自身が魔力を持っている訳では無い。例えばラフレールのように龍の力を取り込むものもいれば、マグナスのように魔神と契約を結ぶ希有な例もある。
しかし、そうした強大な魔法的存在を支配するケースはあまりない。ほとんどの魔導師たちが契約を結ぶのは、精霊と呼ばれる存在であった。精霊は龍や魔神のように人間以上に知性を持った存在とは違い、原始的な魔法生命体である。
精霊を構成するのは、砂粒程度の大きさの粒子の集合であった。その個々の粒子が持つ微細な力が集積され、発現される時には強力なものとなる。
精霊に内在する能力は、自身の持つ属性によって限定された。そして、どういう属性を持つ精霊と契約をするかは、魔導師の資質によって決まる。契約を行うというのは、魔導師が自分の生命力を精霊に与えその見返りとして自身の精神的エネルギーを物理的エネルギーに変換することであった。
その物理的エネルギーの発現形態は、精霊の属性によって決定される。ヌバークが契約を結んだのは、風の精霊であった。風の精霊はヌバークの精神エネルギーを空気の振動に変換し、発現する。
微細な粒子である精霊は、空気に浮かび祭儀場を満たしていた。精霊たちはヌバークの魔術的力を感じとり、まわりの空気を振動させ始める。
龍騎士たちは、魔法が発現されることに気がついたようだ。無言のまま、自分たちの周囲に結界を張り精霊の力が及ばぬようにする。龍騎士たちもまた、ヴェリンダと同様に事の成り行きを見守るつもりらしい。
祭儀場の中を、人間の可聴域を超えた音が満たしてゆく。空気に無数の微細な刃が混入していくように、殺意が膨らんでいった。ブラックソウルは獣の笑みを浮かべている。
「やってみなよ、嬢ちゃん。おれを殺したいのだろう」
音が無数の刃と化し、ブラックソウルへ襲いかかる。超振動を起こした空気の固まりが、ブラックソウルめがけて無数に殺到した。
「馬鹿な」
ヌバークは呟く。その、鉄の剣すら砕いたであろう強力な魔法的波動は、ブラックソウルの身体に触れた瞬間消失し
た。ブラックソウルは何事もなかったように、笑みを浮かべている。
「残念だね、アルケミアの魔導師。おれには魔法というものが、通用しない。おまえの隣にいるエリウス王子と同様にね」
ヌバークは、膝をついた。力を消耗しすぎたせいだ。それでも憎しみを込めた瞳でブラックソウルを見つめ続けている。
「おまえも、王家のものだというのか」
「さあね。そいつはおれには判らん。とにかくおれを魔法で倒すつもりなら、魔族の魔導師並の力が必要だよ」
ブラックソウルはバクヤを見る。
「バクヤ・コーネリウス、おまえはどうだ?今からおれと遊ぶのか」
バクヤは、静かな瞳でブラックソウルを見つめたまま言った。
「見物人が多すぎるな。おれ好みの状況ではない」
「ふうん、ま、おれとしても楽しみは後にとっておきたいところだな。王子はどうするよ?」
エリウスは何が面白いのかにこにこしながら、応える。
「僕を殺すつもり?」
「まさか」
ブラックソウルは笑いを返す。
「トラウスの王子をなぜ殺さないといけない?できれば、おまえとはうまくやっていきたい。何しろ占領後の統治というのは、軍事的な侵略の数倍難しいからな」
「へーえ」
エリウスは嫌みな笑みを見せる。
「オーラの兵は僕を殺そうとしたよ」
ブラックソウルは肩を竦める。
「おまえを見つけたら、手を出すなとは伝えている。しかし、万を越す軍勢だ。手柄を欲しがるやつがいるのはしかたない。抵抗したから殺したといえばなんとかなると思ってるからな、現場の兵士は。だが、そんなことは大した問題じゃないだろう。おまえを殺せる剣士なんて、中原にはいないぜ」
「投降してもいいよ。条件が二つ」
無邪気に微笑むエリウスを、ブラックソウルは苦笑しながら見た。
「なんだ、いってみな」
「まず、僕のつれを殺さないこと」
「バクヤとその嬢ちゃんだな。いいぜ。ただ、バクヤの左腕と、ヌバークの魔力は封印させてもらうぞ。もう一つは?」
「天空城へ行ってみたいんだけど?」
ブラックソウルは無言でエリウスを見つめる。
「なぜ?」
「別に。面白そうだし」
ブラックソウルは苦笑した。
「とりあえずノウトゥングをおれに渡せ。そうすれば、おまえも連れていく」
エリウスは無造作にノウトゥングを差し出した。ブラックソウルはそれを受け取ると、ヴェリンダに目で指示する。ヴェリンダは歩み出ると、バクヤの腕に触れた。
漆黒の左手に、金色の魔法文様が浮かび上がる。バクヤは自分の左腕が、動かなくなったことに気付く。
ヴェリンダはヌバークの頭にも手を触れる。力を消耗したヌバークは、されるがままだった。ヌバークの額にも金色の魔法文様が刻印される。
それを見届け、部屋の外へ向かうブラックソウルに、龍騎士ミカエルが声をかけた。
「おまえにしては、えらく手こずったように見えたが。気のせいだとは思うが、おまえあの王子が苦手なのか?」
ノウトゥングを左手に提げたブラックソウルは、肩を竦めた。
「気のせいだよ、ミカエル殿。それより、王子たち客人の護衛をよろしく頼む」




