第五話 ナイトフレイム宮殿
ジゼルの城の背後の山は、ノースブレイド山と呼ばれている。その山の西側の複雑に入り組んだ渓谷の一つを、ロキとフレヤは登っていた。
渓谷を登りきった所に、平地が広がっていた。ロキはそこで、足を止める。そこには、天に向かって枝葉を伸ばす針葉樹の間に、巨大な石の柱が、聳えていた。
フレヤもロキの後ろに、足を止めた。蔦が絡まる石柱は、円環を作っている。地面の草も、石柱の形作った円に沿って、色が変わっているようだ。
「何かの廃虚か?」
フレヤの問に、ロキは頷いた。
「昔、この山は魔族に支配されていた。人間は魔族に要求され、ここに生け贄を差し出したのだよ。いうなれば、太古の神殿の後さ。そして、魔族の住処の入り口でもある」
フレヤは石柱の輪の中へ、入っていった。輪の中心は窪んでおり、岩地がむき出しになっている。
「魔族が支配しているのは、大陸の南西部のアルケミアと聞いている。こんな北の地に魔族の地があるとはな」
フレヤの言葉に、ロキは少し笑みをみせた。
「記憶を失っている、おまえが知らないのは、無理もないか。かつて魔族はこの大陸すべてを支配していた。初代エリウス・アレクサンドラ・アルクスル大王が魔族の王と約定を結び、中原を人間が支配すると決まった時、魔族達は、ほうぼうへ散らばった」
ロキは遠い目をして、言葉を続けた。
「魔族の大半は南西へ行き、アルケミアを建国した。一部の魔族は東や北へ向かった。北へ向かった魔族、クレプスキュール族はここ、ノースブレイド山の地下にナイトフレイム宮殿を築き、住処とした。今は外界との接触を絶ち、夢の中で暮らしているようだが」
ロキは肩を竦め、フレヤを見る。
「昔とはいえ、たかが、三千年ほど前のことだよ。ナイトフレイム宮殿が築かれたのは。まぁ、そのころおまえはもう、記憶を封印し眠りについていたのだろうがな」
フレヤは首を振る。
「思い出せないな、何も。それにしても脆弱な人間に、魔族が中原の支配を譲るとは、奇妙なことがあったものだ」
「いずれ思いださせてやるよ。今は、クレプスキュールの神官に会うのが先だ」
ロキは石柱の円環の中心へと、入り込む。そこでしゃがむと、地面のどこかを押した。
地の底で、何かが動く。そして、円環の中心がゆっくりと、地面の中へ沈んでいった。その後に現れたのは、暗い地下への入り口である。
「行くぞ、フレヤ」
漆黒のマントを靡かせ、ロキは闇に溶け込むように、地下へ下って行く。フレヤはその後に続き、純白の姿を闇へ沈めていった。
地下へ向かう階段は螺旋状に捩れながら、下へ下へと続いている。まるで古代の王の墳墓の中のように、空気は淀み、退廃した闇がすべてを支配していた。
目を覆われたような闇の中を、黒衣のロキは躊躇うこともなく、下ってゆく。あたかも巨大な獣の胎内奥深く、入り込んでゆくようだ。頭上に、大きな重量を感じる。
「深いな」
フレヤの言葉に、ロキは軽く応えた。
「なに、もうすぐだ」
フレヤは地下へ進につれ、空気の流れを感じ始めた。確かにロキの言うとおり、どこかへ出ることになるらしい。
果てしなく続くかと思われた螺旋階段は、唐突に終着点を迎えた。最下部には、真っ直ぐなトンネルが開けている。どこからか微かな光が入りこんでおり、大聖堂の内部を思わせる、壮大なトンネルを見ることができた。
フレヤの純白の姿は薄闇の中で、輝いているかのようだ。フレヤは、冥界に降りた大天使のような姿で、トンネルの中を歩む。地の底から霞が舞い上がるように、埃がたつ。闇にとけ込んだ黒い影のようなロキが、フレヤに声をかける。
「こっちだ。フレヤ」
トンネルの床は微かに傾斜しており、上方へ向かっている。先に進むにつれ、傾斜はしだいに急になり、トンネルは狭まっていった。光はトンネルの先から、来るらしい。
ロキはその光に向かって、狭まってゆく道を進んだ。やがてトンネルがフレヤの背丈ぐらいまで狭まった時、二人は群青の空の下へ出た。
頭上には、気の遠くなるような深い青の空が、弧を描いている。天上世界のように、蒼ざめた清浄な光がそこから地上へと、降り注いでいた。青い空は地上に近づくにつれ、深みが薄らいでゆき、地上付近では南海の海の水のような、透明感のある青に変わっている。
「フレヤ、あれがナイトフレイム宮殿だ」
冥界の案内者のような、ロキの、黒衣に包まれた左手の指し示す先は、この地底世界の中心部であった。その、群青の空の下の、大地の中心には黒い巨大な建造物が、聳えている。
その建物は、地上のいかなる建物とも似ていない。その姿は、あたかも漆黒の火焔が天上に向かって、燃え盛っているかのようだ。
まるで、自然の巨石のような曲線を多用した、黒曜石のように輝く壁は、複雑な幾重にも入り組んだ螺旋を描き、天へと伸びている。それはまさに、群青の空の下に、黒く輝く炎であった。
白衣のフレヤの足元から、ナイトフレイム宮殿に向かい、一本の白い道が続いて
いる。その両脇の地面は、広大な湿地帯のようであった。
「さて、行くか」
ロキがフレヤに声をかけ、湿地帯の中央を走る道に、足を踏み出す。黒衣のロキに導かれる、純白のマントのフレヤの姿は、冥界を死神に導かれる死者のようにも見えた。
湿地帯は、黒く淀んでいる。頭上に広がる群青の空の光は、地上の光と異なり、全てを幻想的に蒼ざめさせているた。湿地帯の表面も青白い光が散乱していたが、その奥は、濁った血のように黒く静かにゆらいでいる。
突然、水面が割れ、巨大な盲目の蛇のようなものが、目の前を横切った。それは直径1メートルはありそうな胴体でアーチを描き、水面に波紋を造り、水底へと帰ってゆく。
思わず剣に手をかけたフレヤを、ロキが止める。湿地は揺らぎ、波が白い道を濡らした。
「心配するな。我々に危害を加えるような、生き物ではない」
フレヤは剣から手を離す。ロキが宥めるように、言った。
「かつて、善神ヌースと、邪神グーヌが地上の覇権を争い、幾億年もの長き戦いを繰り広げる前、ああした生き物達が地上を支配していた。原初の黄金の林檎の光が地上を満たしていた時代、そのころの生き物だよ。ヌースとグーヌの戦いには決着がつかず、どちらも地上から手を退くこととなり、地上は魔族の支配下に置かれた。そして魔族が地下へ下った時、原初の生き物もそれに従ったということだ」
フレヤは改めて、湿地帯を見渡してみる。そこは、始めは静まり返った世界に思えたが、よく見ると様々な物が蠢いていた。
時折、球体の胴に、細く長い両性類の手足をつけた小さな生き物が、地表の様子を窺い、水底へ帰ってゆく。広がる湿地帯は、大きな生き物が泳いでいるらしく、一瞬小島のような背中を水面に見せたかと思うと、波紋だけを残し姿を消す。
「なるほど」
フレヤは、どこか物憂げに呟いた。
「ここは、魔族たちの郷愁に基づいて造られた世界なのか」
ロキは、皮肉な笑みをみせる。
「そうさ。原初の混沌とした時代。いかなる神も共存をゆるされた時代。それを懐かしんで造られた世界だよ」
フレヤは微笑んで、言った。
「魔族が人間に、中原を譲った理由が判る気がするな」
ロキは頷く。
「もうすぐ、その魔族と会える。先へ行こう、地上に残った最後の巨人よ」
宮殿付近の湿地帯には、白銀の枝葉を持った植物が生えている。それらの植物は、ゼリー状の透明の皮膜に、覆われていた。
その水辺に浮いたあぶくのような植物の間を、白い道は通っている。その白い道は、黒い巨石のような宮殿の門に遮られていた。
ロキがその巨大な門を押す。音もなく、その巨大な門は左右に開いた。門の向こうには、黒い通路が口を開けている。ロキは冥界へ続く洞窟のような通路へ、足を踏みいれた。フレヤがその後に続く。
「これは珍しい。この宮殿に訪れる者がいるとは」
通路の奥から声がし、白い影が現れた。その影は、白衣を身につけた、魔族の男である。
魔族の男は夜の闇のような漆黒の肌に、輝く夜明けの太陽を思わす黄金色の髪と瞳を持っていた。その微かにつり上がった目はアーモンド型であり、耳は先が尖っている。
闇の中で輝く黄金の髪と瞳を別にすれば、その姿はダークエルフ(ドロウ族)と大差はない。ただその長身の体は、ドロウ族の痩せた体と対照的に逞しく、真夜中に昇った太陽のごとく輝く黄金色の瞳は、ドロウ族にはない強烈な生命力を感じさせる。
何よりその身に纏ついた邪悪さは、ドロウ族とは比較にならなかった。美しく微笑んだ口元には、残忍さを漂わせ、涼しげな目の奥には、殺戮への欲望が潜んでいる。
人間であれば恐怖で身が竦んだであろうが、ロキは平然と近づく。魔族の男に声をかけた。
「ヴァーハイムのロキだ。祭司長クラウス殿に会いに来た」
「おお、そなたが王国の守護者にして、黄金の林檎の番人と呼ばれるロキ殿か。私はエリス、クラウス様は今、眠りに就いて居られる。私が、その間の代理人としてこの宮殿を預かっている。ところで、後ろにおられるのは、まさか…」
フレヤは闇を貫くように青く輝く瞳で、魔族の男エリスを見つめた。
「私はフレヤ。ロキと共に、黄金の林檎の探索を行うこととなった者だ」
「これはフレヤ殿、お久しゅうございます」
フレヤは怪訝そうにエリスを見る。ロキが説明した。
「フレヤは目覚めたものの、記憶の封印が解けていない」
「そうですか。閉ざされた記憶が、甦ったわけでは無かったのですね」
エリスは手を広げ、言った。
「とにかく、中へお入り下さい。そこで用件をお聞きしましょう」
エリスはそういうと、通路の奥へ向かって歩みだす。ロキとフレヤが後に続いた。