第三話 魔導師マグナス
ロザーヌの塔への扉は再び閉ざされている。その前の通路には、オーラの機動兵器である黒い鋼鉄の蜘蛛たちが並んでいた。その前には既に剣を納めたオーラの兵士たちが立っている。戦闘は終わった。
そして、ロザーヌの塔への扉の前に、白い僧衣を身につけた老人が立っている。
僧である老人にはむろん戦う意志は無い。その周囲に立つ兵士たちも別段その老人を監視する意識はないようだ。彼らは待っている。一人の男を。
その男は、悠然と現れた。敵地の心臓部に入り込んだというのに、自分の家の庭を歩くような調子でロザーヌの塔の扉へと近づいてくる。
そしてその男の後ろには、フードのついた灰色のマントに身を包んだ者が続いていた。フードに覆われた顔は見ることができなかったが、そのマントに身を包んだ者を見る兵士たちの瞳には、明らかな怯えがある。ある意味でそのマントを纏ったものは、戦場で遭遇する敵以上の恐怖を兵士たちに与えているようだ。
前をあるく男は、漆黒の髪をゆったりとかきあげまるでパーティの会場で友人にであった時にみせるような笑みを神官に投げかける。その男は、黒曜石の輝きを持つ瞳で神官を見つめていた。
部隊の長である印を武具につけた男が、黒髪の男の前に立つ。
「ブラックソウル様、被害の報告をします」
ブラックソウルと呼ばれた男は楽しげな笑みを見せながら手をあげると、男の報告を止めた。
「いや、それは後でいいよ。巨人が現れた話なら聞いている」
ブラックソウルの笑みを湛えた黒い瞳は、神官を見つめ続けている。神官は、無表情のままブラックソウルの視線を受け流し、吐き出すように言った。
「うざいぞ、小僧。殺すならさっさとやれ」
「いやいや、大神官モエラス殿。あなたを殺すなどとんでもない。我々とて敬虔なヌース教徒ですよ」
さすがに、モエラスと呼ばれた神官は苦笑を浮かべる。
「それならば、ただちにここから立ち去るがいい。おまえたちの振る舞いは信仰を土足で踏みにじる行為だ」
ブラックソウルの目に始めて酷薄な光が宿った。
「そう仰いますが私どもはのうのうとして何もしないあなた方に変わって、血を流す決心をしたのですよ。モエラス殿、あなたにも是非とも協力していただきたい」
モエラスは嘲るような光を瞳に浮かべ、ブラックソウルを見る。
「協力?神殿を蹂躙したおまえたちは、必要なものは全て奪いとったはずだ。おまえたちにできることといえば、私を殺すことだけだよ」
ブラックソウルの口元に、皮肉な笑みが浮かぶ。
「いいや、モエラス殿。あんたは協力したくなるよ。おれの話を聞けばね」
「ほう」
モエラスは、どちらかといえば投げやりな視線をブラックソウルに向ける。
「どんな話を聞かせてくれるのかね」
「黄金の林檎の話だよ。聞きたいだろう」
ブラックソウルは狡猾な狼の笑みを見せた。対照的にモエラスの顔は蒼ざめ強ばる。
「多分知っていると思うが、黄金の林檎は魔導師ラフレールと共にウロボロスの輪を超えて、この次元界から消えた。しかしな、」
ブラックソウルの顔は、僧侶を誘惑する堕天使の表情を張り付けている。
「戻ってきたんだよ、我々の世界へ」
モエラスは呻き声をあげる。
「まさか…」
「本当だ」
ブラックソウルの後ろに立つマントで身を包んだものが口を開くとともに、そのフードをはねのける。
そこに現れたのは黄金の髪に漆黒の肌、死滅の太陽を顔面にはめ込んだように金色に輝く瞳を持った魔族の女であった。叩き割ったグラスから水が流れ出ていくかのごとく、瘴気があたりを覆ってゆく。
回りに佇む兵士たちは、思わず後ずさっていた。本能的な身体の動きである。モエラスだけはさすがにその魔族を見据えていたが、その身体は微かに震えていた。
「おまえが、魔族の女王ヴェリンダか」
「そうだ、家畜どもの神官。正確にいうとラフレールが戻ってきたのではなく、ラフレールの使い魔が現れたというべきだろうな」
モエラスは絞り出すようにしてヴェリンダに話しかける。
「どうでもいい。黄金の林檎は地上にあるのか、どこにあるんだ?」
「判らないんだよ、それが」
ブラックソウルは優しく言った。
「ヴェリンダの力を持ってしても、黄金の林檎が地上にあるのは判るが、その位置は特定できない。むろん、それができればとっくの昔に我々は黄金の林檎を手にできたんだがね。そこでだ。あんたの力を借りることになるのさ、大神官」
「わ、私の」
モエラスは病んだ者のように震えた声で言った。
「力だと」
「そうさ」
ブラックソウルは満面に笑みを浮かべる。
「ロザーヌの塔への扉を開いてくれればいい」
「ロザーヌの塔だと」
「ロザーヌの塔からは、天空城エルディスへの通路が開かれている。そこにはラフレールの使い魔がいる」
モエラスは呆然として塔への扉を見る。
「しかし、」
「何を躊躇う、大神官殿」
ブラックソウルは歌うように語りかける。
「我々の目的はただ一つ、黄金の林檎の奪回。それこそヌース教大神官であるあんたの悲願じゃないのか。まあ、我々はそのおまけとして中原における政治的イニシャチブをとるという目的もある。しかし、あんたにとっちゃどうでもいいことだろう?モエラス殿。それこそこの神殿が焼き尽くされ灰になったところで、黄金の林檎さえ戻れば、あんたには何の文句も無いはずだ。まさにそれが、信仰の証というやつになる」
モエラスは夢遊病者のように歩き始める。ロザーヌの塔へ向かって。
「そうだ、モエラス殿。それでこそ信仰篤きものだよ、大神官」
ブラックソウルの言葉が耳に入っているかは判らないが、モエラスは扉にたどり着いた。そこで、扉のそばの小窓を開く。
モエラスは夢中でその小窓の釦を操作した。どこかで、何か巨大なものが引きずられる音がする。
「やったな」
ブラックソウルの楽しげな声を、ヴェリンダが遮る。
「だめだ」
扉は開かれなかった。
「どう思う、ヴェリンダ」
ブラックソウルの問いに、ヴェリンダが答える。
「おそらく、ロキの仕業だろう。やつらがここへ来たのであれば」
ブラックソウルはうんざりした顔になった。
「やれやれだ」
モエラスは扉の小窓を操作し続けている。その瞳には、偏執的な光が宿りはじめていた。ぶつぶつと何事か口の中でつぶやき始めている。
「役にたたねぇな、全く」
ブラックソウルの右手が一瞬閃く。光が一筋宙を切り裂いた。モエラスの首筋から血潮が吹き出す。
ブラックソウルの右手には、手のひらに収まるほどの大きさの透明な水晶剣が持たれている。ブラックソウルはその水晶剣をエルフの紡いだ絹糸で操るユンク流剣術の使い手であった。
モエラスは自分が斬られたことに気付かぬように暫く小窓の操作を続けていたが、唐突に崩れ落ちる。兵士たちがその死体を運び去った。
「三千年続いた王都を制圧した結果、無駄足だったと知れればおれは抹殺されるかもしれねぇなあ、オーラの長老たちに」
ヴェリンダは少し肩を竦めると言った。
「どうするんだ、ブラックソウル」
「どうもしねぇよ。というより待つしかねぇだろ」
「待つ?何をだ」
ブラックソウルは楽しげな笑みを浮かべている。
「ラフレールの使い魔として古の暗黒王ガルンがアイオーン界から呼び戻されて復活した。それもラフレールの師であり、ラフレール以上の魔力を持つマグナスの元へ。マグナスはラフレール程には狂っていない。つまり神々の約定に逆らう気はないはずだ。だからロキを自分の元へ招いた。今のところラフレールの意図は読めないけれどな。マグナスはヌース神の僕であるロキを呼び出しているが、やつは神々の戦いについて中立の立場をとりたいはずだ。当然、邪神グーヌの僕も自分のところに招くだろう」
ヴェリンダは表情を変えぬまま言った。
「つまり、ガルンが私の夢に現れたのは、マグナスの差し金ということか?」
「そうだ。おそらくやつは我々も天空城へ招きたいはずだ。ロキはロザーヌの塔を封じたが、別の道をマグナスが用意するはずだ。おれの予想以上にやつが狂っていないかぎり」
ブラックソウルは、言い終えると来た道を引き返しはじめる。ヴェリンダはフードを被るとその後に続いた。
「それにしてもやれやれだな。この神殿を制圧したことに何の意味もなかったとは。とんだお荷物を背負いこんじまったわけだ。おれは」
◆ ◆ ◆
焼けこげた大地は、無数の天使たちの残骸で埋め尽くされた。漆黒のマントで身を包んだロキは、その真白き残骸の中をゆっくりと歩いてゆく。天使たちの折れた翼や切断された手足は時折青白い火花を放ち、蠢いていた。
フレヤは天使たちの残骸が築いた山の中心に立っている。遠い昔。神話の時代。
その時おそらくこの巨人は、今のような姿で神へ挑んだのであろう。今のような姿で、神を嘲弄する眼差しを放ったのであろう。
そして、フレヤの背後には円筒状の城が聳えていた。フレヤは天使の残骸で築かれた山から降りる。その後を追うように、天使の残骸から切断された頭が転がり墜ちてゆく。宗教画の中に存在するはずの完璧な美しさを保った天使の顔は、むしろ無惨さを際だたせた。フレヤは足下に転がってきた天使の頭を踏みつける。それは、微細な稲光に包まれて粉砕された。
フレヤは凶悪な獣の笑みを浮かべている。ただ、その顔は美しかった。彼女の足下に切断され放置されたどの天使たちよりも遙かに美しく輝いている。
「ようやくついたか、ロキよ」
フレヤの言葉に無言で頷くと、ロキは城の壁に手をあてる。壁の一部が消失し、城の内部へと続く通路が現れた。ロキはその昏い通路の中へと入り込んでゆく。あたかも闇と同化し、その一部と化してゆくように。
純白の鎧に身を包んだフレヤが、闇を切り裂くようにその通路の中へ入り込んでった。通路は微かに傾斜し、上へ向かっている。
唐突に通路はとぎれ、ロキとフレヤは光の中にでた。そこは、円筒形の巨大な螺旋である。二人はその螺旋の中心に立っていた。
二人の立っているのは円形のステージのような場所である。その足下に空いていた黒い穴が二人の歩いてきた通路の出口であったが、その穴は自然に光に吸い込まれるように消え去っていた。
二人の立っているステージから螺旋状に階段が延びている。その階段は、円形の城壁の内側へと続く。そして城壁にそって階段は螺旋状に上昇していった。
上方は光に満ちており、あまりの眩しさによく見ることができない。螺旋階段は無限の高みへ向かって延びているように見えた。そこは、白い光に満ちた空間である。ロキはその神々しい世界に墜ちた小さな影に見えた。
上方へと延びてゆく螺旋階段には天使たちが並んでいる。それはあたかも彫像のように見えた。礼拝堂に描かれる天使の像そのままの、戦闘機械たちは美しい翼をたたみ微動だにしない。
しかし、天使たちは生きている。その瞳の奥底には、氷原を渡る凍てついた風のような怒りが潜んでいた。その怒りはあからさまにフレヤへ向けられている。
フレヤは嘲るような笑みを口元に浮かべ、天使たちを見渡した。フレヤが外で葬ったのは百体にも満たない天使たちだ。しかし、ここに並ぶ純白の殺戮機械は、千体を遙かに越す。その天使の攻撃が始まれば、フレヤとて無事で済むとは思われない。しかし、フレヤは挑むように天使たちを見つめる。口元に笑みを浮かべたまま。
フレヤは記憶を失っている。しかし、彼女は本能的に知っていた。ここにいる天使たちより遙かに凶悪で大量の戦闘機械を自分が葬ってきたことを。
フレヤは剣を抜く。真冬の日差しの光を宿した剣が、高く掲げられた。
「いつでもいいぞ、天使たち」
フレヤは頭上に向かって叫ぶ。
「おまえたちが欲しいのは、私のこの命だろう。神の摂理に逆らって生きるこの命。欲しければ奪うがいい。おまえたちにそれができるのならばな」
天使たちはフレヤの叫びに答えるように、囁きあった。人間の可聴域を遙かに超えたその声。その囁きは次第に高まってゆき、城の空気を超振動で満たしてゆく。
城の内部は天使たちの聞き取ることができない声によって、凄まじい波動に満たされた。もしもその場に生身の人間がいたとしたら、全身から血を吹き出して倒れたであろう。フレヤはただ、その瞳にやどる凶暴な光を強めただけであった。ロキは物言わぬ影と化して、フレヤの傍らに佇んでいる。
天使たちの声が叫びに変わり、全てを粉砕する破滅の歌へ高まってゆこうとした時、人間の叫び声が城を貫いた。
「やめろ、そのものたちは私の客人だ」
一瞬にして城の内部を満たしていた波動が、消失する。一体の巨大な天使が頭上の眩い光の中から降りてきた。そのフレヤより頭一つ背の高い、強靱な肉体を持った天使の肩には一人の少年が座っている。
天使はその大きさを感じさせない優雅な動きで舞い降りた。白き羽を大きくひろげ、フレヤたちの立つステージに降り立つ。天使が羽を畳むのと同時に、その少年はフレヤの足下へと降りた。
その銀色の髪を持つ少年は、白い僧衣を身につけている。その少年の青い瞳は年を経た古き者のみがもつであろう、退廃した落ち着きがあった。そして、その少年が纏う美しさは、邪悪で多くの血を見てきた者のみが持つ、背徳の輝きがある。
ある意味でその少年は、中原でもっとも古き王国の王子、エリウスと似ていた。しかし、その瞳の奥に潜む荒廃は、エリウスから最もかけ離れたものでもある。
ロキは、少年に跪いて礼をとった。神の造った自動人形にとっては異例のことである。
「お招きにより参上した、魔導師マグナス殿」
マグナスと呼ばれた少年は、鷹揚に頷く。
「わざわざ来てくれてありがとう、ロキ殿、そして、フレヤ殿」
ロキは立ち上がり、マグナスを見つめる。マグナスはロキの無言の問いに微笑で答えた。
「なぜあなた方を招いたのかを説明します。私と一緒に来て下さい」




